12月29日


5時半起床、6時10分出発。9時10分発の便。6時40分バス乗車。7時25分空港着。
前回と異なり、渋滞とならず、スムーズ。バスは空港前の車寄せに着かず、ビルの端にある市バス駐車場に着く。お陰で移動に時間がかかる。
8時6分チェックイン。待合室でコートの裂けた部分20cm程を縫う。
予定より40分遅れて55分に離陸。
前回酷い目にあった中国南方航空。比較的うまい食事もでて、今回は特に問題なし。遅れてご迷惑をおかけしましたとの機内アナウンスもあった。
11時50分南京着。

 青空を期待していたものの、曇り空。予想したよりも暑くもなく寒くも無い。
ロビーで地図購入6元。12時丁度のリムジンバス。25元。
地図を見ると市街地までかなり距離がある。南京市街まで25km程。
市街が近づくと、前回(2004年1月)訪問した中華門の辺りには、高架路線の電車が出来ていた。
12時55分、漢中門のバス停で下車。徒歩2,3分で明代南京城壁西門、漢中門につく。

      

更に10分歩いて石頭城公園に到達。

 石頭城の城壁は、予想よりも巨大。
中国の遺跡では、まだ数が少ないこともあるが、そもそもローマ遺跡などと比べると、殆ど残っていないこともあって、
これまで遺跡自体にはあまり感動する程のものに出会ったことはなかったのだが、今回はこの巨大さに感動した。

                     

最初の建設は、後漢末期の212年頃らしいが、現存の遺跡は六朝時代のものとのこと。
270年に建設されたローマの城壁とほぼ同年代と考えてよいと思う。
そうして、石造でないので、その部分で見劣りするとはいえ、規模の点から言えば、ローマの城壁に匹敵するサイズ。
しかも版築工法は、結局土なので、技術力という点から、ローマのコンクリートと石造の建築に対して見劣りがしていたのだが、
実際に見てみるともとは土だったのかも知れないが、殆ど石と言えるくらい、コンクリで固めたような硬さ。
これだけ硬ければ、実用上は石造に匹敵する程度の役に立つのかも知れない。というわけで、今回はじめて中国古代の建築物そのもの自体に感動したのでした。

と、ここまで書いてから、詳細を調べてみると、実は清涼山の西部分を城砦として構築したということで、
何もないところに一から建設したわけではないとのこと。かなりがっかり。


15時頃まで石頭城見学。11番バス(2元)で地下鉄鼓楼駅に出て、南京駅(2元)へ。
2004年秋当時は建設中だったが、既に3路線が開通し、深圳よりも便がよい感じ。
深圳の地下鉄は、南京よりも早く開通したのに、南京よりも拡張工事が遅れている感じ。
しかも深圳のような、旧ソ連時代のモスクワの地下鉄を彷彿とさせる巨大なつくりではなく、こじんまりした、日本の地下鉄に近い感じ。
南京駅前で、両替の為、お菓子を買う。一見レーズン蒸しパンのような、白地の三角形に、粒が埋め込まれている食べ物。
しかし白いのは、蒸しパンではなく、ご飯。粒はレーズンではなく、棗だった。わりといけたが、手がべとべとに。
前回改装中だった南京駅は完成していた。南京駅から、10番バスで、下関長途バスターミナル駅に15時半到着。
しかし、合肥行きバスはここからでは出ていないとのこと。
長江を見ることも目的だったので、ターミナル向かいの堤防に登って長江を見る。
しかし、この地点か見る長江は、丁度巨大な中洲がある部分で、狭い支流部分しか見えず、
曇り空の中、川崎や品川辺りで東京湾の運河のようなものが見えるだけ。期待はずれ。
とはいえ、この支流だけでも500m以上の川幅はありそうだし、日本で言えば港湾施設のようなものがあり、日本の川とは大きく違う。

16時05分、10番バスで南京駅近くまで引き返し、中央門バス停で下車。
南京長途汽車站で合肥行きチケット購入。62.5元。合肥まで188km。
17時10分の発車時間までロビーで待ちながら、鞄のショルダーの付け根のほころびを縫う。
このまま裂け続けると、ショルダーが取れてしまい、中の荷物も飛び出してしまうところ。なんか、今回の旅行は繕い物が多い感じ。
お昼を食べていなかったことも思い出し、売店でパンを買う。
合肥行きは予定通り出発。既に薄暗くなってきていて、30分くらいかかって、南京市街を出たあたりで日は暮れてしまう。
長江を渡る南京長江大橋では、辛うじて対岸が見えた。
合肥で向かう高速道路に乗った18時15分以降は、周囲の景色は殆ど見えず、車のライトに極たまに高速沿いの地形が100m程浮かび上がる程度。
恐らく民家が少なく、田畑が広まっていてところどころ、雑木がある、という程度。
時折水面が反射するので、池が多い感じ。
翌日武漢や、三国新城遺跡への道すがら、周囲に展開している景色と、恐らくあまり変わらない景色が展開していたものと思われる。
19時20分合肥着。このバスは長距離バスなのに、水のペットボトルの配布は無かった。

