南陽市の漢代及び漢代以前の遺跡情報と南陽市東漢博物館と漢代画像館

(一部製作中)

武侯祠内にある東漢博物館

漢代城門(博物館内のパネル。場所不明)

漢代遺跡(確か馬武の墓博物館内のパネル。場所不明)

前後漢の南陽郡と蜀郡の人口と戸数グラフ


 

左から前漢南陽戸数  359,316  人口1,942,551

前漢蜀郡戸数           263,274  人口1,245,929

後漢南陽郡戸数        528,551  人口2,439,618

後漢蜀郡戸数           300,425 人口1,350,478

南陽郡古代水利体系
 

南陽市遺跡見取り図

南陽郡代々太守は、水利事業を行い、治水の安定に尽力した人物が多いとのこと。

上左、上中央写真は、南陽郡にある漢代遺跡とのこと。武侯祠内にある東漢博物館内にパネル展示されていたが、遺跡の場所の記載はなかった(2009年7月)。右写真は南陽市と近郊遺跡。左下のオレンジ色の部分が老城で、漢代代の南陽城だと思われる。その外周にある城壁が清代の南陽城だと思われる(写真の文字がぶれていて判読できない)。右上に、北壁と東壁を持つ城壁は、漢代の、宛城。城壁遺跡が残っているらしい。

  

 右上写真は前後漢代の蜀郡と南陽郡を比較したもの。前後漢代いづれも南陽が上回っているが、特に後漢代の発展が目覚しい。何故蜀と比較しているのかは不明。

南陽漢代史と遺跡概要

  南陽市は旧石器時代から人類が居住していた。夏、商、周时代jの南陽は豫州に属し、吕、申、 谢、鄧、唐等の侯国の支配下に入った。春秋戦国時代は楚国に属した。秦代南陽市がおかれ漢は秦の制度を継承し、南陽郡を設置し郡治を宛に置き、三十六県を管轄した。後漢時代(皇帝家劉氏出身地という)政治地位を得て経済、文化の大都会となった。
    戦国時代の南陽は治铁業で非常に有名で「荀子.議兵」にて「その優れた鉄工具を激賞している。秦は人を移住させ、南陽経済の発展と対外交流を促進した。宛の孔氏は冶鋳と商業経営双方で繁栄した。「史記. 貨殖列伝」では「宛の孔氏の先祖は梁人である。孔氏が南陽に移住し,数千金の富を蓄え、南陽の商業は悉く孔氏に従う」と記載している。 南陽郡治である宛は全国五大都市の一つとなった。前漢中期に、各地の鉄を産する郡国は鉄官を設置し、官営で鉄の生産を行った。南陽にも49の鉄官のうちのひとつが置かれた。同時全国に工官が設置された九つの地区の一つとなった。手工業と冶鉄業の利益で、南陽は水利工程を整備し運河(渠)と池と防波堤をつくり、改修し、農業の大幅な発展を見た。「塩鉄論. 力耕篇」では、「宛、周、齐、鲁,商売は天下に遍く広まっていた」と記載している。この地で漢代画像石墓が非常に流行したのも、当時の社会の富貴と生産力の発展に起因している。

 政治的要素も特定時期の文化的発展に寄与している。前漢時期、南陽には20名以上の王侯が封じられ、その中には霍去病、張騫、王莽が、後漢時代には光武帝とその配下28名の武将が宛県、湖陽、冠軍、新野一带から出た。劉秀の公主のうち7名が南陽に封じられ、25名が侯王として封じられている。その他皇族出身者や功臣、名将を輩出している。豪族は政治上の特権を有し、経済的な勢力を持ち、南陽の文化繁栄の重要な意義を持った。


