パルティア・サーサーン朝の人口推計


 パルティアとサーサーン朝の人口推計を行ってみました。殆ど直接的 な資料がまったくないので、同時代のローマや後世のイスラムの史料や、様々な間接資料を用いて行なう必要があり、大変面倒です。 今回、あまり満足のいく結果を得られたわけではありませんが、現状どのような資料があり、知っておかなくてはならない事項には何 があるのか、などが整理できただけでも一歩前進だと考えています。

 パルティア・サーサーン朝の人口を直接示す史料は、漢王朝や古代ローマと異なり、一部の地域に関するものさえ残っていないた め、その人口を推計することは非常に困難です。そこで、同時代のローマの史料や、後世のイスラーム時代の史料などを駆使して間接 的に推定してゆく必要があります。

 具体的には、以下のような手順で、隣の地域や後世の推定値から間接的に推定します。

(1)基本人口推計
1.地勢・農業生産力的に特殊な地域であるイラクの人口を推計する
 1−1.まず、ササン朝時代のイラクの範囲を確定する(本記事【1】)
 1−2.イスラーム時代初期税収記録から、同時代のイラク人口を推定(本記事【2】)
 1−3.遺跡や航空調査によるパルティア・ササン朝時代の推計人口算出(本記事の【3】【4】
 上記結果を合わせてパルティア・ササン朝時代のイラク人口を推計

2.後期ササン朝とアッバース朝時代の各州毎の税収記録から、州毎の人口比率を想定し、上記1で算出したイラク人口をもとに、各 州の人口を推計し、最後に全州を合算してササン朝の総人口を算出する(本記事【5】)

(2)妥当性検証その1(ローマ帝国の人口推計値から同時代のパルティア人口を推計)
1.古代ローマ全体の人口推計(同時代のパルティア人口を推測するため)(こちらの記事で実施)
2.プトレマイオス地理学を用いて、ローマ帝国の人口から、パルティア人口を推計(本記事【6】)
3.基本推計で算出した値と比較する(本記事【6】)

(3)妥当性検証その2(人口稠密地域かつ大河地帯として特殊環境にあるエジプトとイラクの人口推計)
1.古代ローマ時代のエジプトの人口推計(同じ大河地帯である同時代のパルティア・ササン朝のイラクの人口を推測するため)(こちらの記事で実施)
2.イスラーム時代のエジプトの人口推計(ローマ時代とイスラーム時代のエジプト人口を比較し、その比率を、パルティア・サー サーン時代とイスラム時代のイラクの人口の比率の推定に利用するため)(イスラム時代のエジプトの人口推計記事はこちら
4.イスラーム時代のイラクの人口推計。本記事の【1】【2】
5.ローマ時代とイスラーム時代のエジプトの人口比率を、イスラーム時代のイラクに適用し、パルティア時代の人口を算出する
6.5.の結果を基本推計で算出した値と比較する。本記事の【7】


 以上のような複雑な手順を用いることになりました。昨年から最近まで、古代ローマの人口推計や、エジプトの人口推計を行なって きたのは、パルティア・ササン朝の人口推計の準備として行なった部分があります。


【1】 サワードの領域と定義
【2】 カリフ・ウマル時代のサワードのジズヤの額
【3】 アダムスのフィールド調査
【4】 首都圏(セレウキア・クテシフォン)の人口
【5】 ササン朝とアッバース朝の財政収入割合からの推計
【6】 プトレマイオスの『地理学』に記載された都市数による推定
【7】 エジプト側史料との整合性について
【8】結論
【補 足メモ1】ササン朝時代の税収額の出典
【補 足メモ2】Adamsの研究による、測量による、ティグリス・ユーフラテス地域とディヤ ラ川地域の都市分布の推移




【1】サワードの領 域と定義

 
サーサーン朝の人口推計をするには、中枢部である現イラクの領域の人口の推計が最重要となります。そこで、まず は、中枢地域であり、サーサーン朝で最も税収の高いサワード(イスラム時代の概念)の領域と定義を整理する必要がありま す。何故ならば、サワードという概念でサーサーン朝時代のイラクの税収総額を記録している史料はイスラム時代の史料だからです。

 
11世紀の法学者マーワルディー(974-1058年)の『統治の諸規則』 (邦訳p417-8)にホスロー1世時代のイラクの耕地面積が計算されています。それによると、東はフルワーン、西は、カーディ スィーヤのウザイブ、南はアバダーン、北はモースルのハディーサとなっています。これを地図の上にマップすると以下の地図の青になります。現ハディーサと現モースルは場所が異なっていて、一番北の青が現ハディーサ、ハディーサを平行四辺形の頂点とする、四辺形の右上頂角 の部分がモースルなので、実際には下図のような、長方形の赤枠と平行四辺形を合わせたような領域になります。マーワルディーの記 載は、東西南北の軸が左に傾いていて、赤枠で囲んだ(長方形と平行四辺形を合わせた)部分が、マーワルディーの考えたサワードの 領域だと思われます。更に、サワードの南北の160ファルサフ(当時の距離の単位1ファルサフ約6km(ただし、この図形では、 1ファルサフ3.9kmでないと実際の地形に合わない)のうち、北部35ファルサフ(21.87%)を除いた南部(赤枠の 長方形の部分)が、「イラク」と定義されています。




 この情報から起こしたと思われるがアッ バース朝時代のイラク州の地図が、Wikipedia のサワードの項目にあがっています。この地図では、イラク州=サワードとなっています。下地図の北部サーマッラー は、上地図の赤枠並行四辺形の部分に入っていますから、サワードは、イラク州と同じだということになります。