 合肥バスターミナルで地図購入。2元。
客引きにつかまり、70元の招待所。
シャワートイレ付きでまぁまぁだったものの、シャワーお湯が出なかった。
お湯なしでこの額は高い。が、今回は、宿代平均80元(これまでは60元)を予定しているので、まぁ、予算の範囲内。
宿で一休みした後、夕食に出る。取りあえず繁華街を目指して、店を探しながらぶらぶら散歩。
途中公安派出所というネオンがついたビルの前を通過した。この時は、まさか後ほどここに来ることになろうとは、思いも寄らなかったが。
繁華街が近づくと、橋や公園の樹木がライトアップされている。

                                                 

安徽省は最貧省の一つと聞いていたのだが、合肥は経済的にどん底なわけではなさそう。
今日はレストランでもいいと思っていたのだが、商店街に入ったところで、なんとなく客で群れているいつもの場末た定食屋に入ってしまう。
でもここの葱肉丼はよかった。日本でいうところの、スキヤキ汁に玉ねぎと豚肉を入れて煮込んだ感じ。
大量の玉ねぎの中に肉がちらほら、という配分だったが、そもそも丼のサイズが大きいので、そこそこ肉入っている。
値段5元ということを考えると、まぁまぁ。食事しつつ、地図を見て、明日の目的地である三国新城へのバス路線を確認する。

 食事後、合肥のもっとも賑わっている繁華街(歩行者天国)を散歩。新宿通りのような感じ。

                              

ここで驚いたことは2つある。

 一つは、街路がきれいだということ。

というか、日本の繁華街と変わらない。
道行く人も、ちゃんとゴミ箱にゴミを捨てているのを何度も目撃した。たまに清掃員も見かけた。
さすが、胡錦濤のお膝元、という感じ(胡 錦濤は、上海出身だが、原籍は安徽省で、親族はこちらにいる)。
翌日乗った市内バスでは、社内に、マナー向上の為の市政府広報が張ってあった。曰く、公共の場で

・ゴミを捨てると罰金一人あたり50元、集団300元
・痰を吐くと罰金一人あたり50元
・公共物の毀損一人あたり50元(公共物を持ち去り、原料として使う、という傾向がある)
・チラシなどを撒き散らすと、罰金一人あたり50元

とあった。中国でも、やれば出来るのだ、と思う。マナーを知らないだけであって、教え込めば、定着する可能性はあるのだと思う。

2つ目は、若者が垢抜けている点。
化粧や身なりは既に日本と変わらない感じ。ついでに言えば、美女が多かった。
細かく言えば、顔の作りとかではなく、化粧や身出しなみ、服のセンスなどを含めた総合的な点で、目を惹く女性が多かったということだ。
この点は、2007年の正月から現在の間に訪問した8省の省都の中で、合肥だけの特徴という印象がある。
因みに、素材という点では、成都が群を抜いていた。
その辺を少し歩くだけでアイドル歌手のようなクオリティなのに垢抜けない服装で歩いている女性を目にすることが出来た。
成都に美女が多いのは、中国人でも共通の認識のようで、職場の同僚は、「水がいいからだよ」とか言っていた。
合肥の場合は、恐らく素材という観点では、成都に及ばず、寧ろ平均的なのではないかと思うが、化粧やセンスが女性を美しく見せていた。

 一番中心となる繁華街をおおむね端から端まで歩く。1km程だろうか。

                  

この繁華街に面して、李鴻章の故居と、明教寺という、曹操が弓の指導をした練習台遺構の上に築かれた寺があり、ライトアップされていた。
宿に戻る途中、銀行のATMで1000元降ろす。

21時半宿に戻ると、宿の娘が、公安に来てくれという。
先ほど食事に行くときに見た派出所に連れていかれた。外国人については、登記が必要とのこと。
派出所といっても、日本の派出所とは違う。小さいが、5階建てくらいの建物で、分署という方がイメージが近いのではないかと思う。
2階のオフィスで、パソコンを前に係りのおっさんが、私のデータを検索している模様。就労ビザを持っている為か、特に問題なく、さくさく終わった。
聞かれた質問は、「職業の種類」と、合肥にきた理由と、中国に居住している理由だけ。
今はコンピュータネットワークが発達しているので、直ぐ(といっても20分くらいかかった)終わったが、
そんな設備が無い時代は、電話で問い合わせて、深圳の警察とかが手で書類を検索したりして、長くかかったんだろうな、と想像。
宿から派出所まで15分くらいだったので、往復時間含め、最終的に宿に帰ったのは、22時半頃となっていた。
この宿は、設備の上では、70は高いかも、と思っていたが、宿の娘が、いやな顔一つせず、1時間もつきあってくれたことを考えれば、納得できる額。