    南陽の漢代文化の繁荣は史籍中に見られるだけではなく、文物考古資料中にも実証されている。「漢書.食貨志」記載では、漢武帝は新しく南方17郡をつくり, その財貨と鉄器など物品は南陽近郊と漢中の鉄官が調達した。文物考古研究方面では“陽二”という銘文の入った鉄工具が東南豫章郡(現在の江西清江)、右扶風(現在の陕西永春)などから発見されている。当時の南陽の手工業、商業、農業の発展をうかがい知ることができる。人文分野では法律学家の張釈之、大文学家・科学家 張衡、医聖張仲景、漢王朝重臣左雄、朱穆などが南陽文化の精髄を体現している。南陽境内には多数の漢代城址、水利遺跡があり、大量的の漢代画像石墓、画像磚墓なども漢代文化の昌盛を現している。豊富な的漢代遺物が南陽境内に大量に存在している。

南陽漢代遺跡

(1)宛城

 宛城遺跡は城垣や高台建筑遺構が残る省級文物保護单位,「荆州記」には南陽の郡城は周三十六里とあり、「水経注」には、 宛城の東に水路が南に向かっていて,その城はかつて申伯の都だった、という。大城西南の隅は古宛城である。現存の古宛城は2箇所ある。1つは東北角の一部分(右上写真の右上部分),南陽市城区東北の隅の防爆電気研究所の附近。高さは 5-7m,北壁は800m、高さ4-6m。東壁は600m、高さ5-7m。護城河道は約1800mに達し幅は50-80m・深さは6m。城壁は版築である。断崖となっている箇所があり、明確にこれを見て取ることができる。 城壁は土を踏み固めて建設しているが、層を成し、層の中に大量の漢代陶片が含まれている。2箇所目の城壁は、南陽市口の琉璃橋に到る北側で、現在の護城河が白河に入るところにあるが、こちらの遺跡は地上に明確に出てはいない。地下断層に遺跡の城垣を見ることができる(護城河遺跡)。こちらも土を踏み固めて作っており、漢代の陶片と磚瓦が大量に含まれている。

   高台建筑遺跡としては2箇所が残っている。ひとつは現在「明遠頂」と呼ばれ、老城の東北隅にある,元来は高くて大きな建筑だったので人は“明山”と称した。現存の台基は南北46m,東西44m,残っている部分の高さ9m,平らに土をつき固めて作られている。台基上部には大量の漢代の磚瓦と陶片が露出しており、ここは宫殿の基壇だったと思われる。もうひとつは、現在「望仙台」と呼ばれており、南陽市人民公園内にある。台基は平らに土をつき固めて作られていて、東西80m,南北 70m,残っている部分の高さ9米。地表に、ここでも大量の漢代の磚瓦と陶片が露出しており、大型建筑基壇だったと思われる。他に,城区内に漢代の灰坑遺跡が散在し、冶鉄遺跡、古井戸、陶井圈、地下水管道、漢の磚、漢の瓦、陶瓷陶片など、多くの漢代文化遺物がある。

   宛城は2重の城壁を持ち、外城は郡城に相当し“廓城”とも称された。城周18000m,生産区、生活区、工商貿易区をなした。内城は小城で、大城の西南隅に位置し、封建官吏の宫殿区だった。

 なお、近年西北角と西部城墙の基壇の一部が見つかっている。また、古宛城の北、現在の南陽市瓦房庄の漢代冶铁遺跡があり、東西 600m,南北200m。遺跡は1959 年の発掘で、17個の溶鉱炉の基盤と4つの窑跡が見つかっている。炉膛内では300kgの鉄塊、300以上の陶範の塊と鉗鍋、鼓風管などが残っている。鍛制鉄器有刀、鎌、斧、錘、、鏃锨、矛、環なども出土している。冶鋳技術はかなり高度な水準に達していたと思われる。1991年には陶器を製作した作坊区が発掘され,大量の実用的な陶器と 冥用器物が出土している。

(2)龍城遺跡

   龍城遺跡は淅川県香花鎮宋崗電灌站の西北3.5kmの丹江口水庫(左上水利地図写真中の南西部分の湖)の中にある。城址の場所は丹江東岸から丹江を西へ2800mの地点にあり、現在は水底130mのところに埋没している。故城は東西800m,南北900m,城垣の幅は約8m,土をつき固めており、一段7-10センチの層を成している。円形の突き幅は直径8から10センチ。層の中からは春秋時代の陶罐、陶盆の残片や漢代板瓦片、紋飾磚などの遺物が見られる。明代嘉靖時代の「南陽府志·古跡」によると“龍城は県東南順陽保にあり,周囲四里,元世祖が即位前にここに駐留し、龍を見た」、とされることからついた名称である。考証によると、龍城は丹陽で、楚国の初期の早期国都丹陽である。

