2006/07/17 created
2020/Sep/18 last updated
蜃気楼の都クテシフォン



  【1】概要
   クテシフォンは別名 シリア語(アラム語)ではマーホー ゼーと呼ばれ、アラビア語ではマダーインと呼ばれた。これは”町の集まり”を意味しており、マダーイン は一つの町ではなく、王の運河(ナヒル・アル・マリク)とティグリス川沿いに繋がる近隣の一群 の町を示していたと考えられる。一群の町とは恐らく、クテシフォン、セレウキア(ヴェーウ・アルダシールまたはコチェ)、ヴォロゲソ ケルタ、アスール市、 アスバーナブル(アスファーヌール)、ルーミーヤ(アンティオキヤより美しいホスロー)などであり、マダーインとはこれらの町から構 成される「メガロポリス」のことであったと思われる(合計7つの都市との記事もある)。

 クテシフォンには、当時の町の風景を想像できる材料が殆ど何も残っていないので、断片的 な情報から浮かび上がる都市を想像するしか無い点に、蜃気楼の都をイメージさせられるものがあります。ギリシャ人の建設したセレ ウキア(遺跡は後述)はともかくそれ以外の町は平面プランさえわからないそうです。中国の首都長安や洛陽は、建物の遺跡が残って いないので立体的な町のイメージは不明ですが、土台の遺構が残っているので凡その平面プランは分かります。ローマやコンスタン ティノープルは多くの建築物が残っているので、極めて視覚的に往時の光景を想像することが出来ます。しかしクテシフォンの場合、 南北6Km、東西4kmのの楕円型という記載もありますが(30キロ平方メートルとの伝承も)、平面プランさえわからないのが残 念なところです。(ひょっとしたら、イラクの博物館になら平面プランがあるかもしれない)。ユリアヌスの遠征時(363年)、ク テシフォンの城壁まで辿り着いた記録が出てくるから クテシフォンには城壁があったことが分かります。これは推測だが、今に残る  ク テシフォンの宮殿の大遺跡を中心に町が展開し、楕円型の城壁が取り巻いていたのだとすると、クテシフォンの往時の光 景を想起するには、ハトラの 遺跡が参考になるのかも知れません。また、アルメニア人歴史家セベオスの記録では、城壁を取り巻いて、王の住居が町を取り囲んで いたの記載が出てきます(ホスロー2世の頃)。クテシフォンは砂漠の中にあったのではなく、よく整備された運河と豊かに灌漑され た緑野に囲まれていた筈で、セレウキアが人口30万を数えたとのことだから(ストラボンの記載では60万人)、クテシフォンもそ こそこの人口を抱えた大都市であったと想像できそうです。川を挟んで西岸にセレウキア、東 岸にクテシフォンという眺望は、水面に映えて華麗であったかもしれません。

一部の儀式はパールスの王国発祥地スタクール(アナーヒータ寺院がある。現在名イスタフ ル。アケメネス朝時代の遺跡が残る)や宗教的中心地アードュルグシュナスプのあるシーズで 行われる以外は、戴冠式はほとんどクテシ フォンでなされたとのこと。

マダーインは何度も陥落し破壊を受けています。ローマ人の攻撃だけではなく内乱によるも のも多そうです。とりあえず外敵による陥落は以下のものがあるようです。

 116年 トラヤヌス帝による陥落
  162年 ヴェルス帝による陥落
 197年 セプティミウス・セウェルス帝による陥落
 283年 カルス帝による占領(エウトロピウス『首都創建以来の歴史』9-18)
 363年 ユリアヌス帝軍、城壁に迫る。対岸のコチェ(旧セレウキア) 占領。
 628年 ヘラクレイオス帝による陥落(クテシフォンは占領されなかった模様)
 637年 アラブによる陥落。ただし対岸のヴェーウ・アルダシール陥落と同時に放棄された ため、殆どアラブ軍は殆ど無血入城となり、クテシフォンは破壊されずにすんだ。アラブ征服後は、バスラやWasitに繁栄を奪わ れ衰退。
  8世紀末  バグダード建設資材として解体。
 

マダーインを構成する各都市の来歴は以下のとおり。

□セレウキア
 前312年頃セレウコス1世が建設。
セレウキアの発展が、バビロン市の 衰退を招いたようである。平原に建設されたギリシア都市、という点に独自性がある。AD36〜43年の 7年 叛乱の結果破壊され、60〜70年代に自治を失い、116年、165、166年、200年に占領された。その後、アルダシールに 再建される(ヴェーウ・ア ルダシール/アラブ名バフラシール/Bahurasir)、シリア名コケ(コチェ)、ギシリア名新セレウキアと呼ばれるようになる。 クテシフォンとは橋(恐らく船橋)で結ばれていた。