 宿に戻ったあと、水で髪と足を洗ったが、凍るように冷たい水。かなり応えた。
ドラマ「火の鳥」(日本の手塚治虫のとは違い、普通の現代中国ドラマ)を見て23時45分就寝。



12月30日

 6時30分起床。布団あったかく、凄くよく眠れる。7時出発。
今日の最初の目標は、三国時代の魏の城、三国新城遺跡である。
当時は、長江が魏と呉の国境で、長江北のこのあたりは、魏の最前線だったとのこと。

市バス123番で市府広場に出て、そこから省博物館前の市バスバスターミナルまで1km程歩く。
道すがら中華まん買う。2個くれといったら、と肉まん野菜まんをひとつづつ入れてくれた。嬉しい。
7時40分、博物館前で300番バスに乗る。
少し走ったところで、少し中心部から離れた新興の市街地区を通過したが、なんとなくここでも日本風を感じるところがあった。
正確に言うと、日本風というより、社会主義的ではない、という意味。
社会主義治下で建設された住宅地域は、碁盤の目のようにブロック化された区画に、機能一辺倒の無味乾燥な団地群が多い。
現在の深圳でさえ、この域を出ているとはいえない。
高度経済成長期の西側諸国(香港も含む)でも、こうした機能主義的建築群は多く、日本にも1960、70年代に建設された団地群によく見られるパターンと 言える。
また、深圳や香港はじめ、最近中国で多く見られるようになってきた、多少モダンな設計であっても、
大味、大袈裟、大雑把なつくりで、見た目はいいが味の悪いデコレーションケーキのような手触りがある。
米国建築にも感じるものと似た様な感じ。
しかし、合肥郊外でみた団地は、どこか北欧的で、きめ細かいスマートさがあった。
中国では、多少こじゃれたマンションというと、リゾートマンションのような、ちょっと一般住宅地としては違和感を感じるものが多いのだが、
この合肥の団地には、もっと座りのよい落ち着いた風情というものを感じだのでした。

 さて、バス社内に張ってある路線図を見ると、三国新城は、終点から1つ目、大楊鎮というバス停が丁度中間地点となるようなのだが、
実際には、大場鎮まで30分、大楊鎮を過ぎて10分程度で、三国新城公園バス停に着いた。
突然道路沿いに、縦横1mくらいの青地に白字で書かれた「三国新城公園」という看板が目に飛び込んできた。
看板の写真を帰りに写真を撮ろうと思っていたら、帰りは、丁度バス停近くまできたときバスが来てしまい、駆け込んでしまったので、気付いたら、写真を撮り 忘れてしまっていた。
こういうこともあるので、何事もあとでやろう、などと思っているとロクなことはない。
博物館前から45分くらいで到着。合肥市街北西15km程の地点。

 三国新城遺跡公園バス停はT字路にあり、バスを下りて、バス進行方向へ向かっ て左に延びる道路を歩いて20分くらいのところにある。
道路は一直線で、道路沿い両側に、観光商業用のビルが多数建設中。
一応三国時代の建築物をイメージした同じデザインの3階建てくらいのビルが、延延と道路沿いに建設中だった。
あと1年もすれば、観光街として賑わうことを想定しているのだろう。
周囲の荒地には霜が下りていて、丁度良い冬の寒さ。

 今の時点では、特に観光客もまばらなようで、私の見学中は、他に観光客は見なかった。8時24分に門に到着。入場料25元。
開門時間は8時半とのことだが、入れてくれた。
入り口前の広場に、魏国の武人像が建っていて、ゲートを入ると、当時の宮殿の門をイメージした門が作られていた。

              

 こちらは、復元ではなく、観光用に新規に建設したもの。
このゲートをくぐると、原型はとどめていないものの、周囲2km程の保塁が残っていて、ところどころ場内の遺構も残っている。
保塁は、崩れているものの、正確なデータが無いのでなんともいえないが、高さ10m程度、幅20m程ありそう。
周囲が堀で取り巻かれ、東西南北に門があり、東門が復元されていた。

公園入り口は北に位置し、北門手前から堀に沿って東門に行き、復元された東門の上に上って周囲を見てみる。
周囲は、農地か荒地が広がっていて、住宅は見えない。
郊外の荒地にそのまま新城が1700年間放って置かれた、という感じ。
東門を出て、堀沿いに南門まで行って、そこから城内に入る。