 下の地図は、イラクの等高線(サイトOrders of Battleの地図「Iraq Naval & Air Bases」から)です。最も色が濃い部分が100m以下、次に濃い部分が 100-200m、薄い部分が200-300m、最も薄緑が300m以上、モースルは標高263m、バグダッドは標高34mにあ り、アッバース朝時代における「イラク」とは、標高200m以下の地 帯に対応していると言えそうです。




 サワードの地域が整理できたところで、サワードの人口推計に移りたいと思います。



【2】  カリフ・ウマル時代のサワードのジズヤの額

 まず、目安となる値として、カリフ・ウマル時代(624-644年)のサワードでのジズヤ(人頭税)徴収額があります。これが 50万ジンミー(ジズヤ対象者:成年男子に課される)となっていて、 成年男子の人数が老人女性子供含めた全人口の1/3だとすると、150万人という数が出てきます。この数字はMichele Campopianoの『State, Land Tax and Agriculture in Iraq from the Arab Conquest to the Crisis of the Abbasid Caliphate (Seventh-Tenth Centuries) 』(PDF)p11からの引用で、それによると、出典は、イブン・フルダーズベやアル・ムカダスィーなど数名の地理学者が言及しているとのこと。

   
【3】  アダムスのフィールド調査

 Robet.McCormick.Adams(1926〜)が1957年に南イラクで実施したフィール ド調査において、ティグリス・ユーフラテス川下流地域の集落と都市面積の調査と推計を行なった調査がありま す。これは以前「パ ルティア・サー サーン朝時代のメソポタミアの都市と農村」 という記事にまとめていて、以下の地図と表はその記事からの引用です。下の青が ティグリス・ユーフラテス川下流域・上の青がディ ヤラ川流域です。彼が調査をしたのは、2大河の下流地域の約半分とディヤラ川流域で す。調査対象である青の地域は、サワードの1/2の面積に相当するとのことで す。 0.1hr(30m四方)という小集落も入っています。洪水の多発する地域であったことから、散村であることは考えにくく、住民はほぼ全て集落に居住して いると 考えられる為、以下の推計人口は、農村部含めた人口だと考えられます(以下の面積はアダムスの推計値です)。4hr(200m四方)以下の都市とは、(一 部には都市的なものもあるかも知れませんが)実質は農村集落です。


ティグリス・ユーフラテス下流域
ディヤラ川流域
都市の面積
パルティア ササン パルティア ササン
200hr以上の都市数
2   1 0 2
40-200hrの都市数
4  11    8 12
20-40hrの都市数
15   22    3
6
10.1-20hrの都市数
34
46
15
31
4.1-10hrの都市数
95   141 38
69
0.1-4hrの都市数
265
376
141
174
合計都市数
415    597 205 294
合計面積
3210hr
3793hr
1857hr
3489hr

 上記アダムス の表中の1ヘクタール(hr)あたりの人口を何人に仮定するかが重要です。 20世紀中頃のイランのテヘラン南30km地点にあるターレババードというイ ラン高原に多く見られる伝統的な村の調査記録が岡 崎正孝著『カナート イランの地下水 路』(論創社)という書籍に出ています(p143-173)。面積は190m x 160mで 3.04hr、上記アダムス表では、もっとも数の多い層に属している規模です。土壁で囲まれ、内部に農家、地主の家、倉庫、浴場、売店があり、調査時点 (1961年)の人口は398人、人口密度は130人/hrとなっています。近代のイラン高原の集落を、時代も地域も異なる古代 イランに適用することにどれほどの意味があるのか、ということではあるものの、現時点では一応の参考値になりそうです。また20 世紀中旬のバグダードは216人/hrとのことですから、セレウキアやクテシフォンなど例外的に規模の大きな都市は、 216人/hrという可能性はありそうです。ここではまずは130/人で計算してみます。

・バビロニアの調査地域41万7000人
・ディヤラ川流域の調査地域24万1400人
・サワード未調査地域(調査地域と同等の人数)=41万7000+24万1400人=65万8400人

合計131万6800人 

となり、【2】で算出した150万人に近い値になります。未調査地域は面積的にはサワードの半分であっても、ユーフラテス川下流 域の沼澤地帯で、パルティア時代には荒廃していた地域なので、実際の人口はこれよりも少ないと考えられます。一方、200hr以 上の都市とは、バビロンとセレウキアのことで、これらの都市の人口密度は130/hrよりも多かったと考えられます。これらの都 市の人口については、次の【4】で検討します。

 なお、パルティア・サーサーン朝時代の人口を推計したコリン・マクエベディーは、世界人口史の出典としてよく利用されている著 書『Atlas of World Population History』(1978年)では、1-7世紀のイラク人口を100万人とし てい ます。本書において、彼は算定根拠について、ラッセルの推計値900万人を、ありえなさそうだ、というだけで却下し、根拠は記載していません。アダムズの 表を、100 人/hrで計算すると、約100万人になりますから、マクエベディーの算出根拠はアダムズの表を100人/hrで計算したという ことなのかも知れません。なお、ラッセルの900万人という数字は、以下【5】で扱う、アッバース朝時代のサワードの高い税収か ら推計したとのことです。

続いて、ササン朝時代の現イラク領域の人口をアダムス表から130人/hrで計算してみます。

・バビロニアの調査地域49万3000人
・ディヤラ川流域45万3500人
サワード未調査地域(調査地域と同等の人数)=94万6500人

合計189万(パルティア時代と比べの44%増加)

となります。【1】の数字150万を大幅に越えていますが、全体としては、パルティア・サーサーン時代の値は150万前後という ことになり、 イスラム時代の人頭税から算出した値に近い値となっています。

