サーサーン朝時代の東方領土の歴史



    
 2008年に出版された「The Sasanian Era (The Idea of Iran)」の6章に、1990年代に入ってから発見された150あまりのバクトリア文書の研究で著名なニコラス・シムズ・ウィリアムズ氏の「東方におけるサーサーン人」という論考が掲載されています。バクトリア文書とは、羊皮紙、皮、衣服や木などに書かれた手紙、経済文書、契約書や仏教文献、領収書、勘定書などで、クシャン朝時代から、アッバース朝時代初期までの文書を含み、この時代の北アフガニスタン情勢(特にRōb/Rūīと呼ばれる王国とその周辺) の解明に多大な貢献をしている文書です。

  本項目では、「The Sasanian Era (The Idea of Iran)」の6章の論考の要約となりますが、「アフガニスタンの歴史を文化」やタバリーの史書、中国史書などから一部追記をしています。追記部分は、文字の色を灰色としました。

 バクトリア文書のうち40の文書はギリシア語で110年から549年の年号が記載されており、110年は西暦332年と考えられ、その元年は223/224年を起年としていて、アルダシールがクシャン朝を服属させた時期だと推測されています。シャープール2世時代までは、クシャーノ・ササン朝やサカ王国として藩王国の地位にあったものの、シャープール2世治世中に両者つも直轄領となり、ペーローズ治世までササン朝の支配下にあったと思われます。北アフガニスタンは、その後560年頃までエフタル支配下となり、一時サーサーン朝支配下に戻ったものの、ホスロー2世時代に突厥支配下に入ったと思われます。中国人の法顕(400年頃)、宋雲(520年頃)、玄奘(630年頃)に東アフガニスタンを通過していますが、それぞれキダーラ、エフタル、突厥支配下にあり、記録を残した中国人の中でサーサーン朝支配下を旅した人はいないのが残念です。

 

西暦

文書年

解説

224以降

 

タバリーの史書には、アルダクシールが、「アバルシャヒール、メルブ、バルフ、フワーラズム、ホラサーンの最も遠い辺境地帯へ行き、そこ後メルブへと帰還した」「クシャーン、ツーラーン(現パキスタンのバローチスターンのクエッタの南)、マクラーンの王の使者達が彼の元に彼らの服従を提案しにやってきた」とあり、南北アフガニスタンからパキスタン南岸を服属させたと記載されている。

242-272年の間

 

シャープール1世の碑文には、「「父王の時代、東方には3人の属領王、つまりマルウ王、キルマーン王、サカ王がいた。この王達は三人ともアルダフシェールと呼ばれていた」とあるとのこと。更に、碑文に登場する「パシュカブール」はプルシャプラに比定されている。また、碑文に記載されている東方領土は、「メルヴ、ヘラト、アバルシャーフル、ケルマーン、 シースターン(パキスタン南西部)、トゥーラーン(パキスタン北西部)、マクラーン(パキスタン南海岸部)、パラデネ、インディア、ペシャワールまでのお よびカシュガルまでのクシャーンシャヒル、ソグディアナ、タシュケントの山々」となっている。

同上

 

シャープール1世の「ゾロアスターのカーバ神殿碑文」には、更に王子ナルセスがサカ王アルダフシェールを継いだ、とある。

276-293年の間

 

6世紀の歴史家アガティアスによれば、バフラーム2世がサカスターンの住民と戦った、とある。ローマ時代の歴史化クラウディウス・マメルティヌスは、反乱はバフラーム2世の兄弟によって引き起こされ、「ギル人(ギーラーン)、バクトリア人、サカ人」が支援したとのこと。

310年

 

シャープールという「サカ人の王、ヒンドスターン、サカの地、海に至るトゥーラーンの王」と自称する人物がペルセポリスに碑文を残している。彼はドランギアナの太守と一緒だった。

332年10月13日

110年2月10日

・一妻多夫の結婚契約書。中国史書に登場していてササン朝の資料には発見されていなかった一妻多夫の裏づけとなった。

・ササン人の一般名Warāz-ōhrmuzd Khwasrawagān(Khsrauの息子)が証人として記載されている。しかし月の名称はAhrēzhnではなく地元名が使われている(イランの月名はArdwahisht)。このことから、文化的には独立性が高かったと思われる。

・契約違約金は王の宝物庫へ支払う、とあり、ササン朝かクシャン朝の王を意味すると思われるが、ディナール金貨で支払うとあることから、クシャン朝の標準通貨であると思われる。

356年

 

ローマ史家マルケリヌスは、シャープール2世のエウセニとキオンへの遠征、その直後のギル、キオン、サカとの同盟について記載している。

350-388頃

 

・中世ペルシア名の姫(Khāhr/Khār・支配者を意味する)Dukht-anōshの手紙。Dathsh-marēgという宦官への不満。この手紙に、Warahrān というクシャーノ・ササン朝の王名と同じである。この名を持つ王は350-380年代の貨幣が出土しているので、手紙もその頃のものであり、Dukht-anōshのKhāhrは王女、Warahrān はコインに見られるクシャーノ・ササン朝王バフラーム3世である可能性がある。