    西門跡 完全に跡だけ
    練兵場跡 (若干こんもりと盛り上がっているだけ)
    墻照壁
    (イ万)制故城
    伏波橋
    車道遺跡
    東側門
    城墻馬面
    兵器鋳造所
    屯兵営遺跡

などがあった。なんの遺跡があるのかわからなかったが、現在整備中区画などがあった。

9時18分まで50分程見学し、300番バスで博物館前まで戻る。
10時18分博物館前着。801バスでバスターミナルまで戻り、武漢までチケット購入。177元。426km程だが、若干高めな感じ。
13時の発車となっていて、このときまだ11時。
時間があるので、市内観光に出る。226バスで包公園へ。
ここは、北宋時代の名官吏包拯(999〜1062)の墓があるところ。
包拯は、日本でいうところの大岡越前や遠山金四郎のような存在で、多数ドラマ化されている。
合肥の清朝時代の城壁は既に撤去されているが、堀は残っていて、ぐるりと旧市街を取り巻いている。
その堀沿い南面の公園内に墓がある。入場料35元。
包拯の夫人や子供の墓もあった。
外形は直径7,8mの古墳で、50m程はなれたところに入り口があり、そこから横穴を伝って、地下にある墓の中心部に至る。
墓の前には、神社の社のような建物があり、明代の建築とのこと。その手前は、30m程の参道となっていて、両側に石人や動物の石造などが並んでいる。

 包公園を出て、10分程歩くと中心部の繁華街に出る。
昨日前を通っただけの明教寺に行く。ここには、晋時代に作られた井戸が残っているとのこと。入場料10元。
井戸というよりも、直径50cmくらいの円形の椅子の残骸、といった印象。
建設年代が刻まれているそうだが、井戸はガラスで密閉されていて、ところどころ結露が発生していたために、
刻まれている文字があることはわかるが、何が書かれているのかまでは判別できなかった。

12時09分。ゆっくりしていたら昼食の時間が無くなってしまった。
慌てて123番のバス停へ出てバスターミナルまで戻る。
昼。駅前のイスラム定食屋で青椒牛肉。本当は青椒牛肉絲のつもりで注文したのだけど、よくみたら「絲」の字が抜けていて、
ただのピーマンと牛肉の炒め物。6元。
あとは間食用にジュースとお菓子を10元分買い込む。
定刻どおり13時出発。

 16時20分、合肥から238km地点を通過。
17時に一度休憩を取っただけで、武漢には20時10分ころ到着。
約430kmを6時間半程度で走った計算になる。平均時速は70km近く。
バスの中になかなか暖房が入らず、ひたすら寒かった。
ついに悪寒が走り出す。17時15分頃になってやっと暖房が入る。
30分もすると体調が戻ってくる。よかった。

 武漢市街に入ってから45分程市内をうろうろした。
よく理解していなかったのだが、ガイドブックによれば、武漢は、武昌、漢陽、漢口という3つの町から出来ているとのこと。
最初にバスが入ったのは、武昌市街で、ここから、長江により隔たれた漢陽に渡り、更に漢江を渡って漢口に到着した、ということだった。
武漢は、中心部に超高層ビルが林立し、色とりどりのネオンに満ちた大都市だった。
少し標高があがったからなのか、合肥と比べるとかなり寒い。
まず地図を購入し、宿を探しに出る。武漢汽車客運総站は既に閉まっていて、2,3の売店が辛うじて開いているだけ。
殆ど人気が無い。
しかし、宿の客引きはいて、60元でお湯もエアコン(エアコン代は+20元)もあるとのことなので案内してもらう。歩いて5分ほど。
そこは、普通の団地の部屋を改造した宿だった。
部屋は4つあり、うち1つが、大家の部屋として利用されていた。
設備は新しく、比較的最近改造したようである。
今回宿泊した宿の中では、ここが一番コストパフォーマンスがよかったのではないかと思う。
この手の安宿では珍しく、名刺を作っていて、渡された。せっかくだから、宣伝しようと思います。

 天梨豪園旅遊公寓住宿部 石雲霞さん  
 漢口火車站西辺天梨豪園U期B煉2単元201室 
 携帯 13018052912
 (発展通り沿い、天梨豪園は武漢バスターミナルの向かい側の団地の名前)

60元の宿としては、特に凄くいい、というわけではありませんが、まぁ内容が保証されているという意味では、間違いは無いと思います。
会社経営のような名刺だったけど、たぶん個人経営なのではないかと思います。