□クテシフォン
 Opisという町に、前140頃軍事基地としてセレウキア対岸に建設される。 パルティア時代はTyspwnと 呼ばれた。前1世紀中頃より首都として機能。後1世紀のヴァルダネ ス1世が建設者との伝承もある(この出典はアンミアヌス・マルケリヌスの『歴史』23巻23節)。パコールース(後100年頃)の時代におおくの住民が移 住してきて城壁は強化され、ギリシャ 名がつけられたとのこと(出典は同上)。


□ヴォロゲゾケルタ(Vologesocerta)
 43年のセレウキア破壊後、セレウキアの廃墟の跡に建設される。セレウキアに変わる商業中心地となり、パルミラの隊商の終着点 でもあった。
 
□ルーミーヤ(Antiokh-i-Khosrau) ホスロー1世がアンティオキアの住民 を移住させて建設。 クテシフォンの南。

□ダスタギルド(Dastajird) ホスロー2世はクテシフォンには 住まず、その東のダスタ ギルドに宮殿を作りそこに住んだ。


【2】史料に登場するクテシフォン


1.4世紀のローマの史家、アンミアヌス・マルケリー ヌスのユリアヌスのペルシャ遠征に、クテシフォンには、3つの宮殿と都市、および狩猟場を囲む 城壁があったとの記述が出てきます。

2.アルメニア人歴史家セベオス(7世紀)の、ヘラクレイオスによるクテシフォン陥落では、27章の冒頭部分に、 「Heraclius came and encamped close to the gates of the city of Ctesiphon and burned down all the royal mansions surrounding the city」という記述があります(英訳全文はこちら)。この 「the city」をどのように解するかがポイントだと思いますが、これは、この後引用するタバリーの歴史書での「the city」の用法と同じだと解釈すると、the city とは、バグダードの円城のようなものだった可能性があります。つまり、クテシフォンの町の中に、円形の王城があ り、王族の住居が、その円城に 沿って建てられていた、ということを意味するのではないかと思うのです(しかし、一方で、遺跡の配置をみると、城壁の外側に現在の王宮遺跡があり、セベオ スの文言と一致しています)。

3.タバリーの歴史に登場する記述。13巻、クテシフォン陥落部分では、「突入した兵士は、「ストリート」に殺到した」とい う記述が あり、この記述から、「街路」がある町だったことがわかります。また、同巻のあちこちの記述からは、対岸のヴェーウ・アルダ シールとは舟橋でつながってい たことがわかります。また、5巻では、「ある将軍が城壁を補強した」との記述があり、この記述から、軍事防衛に足る城壁が あったことがわかります。また 29巻では、バグダード建設にあたって、クテシフォンの石材を利用する、つまり、クテシフォンを破壊することを、カリフ・マ ンスールが臣下に問う場面がで てきます。

「What do you think about demolishing the city of the Iwan of Chsroes at al-Madain and taking the rubble from it」

 この記載の中の、「ホスローのイーワーン」とは、今もバグダード近郊に残る、クテシフォン宮殿のことだと思われます。する と「ホスローのイーワーンの city」となり、先のセベオスの記載と同じく、
おそらく「ホスロー のイーワーンの宮殿のある円城」を示すのではないかと思うのです。

 さて、今も残る宮殿ですが、13巻、クテシフォン陥落の記載に、「白宮殿のイーワーンに彫像が並べてあった」とあり、この 記述から、白宮殿が、現クテシフォン遺跡の宮殿らしいこと、また、宮殿がストッコかなにかで白く塗装されていたか、または、 外壁が大理石かなにかの白い石材でできていたことがわかりま す。マンスールのバグダード建設時に、「石材」を運び出した、という記述から、クテシフォンの円城の部分か、または宮殿の外 壁か、どちらかから、白い石材を運びだしたのではないでしょうか。いづれにしても、いまに残る宮殿は、元々は白かったことが わかります。

4.アルメニア人歴史家のブガンティの書に、ネストリウス派教会が、クテシフォンに
あった、という記載がありました。

集まった情報は以上の情報だけなのですが、あるホームページに(出典が記載されていなかったので、参考扱いですが)、クテシ フォンに50の宮殿があった と記載されています。これは、円城を構成する宮殿群だったのではないでしょうか。

