初期アルサケス朝
(248年-141年)


アルサケス1世
(在位247-211年)

 最初に史書に現れたのはダーハ(ラテン語でダハエ)族で、ペルセポリスのクセルクセスの国民リストとヤシュト上に見えている。彼らはスキタイのサカ ハウマヴァルガ族のリストの前に登場している。ハウマヴァルガ族はヤクサルテス(シル河)のデルタ付近の住民であり、ダーハ族の隣人だった。ダーハ族の中でもっとも勢威のあったのがパルノイ(アパルノイ)族であり、彼らがアルサケス朝の源であるとされる。つまり、彼らは遊牧民族だった。 後の時代にパルティア語として知られる西北イラン方言はアケメネス朝ペルシャのパルティア州のイラン系住民の方言であったとされるが、到来したパルニ族は東方イラン‐サカ系方言を強く持っていて、それは スキタイとメディアの中間的言語だった。
 ダハエの名は今もカスピ海東岸にイスラム時代を通じて ダヒスタンとして残った。

 紀元前250年頃にセレウコス朝のパルティア州知事(サトラップ)だったのはアンドラゴラスだった。彼はアンティオコス1世(前280‐261)の時代から20年近くサトラップをしていたと考えられ、その末期には自立していた。パルニ族は彼を倒してパルティア州の支配権を握ったものと考えられる。 その年代については諸説あるが、247‐238年の間であるとされる。

 このパルニ族のリーダが アルサケスとティリダテス兄弟である。彼らの父はアルサケス、祖父はPhriapitesといったらしい。ティリダテスが兄を継いで王になったという見方もあるものの、実際には弟は王にはならず、兄に属していたとの見方も有力である。

   彼らはAstauene(ニサと推定される)を根拠地とし、ヒルカニア(カスピ南東)に侵入し ペカトンピュロスに都を移した。バクトリアのDiodotus IIと.  228 B.C.に同盟を結んだ。 セレウコス2世が東方領土に進軍しようとした時、アルサケスは一度はサカの地に避難したものの、セレウコスがシリアでのトラブルの中で没すると 帰還した。その後は Apaortenonなどの町を建設し、国固めを行った。

 初代アルサケスの名称は、歴代王の称号となった。これはローマ皇帝が「カエサル」と呼ばれるようになったことと同じである。  


アルサケス2世
(在位211-191年)

  史書などの資料では一部アルタバヌス1世という名称が用いられるが、出土している資料によるとアルサケス2世が正しいようである。 アルサケス2世はエクバタナを占領したが、 これがセレウコス朝のアンティオコス3世の侵攻を招く結果となった。アンティオコス3世はメディアのアルタバズデスと同盟し、エクバタナへ侵攻、前209年にアナ^ヒータ神殿の財宝を奪い、ヘカトンピュロスを抜いてヒルカニアへ進軍した。アルサケスは降伏し、その後はアンティオコスが前189年にローマに敗れるまでバクトリアと同盟を結んだ。 
フィラパティウス
(在位191-176年)

治世の記録が無い時代

フラアテース1世
(在位176-171年)

  フラアテース1世はエルブルズ山脈へ進出し、マーザンダラーンのマルド人を制圧し、カスピ海への門の西にあるカラックスを制圧した。彼はパルティアがメディアへ進出する道を開いた。
ミトラダテス1世
(在位171-138年)
  即位後、まず王は東へ進軍し、バクトリアからタプリアとトラクシアナを奪った。当時バクトリアには強力な王エウクラティデスがいるにも関わらず、成功している。エウクラティデスとメディア知事ティマルコスは同盟していた。BC161-155 メディア王ティマルコスと戦ったが征服には至らなかったようである。セレウコス王位を主張するデメトリオス1世ソーテールがティマルコスを排除し、メディアはデメトリオス(前161‐150)とアレクサンダー バラス(前150‐145)の支配下にはいった。ミトラダテスのエクバターナ占領は148年頃であったと考えられている。メディア征服後バカシスを総督につけたとされている。
 141年6/8または7/8、ミトラダテスはセレウキアに入城し、バビロニア、スーサも占領、10/14月までにはウルクでも主権を握った。しかし12月までにサカ族のヒルカニア侵入の方に王はヒルカニアへ向かった。
 デメトリオスはバビロニアのギリシャ人の要請のもとにエリマイス、ペルシス、バクトリアも含む軍隊を集めて バビロニアとメディアへ進軍した。しかしパルティアの将軍達に前139年破られ、捕虜となり、パルティア人が勝利した町をひきまわされ、その後ヒルカニアのミトラダテスのもとに送られた。これをもってバビロニアの、パルティア将軍達への抵抗は終了した。デメトリオスは厚遇され、ミトリダテスの娘、ロドクネを妻として与えられた。デメトリオスに味方した都市は罰として略奪された。エリマイスではアテナとアルテミスが略奪された。
 
 ミトリダテスのインド征服は5世紀前半の歴史家オロシウスの伝に頼っているそこでは、ミトリダテスの領土の全ての州はヒダスペスとインダス間にある、としている。ヒダスペス川がパンジャブの現ポラリ川(またはジェルム)河に比定できれば、ミトラダテスがインドに侵入したことは史実となるが、ミトリダテスの権力がバクトリア王国まで達していたとは言えない。多分ヒダスペスとはヴァージルがメディアのヒダスペスと言っている場所で、これは現カルカ、メディア山中のChoaspesに相当するのではないかと言えるのではないか、とされている。
 つまり、ミトリダテスの領土は、ペルシャ湾岸のカルカからインダス川付近であった、ということになる。

 ミトラダテス1世は バシレオス・メガロウ(大王)を名乗った。これは古代ギリシャがアケメネス朝の王を称したギリシャ語である。パルティアの支配者は当初セレウコス朝の影響のもと、ギリシャ語を使っていた。貨幣にもギリシャ語で「バシレオス」と刻んでいた。王は東はインダス、西はバビロニアへ進出し、パルティアは西アジアでもっとも大きな勢力を持つにいたった。王はアケメネス朝の後継者を自認してバシレオス・メガロウと称したと考えられる。

  

  参考
    - 「パルティアの歴史」デベボイス 山川出版社 -
    - 「ペルシャ帝国」 講談社 足利惇氏
    ‐ Cambridge History of Iran Vol3(1) The expansion of Arsacid powerの章
        -   www.parthia.com

  


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