                           
                                           宿のあるアパート

宿で少し休憩した後、夕食を食べに出る。
宿の人に、「あっちの方に店があるよ」と案内されたところは、裏通りの、いつもの安定食屋街。今日は少しまともなレストランにしたかったので、少し捜し歩 くが、全然見つからない。空腹に寒さが応えだし、そのうち、巨大な広場に遭遇する。何かとおもったら、漢口駅前広場だった。500m四方はありそう。だ が、思いのほかひっそりとしていて、まだ9時前なのに、まるで深夜という感じ。広場が広すぎるからか、駅舎近くの広場内に、プレハブで作った商店街があ り、そこでやっと飲食店を見つけた。鳥のカシューナッツ炒め。まぁまぁ。でも店は、通路に面した壁が無い、ふきさらしとなっていて、やはり寒い。食事後、 コーヒーを求めて、駅舎に入っているマクドナルドに退避。30分程暖を取ってやっと一息。宿に帰るまでのエネルギーを蓄える。歩いて10分。22時頃宿に 戻 る。

                           
                                      漢口駅前の官庁らしき建物

宿でガイドブックを広げ武漢に関する情報をチェックしたが、あまり関心のある場所はなさそう。
明日は直ぐに荊州に移動することにする。
今晩、バスが市街を通過しているとき、UnterLindenというドイツ語のネオンが見え、なんとなく、欧州的雰囲気が感じられた。
ガイドブックによると、武漢は、20世紀前半は、ドイツはじめ西欧列強の租界があったとのこと。納得。
地下鉄の整備具合は、またしても深圳と比較してしまうが、既に深圳を上回る施設ぶり。もはや武漢の方が発展しているといえるのかも。


12月31日

6時半起床。7時出発。7時15分の荊州行きに乗れてしまう。朝食の時間なし。48元。
10時45分、沙市中心客運站到着。
駅構内で、「ホテルカリフォルニア」が流れていりしたため、おお、この町は何か雰囲気違う? と、一瞬思ってしまったが、普通の中国の町だった。
荊州は、町の構造は分かりやすいが、行政区分がわかりにくい。
まず、市の名称は、荊州市である。しかし、中心部は、沙市区と荊州区の2つに分かれていて、古代から明代の荊州は、荊州区にあり、沙市は、新興地区となっ ている。
両者の中心地区は、8km程離れているが、市街としては、そのまま連続したひとつの街となっている。
更に、「沙市」は、市ではない筈なのに、「沙市市」などという単語を目にすることもあった。
 
地図を購入し、まずは、荊州博物館へ。
10km程度しか無い筈だが、30分くらいかかる。11時45分博物館着。
途中「薄利電器」という名前の電気機器量販店を見かける。日本語と同じ意味なのだろうか?


博物館は主に4つの建物からなり、メインの建物の1階は、商代以降の青銅器や、近所にある古代楚国の首都紀南城を中心に残る祖国の遺物。
紀南城の復元模型があり、他に、代々の越王から送られた越王の銘文が刻まれている剣などがあった。
2階は、玉器、竹簡、明清時代の器具が展示されていた。

玉器の製造工程が、各ステップ毎に、図と、模型が展示されていた。
各地の代表的な山地についての地図と説明図もあり、参考になる情報が多かった。
しかし、メモを紛失してしまったのが残念。
玉の主な産地としては、新疆省和田(ホータン)、四川省、台湾、河南省南陽、陝西省、ビルマ蜜支那の6箇所があるとのこと。
四川、台湾、陝西については、地区名は紛失したメモに記載してあったので、こちらは別途調べないことには分からない状況。

周囲の有名な遺跡から出土した遺物も多数展示されていた。
石器時代の遺跡として、石家岒(荊州北東100km)、陽河県塔城(北西35km)、熊家冢墓などが有名どころらしい。

続いて、紀南城の敷地内で発見された、前漢初期の男性の墓の比較的小さな展示館。
こちらは、2階建ての2階部分に展示物があり、発見された墓は、168号墓と呼ばれていて、紀南城の南東隅近くの区画で発見されたとのこと。
この後、長沙市の湖南省博物館で、有名な馬王堆墓の女性の遺体を見たが、それと比べても、こちらの墓の男性遺体の方が遥かに原型をとどめているという印 象がある。
ホルマリンづけの遺体が展示されていたが、足の指先まで、ほぼ生前と変わらないような状況。
腐食が目に付くのは、目、鼻、唇だけで、他は、ほぼ皮膚も、その下の筋肉もそのまま保持されているような印象。
デンマークで泥炭層から、2000年前の遺体が多数発見されたとき、地元の警察が、まず変死体として捜索した、との話があったが、
確かに、この168号墓の墓の死体が、古代の墓ではなく、その辺の地面の下から発見されたとしたら、
近年の殺人及び死体遺棄と見られる可能性は高いのではないかと思う。
男性の身長は167.5cmで体重は52kgとのこと。意外に身長は高く、体重からすると痩ているのではないかと思う。もっとも年寄りであれば、妥当な重 さかも。
この展示館には、国内の他の場所で発見されている2000年ほど前の保存状態の良い遺体についての情報が表示されていた。
馬王堆墓の他に、2002年7月に江蘇省(町名紛失)海洲村で発見され西漢時代の少女。
この少女は、遺体は縮んでいて、158cmとのことだったが、生前時の推定身長は165cmでこれも結構高いといえる。
更に新疆の楼蘭などでは、多数の保存状態の良い遺体が発見されているとのこと。

