ルーマニア歴史映画「三つの封印のついた矛」(ミハイ勇敢公)

  ルーマニア映画「ミハイ勇敢公」の主人 公、ミハイ勇敢公を扱った、別の監督の作品です。1978年ルーマニア制作。原題 「Buzduganul cu trei peceti」。直訳すると「 三つの封印のついた矛」。推測ですが、3つの矛とは、ワラキア、トランシルヴァニア、モルダヴィアの三公国のことで、「封印」とは、「トルコとオーストリ ア、ポーランドに支配されている」という意味だと思います。177分二部構成の大作。「ミハイ勇敢公」も202分だったが、本作 も大作。本作は、1595 年のカレガレニの戦い直後から開始されています。「ミハイ勇敢公」の第二部に相当する部分が描かれていることになります。第一部 でオスマンとの決戦、カレ ガレニの戦い、第二部でトランシルヴァニア侯ジグムント・バートリ、及びアンドラーシュ・バートリとの決戦が描かれているよう に、合戦の場面を大々的に描 いた「ミハイ勇敢公」と異なり、本作では、戦闘場面は殆どなく、政治関係がじっくり描かれている感じです。「ミハイ勇敢公」はひ たすら迫力で押してくる、 ハリウッド大作映画のような感じだとすれば、本作は、全体的に暗いトーンの、ヨーロッパ的歴史映画という感じでしょうか。最初 「ミハイ勇敢公」を見た時、 ここまで正攻法でミハイを描ききった大作が出た以上、ミハイ勇敢公を描く映画は難しいのではないか、と思ったのですが、こういう 描き方もできるのだなあ、 監督によって、多彩な描き方ができるのだなあ、と思いました。



第一部

鐘 の音。兵士の隊列が森を行軍してゆく場面から始まる。その後の経緯から、これは、1595年8月23日の、ミハイ軍とオスマン軍 の決戦カレガルニの戦いが 終わり、兵士が戦場から引き上げ、トランシルヴァニアに引き上げてゆく場面から始まっているようである。次の場面は、欧州各地に 残る、土俗的な(日本でい うナマハゲのような)民俗仮装をつけた村人が葬儀のお祭りを貴族(ヴォイヴォダ)の館の前で行なっている場面。焚き火の回りを踊 り巡り、火の上を飛び越し たりしている。貴族の館では、カレガルニの戦いで戦死したと思われる息子の遺体を前に家族が葬式を行なっている。そこに、敵軍 (オスマンではない。甲冑か らしてキリスト教徒兵士達)が略奪に来る。ミハイが軍を率いて救援に来る。しかし年老いた貴族はミハイに感謝する様子は無い。こ の老貴族の口から、ザモイ スキの名が出ている。恐らくポーランドの宰相ヤン・ザモイスキ(1542−1605年)のことだと思われる。当時ポーランドはモ ルダヴィアに介入していた ので、この話はモルダヴィアの話だと思われる。使者が去った後も、カレガルニの名前が何度もでて、家臣達と今後の製作についての 検討が続くので、ミハイが カレガレニでオスマンを破った波紋は大きかったということなのだろう。

続いてミハイの執務室で家臣と軍議が行われる。下記右がミハイ。左が息子のニコライ。

場面は変わって、1595年9月のモルダヴィア公の宮廷。当時地元出身のIeremia Movilăがモルダヴィア公(在1595年8月-1606年) が公位に就いており、彼はポーランドの宰相カンチェラルニ(Kanclerz)とポーランド元帥ヤン・ザモイスキの後援でモルダヴィア公位に 就いたため、ポーランドの影響下にあった。右がIeremia Movilăと思われる人物。

キャピタン・ペータレという人物が使者としてモラヴィア宮廷を訪問しているが、色よい返事はもらえなかったようだ。この使者は ヴェネツィアの使者のようである。

ミ ハイの部下がミハイにポーランドのカンチェラルニ、ザモイスキーがモルドヴァ公シュテファン(1595年4-8月の短期間即位) を追放し、Ieremia Movilă(モヴィーラ)を公位に就けたことをミハイに報告している。この時のミハイの執務室。下記左手にミハイの机が見えており、右は聖職者だと思 わっる。イコンの描かれた壁画が当時の正教的装飾として印象的。この聖職者は、ハプスブルクがトランシルヴァニアのシギスムン ト・バートリを支援し、ポー ランドのカンチェラルニとザモイスキはモルドヴァを支援している政情が語られる。


