紀南城



下図面の宮殿西南角近くの外壁角部分。写真右手土手が北に向かっていて、写真中ほどから西に折れ、写真左端に向けて続いている。
丁度雑草を焼いた為、ところどころ黒々としている。



紹介


 戦国楚の都城郢の遺跡。楚は、何度か遷都しているが、それ ら都城の殆どを郢と名付けたとのことで、現在紀南城と呼ばれるこの城は、前689年から前278年の間の411年間、戦国楚の都が置かれたところ。東西 4.5km、南北3.6kmあり、ほぼ正方形をしている。

下図は、付近の地図。地図の中の一番し下の、横に細長い長方形が、現在の荊州城。その右上が、前278年に移転された郢城。郢城右手数百メートルに、列車 の駅がある。地図中の中心の大きなピンクの区画が紀南城。

右の図は、紀南城の概要図。右下段の石碑写真は、紀南城の紹介写真でよく利用されるもの。写真だとよくわからないが落書きなどがされ、付近はごみの吹き溜 まりとなっている。右図の真ん中下あたりの国道207号沿いの道路の西側にこの石碑が立っている。石碑の背後の盛り上がりは、城壁の跡。上記扉写真の城壁 は、右の図における、宮殿区域の西南角に近い外壁の角の部分。高さ10m程、上部の幅10m程、基部の幅は30m程あるのではないかと思われる。
 殆ど崩れてしまっていて、大きめの土手となっているが、往時の巨大城壁をイメージすることが出来る。

 紀南城は、荊州城の北5km付近にあり、周 囲は農地、水路、農家となっている。
 下写真は、扉写真の左端付近から、扉写真を撮影した地点を撮ったもの。下写真中、右手に走る黒い土手が、南に張り出した外壁部分の西城壁に相当する。



 この土手は、幅10m程あるが、周囲の畑や池からは、5m以上の高さがある。


 紀南城は、当時としては、かなり広大な都城だったようだが、荊州博物館にあった復元模型を見ると、都城内に田畑や民家をかかえ、基本的に農地を含んだ都 市国家領域を全部城壁で囲っていた、ということのよう。城壁の外側は環濠がめぐらされていた。

 ちなみに、紀南城という名称は、紀山の南にあるという意味で、後代名付けられた名称とのこと。

 左写真のような、不自然な程一 直線の畦道があった。これは、宮殿区画の南城壁のあたりにあった畦道の土手。ひょっとしたら、本当に宮殿城壁跡かも知れない。

 右写真は、宮殿南壁と思われる畦道を越えてから、しばし目につくようになった土手。斜面が畑として利用されているが、当時の宮殿の土台なのではないかと 思われる。このような基壇跡が、全部で84箇所あるとのこと。

 下3枚の写真は、中心となる宮殿の基壇と推測される。現在墓として利用されているが、頂上付近に、右下のような「紀南城遺跡」と書かれた案内版が立てら れていた。
 左下写真は、案内板から南を眺めたところ。写真ではわかりづらいが、右写真のような基壇が2,3、道路の向こうに見えている。色が黒いのは、雑草を焼い たことによる黒こげ。


旅行情報、近隣の史跡・遺跡
 左写真は、宮殿遺跡付近の俯瞰写真。右手畑の先に見えている薄っすら と黒いところが、上記宮殿跡。
 この写真は、真西に向かって撮影している。道路を東に向かって1km程進むと、国道207号に出る。国道に出た所には、中国石油と、西安飯店という店が あったので、これらが目印になるのではないかと思われる。

 紀南城へは、20番と998番バスを利用する。荊州城の小北門をでて500m程北上すると、ロータリーがある。ロータリーを通過して更に北に200m程 の地点にバス停がある。そこから4km程で、紀南城の石碑に出る。

近くには、紀南城が前278年、秦の白起将軍に征服された後で遷都した、郢城遺跡、明清代荊州城がある。

こちらの戦 国楚簡研究会のページに、紀南城の正 確な城郭図面があります。
 旅行 日 記

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