 3つめの館は、その他の楚墓の遺物で、絹織物と漆器の展示がメイン。
168号墓がもっとも多い遺物を出しているが、他に天星墓という墓からの遺物も多数展示されていた。
漆器は、器などの小物ばかりではなく、1mから2mくらいの、床の間などに置く置物が特徴的。
もっともインパクトがあるのは、火の鳥(のように見える)をデザインに取り込んだもの。
スキタイの鹿とか、メソポタミアのグリフォンなど、動物をあしらった地域に特徴的な意匠というものがあるが、
これは、通常イメージする中華の意匠とは異なっていて、明らかに中原の漢民族とは異なった文化を持つ民族というものを喚起させるところがある。
この館の1階には売店があり、色々歴史資料が売られていた。
中でも、「中国重要考古発現」という題名の、2004、2005、2006と各年毎の考古学上の発見をまとめたA4の書籍は、これまで本屋で目にしたこと がなく、非常に有用。
全ページカラーで、40程の、元代までのその年の考古学上の発見について、おのおの4、5ページで紹介されている。
写真が豊富で、これを毎年買っていれば、重要な遺跡の情報を見落とすことは無いだろうと思われる。
荷物になるので、取りあえず2006年度版だけ購入(80元)。2004年と2005年版もそのうち揃える予定。
あとは荊州の観光名所(9割がた史跡)を紹介した小型の写真集を購入(28元)。

4つ目の建物は、古代か中世の歌舞を催す演技場のようなところらしいが、営業をしていなかった。
荊州博物館の敷地内には、これ以外に、唐代の創建とされる、開元観という廟台のようなものがあった。
正面ではなく、建物の裏に説明版があり、年号などの情報が記載されていなかったため、殆どスルーしてしまったので、写真も撮影していないが、一応観光場所 らしい。
しかし、後々ガイドブックを見たところ、修復され、実質明清代建築とのこと。
このようなところが、他に、場外に太暉観、城内に玄妙観と2箇所ある。
玄妙観は見ようと思っていたのだが、間違えて小北門の手前、人民路から城外にでてしまい、
そのまま紀南城方面行きバス停を目指してしまったため、見るのを忘れてしまった。
まぁ、明清代建築は各地に残されているので、見逃してもあまり惜しくない感じ。

 1時を過ぎてしまったので、近くの店で食事。
博物館近く(に限らず)荊州(沙市含む)は、飲食店があまり多くなかった。
夜になってから沙市の繁華街を、レストランを求めてさまよい歩くことになるのだが、
結局分かったことは、外食産業は、まだ屋台が主流だということだった。
沙市中心部(KFCやマクドナルドがあるところ)付近で、膨大な屋台と定食屋の並ぶ通りを見つけたのだが、
これより少し上の、ちゃんとした店構えをもったレストランは、殆ど見かけることもなく、
いくつか見つけた店も、あまり大したメニューは置いていなかった。

 昼食後、明代城壁の観光に出る。荊州博物館は、荊州城の西門を入ったところにある。
荊州区の中心地区は、明代城壁がそのまま残っていて、約東西4km、南北1.5km程の、東西に長い長方形をしている。
周囲を堀が取り巻いていて、このあたりが、南方の城特有の特徴なのだそうだ。
購入した地図や荊州案内ガイドでは、三国時代ゆかりの場所が多数あるとのことだが、遺跡や史跡は無いようである。
荊州は、三国時代、最初、蜀の関羽が守っていて、呉に敗れて、呉国の領有となった場所。
昨日訪問した三国新城が、魏と呉の前線付近とすると、こちらは蜀と呉の最前線付近。
湖北省は、このあたりから西は、山岳地帯となっていくようなので、地形的な境界線についてもなんとなく理解できてくる。

 西門(安瀾門ともいう)を出て、城壁に沿って大北門に向かう。
堀と城壁の間に散歩道が出来ていて、散歩している人とすれ違うが、さすがにジョギングしている人はいなかった。

                           