参考値として、216人/hrで計算した値も挙げておきます。パルティア時代は220万人、サーサーン朝時代は、318万人とな ります。


【4】 首都圏(セレウキア・クテシフォン)の人口


 パルティア・ササン朝の人口記録は殆どありません。他にもあるかも知れませんが、現時点で私が把握しているのは以下の2で す。

・パルティアの都セレウキアの人口は60万人との記載(『プリニウス博物誌(1986年版)第1巻』p272(6巻-122 節))
・カッシオス・ディオの『ローマの歴史』第79章のセウェ ルス帝の侵攻時、クテシフォンで10万人の捕虜を得たとの記載

更に、参考になりそうな情報として以下のものがあります。

・エウトロピウス『首都創建以来の略史』 8巻、ウェルス・アントニウスのセレウキア占領時(上 智史學57号p183) 「40万の兵士もろとも占領し」との記載

 下画像はGoogleMapから取得したものです。左はイラン・ファールス州のフィルザーバード(シーラーズの真南 80km)、中央 はダーラーブギルド(シーラーズの東南200km、フィルザーバードの真東約196km)、右がセレウキアとクテシフォン周辺画 像です。



 右画像の左下にスケールが表示されていて、セレウキア(上右画像の左下)はおおよそ東西2.5km、南 北2km、500hrです。セレウキアはギリシア人都市なので、都市の人口密度を古代のアレキサンドリア並みと仮定し、 326人/hrとすると、16万3千人となり、とても60万人には届きません。ストラボンの時代(1世紀初頭)には、 ティグリス川東岸に既にクテシフォンが建設され、人口も増加していたとされています。セレウキアは、基本的にギリシア植 民者の都市なので、パルティア時代前半の、バビロンからの移住者は、セレウキアよりも、クテシフォンに向かったかも知れ ません。バビロンは、ストラボンは周囲385スタディオン(約69キロ:ストラボン16巻1章5節)と記載しています が、発掘調査によれば、実際には周囲13キロ程、1000hrほどです(平 面図はこちら)。326人/hrとすれば、32万人になりますから、バビロン市民がクテシフォンに移住して いたとすると、クテシフォンとセレウキアで合計約50万人、首都圏人口60万、と考えることもできるかも知れません。し かし、実際のところは、セレウキアに移住したバビロンの住民もいたとされているため、セレウキアとクテシフォンで60万 というのは無理がありそうです。また、プリニウスは、セレウキアからクテシフォンに移住があった、と記載しています(前傾書 6-122)。しかし、プリニウスの記載する「城壁の伏図は翼を広げたワシの形に似ており」という記載は、実際のセレウキアの町の形に似て おり(北西が頭部、東北と南西が翼部)、かなり正確です。プリニウスの情報は、適当な伝聞ではなく、現地を訪れた人物の情報を元 にしていると も考えることが出来そうで、60万という人口についても確度は高いかも知れません。

 1世紀に入るとセレウキアは衰退し、ヴォロガセス1世がヴォロゲソケルタ(Vologesokerta(ヴォロゲシア ス(Vologesias)とも)を建設したとされていますが、ヴォロゲソケルタとされる遺跡は現在のところでは確認されていないようで す。しかし取り合えずセレウキアに在住していた人口数が、ヴォロゲソケルタに集まり、プリニウスが記載した人口が維持さ れていた可能性はあるかも知れません。ササン朝時代に入ると、初代アルダシール王がヴェーフ・アルダシールを建設しまし た。ヴェーフ・アルダシールは、発掘により貨幣鋳造所の名前と場所が確認されていることから、上記右画像の大きい方の赤 丸が、ヴェーフ・アルダシールの領域と推定されているとのことです(出典:エンサイクロペディア・イラニカ:BEH-ARDAŠĪR)。 この円城の直径は約2.3km、約415hr、326人/hrとした場合、13.5万人の人口となります(イラニカのク テシフォンの記事によれば、ギリシア人は新セレウキアと呼んだとのこと)。この都の建設は、クテシフォンに おけるパルティアの影響を嫌って新都を建設したと考えられ、クテシフォンからの人口の移住を伴っていたと考えられます。インパクトのある人 口移動を伴うとすれば、13.5万という数字は、クテシフォンの規模にとって些細な数とは思われません。過半数を移動さ せたとしても、元のクテシフォン人口は25万を越えない、と考えられはしないでしょうか。カッシウス・ディオの198年 の捕虜10万という記録からすれば、クテシフォンの人口は最大でも35万程度、と考えることもできます。

 なお、7世紀の玄奘三蔵の「大 唐西域記11巻」に「波剌斯國周數萬裏,國大都城號蘇剌薩儻那,周四十余裏。國東境有鶴秣城,內城不廣,外郭周六十 余裏。居人眾,家產富」との記載があり、蘇剌薩儻那(スラスタナ)は、当時現時の人びとが都のクテシフォンを呼んだ呼称びバガス ターナ(「神 の都」)とも考えられるため、唐尺の1里560mで計算すると、40里は22.5kmとなり、ヴェーフ・アルダシールの外周7k余ではまったく届きません が、セレウキアやクティフォンなどを含めた首都圏全域の周囲を40里と称したのかも知れません。周22.5km は、面積にして29,787,000m2=2978hr、人口密度を216人/hrとすると、首都圏人口は約64万3000人と なり、プリニウスの記載した人口に近くなります。

 5世紀中ごろに、ティグリス川の河川が移動し、ティグリス川は、ヴェーフ・アルダシールの中央を貫徹して流れる ようになったと考えられているとのことです(イラニカのク テシフォンの記事)。ヴェーフ・アルダシールの故地には、その後も定住され続けた一 方、ティグリス川東岸に新都Asbānbar(新クテシフォンと称されたとのこと:出典同上)が建設されました。これ が、現在ホスローのイーワンなどの遺跡が残る部分だと考えられているとのことです。


 首都圏における、都造成の変遷を考えれば、新都建設は、自然災害や支配者交代による旧都の放棄だと考えられ、新都 の建設は、新規人口増よりも、首都圏の全体的な人口の維持を結果したのではないかと考えれるわけです。