ミハイと妻が各国使節を謁見している。

下記中央がヴェネツィアの騎士、左がカンチェラールニとザモイスキの使節。他にブルスキーのキャプテンと呼ばれる人もいる。右の 司祭はミハイの宮廷の人。ここで、ポーランドからの使者とミハイは激論になる。ミハイはプリンチペと各使節から呼ばれている。

場面は代わり、山間部を馬で進んでいた騎士達が地元のゲリラに捕縛される。捕まったのはジグムント・バートリーの関係者らしい。 捕まえたのはハンガリー人のようだ。この右端の人物が誰だかわからないのだが、地元民は彼の話を聞いて、彼に平伏するのだった。

このように、ミハイのワラキア、モヴィーラのモルダビア、バートリーのトランシルヴァニアの様子がまずは描かれる。

ミハイが教会で祈っていると、妻のスタンカがやってくる。銀の枠に覆われたイコンは正教会独特。

ミハイの妻スタンカ。

マ ルコ・チェルチェルや、貴族(ボヤール)ドラゴミール、インペラトール・ルドルフの名があがり、何やら家臣も含めて議論となる。 続く、ミハイの執務室で も、老家臣が剣を折ってミハイに抗議したり、他の若い騎士が十字架を掲げてミハイに跪いたり、よくわからないが、複雑な感じ。下 記机の左がミハイ、右が息 子のニコライ。

 オスマン宮廷。真ん中がメフメト三世。左はアリーと呼ばれている将軍。ルーマニア情勢を検討しているところ。

1595年10月16日、当時オスマン朝の支配下にあったタルゴヴィシュテをワラキア軍が砲撃する。

オスマン側は砲撃に対抗する為に、城壁に人質のルーマニア人を吊るすのだった。

こ れで攻撃は中止することになってしまう。翌日白旗を掲げたミハイの交渉の使者が城門近くまで出向き、オスマン側と交渉する。どう やら、多数の荷車を率いて いることから、食料の供給と交換に捕虜を釈放するよう条件を出したようである。オスマン側は、三台の幌馬車だけをおいて去るよう に使者に告げ、オスマン側 が最初の馬車を城門に入れようとしたところで、幌馬車を砲撃。城門がふさがり、閉められなくなったところで、一気にルーマニア軍 が攻め入り、タルゴヴィ シュテは陥落するのだった。

第一部での戦闘場面はここだけであるが、結構迫力はあった。
下記はルーマニア軍がトゥルゴヴィシュテの城門に殺到し、城に入ってゆくところ。


ミハイの宮廷。左画像の左がミハイ。その右に階段状に座っている人々が家臣。この右手に同様に階段状に座っている家臣がいる。右 画像では、奥と右手に階段状に座っている家臣が見えている。奥の窓も特徴的。この2つの座席がミハイの玉座から向かって右側とな る。

下記では同じように、階段状の貴族席が、玉座の左側にもあることがわかる。

こ の会議では、手紙が読まれる。手紙には、シギスムント・ヴァーサ(当時のポーランド王。スウェーデン王室ヴァーサ家出身)、イン ペリアル・ハプスブルクの ルドルフがプラハに来た。アルバ・ユリア(当時のトランシルヴァニアの宮廷所在地)のシギスムント・バートリーのことなどが語ら れる。

  モルダヴィアの王城が映り、そこにシギスムント・ヴァーサの一帯(恐らくモルダヴィアに常駐している軍団)が、、ミハイ勇敢公側 に立っていたボヤール・ス テキツァを逮捕連行してくる。ステキツァは剣を渡され自害するのだった。モルダヴィアの建築物の外観は殆ど登場しなかったのです が、下記は例外的に登場し た建築物。右はモヴィーラ公。

 このあたりで漸く気づいたのですが、「ロマネシュト」という言葉も頻出しています。最初は、ローマのことだと思っていたのです が、「ルーマニア」の意味で用いられていることに気づきました。

