ボーラーンとアーザルミードゥフト


 
  ササン朝末期630年前後に女帝の地位についた、ボーラーンとアーザルミードゥフトは、ともにホスロー2世の子とされています。 タバリー11巻に、両者に 関する少し詳しい記載を見つけたので、7世紀のアルメニア人史家セベオスの年代記や、漢籍の記載とともに、まとめてみました。

【1】セベオス年代記28章(英訳)最後 の部分の数行の記載

【訳】【ある日、ホルヘアム(Xorheam)は、王族の装束をつけ、馬にまたがり、軍隊の周囲を巡って、自分自身を見せて歩い た。すると、突然後方部隊 が攻撃を仕掛け、彼を打ちすえ、殺してしまった。そこで、彼らはホスローの娘であるブーラーン(Bbor)を王座につけた。彼女 はホルヘアムの妻だった。 彼らは、ホルホフ・オルマズド(Xorhox Ormazd)(アトロパテネの王子)を法廷の司令官に据えた。いま、ホルホフはブーラーン=バンビッシュ(Bambish/女 王の中の女王)に使者を 送って伝えた、「私の妻になれ」と。彼女は承諾し、答えた、「一人の従者を連れて、真夜中に私のところに来なさい。そうしたら、 私は汝の意思を満たすであろう」と。真夜中になって、ホルホフは一人の男を伴って来た。彼が王宮の議場に入ると、法廷の警備兵が 彼を打ち倒し、殴りかかって、殺してしまった。バンビッシュは2年間統治した後、死んだ。彼女の後継は、ササン王家の血統のホスローであった。ホスローの後は、アーザルミードゥフト(が継いだ。彼女は)ホスローの娘である。 彼女の後は、オルマズド、ホルヘムの軍隊が絞め殺したホスロー(2世)の孫であだった。最終的に、カワードの息子ホスローの孫であるヤズケルト*1の支配に至った。彼は、イランの地の軍隊を3つの部 分に分割いて、恐怖とともに支配した。3つの軍のうちの最初のものは、東方地域を、2つ目の軍隊は、ホルヘアム のアソレスタン(Asorestan*2)、3つ目の軍隊は、アトロパテ(Atrpatakan) にあった。王国の中心はクテシフォンにあり、イラン全土が、そこを尊重して いた。
た。】

*1 誤字ではなく、英訳版が
Yazkert となっている。
*2 アソレスタンは現イラク北部。アソレは古代の アッシュール。つまりアッシリア帝国の故地。アトロパテネは現イラン西部の古代メディアの故地。

ここでの、ボーラーンとホルホフ・オルマズドの話と同じ内容が、タバリーの第 五巻P406(通番1065ページ)では、アーザルミードゥフトの話とされています。セベオス資料のホルホフ・オルマズドは、タ バリーでは、ファールークザード・ホルムズド(ホラサーンのスハーフパッド(軍司令官))とされており、こちらは、同一人物のよ うです。