 遺跡から推計できる各都市の人口や、推定移住人口から推測される各都市の人口からすると、ひとつの都市単独で60万の人口を擁 した と考えることは難しく、首都圏全体で最大60万程度の人口を擁した、と考えるほうが可能性は高そうです。実際、面積から計算して、ありそうな 数値に60万を割り振れば、パルティア時代前期は、セレウキアとバビロンで60万、パルティア時代後期はセレウキアとクテシフォ ンで60万、サーサーン朝時代は、セレウキア(或いはヴォロゲソケルタ)に15万、クテシフォンに20万、ヴェーフ・アルダ シール(或いはAsbānbar)に15万、周囲の郊外に10万、というところなのではないでしょうか。

 仮に首都圏人口が60万として、【3】で算出したサワードの人口推計値に単純加算すると、

 パルティア時代のイラクは192万、サーサーン朝時代で250万人となります。




【5】 ササン朝とアッバース朝の財政収入割合からの推計

 イスラム時代の文献によると、ササン朝の財政の一部が判明しています(ササン朝時代末期の財政収入は以下の通り(出典はペー ター・クリステンセン『The Decline of Iranshahr』(1993年)p38))。一方、同じ領域に関して、アッバース朝 788年の税収やマームーン時代の税収も判明しています。788年の税収は『The Decline of Iranshahr』p40から。マームーン時代の税収は、イブン・ハルドゥーン『歴史序説』邦訳第1巻(岩波文庫)p460-468から。三者を比較す ると、概ね割 合が一致しています。788年の税収は、旧サーサーン朝の領土につい ては、ほぼすべて判明している為、788年やマームーン時代の税収割合を人口比に適用することで、サーサーン朝の総人口を推定してみます。 

---地域-----
ササン朝時代の税収額(ディルハム)
割合
788年の税収額(ディルハム)
割合
マームーン時代の税収(ディルハム)
割合
サワード
214,000,000
52%
119,880,000
52%
95,580,000*1
54.4%
ファールス
57,000,000
14%
27,000,000
12%
27,000,000 15.4%
ジバール
30,000,000
7%
52,600,788
23%
23,800,000*2 13.6%
フーゼスタン
50,000,000
12%
25,000,000
11%
25,000,000*3 14.2%
ケルマーン
60,000.,000
15%
4,500,000
2%
4,200,000 2.4%
合計
411,000,000
100%
228,980,788
100%
175,580,000
100%
 *1 地租8078万と諸税1480万の合計。地租は、『歴史序説』邦訳第1巻p461の注釈によると、イブン・ハルドゥーン が引用している本には8078万とあり、引用本史料ではハールーン・アル・ラシード時代の数値とされていることから、788年の 数値かも知れない、とされています。8078万の方がササン時代や788年の税収額52%に近い値となるので、ここではこちらを 採用しました。しか し、下の表を見ればわかるとおり、それ以外の地についても、かなり多くの数値が一致しているので、『The Decline of Iranshahr』で採用している史料の来源は、『歴史序説』の史料の来源と同じものなのかも知れません。

*2 ジバールは、レイ(現テヘラン)とハマダーンの合計値
*3 『歴史序説』では、フーゼスタンの項目はなく、アフワズの項目があり、その値は2.5万と、他の地域と比べ異常に低い数値 となっている。2500万の誤りだと考えることにし、2500万とした。
 
 以下の左表は『The Decline of Iranshahr』のp40から引用したもの。サワードは全体の42%ですから、【4】で算出した、パルティア時代のサワード人口192万が、全人口の 42%だとす ると、457万人、サーサーン朝のサワード人口250万が全人口の42%だとすると、総人口は595万人ということになります。以下右の表はイブン・ハル ドゥーンの『歴史序説』p460-68から作成したもの。『歴史序説』では、アッバース朝全土の税額が記されていますが、ここで は旧サーサーン朝領土に相当する地域のものだけを採用しました。明らかに『The Decline of Iranshahr』の一覧は、この本で扱っている旧サーサーン朝領土の地域のものだけに絞っていることがわかります。『The Decline of Iranshahr』は、前6世紀から18世紀にわたる長期間を扱っているので、時代によって史料の得られない地域は割愛し、全時代について史料の集まる 地域に絞ったのかも知れません。『歴史序説』に記載された数値の方がより完全に近いものだと思われます。

 右表にも同様の操作をしてみます。すると、パルティア時代は、724万人、サーサーン朝時代は943万人となります。ただし、 パルティア時代前半は、ジャズィーラ地方全土がパルティア領土なので、その分を加えると768万人となります。

788年の税額(『The Decline of Iranshahr』)から マームーン時代の税額(『歴史序説』から)
地域
金額(ディルハム)
割合
サワード
119,880,000 42%
ファールス
27,000,000 9%
ジバール
52,600,000 18%
フーゼスタン
25,000,000 9%
ケルマーン
4,500,000 2%
ホラサーン
28,000,000
10%
アゼルバイジャン
4,700,000
2%
シースタン
4,150,000
1%
タバリスターン
6,000,000
2%
グルガーン
12,000,000
4%
クミス
1,500,000
1%
マクラーン
400,000
0.14%
合計
285,730,788
100%
地域
金額(ディルハム)
割合
人口
サワード
95,580,000 26.5%
250
ファールス 27,000,000 7.5%
70.6
ジバール(レイとハマダーンの合計) 23,800,000 6.31%
62.3
フーゼスタン 25,000,000 6.94%
65.4
ケルマーン
4,200,000 1.17%
11
ホラサーン
28,000,000
7.77%
73.2
アゼルバイジャン
4,000,000
1.11%
10.5
シースタン
4,000,000
1.11%
10.5
タバリスターン
6,300,000
1.75%
16.5
グルガーン
12,000,000
3.33%
31.4
クミス
1,500,000
0.4%
3.9
マクラーン
400,000
0.11%
1.05
カスカル
11,600,000 3.2%
30.3
ティグリス諸区
20,800,000 5.77%
54.4
フルワーン
4,800,000 1.33%
12.6
スィンド周辺
11,500,000 3.2%
30.1
バスラとクーファの間の地域
10,700,000 2.97%
28
マーザンダラーンとライヤーン
4,000,000 1.11%
10.5
シャフラズール
6,000,000 1.66%
15.7
モスルとその周辺
24,000,000 6.66%
62.8
ジャズィーラと周辺のユーフラテス諸区*1
17,000,000 4.72%
44.5
カウジュ
300,000
0.08%
0.8
ジーラーン(ギーラーン)
5,000,000 1.4%
13.1
アルメニア
13,000,000 3.6%
34
合計
360,480,000
100%
943
*1 ジャ ズィーラと周辺のユーフラテス諸区は、前期パルティア時代のみパルティア領で、後期パルティア以降サーサーン朝時代 は、当該領域の半分はローマ帝国領 なので、半分の1700万とした。


