サーサーン朝初期の建都政策



    
  2008年に出版された「The Sasanian Era (The Idea of Iran)」第3章に「Froundation and Ideology of the Sassnian State in the Context of Archaeological Evidence」(Dietrich Huff(ドイツ考古学研究所/ベルリン)という章があり、アルダシールの建都政策についての所見が色々と記載されています。結構面白い意見が掲載されているので、要約を紹介することにしました。既に定説のようなものも含まれているのかも知れませんが、私はそこまで詳しくないので、ここでは私自身が参考になった事項を記載します。これまでなんとなく疑問に思いながらも、そのまま流していた疑問がいくつか解説されていて、結構面白く読めました。

1.アルダシールがイスタフルを捨てた理由

 もともとイスタフルの王バーバクの子とされているアルダシールがイスタフルを捨てた理由が何故かわからなかったのですが、これについては、アルダシールが、兄とされるシャープールを殺し、王位を簒奪したため、シャープールに組する一派から逃れる必要があった、という説と、もうひとつ、イスタフルにはパルティア治下のペルシア王国の旧勢力(フラタラカー政権)の関係者が多く、フラタラカー政権は、パルティア臣従派で、ペルシア州より外への拡大志向は持っていなかったため、アルダシールの政策(アケメネス朝の復興)とは相容れず、旧勢力を払拭する為に、人口も少ない新都へ遷都した、というものです。なにやら、平城京から平安京への遷都や、ブルガリアにおけるプリスカからプレスラフへの遷都を思われる話です。

 言われてれば確かにありそうな話です。

2.ダーラーブギルドという都市について

   「From  PASARGADAE To DARABというサーサーン朝の遺跡を扱った書籍があります。前半は、アケメネス朝のパサルガダエですが、後半は、ビシャプール、ドクタル城、フィルザバード、サルヴィスターンなど、サーサーン時代のイランペルシア州の都市遺跡の写真集と解説となっていて、非常に貴重な書籍です。この書名の最後にあるダラブ近郊には、ダーラーブギルドという都市遺跡があり、円城となっています。タバリーの史書のアルダシールの項によれば、もアルダシールは、ともと、ティーラーというダーラーブギルドの城主の養子となり、ティーラー死後、自動的にアルダシールがダーラーブギルドの城主を継いだ、となっています(だから、兄を殺す前に、ダーラーブギルドに既にいたことになる)。問題は、ダーラーブギルドの遺跡が円城だったことにあり、従来の説だと、単に、パルティアの都市は円城(ニサやハトラが著名な例)なので、珍しくもない、という話で終わっていたのですが、ティーラーの時代は、普通の城であって円城ではなく、円城は、アルダシールが権力を確立してからだ、という話からDietrich Huffの説が始まります。ダーラーブギルドに円城を作ったのはアルダシールであり、この円城の都市プランが、そのままフィルザバードに引き継がれている、という話です。タバリーによれば、ダーラーブギルドで反乱があり、Dietrich Huffは、これをきっかけに、フィルザバードに移った、としています。なお、余談ですが、ダーラーブギルド時代のアルダシールの称号は、argbadとのこと。ただし、アッバース朝の歴史家ハムザ・イスファハーニーが伝えるところでは、ダーラーブギルドは、8世紀にHajjaj ibn Yusf(661-714年)が円城化したとのことで、この円城がバグダッドの円城の参考となった、との説も紹介されています。

3.フィルザバード

 さて、アルダシールが最終的な都としたフィルザバードですが、この名称は、10世紀ブワイフ朝のアブル・アッ・ダウラ(948-984年)が副都として利用した(都はシーラーズ)とのことで、彼が、「勝利の場所」という意味でフィルザーバード(フィルザは、中世ペルシア語の「ペーローズ」)と名づけたとのこと。元はアルダシール・クラー(クラーは、フワルナフ(栄光)の意味)といい、クラーが訛ってグール(Gur(墓、の意味))とも呼ばれてたとのこと。もともと、アケメネス朝の時代から、王の名を都市に冠する習慣があり、アルダシール・クラーも、アルダシールの名前を冠したというもの(こうした例としては、キュロポリス、アレキサンドリア、セレウキア、アンティオキア、ミトラダトケルタ、ヴォロゲソケルタ、コンスタンティノープルなどがある)。

 フィルザバードは円城(直径2㎞)ですが、中央に火の寺院と目される、高さ30mの塔の遺構が現存しており、サーマッラーのような、外側に階段のついた、螺旋状の建築物だった、との説がありますが、本書では、長方形のビル状の建築物だったと推測し、復元図や構造の復元を追っています。Dietrich Huffによれば、こうした塔が円城の中央にあり、3本の環状道路が円城内あるということは、中央が権力の中心を示し、外側にいくにつれて、官庁から庶民の町に遷移する、中央集権国家のヒエラルキーを顕現したもの、としています。市の中心から4kmの地点にある円城の外城は、高さ1m程度しかなく、防衛にはまったく不適当であり、円城は、純粋に政治的な意図のものに作られた計画都市である(20本の放射状の道路が中心から出ていて、うち4本が市の門に通じている)、とのこと。アルダシールは、封建国家であったアルサケス朝に対して、明確に中央集権化の意思を表明する為にこのような構造にした、という話です。では、防衛については考慮していなかったのか、というと、そんなことは無く、防衛拠点は、円城から数キロ離れた、峡谷の山の上にそびえる城、通称ドクタル城が担っていた、としています。ドクタル城も遺跡が残っており、その外城は、戦時にフィルザバードの市民を収容する為のものであり、ドクタル城から、円城中央の塔を見ることができ、危機に際して通信ができた、としています。こうした防衛拠点と町との関係はパルティア時代にもあり、パルティアの支配者も、宮殿は、町から遠くないところに建設していたとのこと。この例として、宮殿円城の2キロ先に市街を持っていたニサや、バーバクが王位を簒奪したGochihr王(ゴーチフル、アラビア語でジュズヒール)のBaidha(バイダー)城との関係(ゴーチフル王とバイダーは、タバリーの史書に登場しています)などがあります。また、アルダシールの息子のシャープールの都、ビシャプールも、宮殿地区の外の山の上に要塞があり、さらにグンデ・シャープールや、エイワーン・イ・カルカも同様の構造をとっているとのこと。

 

以上、若干強引な論旨となっている部分もありますが、パルティア時代の円城から、明確な意図をもったバグダッドの円城の中間形態として、フィルザバードは意図した構想の下に建設された計画都市である、という議論は、一部説得力もあり、興味深いものがあります。

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