これらの情報を総合して思うのは、このHPでも何度か言及している、「ギ リシャ思想とアラビア文化」に、バグダードの設計プランは、パルティアなどの円城 が由来ではなく、占星術が根底にある、との話がでてきています。ササン朝はまさに占星術の王朝でしたから、クテシフォンとバ グダードの設計プランが似通っている可能性というのは、ひょっとしたらありえるのかもしれません。
 
 古代都市には、漢長安城みたいに、巨大宮殿がいくつかできて、その狭間に市街ができ、最終的に全体が城壁で囲まれるパター ンと、唐長安城や、ローマ時代 の計画都市みたいに、計画的に区画を持ち、城壁が整備されて建設される都市、および宮殿が一つと、その近くに、宮殿とは別個 に市街都市ができる、この3つのパターンがあるように思えます。
 クテシフォンは、一体どのタイプなのでしょうか。パルティア・ササン朝遺構の残る都市例では、ハトラが唐長安城タイプ、バ グダッドや、ニサやメルブが3つめのタイプのように思えます。
 そうして、なんとなくクテシフォンは、漢長安城やバグダッドのようなタイプに思えるのです。なぜかというと、ローマの遠征 でも、クテシフォンは あっさり陥落しているのに、ハトラは何度も持ちこたえたりしているからです。都市国家タイプではないような感じがするので す。一番近いのは、メルブであるように思えます。メルブは、中心にある城壁に囲まれた1キロ四方の円城は、もともと紀元前に は都市国家であったものが、やがて宮 殿外に市街が発展し、円城は、宮殿となり、市街を大きく囲む数キロ四方の城壁が、後世あらたに建造されているのです。クテシ フォンは、このような都市だっ たのではないでしょうか。

 ところで、タバリーの歴史によると、クテシフォンは、バグダード建設で完全に消滅したわけではなく、9世紀後半のザンジュ の乱当時も、人が居住してい る、との記述が出てくるそうです。このことからも、通常「the city」が示している部分とは、「円城」の部分ではなかったかとおもえるのです。


【3】遺跡

  Antiquityという考古学雑誌のバックナン バーのサイトを最近知りました。(http://www.antiquity.ac.uk/index.html
この1929 年の12号に、 ドイツ隊によるクテシフォンの発掘情報の記事が掲載されています。434ページから451ページの間です。このサイトでは、 記事ごとに購入することがで きるので、早速購入して読んでみました(確か1記事あたり15ドル程度。安くはない)。これまでなかなか知ることができな かった情報が多いため、まとめてみました。幻の都が、少しだけイメージがつかめるようになってきました。更に1939年52 号に、セ レウキア調査の記事も あります。こちらも合わせて参考にしました(この記事は2006年7月に記載したもので、その当時は、1928-37年のセレウキア発掘レポートしか参照 していません。その後2013年11月に1964-89年にイタリアのトリノ大学により行なわれた発掘のサイトを見つけまし た。本記事末尾に記載)。

1.前143年に、ギリシア人都市セレウキアが、パルティア人によって陥落した時、パルティア人は、セレウキアに王宮を移さ ずに、対岸のOpis、または Tyspwnという町に軍営を築いたとされる。Opisについては、ネブカドネザル時代にOpisという町が築かれ、その 後、セレウキアの拡張に伴い飲み 込まれた、とする説もあり、Opisは、ティグリス河西岸にあった可能性が高い。パルティア人は、ティシフォンから、セレウ キアの監督を実施した。

2.クテシフォンには、やがてパルティア王が常駐するようになり、王宮が築かれた。この時代のクテシフォン市は、現在では、 Madain al Atica と呼んでいる。ここにはパルティア王宮があり、ササン朝時代に、白宮殿に置き換えられた。また、新市街として、 ASFANABR地区が成長していった (Taq-i-Kisra遺跡が、この新市街に含まれるものかどうかは不明。新市街の範囲は、明確ではないらしい)

3.現在に残る遺構を以下に示す。
    ・Salman Pakというモスクと墓のある村があり、そこはBarberという預言者の伝説がある。ここに、正方形の遺構が残っている (図中asfanbrと、円形に 記載している部分。円形に記載したのは、正方形の遺構を超えて市街が発展していた可能性があるため、またサイズが明確でない ため、円形とした)

  ・川辺に沿った部分に、Tuwaibahと現在の住民に呼ばれる曲面の城壁(実際には土の盛り上がり)がある。北から Salman Pakへ、またSalman Pakから東へと、運河が伸びている。