図:アッバース朝時代の行政区分(ほぼ『歴史叙述』の地域区分と一致しています。

 以上の計算によると、サーサーン朝の人口は1000万程度、パルティアの場合は、最盛期のローマ帝国推計6130万人の1/8 程度と、非常に低い値となりました。

 以下では、別の角度から検討してみます。



【6】プトレマイオスの 『地理学』に記載された都市数による推定

 「プ トレマイオス『地理学』に記載された町 と地名数の集計値」で集計した数値から概算してみます。帝政ローマについて は、3017箇所の町が掲載されていま す。2世紀の最盛期のローマ人口が約6130万とされていますから、後背地を含めた1町あたりの人口は約2.03万人となります。

(1)イラン

 『The Decline of Iranshahr』p330の註6によると、1860年代の英国外交官は、イランについて500万人と見積もり、19世紀初の外交官ジョン・マルカム は、600万人以上と推定し ているとのことです。プトレマオイスの記す現イラン領内の都市は193ありますので、1都市あたり後背地含めて人口2万とすると、386万人となり、比較 的19世紀の値に近い数値となります。『The Decline of Iranshahr』の趣旨は、イラン高原については、ササン朝から18世紀頃まであまり人口に変化が無かったとするものなので、この論旨に則れば、ササ ン朝末期の現イラン領の人口も約5-600万となります。極端に異なるわけではなさそうです。

(2) バビロニアとディヤラ川流域の都市数

 プトレマイオス『地理学』に見えているゴルゴス川(Gorgos)がディヤラ川(【3】の表参照)だと考えられるので、ディヤ ラ川流域に相当する のは、ゴ マラ、フゥシアナ、エイソネ、スゥラ、カトラカルタ、アッポロニア、テブラ、アッラパ、キンナ、アルテミタ、シッタケの11都市 があり、【3】の表の20hr以上の11都市に一致します。一方、バビロニアの場合は、アダムスの調査は、両河下流の2/3分程 を占 めているので、単純計算でプトレマイオス記載の町の数 の27の2/3、18都市となり、これは、アダムスの調査の20hr以上の都市21に近い数になります。バビロニアもディヤラ川流域も、ともに20hr以 上の 都市の数に、プトレマイオスの記載の数も概ね一致することは、意味がありそうです。

 取り敢えずプトレマイオスに登場する町の数が概ね適用できると仮定して、 「プ トレマイオス『地理学』に記載された町 と地名数の集計値」に登場するペルシア領土の町524から、サワードの町 61(プトレマイオス『地理学』 に登場するバビロニアは、ティグリス・ユーフラテス川下流域に相当し、その町の数は27、ディヤラ川を含むアッシリアの町の数は 34、合計61)を差し引いた、463の町の1町あたりの後背地含めた人口を2万人とすると、926万、これに【4】で算出した サワードの250万を加算すると、1176万人となります。サワードは、他の地域と比べると都市数が極端に少ない(61)のです が、これは首都圏に人口が集中し、郊外都市が首都圏に吸収されているためだと考えられます。ローマ帝国の人口も、帝政時代の自然 増加による6000万人を想定し てプトレマイオス記載の都市数で割ると、平 均2万となるのであって、より実証的なBruce W Frierの4550万という推計値では、平均1.5096万となります。この低い方の数字をパルティア時代の数字と仮定し、463の町に適用すると、 699万となり、これにパルティア時代のサワードの数値192万を加算すると、891万という数字がパルティア時代の人口として 得られます。

 更に言えば、サワードのアダムス推計は除外し、ざっくりプトレマイオスに登場するパルティアの最大領域(=サーサーン朝の領 域)の都市524に、Bruce W Frier推計紀元14年の4550万から算定した、ローマ帝国の一都市とその後背地あたりの人口1.5096を乗ずれば、791万と、【5】で算出した 768万に近くなり、紀元164年のローマ帝国最盛期の推計値6130万から算定した一都市とその後背地あたりの人口2万を乗ず れば、1048万となり、【5】で算出したサーサーン朝時代の943万人に近い値が出てきます。


【7】 エジプト側史料との整合性について

 プトレマイオス『地理学』に登場するエジプトの都市数は163です。一都市とその後背地を1.5万人とすると、244万人、2 万人とすると326万人となり、こちらの「ウマ イヤ朝・アッバース朝時代のエジプトの人口推計」の記事で税収から推計した人口に(イブン・トゥールーン時代 (868-884年)326万人、イフシード朝時代248万人)ほぼ一致します。イブン・ハルドゥーン『歴史序説』に登場する 税収額ではどうでしょうか。『歴史序説』のエジプト税収は192万ディナールです。上記エジプト税収の人頭税比率から算出する と、145万人となります。一方、同192万ディナールを、1ディナール15ディルハムとすると、2880万ディルハム、1ディ ナール20ディルハムとすると、3840ディルハム、これをサワードの税収と人口の比率で換算すると、前者(1ディナール15 ディルハム)で75万人、後者で100万人となります。上記145万人と比べて1.5倍から2倍の差が出てしまいますが、この数 字は、「ウ マイヤ朝・アッバース朝時代のエジプトの人口推計」で記載した、ユスティニアヌス時代の推計人口数90万人に近い数 字となっています。
 