まだそこまで生活スタイルが欧米化していない、ということだろう。
旅行していて思うのは、太極拳をやっている人はまんべんなくどこでも見かけるのだが、ジョギングとなると、まだまだ場所は限られているような印象がある。
とはいえ、たまたま見かけなかっただけなのかも知れない。20分ほど歩いて大北門到着。
ここは、一番保存状態のよい城門ということで、楼閣の上に上ってみる。
そういえば、西門の付近にも、「集票所」という看板があったので、あちらも登ってみることが出来るのかも知れない。入場料10元。

楼閣は明代建築らしい。
楼閣の中に掲示されてあった来歴によれば、三国時代は土塀の城。
1186年、南宋時代に磚城とされ、1276年、フビライが占領。明代に修築された。現在の、1646年のものとのこと。

楼閣の2階に登れば、そこそこ周囲が見渡せるかな、と思ったが、そんなに高くもなく、近くのビルが見える程度だった。

大北門を出てから、今度は城壁の内側を歩くことにした。
少し歩いたところ、城壁に上る階段があったので、城壁の上を歩く。
すると、正方形に張り出している、兵隊がつめていた営所のようなところがあり、その内部構造を見ることが出来た。
城壁は、外側は、レンガで舗装されているが、内部は土。
ひょっとしたら、内側にはレンガがなかったのか、あるいは近年になって内側のレンガが撤去されたか、
付近の住民に持ち去られたのか、とにかく城壁の内側は、土の斜面になっていて、森林となっていた。
お陰で城壁の上は、森林浴しながらの散歩コースとなっていた。

人民路まで歩いて、そこの城門から紀南城方面行きバス停を目指す。
小北門の北500m程の地点にサークルコーナーがあり、このサークルから更に北200m付近にバス停があり、20番バスが、紀南鎮を通過するらしい。
ところが20番バスはなかなか来ず、998番バスが何本も来るので、試しに運転手に、
先ほど購入した荊州写真集に掲載されている紀南城の場所を示す碑の写真を見せて聞いてみたら、いくとのこと。
だいたい距離は5km程度。歩こうと思えば歩けない距離ではないが、その後紀南城のあたりをうろうろすることを考えると、バスが利用できるところはバスを 利用しておきたい。
10分程走って、宣黄高速公路という高速道路を通り過ぎて500m程の地点、高速道路に入る料金所(安家岔収費所)の手前200m程のところで下ろされ る。
207国道(荊州大道)道路沿いに例の石碑はあった。場所としては非常に分かりやすい。
15:22分頃バス下車。

 紀南城は、前689年から前278年の間の411年間、戦国楚の都が置かれたところ。
当時の名称は、郢(えい)。都城は、ほぼ正方形で、各辺4km程。
当時としては、かなり広大な都城だったようだが、荊州博物館にあった復元模型を見ると、
都城内に田畑や民家をかかえ、基本的に農地を含んだ都市国家領域を全部城壁で囲っていた、ということのよう。
城壁の外側は環濠がめぐらされていた。

 207国道(荊州大道)沿いの石碑は、南側の城壁が、一部更に南に張り出している部分の中間地点にあり、
道路が城壁跡を分断する形で南北に貫かれ、この地点から東西に城壁が広がっている。
石碑があるのは道路の西側。
落書きがしてあり、近くにゴミ捨て場(というかゴミのたまり場)があり、あまり尊重されている場所とは言えないようだ。
城壁は、今となってはただの土の山だが、もともと相当壮大だったようで、土の山というより、ただの丘に見える。
つまりそれくらい大きいということだ。丘の基底部は20m程はあるのではなかろうか。高さは10m程。

 丘の上に上ると、だいたいあたりの地形が見渡せる。
既にここは、農村地帯で、ほぼ一面田畑となっていてるが、住宅地があちこちに見える。
この辺りの住宅は農村だと思われる。水路や通り沿いには、丈の高い並木があり、見通しはあまりいいとは言えない。
取りあえず城壁の上に沿って歩きながら、途中で北に折れ、宮殿(内城)があったと思われるあたりに向かって、畦道を歩く。
恐らく空から見れば明瞭だと思われるが、現代に作られた水路なのか、古代の名残なのか判然としない水路が多数ある。
おそらくは、水路の多くが、古代に施設された水路の名残なのではないかと思われる。
宮殿の内城跡と思われる、東西方向に一直線に伸びる土手も目にする。
また、意味もなく田畑の中に盛り上がっている10m四方、高さ3,4m程の小高い丘も目にする。
恐らくは、まず間違いないと思われるが、これらは、宮殿の土台だったと思われる。内城中心部と思われる部分では、このような丘を多数目にした。
途中道々、牛が村道を横切ったりするのを交わしながら、遂に中心である宮殿と思われる場所に到達。
そこは、現在墓地として利用されているようで、雑草を焼き払ったばかりで、一面黒こげとなっていたが、頂の部分に役所の石碑が建てられていた。
周囲の景色を見回しつつ、高校生のときに読んだ十八史略物語に登場した荘王がいた場所かと思うと、少し感動。

