石頭城遺跡



紹介


戦国時代,周顕王三十六年(前333年)に楚が越を滅ぼした。この 時楚の威王が金陵邑を今の南京に建設した。同時に、今の 清凉山と呼ばれるところに城を築いた。秦始皇帝二十四年(前223年),楚を滅ぼし、金陵邑を秣陵?とした。三国時 代,孫権は、秣陵を建業と改称、清凉山 に石頭城を建設した。当時、長江は清凉山下流を流れていて、石頭城の軍事的重要性は突出していた。呉では、水軍もっ とも重要な水軍基地とし、以後数百年 間、軍事上の要衝となった。南北朝時代、何度も勝負の帰趨に大きな役割を果たした。

石 頭城は清凉山の 西の天然の障壁をなし、山の周囲に築城したもの。周囲7里(現在の6里)あり 北は大江に接し南は秦淮河に接している。南向きに二つ門があり、東に向かって一つ,南門の西に西門があった。内部に は石頭庫、石頭倉と呼ばれる倉庫があっ た。高所には烽火台があった。呉以降南朝でも重要性は変わらなかった。

 上写真は、扉写真の左方向からの眺め。右上写真は、同じ く、扉写真の 右方向からの眺め。扉写真は、ほぼ真西から撮影したもの。
 下写真は、城壁の拡大写真。上端部分が、明代の磚築部分。六朝時代の城壁部分(真ん中の大きめの煉瓦部分)も、一応日干し 煉瓦を埋め込んだような構造となっている。

磚築となったのは、東晋末と考えられる。東晋時代は、全土、主に城門だけが磚築となり、城壁は版築だった。南斉に至り、各城 で城壁が磚築となったと考えられている。それまでは土墻(版築城壁)と竹籬(竹を編んだ城門)だった。
下記写真も同じく拡大写真。たて2,30cm、横 6,70cm程のブ ロック構造となっている。

左写真は、規模の把握用に、たまたま人が記念撮影してるところを撮影したもの。

唐 武コ八年(625年)以後,石頭城は廃棄された。このため、中唐?人劉禹錫が「石頭城」という詩を作ったりしてい る。五代の924年、石頭城の上に寺院が 作られ、以降寺が集中する寺廟地域となった。


 写真では立派な城砦となっているが、もともとあった山を改造して築城したもので、何もない平原に一から城壁を作っ たものでない点、かなりがっかりさせら れた。


 旅行情報、近隣の史跡・遺跡
   BACK
南京市 は、上海から 4時間程度。 駅の直ぐ南に、城壁北壁があり、東西南北それぞれ5km程度。明代南京城壁についてはこちら
南京には、他に明代朱元璋の陵墓明孝陵がある。城壁東に5km程度の山の中にある。
石頭城付近城壁は、地下鉄漢中門駅下車、北に向かって徒歩5分。
旅 行日記

1