 イブン・トゥールーン時代(868-884年)326万人、イフシード朝時代248万人は、前代と比べ、徴税補足率が高まり、 長期間の治安の安定による人口増などで、ウマイヤ朝やアッバース朝初期の人口数よりも高い点は説明できそうです。なので、この時 代の潜在的なエジプト人口は250-300万程度という認識は妥当なのではないかと思います。

 一方、75万、90万、100万、145万という数字は、イスラーム征服後の初期時代における徴税補足率の低さ(修道院所有の 荘園免税や村民の逃散など)や、600年代初頭のローマ帝国とサーサーン朝の戦乱などによる人口減少(死亡者数増加、出生率低 下、他地域への移住)による、人口低下時の課税把握エジプト人口数に相当する、とも見ることが出来ます。なので、『歴史序説』の 数字192万ディナールから導出された75万、100万という数字を、エジプト課税把握人口低位時代の数値と見ることも可能で す。しかし、それでも75万と145万では倍(1.93倍)違うので、この比率を、逆に【5】で算出したサーサーン朝の人口全体 に適用すれば、サーサーン朝の人口は943万の1.93倍の1820万、という数値が出てきます。この値の妥当性も検証する必要 が出てきます。仮にサワードだけに適用した場合は、250万の1.93倍の482万人、その他のサーサーン朝の領土については、 プトレマ イオスの都市数から導出した値926万を加算すると、1408万人となります。ただし、エジプト人口75万人は、ユスティニアヌス時代の史料の小麦だけの 見積もりで、大麦含めた妥当な値は100万人です。この100万と145万の比率(1.45倍)を、『歴史序説』のサワードとエ ジプトの税収比(9500万と2880万ディルハム=3.3倍)を適用すると、330万人、残余のササン朝領土との合計は 1256万人になります。

 更にまた、1ディナール15ディルハムはとらず、20ディルハムで検討してみます。(1ディナール20ディルハムでの)100 万人と145万人では、1.45倍違 うので、この比率を【5】で算出したサーサーン朝の人口全体に適用すると、943*1.45=1367万人となります。


 【8】結論

 【5】でのパルティア時代768万、サーサーン朝時代943万と、【6】でのパルティア時代891万とサーサーン時代1176 万人は、それほど大きくかけ離れているわけではありません。パルティア・サーサーン朝時代の人口は、概ね1000万人程度、と推 定できそうです。

 【7】で得られた数値を【5】【6】と整合性をつける一つの仮定としては、以下のものがあります。

 【2】のジンミーとは、サーサーン朝の王領地・政府直轄領土の人びとであって、地方領主配下の人口は把握できていない可能性が ある。征服後、200年以上かかって正確な人口把握に到達しているエジプトのことを考えれば、征服直後のウマルの時代に、正確に サワードの人口を全て把握することは難しいと考える方が妥当である。そこで、サワードの人口を倍の300万と仮定する。
 【3】のアダムスの調査における、人口密度を216人/hrとすると、サワード人口は318万人となる。これに【4】の人口 60万を追加して、378万人が、サーサーン朝時代のサワードの人口となる。
 この378万人に、【5】の『歴史序説』の税収割合から推定される人口割合を適用して再計算すると、1425万人となる。この 数字は、プトレマイオス『地理学』の都市数から推定される1176万人を21%(249万人)上回る。この差分を解消する要因と しては、以下の3点が挙げられる。
 1.サーサーン朝治下において新都市が多数建設された(アルダシール1世、シャープール1世、ペーローズ、カワード1世、ホス ロー1世など(タバリーの史書に新設都市の名前が挙がっています))
 2.(仮定)新設都市は、単に旧都市からの人口移住だけに終らず、新設都市分の増加人口があった(121万人分(60都市相当 (249-128(以下3.の数字)=121)
 3.(仮定)サワードの人口増加(128万人分(378-250=128)

 
 以上、更なるフィールド調査資料の登場により推計がより緻密される必要がありますが、ここでは一応、パルティア時代の人口約 800-900万、サーサーン朝時代の人口1400万程度と推定して終わりたいと思います。

 最後に。ササン朝は多民族からなる国家でしたが、そのうち、本来のペルシャ人は何人くらいなのでしょうか?14世紀の『歴史序 説』の著者イブン・ハルドゥーンが気になることを述べています。(以下邦訳岩波文庫第一巻p387-8)。

「ペルシャ人はかつて多数の人口を有し、世界に満ちていた。ペルシャの軍隊がアラブの時代になって絶滅した時でさえ、まだかなり の人口が残っていた。将軍サアド(=ブン=アビー=ワッカース)はクテシフォン以東のペルシャ人を数え、人口13万7000、戸 主3万7000を算定したといわれている。ペルシャ人は、アラブの支配と専制下に入ってのち、わずかのあいだだけ存続したのみ で、かつて存在したことが疑われるぐらい(偉大な民族としての)ペルシャ人は消滅した」