(3) 冠軍故城

   冠軍故城は鄧州市張村鎮上营村境内にある。城址は南北500m,東西400m。漢代霍去病の封地。「漢書·地理志」の応劭の注釈に“武帝は霍去病を封じ去病は匈奴へ出陣し諸軍に功績を残させたこれゆえに冠軍と呼ばれるようになった”とある。このほか,ここには霍去病の衣冠墓がある。城内の地表には大量の漢代磚、瓦,石華表などが出土している。、“関中侯”の金印や壶など漢代铜器も出土している。

   (4)光武故城

   光武故城は桐柏県毛集鎮毛集の北4千mの回龍公路の西侧にあり、前漢晚期から後漢時代の古城。その地の北は平地,東西両面は小河に近く,城址は2つの河が交差しているところにある。現在も城垣は良く残り、南北900m,東西600m、高さ2から3m。劉秀が起兵した時ここに駐屯したとされる。ひとつの銅器が出土し、“宜侯王”の三字が刻まれていた。その他大量銅、鉄、陶器制品と漢磚、瓦当などが出土している。

(5)白羽遺跡

   白羽城遺跡は西峡県の東北1千mの蓮花寺崗の上にある。 城址の輪郭は方形に近く,城の基壇の保存状況は比較的良好、一部は西北角と東北角にあり、東と南に面している。東城の城壁は長さ約700m,南城の城壁は約500m,西城壁は約750m,北城壁は約400m。城址の東西両面は崖に面している,南北両端は壕の遺跡がある。西北隅に城墙が一段残存している。城墙は土層が固められたことが明白で,各層は約8センチ,東西南の三面は城門遺構が見られる。城址内には大量的磚瓦碎片がある(漢代のものが主)。その他戦国時代の銅剣、銅鏃、銅戈、銅矛、陶瓷、陶井圈などが発掘されている。1956年,遺跡内に2つの墓葬も発見された。ひとつは戦国時代のもの、ひとつは漢代のもの。遺物から判断すると、白羽城遺跡の上限は春秋戦国であり、下限は漢代となる。

   文献の記載では,白羽城は春秋時代は楚国の建設で,南朝宋に荒廃した。「春秋左伝」昭公十八年(前524年)“楚子使王子勝を許于析に移した、それは白羽である"と記されているとのこと。白羽城遺跡の保存は比較的良く,楚文化の研究に重要は価値を持っている。遺跡は河南省重点文物保護单位。


  (6)漢桑城——世界最小的城

  漢代桑城は新野県漢代桑路南側の漢桑城小学院内にある。城の周囲は11m,高さ4m,直径3.5m。城門には石碑が象嵌されている。城中に一株の直径1m余の古桑樹があり,全世界最小の城と言える。伝説ではこの樹は三国時代の名将関羽が植えたもので、既に1800余年の歴史を持つ。古きを愛する人たちはこれを愛し、樹の周囲を磚垣で囲み、城のように塀の突き出た部分があることから、“漢桑城”の名がついとされる。後、兵火で壊れたが1933年県長 吴 純仁が再建した。東側に石碑がひとつはめられ,漢桑城の来歴を記している。現在では桑樹の幹は既に枯れているが、根の部分に幼桑が1株生えている。(こちらのサイトに写真があります

 

   (7)博望故城

   博望故城は前漢の博望侯張騫の封地である。方城県博望鎮にあり、東西1300m,南北400m,城中に一条の東北、西南に走る街道がある。3つの小河が北から南へ向かい、東、中、西の3箇所で城の外に出ている。漢代の磚瓦、陶片、井圈、水管道と銅器、鉄器などが出土している。「明嘉靖南陽府志」によると“博望故城は南陽県の東北六十里にある”、「大清一統志」によると“博望,漢県,武帝元朔六年(前123年)張騫を南陽郡に属する侯国に封じ,後漢もこれにならい、晋代は南陽国に属した。南朝宋永初後廃絶された。”とある。