【2】タバリー5巻1064頁と1065頁のボーラーンアーザルミードゥフトの翻訳はリンク先にあります

【3】タバリー11巻P120(通番2119頁)とP176(通番2163頁、2165頁)記載の内容の一部

【訳 -2119頁】【シャフルバラーズは、ホルムズド・ジャードゥーヤを破った時に死んだ。ペルシア人は、彼らとは反目してい た。ティグリスとBurs の間 のサワードの地は、ムサナーとムスリムの手に残された。そして、ペルシア人は、シャフルバラーズの後を、Dukht-i- Zaban*2(キスラーの娘) にすることに同意した。しかし、誰も彼女に命令に従わなかった。彼女は退位し、シャフルバラーズの子、サーブールが王とされた。シャフルバラーズの息子 サーブールが王となった時、ビンダワーン(Bindawan)の息子ファールクークザードが彼の任務を継いだ。彼はサーブール に、ホスローの娘、アーザルミードゥフトと結婚することについて尋ねた。サーブールはこれを認めたが、彼女は激怒し、言った、 「恐れながら従兄妹殿、あなたは私を奴隷と結婚させ たいのですか?」彼が答えて曰く、「そのようなことを言うことを恥ずかしいと思え。私に2度と同じことを繰り返させるな。彼はあなたの夫である!」それゆ え、彼女は、ラーズィー(Razi)のシヤーウクシュ(Siyawukhsh)*1へと使者を送った。これはしかし、ペルシャ人 の中でも、信用ならぬ殺人者達のひとだった。彼女はそこで、彼女が恐れている ことを、彼に不満をぶちまけた。彼は彼女に言った、「もし、これを好まないのであれば、の 元に戻ることはない。むしろサーブールに、ファールークザードをあなたの元に来させるように、との使者を送りなさい。私が彼か ら、あなたを守ります」 彼女はそのようにし、サーブールもそうした。シヤー ウクシュは準備を整えた。婚姻の夜が来たとき、ファールークザードは、 宮殿前の導入路を 通って中に入ってきた。そこでシアーウクシュが襲い掛かって彼を死に至らしめた。そうして、彼はサーブールのもとへと彼女とともに駆けつけた。彼女は、彼の前に来て、彼らは彼のもとに行き、彼を殺し た。キスラーの娘、アーザルミードゥフトは女王となり、そしてペルシャ人は彼女に支配された。】

*1 バフラーム・チュービーンの孫
*2 Dukht-i-Zabanはボーラーン
の こと


【訳 -2163頁】【マダーインにおいて、人々がしばしば反目しあっていたので、キスラーの娘ブーラーンは、彼らの相違点が調 和するまで、彼らの間のもっとも名誉ある調停者として行動した。ビンダワーンの息子ファールークザードが殺され、ルスタムがアー ザルミードゥフトを殺しに来た時、彼女は、彼女がヤズダギルドをつれてくるまで調停者として行動した。ブーラーンが調停者であ り、ルスタムが戦争を担当していた時、アブー・ウバイドが到着した。ブーラーンは彼が受け取る贈り物をもって、預言者*1の(使者の)前に現れた。彼女は1年間の間、シーラー(シェーローエ)に反対してい た。彼女は、彼に従い、彼らは、彼が主人となるように条件にったが、彼女は調 停者とされた。シヤーウクシュがビンダワーンの息子ファールークザードを殺し、アーザルミードゥフトが女王になった時、ペルシア 人は、内部分裂していて、ムスリムから目がそらされていた。ムサナーが不在の間、彼がメディーナから戻るまでの間じゅうずっと。 ブーラーン は、ルスタムに知らせを送り、ルスタムを出発させるようけしかけた。彼は、ホラサーンの辺境担当についており、マダーインで停止するまで、行軍をつづけた。彼は、彼の遭遇 した、アーザルミードゥフトの軍を破り、彼らはマダーインで闘い、シヤーウクシュは破られ包囲され、アーザルミードゥフトも同様 に包囲された。ルスタムは、彼らを捉え、シヤーウクシュを殺して、アーザルミードゥフトの目を潰して、ブーラーンを立てた。
 ブーラーンは彼(ルスタム)を、彼女が不満を持っている、ペルシア人の弱点と衰退などの諸事を管理するために招いた。それには 条件があり、 10年間の支配について、彼を信頼するというもので、もし誰かキスラーの一族に男の子孫が見つかった場合、または見つからなかった場合は、一族の女性に (与えるということだった)つまるところ、君主権は、キスラーの一族に属す る、というものだった。ルスタム曰く、「私について言えば、私は、特に報償も報酬も見出すことないと理解し、従う。もし、あなた が、 私になにかをすることで、私に名誉を与えてくれるのであれば、あなたは、あなたのなすことの主人である。私自身は無価値な存在だが、あなたの矢となり、あ なたの手として、あなたの意思を実行する道具である」ブーラーンは応じて、 「朝、私のもとに来なさい」(と命じた)ロスタムが朝、彼女のもとへ行くと、 ペルシアの知事達を招集して、彼のためにしたためた、「汝は、ペルシアの、武装した軍隊を担う。偉大で、強大な、神を守る存在と して、
汝の判断を実行す ることについては、我々の喜びであり、汝以上のものはいない。汝の判断は、彼らに適用される。それは彼らの国土を守り、彼らを分裂から統合へと導 く限り」
 ここにおいて、彼女は、彼に統治権を授け、彼に従い、彼のいうことを聞くように、ペルシア人に指令した。アブー・ウバイド来た後、ペルシアは、彼のもとに臣従した。】