  ・新市街の南に、Taq-i-Kisra(一般にクテシフォン遺跡として知られる)があり、
Tuwaibah城壁から東南1km地点に、Bustan al Kisra(ホスローの庭園)と呼ばれる、2方向に700m程伸びている城壁がある。この南150m地点に、Tell Dahab(黄金の丘、またはホスローの宝物庫)と呼ばれる方形の遺構がある。

  ・旧市街の西北には、現在住民にes Surと呼ばれる10m程度に盛り上がっている小高い丘の連なりである城壁跡が残る。Dja'aret al Baruda(Powder-millの丘とも呼ばれる)。城壁の幅は10m、38mごとに、9.3mの幅を持つ半円の塔が あった。堀があったかどうかは 不明である。

  ・旧市街の中に、Qasr bint al Qadi(Qadiの娘の城)と呼ばれる、キリスト教会遺構がある。
  ・Taq-i-Kisraの南 100mに ad Dhabai(ハイエナの丘)と呼ばれる60m〜100m程度の方形遺構がある。

以上がクテシフォン遺跡となる。およそ30キロ平方メートルである。


(Antiquity1929年12号
「The German Excavations at Ctesiphon」p435掲載の図及び本文を参照して作成)

これ に対して、セレウキア遺跡は、空から空撮を行って確認をした程度でしかないが、以下の点が確認されている。
  ・長方形の都市プランが認められる。これは、ヘレニズム都市の特徴を備えている。
  ・東西を走る大通りが2本あるが、南側は低地となっており、運河であった可能性もある。南側大通りの両岸の土盛 りは、市場や元老院の家、記録所、市民 センターであった可能性がある。同時に、運河である場合は、土盛りは、堤防だった可能性がある。 また、北南の通り もあり、町の中央でクロスしている。真 中のブロックに、パルティア王宮か、市の管理者の住居があったと推定される。
  ・ティグリス河に面した部分には、港があったと推定されている。港近くに、小さい土の塔があった。これは、アン ミアヌス・マルケリヌスの記載にある、 「「王の運河」の入り口にアレキサンドリアの灯台のような塔があった」という記述があるが、マルケリヌスの記述は、 ユーフラテス川側だが、こちらはティグ リス側の終端にあたる灯台である可能性がある。

  ・Nahr Al Makik(王の運河)は、Yusufiye canalに比定されている。現在再び水が流れているが、古代のダムと、住居跡が見られる。
  ・北東には、Tell Umairという丘があり、ここには、パルティアの神殿や儀式のための劇場跡がある。


4.クテシフォンの王宮周辺にも、遺構が残る。以下の図面を参照するとわかるように、実は、現在残るクテシフォン宮 殿遺構の対面にも、同じようなイーワー ン(下記写真1の建築物の真中のホール部分。パルティア時代に発展し、イスラム建築に広く取り入れられた建築様式) を持つ建築物があったようである。サマ ルカンドのレギスタン広場に似ていると言えるかも知れない。宮殿遺跡は、資料によっては、建設年代が、シャープール 1世であったり、ホスロー1世時代で あったりとまちまちだが、これは、東側のイーワーンの部分と、西側後部の大会議部分とで、建築方法が異なることに由 来する。
会 議場部分は、アーキトレーブ(水平な柱を渡す方式)で建設され、イーワーン部分はアーキヴィールト方式で建設されてい る。この為、会議場部分はシャプール1世時代に、イーワーン部分はホスロー1世 時代に建設され たと考えられている。更に、宮殿遺跡の南にも遺構があり、U字方の北側部分と、ホール(南北140m)とから構成さ れている。最初は、ホール部分しかな く、ポロや狩猟場とされていた可能性がある。後に、北側に王宮ができたため、法廷として利用されるようになったと考 えられている。この為、最初は日干し煉 瓦で造られていた壁の内側と外側が焼きレンガで覆われ、更に内側は、支えの柱がある。これは、法廷の階段状の観覧席 (6m程度)を壁に向かって積み上げる ための補強だと推測されている。北側のU字部分が法廷と推定されている。この周辺が、いわゆる政庁地区といえるかも しれない。内装は、恐らく大理石や、モ ザイク、壁画、直径1Mの棕櫚のレリーフ飾りなどで埋められていたと推測される。破片遺物が看られるためである。



(Antiquity1929年12号「The German Excavations at Ctesiphon」p438掲載の図より引用)


写真1(倒壊していた右側を最近復元しているらしい)