(8)張衡墓

 河南省南陽市南陽県北25Kmの石橋鎮にある。張衡死後南陽の郷里に葬られた。墓塚は高さ8m,周囲79m;墓塚の周囲には磚砌の通道と園壁が取り巻いている。現在は陵園となっていて、総面積は5000平方m超。園内には翠柏林があり,墓前に三通の石碑が建っている。その中の一つは光绪八年(1882年)に、明代嘉靖四十年(1561年)記載の“漢征尚書張公平子墓碑の修復”と記載されている。碑文の主要内容は張衡の品德と学術上の業績について記載している。ここから張衡墓と同定された(こちらのサイトに写真があります。この記事も、こちらのサイトから引用しました。張衡その人についてはWikiの記事をご参照ください

 (9)新都城遺跡

   新都城遺跡は新野県東南45里にあり、各700mの正方形をなし、城の西北部に墓葬区がある。城の南で鉄器が出土している。雲母片などの遺物もあり、作坊区だと考えられている。城垣内外に漢代遺跡が非常に多く、農耕中に見られる下水道管、排水構房基、水井、石磨、銅鏡、王莽時代の貨幣、板瓦 、筒瓦、瓦当等。比較的保存の良い漢代文化遺物が豊富にある漢代城遺跡である。「後漢書.郡国志」、「漢書」地理志や王莽伝、「明嘉靖南陽府志校注」等に言及がある。新都城は王莽が新都侯に封じられた時の城邑。現在省級文物保護单位。

(10)南陽漢代冶铁遺跡

    1、南陽市瓦房庄冶鉄遺跡

 南陽市北関瓦房庄西北と東南に冶銅遺跡が連なっている。東北は比較的陶器を作成した作坊区で、,東西600m,南北200m、面積は28000平方m、1959年発掘時3000平方mが発掘されており, 1954年,1959-1960年に調査された。遺跡は四層に分類され,耕土層、獲土層、第一層(漢代層)、第二層(西周層)、漢代は、さらに前漢層と後漢層に分けられる。遺跡には大量の縄紋筒瓦片、耐火磚、磨石、烧结鉄塊、鉄渣などの遺物が散在している。出土遺物は熔炉基址17基,窑址4 基。炉膛内では鉄塊が300kg以上、また大量の炉渣、木炭屑、陶範300~400塊、坩鍋、鼓風管の残骸、鼓風嘴、鍛制鉄器では刀、鐮、斧、錘、鑿、鍁、矛、馬銜、鉤 形器、環など、,範鋳鉄器では盆、鼎、罐、歯輪などが見つかっており、更に稠密に陶券井が分布している。鑑定を経て、遺跡は漢代南陽の大変大きな冶鉄作坊であり、当時既に“性鋳鉄”、“鋳鉄脱碳鋼”と“球墨鋳鉄”のあったことがわかった。。遺跡中には人工で固めた地面があり一つは土をつき固めてつくり、地面を平整としている。東西4m,南北30m。蒙ひとつは礓石と瓦礫で鋪成していて,東西12m,南北 500mある。上面に車輪が通った痕迹が留まっている。これは古宛城内の大道遺跡の一部分だと言える。遺跡東北方向約1㎞、漢代南陽郡城的東北隅、郡城内の北部に遺跡があったと証明できる。

    1-1.前漢時期の遺跡と遺物

    4基の溶鉱炉,匙形鼓の機械基址1つ,水井戸9個,水池3個。炉口から炉腹までの炉基座の各部位の熔炉が残っている。鼓風管,模範な範が地面に9個残り,鏤鏵带鉤などの 塊が残っている。鉄器の鏵、鍤、鏟、 錛、斧、鑿、鉤、権、錐、刀、錘、鼎、熨斗、剣、鉄条などが残り、銅器は五銖銭、大泉五十銭、鏃等,陶器は陶罐、筒瓦、板瓦、瓦当、瓦釘、陶銭などが残っている。