プラハの皇帝ルドルフの宮廷。右が妻。皇帝もプリンチペと呼ばれている。

こんな感じの宮廷ダンスが開催されている。トランシルヴァニア公ジギスムント・バートリーの歓迎会で、バートリーも同席している (彼は皇帝からプリンスと呼ばれている)。この宴会でバートリーは皇帝の従姉妹マリアを紹介されるのだった。

これは楽団。建築物はともかく、ミハイの宮廷と比べると随分豪華。

 ワラキアの教会での礼拝場面。ミハイも、ミハイの妻スタンカ(左)も出席している。

 同じ頃、教会の地下ではミハイの部下が裏切り者から情報を得ようと、拷問を行なっていた。どうやら反逆者をつきとめようとして いるらしく、次にミハイの宮廷場面では、貴族のひとりが連行されていく場面が出てくる。

 オスマン朝の使節がミハイの軍営を訪問したところで第一部終了。この時の使節の口からはじめてアンドレイ・バートリーの名が出 る。

第二部

1596 年から開始。教会の床で眠っている疲れ切った貴族達。ミハイの軍のようである。活気が失せて消耗しきっているような様子。ミハイ 病となり寝込み、息子のニ コライが見舞いに来る。この時ニコライの口から、ハプスブルク家がジェネラル・パスタを差し向けたという話が告げられる。続く行 軍の場面では、寝込んだま まのミハイが荷馬車で仰向けに寝たまま運ばれ、戴冠式に出席する。王冠を被ったスタンカとミハイ。

ハプスブルク家のルドルフ及び教皇クレメントの使者を前に、王座につくミハイ。ミハイは使節の祝辞を受けた後、手短に答辞を述べ た後、さっさと席を外す。そして宮殿内廊下で倒れてしまう。拍子に王冠が廊下に転げ落ちるのだった。

場面は変わってアンドラーシュ(アンドレイ)・バートリーの宮廷。恐らく偉そうな人物はジェネラル・バスタだと思われる。彼らの 面前では、いかにもバロック風なダンスが行われている。

下がカルディナール(枢機卿)・アンドレイ・バートリー。僧侶姿で王座についている。

一 方ミハイルの宮廷にはオスマン朝の役人が常駐するようになる。アンドレイ・バートリーの後ろ盾はハプスブルク、モルダヴィアの後 ろ盾はポーランドというこ とでワラキアはオスマンと手を結んだようである。そんなある日、アンドレイ・バートリーからミハイに使節が来る。恫喝のようなこ とを言ったようで、ミハイ とミハイの家臣が緊張する。激怒したミハイは立ち上がって、使節の胸ぐらを掴んで床に投げつける。使節の護衛が剣を抜くが、ミハ イの部下がすかさず剣を突 きつけ動きを止めるのだった。下記がジェネラル・バスタ。ワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの世俗の登場人物が皆コ サック風装束なのに対して、 ひとめでわかる西欧的な装束。吸血鬼というか、なにか残虐で冷酷な印象を与えるのだった。

こ のバスタとアンドレイ・バートリーに囚われたミハイ側と思われる騎士が、宮殿の中庭で公開火あぶり処刑になる。楽隊が太鼓を打ち 鳴らし、付近の一般住民も 観衆に混じっている。処刑された人物が誰なのか、今回時間がなかったので調べられませんでしたが、そのうち調べたいと思います。 公開処刑の状況からして、 映画だけのエピソードだとは思えないので。

こ のあたりからアンドレイ・バートリー陣営の人物として、コンチェラーレ(カンチェラーレ)という名前か役職の人物が登場するにな る。アンドレイから軍司令 官か何かに任命されたようで、彼は次の場面では拷問をし、最後には刺し殺してしまう。拷問・刺殺されたのはミハイ側の人物だろう か。

ミハイ軍は出兵して軍営を張っている。どうやら、アンドレイ・バートリー攻撃模様。そしてついに戦闘場面となる。
この戦闘は野戦で、ミハイもアンドレイ・バートリーも下記左画像のような櫓の上から戦況を眺めている。右がスペイン風装束で櫓か ら戦闘を見るアンドレイ・バートリー。