 宮殿中心部と思われる場所から、村道を真東に向かうと、国道207号に出る。
丁度、国道の東側に中国石油のガソリンスタンドがあり、近くには、西安飯店という店もあった。
これらが、宮殿中心部を目指す場合の目印になるかも知れないが、実は両者とも、閉店している風情であり、そのうち取り壊されてしまうかも知れない。
このあたりで16時50分頃。日暮れまではまだ時間があるので、続いて、郢城遺跡を目指す。
郢城遺跡は、前278年に、秦の白起将軍が、現紀南城である郢城を攻略した後、元の郢城の東南 3km付近に作られた新しい都城である。
楚は、何度か遷都しているが、それら都城の殆どを郢と名付けたとのことで、この新しい都も、古い都と同様に、郢という名称だったとのこと。
しかし、現在郢城遺跡といえば、こちらの遺跡を指す模様。付近には、郢城村がある。
取りあえずバスでサークルコーナーのバス停まで戻る。

 この郢城村付近は、地図でも詳しく記載されていない。地図によれば、
郢城村とは、郢城二(阝人)、郢城三(阝人)、、郢城四(阝人)、郢城五(阝人)、郭家台の五つの集落の集まりを指すらしく、
問題は、この村の付近の道路が、地図にはまったく記入されていないという点にある。
仕方がないので、バス停から東北東方面にある郢城村に向かって適当に歩き出す。
最初は住宅街だったのだが、そのうち田畑が増えだし、やがて畦道となる。
そのうち畦道もなくなり、田の区画を区切る土手を歩く。
すると、予想通り、不自然に高い土手が見えてくる。
17時35分、郢城城壁到着。
土手は、どうやら、西側城壁に相当するようで、幅10m程度、高さ4、5mというところ。
紀南城よりはふた周りくらい小さい感じ。昨日訪問した三国新城くらいのスケールだろうか。
地図を見る限り、1辺約1.5kmの正方形をしている。2〜300m程南側が、西南部のコーナーとなっていて、土手はそこから東へ直角に曲がっている。
土手沿いに東へ向かって300m程歩くと、村道に出た。
18時02分。ここから、300m程南に向かい、東西に伸びる道路とぶつかる。
ここを更に東に300mくらい行くと、列車の荊州駅へ向かうバス通りに出た。
バス通りとはいえ、幅5m程の狭い田舎道で、車通りは殆どなく、バスは結局1台も来なかった。
この辺りでほぼ真っ暗になる。街灯も殆どなく、若干方角が分からなくなってくる。
1km程南に歩いた地点で、丁度タクシーが通りがかったので、乗ってしまう。大分足に来ていた。

 タクシーで荊州城内にある、荊州車站へ。
このあたりの宿を取ろうと思ったのだが、周囲に宿は散見されるものの、飲食店がまったく無く、人もまばらなところだった。
バスターミナルはもうほぼ終了状態で、明日朝の長沙行きバス切符を買おうとしたら、窓口の人に、沙市のバスターミナルで買うように言われる。
明日朝移動するのは面倒なので、結局今日到着した時の沙市中心客運站付近で宿泊することにする。
バスで沙市中心客運站まで戻る。

 今日は地方都市ということで、招待所ではなく、賓館クラスでもそこそこのところがあるのではないか、
と期待して、80元を価格表に提示している賓館にしたのだが、80元はもう満室で、95元の部屋にしたところ、あまりよい設備とは言えなかった。
部屋は広いし、一通りのものはそろっているのだが、宿の階段はゴミが散らかり酷い有様。
これなら最近オープンした招待所の方がよほどまし。
やはり賓館と言えど、公営(かどうかわからないが)的なものは駄目なんだと認識した次第。
エレベータすらなかった。19時50分部屋に入る。

 今日気が着いたら、ズボンの股のところがこすれて10cm程破れてしまっていた。
部屋に入ってまずは繕いものをした後、夕食に出る。が、なかなか食事をする場所が見つからなかったのは、先に記載したとおり。
しかし最終的には、安い定食屋だが、旨い青椒牛肉絲にありつくことが出来た。
大晦日なので、景気良く行きたかったのだが、まぁいいか。
街の一番の中心と思われる、マクドナルドのある辺りでは、街頭コンサート&イベントが催されていた。が、これも一晩中という感じではなく、
食事をして戻る時には、もう撤収という雰囲気だった。
22時宿に戻り、新年カウントダウンをやっている歌謡番組を見つつ、新年を迎えた時点で就寝。

BACK