 1-2.後漢時期の遺跡と遺物

 遺跡は熔炉が5基,烘範窖が3個,退火脱碳窑が1個,鍛炉が9基,焼土槽が4,水井2つ,瓦洞が3, 磚鑲边路が一本、範坑3個が出土している。

 1-3 備考

 遺物は比較的前漢のものが多く,各種耐火磚構件、 鼓風管、各種模と範の602,その中に犁鏵、鍤、鏤鏵、錘、六角 など、鋳造工芸はみな復元可能である。各種形状的の澆口範、楔形、褲形、多節迭鋳などの浇口鉄、鉄器の数量は前漢のものが明らかに多く,一方各種板材、各種条材などや、磨石、陶紡輪、陶具、陶墜、石杵、五銖銭、陶釜、盆、甑、罐、瓮、板 瓦、筒瓦、瓦当などが出土している。


    瓦房庄冶鉄遺跡は鋳造が主で、营炒鋼を兼ねていて、鍛造の大型鉄制品工廠,もあり、その中には12件の鉄器化験分析,そのうち9件は農具は韌性鋳鉄、2件は鋳鉄脱碳鋼、1件は球墨鋳鉄。これは当時の南陽の治鉄技術が既に相当高水準に到達していたと説明できる。南陽瓦房庄漢代冶鉄遺跡に対する研究は当時の社会状况や生産力水準、特に冶鉄技術水準が相当重要な価値を持っていたことを明らかにしている。

 


    2、桐柏張畈冶鉄遺跡


     桐柏県郷東7㎞の張畈村東南の、毛集河と南小河の交差点に位置し、面積は6万平方米以上,遺跡の東部に窑一基が残存し、南部小河近くに煉炉址、北部礦石堆積区があり、ここが礦粉堆積は約5m。 中層は礦砂が堆積し,炉壁が残っている。下層は比較的厚い炉渣が堆積している。 炉区は河の近くにあり炉高は3m,炉壁有烧熔痕迹。1958年,遺跡上では礦石粉が2000トン,その中に30cmの礦石があり、含鉄量は約62%。礦石は遺跡の西北4千mの鉄石函山からきたものと考えられる。文化層は厚さ3m前後、地面には大量の炉壁塊、炉渣,黒色耐火炉壁の残塊、長方形の磚、煉渣、陶鋳風管の残塊と瓦片、漢代陶片が散在し、農民が耕地で出銑した鉄鋤、鉄锤、鉄砧、鉄斧、鉄刀、錛と砧子鉄器 鉄板、三角鉄と木炭等が出土している。遺物か前漢に始まり、後漢に盛期を向かえ、南北朝に衰退したが、元朝まで続いたことがわかる。この発見と研究は中国の古代冶金史に重要な実物材料を提供している。

   3、鎮平安国城遺址窑藏鉄器


    安国古城は新石器時代から漢代に至る遺跡で、漢代故城の東南にある。漢代の鉄範と鉄器,瓮口用鉄鏊封盖などが出土し、そのうち鉄範は61件、錘6件、六角 9件、圓形 3件、歯輪3件,権1件, 錘範の造型工芸は非常に高い科学を示し,互换性能が非常に高い。合範と開範は非常に便利で,尺寸の統計を測るものに用いることができるくらいである。錘が多くの種類の規格があり、その誤差は僅かにミリm級であり、鉄器の铭文を研究することで知られることは、王姓の私営の作坊の産出品だったことである。“吕”の字が錘範が江蘇西北部銅山県から来たことがわかり、漢代の吕県の地は“ 工 ”の命名に対するものであるとわかる。既に私営の鉄器を有し,官営の鉄器もあり,鎮平安国城鉄範,鉄器の発見は,重要な意義がある。鉄の質は鉄範の大量出土で,鉄制品は作坊で大量生産した産品のひとつであるkとがわかる。これは南陽冶鉄業の高度は発展水準を示している。
    比較的大きな遺跡として桐柏毛集鉄山庙漢代鉄礦遺跡、 毛集鉄山庙冶鉄遺跡、毛集后鉄炉村冶鉄遺跡などがあり,その他,南陽市新野県、唐河県、社旗県、淅川剣、銅柏県、鄧州市、方城県、南召県、鎮平県などで漢代鉄制品が出土している。