戦闘部分は、多数のエキストラを用いた大合戦ではなく、スローモーションを用いるなど、少ないエキストラで効果を出す映像となっ ていた。

教会ではミハイの妻スタンカと民衆・戦闘に参加していない貴族達が勝利を祈っている。

そ して戦闘はミハイ軍の勝利で終わる。剣を掲げ「ビバ!」と歓呼するミハイ軍。戦後、戦死者の葬式が教会で執り行われる。アンドレ イ・バートリーを破り、ミ ハイはトランシルヴァニア公の座を手に入れることになった。公位就任が行われる。ルドルフからの使節である司教が王冠をミハイに 授けようとするが、ミハイ は王冠を手に取るものの、そのまま司教に返してしまう。続いてルドルフの使節が公位就任の挨拶に来る。ミハイは、ジェネラル・バ スタニ、「私はワラキア・ トランシルヴァニアの公であるばかりでなく、全ルーマニア主(ドン・ロマニシュ)である」と主張したようである。

下記はトランシルヴァニア公位就任式に出席している女性達。

戻った使節の話を聞いてジェネラル・バスタは兜を投げつけて激怒するのだった。

ト ランシルヴァニアの議会が開催され、出席するミハイ。トランシルヴァニア議会はワラキアと異なり、長テーブルに10人程の貴族が 座り、残りは壁際の椅子に 腰掛ける形式。ワラキアよりも中央集権が進んでいるのかもしれない。なにげに書記が記録をとっている場面が出てきてリアルっぽ い。

林の大 木に農民と思われる人々を何人も首吊りにして、その遺体を眺めながら酒盛りしている貴族の場面が出てくる。これと同じような場面 が、前回ご紹介した映画 「ミハイ勇敢公」の冒頭で、ミハイの前任者のアレクサンデル公も行なっていたので、当時このようなことが実際に行われていたのか もしれない。教会礼拝中に この報告を受けたミハイは直ちに現場に向い、酔っ払って言い訳をする貴族を殴り倒すのだった。

1600年、トランシルヴァニアのテロップ。

モルダヴィアの城で籠城するモルダビア公国の家臣・碧眼のキャプテン・ペトラのもとにミハイから降伏勧告の使者が来る。キャプテ ン・ペトラは無血開城し、ミハイが入城すうる。ミハイの前に跪くキャプテン・ペトラ。この後、彼はミハイの配下となる。

1600年3月1日とテロップが出る。
ミハイは教会に出向き祈る。

ミハイの部下ヴォイヴォダのミハイルがモルダヴィアの城を責めている時に銃で反撃され死亡する。

1600年6月1日。ミハイの元にモルダヴィアから、支配権を表す指揮棒が送られてくる。モルダヴィア公モヴィーラは逃亡したの だった。こうしてミハイルのモルダヴィア公就任式が行われる。司教からモルダヴィア王冠を授けられるミハイ。

 戴冠式に参加した人々に、司教は十字架を高く掲げる。左となりにいるのがミハイ。

 ミハイは、モルドヴァとトランシルヴァニアの主でありツァール・ルマニスカ(ルーマニア王)と、三公国統合を宣言する。そして 城下を行進し、ミハイは民衆の歓呼を受け、民衆に対しても、三国統合を宣言するのだった。


〜Sfarsit〜

ミ ハイがルーマニアを統一したのは、1600年6月から10月までの短い間だったのですが、本作はこの時期のルーマニア情勢を理解 するひとつの軸にはなりま した。この時期のルーマニア情勢は変転極まりなく、また各地の勢力が割拠していて非常に複雑なので、歴史本を読んでもなかなか頭 に入らないのですが、この 映画はひとつの整理の糸口となった感じです。映画はもちろん、複雑過ぎる状況をわかりやすく整理し過ぎているので、史実をかなり 異なる部分がありますが、 整理して理解する土台となったように思えます。

参考資料
 ミハイ勇敢公
 モルダヴィア公 エレミア・モヴィーラ(在1595-1600、1600-1606年)
 モヴィーラ家の人々
 モルダヴィア公一覧表

IMDbの映画紹介はこちら
ルーマニア歴史映画一覧表はこちら
BACK