・Khwadēw-wanindという高官に言及している。彼は他文書に登場している「Khwadēw-wanind Khāragān(要塞司令官)」と同一人物だと思われる。

・そのKhwadēw-wanindの手紙に、satrap(šahrab/šarab)が登場していて、更にこの時代の他文書にはPersian satrap(pārsā šarab)が登場している。

以上のことから、この一連の手紙は、クシャーノ・ササン朝末期からササン朝の直轄になった時期のものだと推定され、その時期は380年代だと思われる。なお、シャープール2世以降、ササン朝のドラクマ貨幣がヘラト、タシュクルガン、ベグラム、ジャラーラーバード、カーブルなどの遺跡で見つかっている。カーブル近郊の遺跡では、シャープール2世からシャープール3世(383-388年)のドラクマが見つかっている。

4世紀後半

 

・シャープール2世は、クシャーノ・ササン朝の後継者としてガンダーラでコインを発行している。

・別の4世紀後半のバクトリア文書群には、Khwadēw-wanindの手紙二登場している牧場についての言及があり、文書の中には敵・要塞・人質・騎士などの言葉が登場し、戦争があったことをうかがわせる。これは、キオン人(Chionites)か、中国史書に登場するキダーラがの可能性がある。キダーラと推定する理由は、キダーラ王がカピサ城からプルシャプラに移動する丁度その途上にRōbがあるからである(中国史書ではトハラからプルシャプラ(ペシャワール)に移動した、とある(北史・魏書)。しかし、敵がササン朝である可能性もまた残る。

キダーラ王のの貨幣にはクシャーン・シャーの称号が刻印され、シャープール2世と3世の貨幣を模したドラクマを発行ている。

380年夏

157年12月11日

・この手紙には、地元とイランの月の名が混在している。この後100年間の文書では中世ペルシア語の月の名が使われることになる。

・kadag-bid(家宰)という称号が初めて登場している。その名はKēraw Ōrumzdān(彼は417/418と421/422年の文書にも登場していて、kadag-bidはペーローズ時代の文書(465年にも登場し、これはペーローズ時代の別の資料(472年)に登場するkanārang =kanālrang (辺境伯)と同等だと推定される。つまり、380年にはササン朝の直轄下に入ったものと推測される。

403年頃

 

中国僧法顕がペシャワール、ジャラーラーバードを通過している。当時はキダーラかキオン治下だった可能性がある。彼はササン朝には言及していない。

4世紀後半から5世紀

 

・Grambād Kērawn(Kērawnの息子のGrambād)またはGrambād Khwadēwān(伯の家系のGrambād とは、Kēraw Ōrumzdānの息子だと思われる。そして、Grambādとい名は、ローマ史家マルケリヌスに登場する、シリアのアミダを包囲(360年)したキオン人の王Grumbatesと似ている。つまり、この時代にはキオン人の要素がこの地域に定着していたと思われる。

・サマルカンドのフン人の支配者の印章に「Hunの王」と同時に「クシャン・シャー」と記載されていることから、それは、クシャン朝自身或いはクシャーノ・ササン朝と、キオンかHun人との関係が考えられる。いずれにしても、東方領土は遊牧民の影響下にあったが、同時に元々の勢力(クシャン朝かササン朝)の影響もあったと考えられる。

422年

199年

kadgostaggo(Kadg-stāng)という名称が登場しており、Rōb王国の東の領域の可能性のある封泥に登場するKadagistānや、700年のバクトリア文書のKadagstān(kadagostano)と同じ場所かも知れない。

5世紀中頃?

 

・古いクシャン朝の称号hasht-wālg(意味は未解明)と「ペーローズの真実」という称号を帯びた Kirdīr Warahrānが登場している。彼は別文書でRōbのkhāhr及び「Ōhrmuzdの栄光」という称号を持っている。

・なお、アフガン人が史上2度目に言及された文書でもある。Abagano/abagān/avagān,複数形abaganano/Abagānān/Avagānān。史上初は、半世紀前にサンスクリットの天文文献がAvagāna in the Brhat-samahitā of Varāhamihiraとして言及している。

461年12月か462年1月

239年 Sharēwar月

「Mēyan、Kadagānの王、有名で栄えあるシャーハンシャーペーローズ(または勝ち誇るシャーハンシャー)のKadag-bid」という文書。このことから、この時代Kadagān王国はササン朝治下にあったと思われる。Kadag-bidは家宰であるが、この場合は、代官の意味だと思われる。

465/475年1月か2月

242/252年 Mihr月

同上。Mēyan(mēiamo)/Mēham(mēuamo)は、インドのブラフミー文献に登場するMehama。Mēyanはコインにも登場し、493年の円筒印章にも登場している。インドの文献に登場しているのは、エフタルがインドに侵入していた時期だからだと思われる。

エフタル時代

 