 

 

   (11)古代水利建筑工程遺跡

   (11-1) 召父渠

   召父渠は、霞雾溪とも称し,新野県沙堰鎮にある。遺跡は現新野県沙堰镇沙堰の北から,南は城郊郷花陂村一带に到る。前漢元帝時,南陽太守 召信臣が提案して修理し,淯水(現在の白河)から水を引き田に灌漑した。民衆は利を得て信臣を“召父”と称した。これが渠の名の由来である。

    渠は沙堰镇西南から始まり,淯水を西に向かって拐弯に向かう。東岸に渠を引き南に向かう。渠口は西200mのところ(現沙湾村東南)にある。石堤が弧を描いているので曰“石門庭”と呼ばれ、太い砂の石材はで築かれている。幹線用水路は渠からくねくねと曲がった用水路を南へと5千m程続いて板橋鋪村南)で3本の支流にわかれている。西は蘭草溝といい、東は長湖溝,中間のは官渠溝という。流れは東南に向かい,総延長30㎞以上。その後河道が変わり、渠は廃れた。

   (11-2) 鉗盧陂

    鉗盧陂は前漢元帝時代に建設された著名な水利事業。「方與志」の記載するところでは、鉗盧陂または玉池陂は,稂県東南五十里のところにあり、又の名を狄陂と言った。3万頃の農地を灌漑することができ、張衡は「南都賦」の一文で鉗盧陂などの水利事業を賛美して“于其陂澤,則有鉗盧玉池,赭陽東陂。貯水渟洿,亘望無涯……其水則開窦洒流,浸彼稲田。溝浍脉連,堤塍相(車君)。朝雲不興,而潢潦独臻。决渫則暵,為溉為陸。冬稌夏穱,随時代熟”と言っているとのこと。後の人は南陽水利事業と都江堰と漳水十二渠はお互いに匹敵するとしている。現在の鄧州市劉集郷陳橋村附近は一段南北に向った土堤があり、これは漢代の鉗盧陂水利事業の遺跡としている。

 

(12) 漢議事台

    漢議事台は新野県城政府街の南側にあり,後漢末に劉備、諸葛亮、商榷が軍政事務を置いたで、その時の名を議事堂という。

    後漢献帝建安六年(201年),徐は馬を走らせ諸葛を推薦し,劉備は三顧の礼を茅廬に行い,その誠心に感動した諸葛亮を。新野に至り迎えた。筑堂を議事とした。魏晋後、何度か兵燹に遭い,台堂は荒れた。明万暦二十年 (1592年),知県王瑜は旧址に再建した。磚砌の長方形の高台で,台中に堅い八卦の攢鏢亭,木架结構,双層八棱,飛檐挑角,南北对の開門户,東西二壁の留窓がある。外周には回廊の朱柱があり, 木欄曲環がある。上には宝葫蘆尖頂,陶制八龍伏脊がある。内絵は太極八卦の図,門額には石匾鐫刻“漢議事台”,檐柱があり、斗拱及び瓦檐などがあり,雕工は洗煉されており,富麗で精巧であり,天の技術を奪ったようである。清康熙三十 五年(1696年)知県張玺は南端に魁文閣を増築した,1944年壊れた。1972年鐘鼓楼が壊れた。1987年大改修した。(こちらに写真あり