 上記推計では、人口943万人の場合、ファールス州の人口は70万人、1425万人の場合は、107万人となります。アラブに よる征服戦争で14万人程度まで減少してしまった可能性はありますが、14万という数字は寧ろクテシフォン周辺にいた、ダリー語 (王宮の中世ペルシャ語)を話した人びとを示す可能性もあると思います。ダリー語は近代ペルシャ語の祖語で、ファールス州の言葉 と異なり、ホラサーンやバルフの住民の言語と共通している言語とのことです(詳細は、黒柳恒男『ペルシア語の話』)。 14万人というのは、ファールス州に住んでいた、ファールス語を話す人びとでは無い可能性もありそうです。一方で、ファールス語 を話す人びとをアラブ人が14万人まで減少させ、その後に、東部に逃亡していたダリー語を話す人びとが、再びファールス州に定着 した、という可能性もゼロではありません。しかし、ファールス州の住民が激減してしまったのであれば、その空白にアラブ人やアラ ム人、エラム人などが進出した筈です。東部のダリー語を話す人びとが再移住するまでの間、人口空白地帯ではなかったことは、アッ バース朝時代のファールス州の税収額からもわかることなので、「14万」とは、ダリー語を話す人びとであるように思えます。

 



【補 足メモ1】ササン朝時代の税収額の出典

地域
ササン朝時代の税収額(ディルハム)
サワード
214,000,000*1
ファールス
57,000,000*2
ジバール
30,000,000*3
フーゼスタン
50,000,000*4
ケルマーン
60,000.,000*5
合計
411,000,000


出典史料:
*1 サワード:カワード1世時代(488-531年)の恐らく末期の値。サワードについては、イ ブン・フルダーズベ、マスウー ディ、イ ブン・ハウカルは同じ値を記載していて、ibn・Rustehのみ、155万ディルハムと記載している(『The decline of iranshahr』p88の註)。一方同書p38では、イブン・フルダードベが1億5000万ミスカール・ディルハムと記 載し、ミスカールとディルハムの比率7:10を適用すると、2億1400万となる。マスウーディが同じ値を記載し、ibn al-Faqihは1億2300万と記載している。

*2 ファールス:イブン・フルダーズベは4000万ミスカール・ディルハムと記載し、ディルハム換算で5700万となる。 ibn al-Balkhiはホスロー1世時代について3600万ディルハムとし、300万ディナールに匹敵する、としている。

*3ジバール:イブン・フルダーズベは、ジバールの額と記載しているわけではなく、レイ・ハマダーン・二つのマー(マーはメディ ア のこと。ニハーワンドとディーナワール)・ダマーバンド・マサバダーン・Mihridhankadhakとフルワーン)などの名 を挙げている。更に著者(クリステンセン)は、ジバールに、アゼルバイジャン・クミス・タバリスタンを含んでいるとする。

*4フーゼスタン:イブン・フルダーズベ
*5ケルマーン:イブン・フルダーズベ


 各税額は、時代がばらばらであり、税収総額としては、タバリー(こ ちらの記事)に記載されて いる607年の税収総額6億ディルハムという値がある。この年は、ローマに侵攻する以前であり、征服地の税収は含んでいない。すると、上記表の4 億1100 万ディルハムとの差額1億8900ディルハムが、ジャズィーラ地方(シリア東部・トルコ南部のティグリス・ユーフラテス川流域) やモースル周辺、アゼルバイジャン、アルメニア、カスピ海南岸、インド、イエメンなどの税額となる。ちなみに、タバリーの記載で は、ミスカール・ディルハム(銀の重量)で4億2000万とされ、上記表の 合計値に近いので、タバリーは、ミスカール・ディルハムとディルハム(銀貨)を計算違いしたのではないか、という意見が出てきそうだが、 たまたま近い値となっただけだと思われる。

 マーワルディ『統治の諸規則』(邦訳)p419には、ホスロー時代、サワードで「[ミスカールの10分の]七の重さのディルハ ムで2億 7700万ディルハム」、p421には、クバーズ・ファイルーズ(カワード1世)時代にワワードで「ミスカールの重さで1億 5000万ディルハム」の収入があった、としています(ホスロー1世の値は、ミスカール・ディルハムだと、7/10となるので、 1億9390万ディルハムとなる)。


【補 足メモ2】
Adamsの研究による、測量による、ティグリス・ユーフラテス地域とディヤラ川地域の都市分布の推移


 コリン・マクエベディーの著『Atlas of World Population History』では19世紀末1890年にオスマン朝がイラクの人口調査を行なったとしていて、文 章に記述はないものの、グラフでは約250万となっています。この数値と元に、アッバース朝最盛期のイラクの人口を約250 万として いるのかも知れません。この近代の調査の数字が簡単にササン朝時代に適用できない理由は、以下のアダムズの調査にあるよう に、最盛期アッバース朝以降の南イラク及びディヤラ河流域が極度に衰退し、19世紀末イラクの人口居住地域とはまったく異 なってしまっていることに原因があります。一方、イランについては、上記【6】(1)のイランの人口推移で言及したように、 ペーター・クリステンセンは、18世紀まで人口の衰退は無かったと論じていて、イラクと比べれば、古代の人口推計に流用でき そうな数値である点が、大きく異なっています。

(1) ティグリス・ユーフラテス川下流地域の都市と水路の分布地 図

 地図はAdams著p208、220、221、222から引用。 最 南端の大都市バスラを含む地方、ユーフラテス河畔のクーファを含む地方は入っていないが、サー サーン朝崩壊後、一環して衰退している様子がよくわかる。イスラム時代以降の地図の右上に見えている太い線がティグリス川。イスラム時代の衰退は、土壌の 塩化、中期イスラム時代以降の衰退は、ザンジュの乱などの政治的混乱による、水路管理システムの崩壊が原因と見られている。

サーサーン朝時代

初期イスラム時代

中期イスラム時代(10-12世紀)

後期イスラム時代(イル汗国)