5.以下はクテシフォンの旧市街にある6世紀のものと思われる教会遺跡の平面図である。左側がより古い年 代、右側が新しい年代のもの。ローマ領内の、バシ リカ形式やアプスを持つ形式とは異なっていることがわかる。幅10m程度、長さ30m程度。北の部屋の壁に は方形のくぼみがある。31センチ四方のブロッ クで建設されている。屋根はセミクーポラだったようで、内部の柱の間は、ヴォールトでつながれている。シー リーンの教会は、これだったのかもしれない。


Antiquity1929年12号「The German Excavations at Ctesiphon」p444掲載の図より引用)


6.ネブカドネザルのWadi BrissaとNahr el-Kelbの碑文によると、バビロン防衛のために、ユーフラテス河沿いの町、Sipparからティグリス河沿い の「Opisの上」まで約20マイルの 城壁(恐らく日干しレンガ)を作り、更 に城壁の補助として、運河を作ったとのこと。Opisの町についての証言はまちまちで、クセノフォンは現バグダッド 付近に比定し、ストラボンは、「セミラ ミスの城壁」の終端の町として、Opisに 言及している。プリニウスもプトレマイオスも、セレウキアに通ずる運河について言及している。(プトレマイオスはセ レウキアを 通過して、Apameiaにてティグリス河に流入している、としている)。

 
概要は以上です。

 面白かったのが、発掘隊は、最初、古代の著作者の記述に従って、ティグリス河西岸の遺構をセレウキア、東岸をクテ シフォンだと考えていたのが、調査をし てみると、西岸の遺跡もクテシフォンであることが判明し、より西にある丘がセレウキアだと判明した点です。こちらのサイトに掲載されている1867 年当時の遺構想定図では、チグリス河右岸(西岸)部分がセレウキアとなっています)。つまり、 1000年程の間に、河床が移動したと いうことなのでした。1500年前には、クテシフォンとセレウキアの間を流れていたティグリス河が、東に移動し、ク テシフォンを横切って、現在では、クテ シフォンを二つに割るように、真中を流れています。ひょっとしたら、一時は西方にも移動し、セレウキアの上を流れて いたこともあるかもしれません。ローマ やアテネでは、それほど大きな大河の近くにあるわけではないため、殆ど河川の移動による、都市の破壊は見られないよ うですが、ナイルやメソポタミアなど、 大河沿いの都市では、河川の移動により、都市が埋没する事例を見ることがあります。宋代の開封なども、黄河の移動 で、当時の市街は埋もれてしまい、その上 に現代都市が建設されてしまったので、遺構の発掘は困難となっているようです。


現在(2006/07/17)時点の Goolgle Earthからのクテシフォン映像



更 に近郊を俯瞰する映像
(赤丸部がクテシフォン宮殿遺跡。Sal Man Pakはムハンマドの同僚の墓廟)



セレウキアとクテシフォン遺跡配置

(左上部の正方形の南方がセレウキア遺跡。赤丸部がクテシフォン宮殿遺跡)




セレウキア遺跡

 この記事を最初に記載した2006/07/17当時、上図の左上部の長方形部分がセレウ キアの遺構だと思っていたのですが、2013/11/2に、間違いだったと気づきました。以下左図部分がセレウキア遺跡 (Google Mapから)です。右図は、米国ミシガン大学のKelsey 美術館サイトに掲載されている1928-37年のセレウキア発掘概要の記事に掲載されているセレウキアの図 面。古代では、セレウキアの北部・東部に運河或いはチグリス川水路。上記Kelsey博物館のページの「III. Site and Chronology」の章の「A. The site and its grid」節にリンクのある「See Map」をクリックすると、右下平面図が表示されます)。



 セレウキアは、米ミシガン大学による1928-37年の最初の発掘の後、 1964-89 年にイタリアのトリノ大学による発掘が行なわれています。こちらにそのト リノ大学の詳細な発掘報告が掲載されています。セレウキアの発掘遺物、遺構の写真と解説が掲載されていま す。トリノ大学は、マダーインを構成するもう一つの都市、ヴェーウ・アルダシールの発掘も行なっているようで、ヴェー ウ・アルダシールの発掘報告も掲載されています。セレウキアの北城壁中央付近の丘テル・ウマールの写真が、 こちらのオランダ人の「古典古 代」サイトセ レウキアの記事に掲載されています。セレウキア遺跡の詳細がわかったのはよいのですが、それではきれいな長 方形の地帯は一体なんなのか、こちらへの興味も尽きないのでした。