「Kilman , Kadagānの王、有名で栄えあるエフタルのyabghu、Kadag-bid」とい文書。このことから、この時代Kadagān王国はエフタル支配下に入ったと思われる。因みに、771年の文書では、「Kēra-tonga-spara、Kadagānの王、有名なqaghan、栄えある栄光にあるKadag-bid」との記載があり、突厥支配下に入ったことがわかる。KadagānとはKadagの人々の意味だと思われる。Kadagはまた、Kurwād/Kurād(財務官、宝物庫管理管)、Kadgānの王として手紙を発行している人物、「Wargunの人々の伯、Kadagstānの将軍」とも関連する言葉だと思われる。

484年以降

 

・ペーローズはバクトリアでクシャーノ・ササン朝の貨幣基準に基づいたディナール金貨を発行している。史書ではペーローズはエフタルに破れ死去。次のカワードは、ドラクマ銀貨でエフタルへの貢納を支払い、それはバクトリア文書では「カワードのドラクマ」と強調されていることから、標準通貨がディナール金貨からドラクマ銀貨に移行した可能性がある(下記517年の文書ではディナールが登場している)。

・この時代、月の名称も、中世ペルシア語から地元名に戻ったとの伝承がある(出典言及無し)

517年11/12月

295年Siwan月

・土地購入計画書。エフタル伯への税金と、インド起源の言葉に言及している(razogolo/サンスクリットではrājakula)。購入者は「王の執事」・販売者は「Shābūr Shābūranの執事」とあり、Rōbの支配者かも知れない。Shābūranは、その後数世紀、ローブの支配者の家系として多くの文書・印章などに登場している。

520年頃

 

中国役人宋雲、東アフガニスタンを旅したが、ササン朝への言及は無いく、エフタル治下だったと思われる(宋雲は波斯国(ペルシア)領内、クンドゥスあたりの北アフガニスタンに行った可能性があるが、別路を行った恵生の記録に登場する「波知国と混同され、現在の写本では、パミールの波知国しか残っていない)。

560年代

 

タバリーの史書によると、バルフへ進軍し、ヒンドからトハリスタンを征服した、とあり、突厥と同盟してエフタルを破ったことは疑い無い。

560年以降

 

・税金文書。毎月5ドラクマをエフタルとペルシア人に支払う。知事がワインを飲む時は2ドラクマを支払う。写本に2ドラクマ。市内でワインを飲む時8ディナール、羊に8ディナール、市内で死んだエフタルの馬に5ドラクマ。

・この文書の日付は不明だが、ホスロー1世の再征服の状況に合致し、Rika Gyselenの封泥・印章研究の証拠も傍証となりうる。

580年代初

 

「北史」巻44に、エフタルトサーサーン朝がともに突厥と戦った、との記載。

587-591年

 

ホルミズド4世とバフラーム・チュービーンの貨幣がバルフで発行されている。また、Gyselenの言及するササン朝官僚の封泥も、この地方におけるササン朝の再建の傍証となる。例えば、メルブとバルフのāmārgar(財務官) 、封泥に登場するKadagistān(Rōb王国のの東の領域かも知れない)のōstāndār(州長官)。

591-628年

 

突厥がレイとイスファハーンにまで侵攻(アルメニア資料)。中国資料では、ホスロー2世は突厥に殺された、とあり、その後の諸王は突厥に介入され続けた(出典はこちら)。

602年

 

Warnu(後世のWarwāliz、現在のQunduz、中国語の活路(Houlu))で書かれた文書に、Tōrmān Aspanagānという名前が登場しており、Tōrmān はエフタルの支配者、Torramānaに似ている。 Grambād Kērawn(上述)というキオン系の名称の所有者が登場し、地元民へのキオンの影響が見られたように、Tōrmān という名称にもエフタルの浸透を見てとることができるかも知れない。

629以前

407年5月26日

Saminganで書かれた文書ではローブのKhāhrを「iltebir of the qaghan」という西突厥に所属する地方支配者の称号を記述している。

630年頃

 

玄奘が東アフガニスタンを通過。このあたりは突厥支配下と記載している(ただし、玄奘は波斯国のことを伝えている)。

659年

 

Guzganで書かれた文書では、トルコのqaghanへの貢納について言及している(しかし、この時点では西突厥は、既に唐の支配下にあった)

7世紀前半

 

サーサーン朝末期に成立したとされる「エーラーン・シャフル州都のカタログ」では、ヘラトやカブール、Zarang(シースタンの州都)などが記載されていることから、これを根拠にサーサーン朝は末期に至るまで東方領土を保持していた、との説があるようです。ただ、上述のローブ国のエフタルとペルシアの両方へ税金を支払っている、という話にあるように、現状は突厥とサーサーン朝への両属状態にあるのではないかと思います。

 

 

 

  -参考

  The Sasanian Era (The Idea of Iran) Vesta Sarkhosh Curtis , Sarah Stewart (編)I. B. Tauris社 2008年

  ア フガニスタンの歴史と文化 ヴィレム・フォーヘルサング 明石書店 2005年

  「アル・タバリーの歴史」、「北史」、「大唐西域記」、「宋雲行記」「仏国記(法顕)」

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