*1 イスラーム教の開 祖ムハンンマドのこと。

【訳 -2165頁】

【そうこうしているうち、ペルシア人の注目は、シャフルバラーズの死によって、ムスリムからそれてしまった。Shah-i- Zanan*1は、彼らがシャヒルヤールの子であるアルダシールの子であるシャ フルバラーズの子のサーブルの即位に同意するまで、主権を握っていた。しかし、その時、アーザルミードゥフトが、サーブールに対 して反乱を企て、彼とファールークザードを殺し、女王となった。一方ファールークザードの息子、ルスタムはホラサーンの辺境担当 だったが、この知らせが、ブーラーンから、彼にもたらされた
。】

*1 Shah-i-Zanan  「女性の支配者」の意味(女性のシャー)。つまり、ブーラーンのこと。前掲P2119の註も参照。


ここで考えられることは、バフラーム・チュービーン系の派閥(アーザルミー ドゥフト)と、シャフルバラーズ系の派閥(ブーラーン)の内戦という構図です。シャフルバラーズが、 ビザンツ皇帝ヘラクリウスによって王位につかされたものであるとすると、
シャフ ルバラーズ系派閥の背後にはビザンツと突厥がいるのかもしれません。以下の中国資料(旧新唐書)では、ホスロー2世は突厥の統葉 護 河汗に殺されたことになっていて、ホスローの子施利(シーリー/シェーローエ)が王になるも、突厥に属国として臣従することになった、とあります。

【4】
旧新唐書第198巻
西戎伝(漢 語本文はこちら
 
【隋の大業年間の末、西突厥の統葉護河汗はしばしば、その国(波斯国-ペルシア国)を破り、波斯王庫薩和(ホスロー)王、西突厥 の殺すところとなる。その子、施利(シーリー)が 立つ。
統葉護河汗は、その国を司令官に分けることによって統監した。ペルシア国はついに統葉護河汗に臣従した。統 葉護河汗が死ぬと、統監者は自立し、ペルシアに従うことになり、再び西突厥に服 属することはなかった。施利は即位して1年で没し、ホスローの娘が即位して王となった。突厥は更にこれを殺した。施利の子単羯方は拂林 (ビザンツ)に逃亡し、そして国の人々は、これを立てて、尹恒支*1となす。在位2年にして死し、兄の子伊嗣候(ヤズダギルド)立つ。】

*1 新唐書では、「伊但支」アルダシールか。



※統葉護河汗が死ぬと、イラン国は突厥属 国から抜け出したが、シェーローエが死に女性の王が立ったとあります。ボーラーンは、ヤズダギルドの即位に後ろ盾となった可能性 があるため、突厥に殺された女王とは、 アーザルミードゥフトのことかもしれません。ルスタムはホラサーン総督であり、突厥の軍の後ろ盾をもって、アーザルミードゥフトの軍と戦った、という可能 性もあるのではないでしょ うか。アーザルミードゥフトと協力したシヤーウクシュは、バフラーム・チュービーンの孫であり、バフラームは、突厥を破った将軍です。このことからも、シ ヤーウクシュは、突厥派にはならなかった可能性があるのではないでしょうか。タバリーP2165頁の記述では、アーザルミードゥ クトは明確に反乱者となっています。ルスタム の後ろ盾はブーラーンだとあることから、634年のヤズダギルド3世の即位時も、637年の、アラブとの戦いであるカディシー ヤの戦いの時も、司令官を務めたルスタムの背後にはブーラーンがいたと言えそうです。ビザンツや、突厥と結んだブーラーンは、現 実の力関係を熟知している点から、年長者であると考 えることもできます。これに対して、国粋的な側面のあるアーザルミードゥフトは、逆に若い世代であると考えることもできます。 ボーラーンとアーザルミードゥフトの対立は、世代間の価値観の相違なども反映しているのかもしれないのではないでしょうか。



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