【4】トリノ大学の発掘調査


  
Web公開されているトリノ大学のクテシフォン(ササン朝時代の名称ヴェーウ・アルダシール)発掘記事に、 発掘箇所の平面プランと写真があります。以下の左側はその平面プラン、右側は、当該部分をGoogle Mapで見たところです。

  トリノ大学の平面プランは、画像が小さく、線が薄すぎて、スケールがわからないのですが、Google Mapでスケールを確認することができます。発掘箇所は、東西南北に走る十字路の北西側と南東側にあり、通りに面した部分は約50m、南東側の発掘場所 は、ほぼ50mの正方形であることがわかります。通りの幅は5-10m程度、南東側区画の宅地部分の区画は、約11個あ るように見え、すると、一つの宅地 の幅は5m程度ということになります。

 上記Webサイトのページの中段に以下の画像があります。これは、北西側の区画です。Webサイトにてこの画像をク リックすると、画面一般の大きなサイズに拡大することができます。
 

 見たところ、邸宅の区画サイズは、東西3m、南北5m程度と見受けられます。サイトの解説によると、ここは職人街で、 通りに面したところは店だった、としています。
 
  南側区画の南50m地点に城壁があります。以下の赤線枠の部分が上記発掘部分で、赤点線で囲ったところが、城壁の遺構だ と思われます。発掘地域の中央を通 る街路は、城壁に平行していることがわかります。また、城壁が直線であることから、ヴェーウ・アルダシールは、円形では なく、円状の多角形だと思われま す。

 とはいえ、ヴェーウ・アルダシールは、一応円形に近いことから、イランのファールス州にあるフィルザーバードや、ダー ラーブギルドの影響を受けているのではないかと思われ、比較してみました。左から、フィルザーバード、ダーラーブギル ド、ヴェーウ・アルダクシールです。

  フィルザーバードやダーラーブギルドは、正確な円形であり、しかもサイズも直径1900mと、ほぼ同一であるのに対し て、ウェーウ・アルダシールは、円形 に近い多角形であり、サイズも直径約2300mとなっていることから、フィルザーバードとダーラーブギルドとは異なった 設計思想で建築されたと考えること もできそうです(右画像の2重の赤丸のうち、外側がヴェーウ・アルダシールの推定外郭、内側の赤丸は、フィルザーバード・ダーラーブギルドのサイズ)。

 発掘箇所が職人街と考えられているのは、そこからガラスや陶器の窯などが出土していることが理由のようです。

 わからないのは、通りに面していない奥の区画で、小路地があるように見えません。この点、町のイメージができないとこ ろがあります。宅地の材料は日干し煉瓦とのことです。
 南北の通りは、城壁に対して直角であること、東西の通りは城壁に対して平行していること、そして城壁が多角形であると 考えられることから、蜘蛛の巣状の街路を形成していた都市であった可能性がありそうです。

 更に発掘では、6世紀よりも後に、ティグリス川の川床の移動が起り、それまでは、ヴェーウ・アルダクシールの町とセレ ウキアの間を流れていたティグリス川が、ヴェーウ・アルダクシールの中央東よりの部分を通過するようになった、と分析し ています。

 トリノ大学の調査分析と仮説から見えてくる光景は、次のような展開です。

 4世紀のユリアヌス帝遠征時、クテシフォンの周囲に王宮があった、という描写はアンミアヌス・マルケリヌスの『歴史』 にはなく、このころは、ヴェーウ・アルダクシールの中に王宮があった。その後6世紀後半頃にティグリス川が東遷し、元の ヴェーウ・アルダアクシールが二分割された。王宮は、現在のホスローのイーワーン宮殿遺跡の残る、町の外に移された。こ のため、7世紀初頭のヘラクレイオスによるクテシフォン侵攻時の様子をセベオスは、「町を取り囲む王宮群」と書いた。

というものです。かなりクテシフォンの町の景観に迫ってきた感じがします。



 最後にもう一つ情報です。以前の記事で、10世紀のハムザ・イスファハーニーの地理事典の英訳PDFに ついて記載しましたが、PDFのp127の注に、ダーラーブギルドは、別名Ustān Furkān またはBahar Asāanvarとも呼ばれ、これは、クテシフォンの街路の名称だった、と記載されています。クテシフォンの街路の名称 がひとつわかり、また町の景観に一 歩近づけた気がしています。

クテシフォンとセレウキアの人口推計については、パルティア・サーサーン朝の人口推計を ご参照ください。

□その他参考資料
エンサイクロペディア イラニカ のクテ シフォンの項目


BACK