(2)ディヤラ川流域図

 地図はAdams著p212、224、226、227から引用。 黒い太い線がティグリス川。中央から薄く、ティグリス川に並行して北上 している線がディヤラ川。初期イスラム時代とサーマッラー時代の地図のティグリス川中央左に記載されている○がバグダッ ド。サーサーン時代 と比べると、イスラム時代からサーマッラー時代は若干集落数が減っているが、バグダッドの巨大さはひときわ目立つ。ディヤラ川流域について は、初期イスラム時代に若干衰退しているが、サーマッラー時代には、サーサーン朝時代並に復興しているような印象を受ける。 しかし、イル汗国 時代には、大きく衰退している。(1)のユーフラテスとティグリス川の間の地域と異なり、初期イスラム時代もサーマッラー時代もあまり衰退していないこと から、ディヤラ川流域の衰退の原因は、土壌の塩化ではなく、政治的混乱による水路管理システムの崩壊などが原因と見られてい る。

サーサーン朝

初期イスラム時代

サーマッラー時代(9世紀)

後期イスラム時代(イル汗国)

 


【補足メモ 3】『歴史叙述』に記載されたサーサーン朝領土以外の地域の税収とアッバース朝の人口推計

 ディナール表示のものは、1ディナール15ディルハムで換算しています。スペインは、アンダルス・ウマイヤ朝のアブドゥル・ラ フマーン3世時代の数字とのことです。ジャズィーラは、サーサーン朝の旧領に分割した残りの半分です。

地域
税収額
ディルハム換算額 ディナール換算額
人口
ジャズィーラ
17,000,000ディルハム
17,000,000
85.6万
キンナスリーン
400,000ディナール
6,000,000

30.2万
ダマスクス
420,000ディナール
6,300,000

31.7万
ヨルダン
96,000ディナール
1,440,000

7.3万
パレスチナ
310,000ディナール
4,650,000

23.4万
エジプト
1,920,000ディナール
28,800,000

145万
バルカ
1,000,000ディルハム
1,000,000 66,666ディナール
5万
イフリーキヤ
13,000,000ディルハム
13,000,000 866,666ディナール
65.5万
イェーメン
370,000ディナール
5,550,000

27.9万
ヒジャース
300,000ディナール
4,500,000

22.6万
スペイン
5,000,000ディナール
75,000,000

377万
合計
1050万ディナール
16,324万ディルハム

822万

 更に、「ウマイヤ朝・アッバース朝時代のエジ プトの人口推計」で税額から算出したエジプトの人口を基準に、他の地域の人口も算出してみました。エジプト人口は、 最盛期の人口450万1/3に減少しています。この比率に則って、古代ローマ最盛期の当該地域の人口を算出してみます(イベリア 半島は、アンダルス・ウマイヤ朝最盛期の人口であり、2世紀のローマの人口に近い数となっていること、更にアッバース朝の領土で はなかったことから除外します)と、1335万人 となります。プトレマイオス『地理学』の北アフリカとシリア・エジプト都市数は約北アフリカ+シリア(約 700)+アラビア半島152(合計約850)となり、一都市あたり後背地含めて2万人とすると1700万人となります。総じて、最盛期には1500万程 度の人口がいたと考 えても良さそうです。この表における人口減少の理由は、恐らく古代ローマ末期に人口減少が見られたこと、イスラーム支配となって から、新政権が補足できていない逃亡農民などの存在にあるものと推測されます。【8】で算出したサーサーン朝の人口がそのまま アッバース朝時代にも存在していると仮定して、1425万人に(イベリア半島を除外した表の合計値)445万人を加算すると、 アッバース朝の総人口は1870万人となります。7世紀初頭のペ ルシア−ローマ戦争による荒廃や、6世紀のユスティニアヌスによる北アフリカ(マグリブ地方:ヴァンダル王国)の荒廃などでの人 口減少から、2世紀頃のローマ時代レベルに人口が回復したとすると、445→1335万くらいとなると、アッバース朝最盛期の人 口は、(イベリア半島の400万を除外し)、1425+1335=2760万くらいとなりそうです。逃亡農民の数を、最盛期から の減少の半分程度と見積もれば、667万人程度が政府の人口 把握から漏れていることになり、1425+445+667万人=2537万人が、概ねこの表の時代の実質的なアッバース朝の人口ということになりそうで す。


主な参考資料

 □マーワルディー『統 治の諸規則』 慶應義塾大学出版会 湯川武訳2006年
 □Michele Campopiano『State, Land Tax and Agriculture in Iraq from the Arab Conquest to the Crisis of the Abbasid Caliphate (Seventh-Tenth Centuries) 』(PDF)(2012年)
 □Heartland of Cities: Surveys of Ancient Settlement and Land Use on the Central Floodplain of the EuphratesRobet.McCormick.Adams Univ of Chicago Pr (1981年)
 □コリン・マクエベディー『Atlas of World Population History』(1978年)
 □岡崎正孝著『カナー ト イランの地下水路』(論創社)
 □「The Decline of Iranshahr: Irrigation and Environments in the History of the Middle East 500 B.C. to A.D. 1500」 ペー ター・クリステンセン Museum Tusculanum (1993年)
 □プトレマイオス『地 理学』中務哲郎訳 東海大学出版会 (1986年)
 □エンサイクロペディア・イラニカ:BEH-ARDAŠĪRの 記事
 □イブン・ハルドゥーン『歴史序説』第1巻(岩波文庫) 森本公誠訳(2001年)

補助資料
 □『プリニウス博物誌(1986年版)第1巻』
 □カッシオス・ディオの『ローマの歴史』
 □「大 唐西域記」
 □クセノポン『アナバシス』岩波文庫
 □イシドロス『パルティアの駅程
 □ストラボン『地誌』下巻(第十六巻第五節)(龍渓書舎)
 □アンミアヌス・マルケリヌス『歴史』
 □エウトロピウス『首都 創建以来の略史


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