(13)張仲景の墓と祠

 張仲景の墓と祠は国努院が公布した第三批全国重点文物保護单位で、南陽市医聖祠街の温凉河畔にある。張仲景は死後南陽に埋葬された。晋の咸和五年(330年)に墓の前に碑が立てられた。その題名は「漢長沙太守医圣張仲景墓」。後、墓は崩壊し、碑文は荒野に埋もれてしまった。明代崇祯六年(1633年),当地的農民が井戸を掘っている時に又晋代の碑を掘り当て,墓を探し当てた。後年墓塚が修復され,盖墓亭が作られて保護されている。現在の祠は長方形をしていて、墓は祠の中部にあり、周囲に、正殿、東西に配殿、内经楼、霊枢楼、素问館、医聖井、梅花軒、荷花池、医林会館などがある。医林会館は元々四方の医士が集まって医学を研究する場所だった。毎年農暦三月三、九月九日香火大会がある。なお、墓と祠については楽途旅遊網のこちらの記事に写真があります。場所は、南陽市街にあり、市街地図にも掲載されているので、他の遺跡と違って、行き易い場所です。

(14)漢代古城遺跡

 南陽市の東隣の駐馬店市西部の朱集乡朱集村東北10Kmの東古城村東北北300mにある。殆ど情報が無いにも関わらず、遺跡の地図だけはこちらのサイトに掲載されているので驚きである。残部の城は正方形,各辺500m,面积25万平方m。1976年3月に南阳地区の文物普查隊が発見。こちらの社旗県紹介サイトにも若干の情報あり

(15)張釈之の祠

 張釈之は前漢文帝、景帝期の役人。南陽市東北の方城県出身。張釈之を記念して立てられた祠。方城県の城西関釈之路の北側にあり、面積は3697平方m(こちらの方城旅遊サイトに写真が掲載されています)。

(16)陌陂遺跡

 南陽市陌陂郷の陌陂街東門外に一亀形盖の高地がある。東西約700m,南北約500m,面積約35万平方米。遺跡文化層は2mほど,揀進の遺物は石斧、石鑿等がある。またひとつの灰陶器が残っている。1975年漢墓と棱紋のある飾のある、葉紋の大きい空心レンガが発見された。ここは西周から漢代に至る遺跡である。

 

以上の記事は、51766.comの南陽漢文化中国網の張衡墓の記事、 治鉄遺跡は同怀网のこちらの記事張仲景の記事は中国網の記事朱集村の漢代古城遺跡の記事、 張釈之の祠の記事


 
    この他,阳城、安衆城、楽郷古城、酈城など十以上の漢代城遺跡がある。唐河上下堰陂は古水利の業績であり、鎮平沿いの陵河は水利遺跡で、鄧州大門堤、唐河千百堰などは水利工程の遺跡である。漢司徒鄧君の舍、杜茂墓、湖陽公主墓など多くの中小型の漢代墓葬があり、更に多くの漢文化の状況を伝えている。省市文博单位收藏品の外に,漢代縄文レンガ、花門小レンガ、陶器残片が南陽城郷広に見られる。 

漢代以外の南陽の遺跡

(1)譚崗遺跡

 新石器时代遺跡。南陽市社旗県城の郊外郷譚营村南300mにある。仰韶中晚期文化。遺跡南から沙河が流れている。東西400m,南北300m。

(2)寨茨崗遺跡

 新石器时代遺跡。南陽市唐河県城郊の郊外郷肖崗村東にある。南北340m,東西250m,文化層1~5mある。また近くに同じ新石器時代の湖陽影坑遺跡がある。

(3)八里崗遺跡

  新石器时代遺跡。鄧州市東约3公里のところにある郷白庄村八里崗の組湍河南岸にある。面積5万平方m。

(4)潘庄遺跡

 南陽市社旗県城西北6㎞の潘庄東北400m。南北300m,东西180m,面積5.4万平方m。他の場所と比べて1m程隆起している。民国20年 (1931年),孫文清が発見,仰韶晚期と屈家岭早期文化遺跡。県级文物保護单位。

(5)茅草寺遺跡

 興隆鎮東4㎞。元々遺跡の上に茅寺庙が合ったので“茅草寺遺跡”と呼ばれた。三方向を河に囲まれ、東西300m,南北250m,面積7.5万平方m。 高いところは地面から10m程の小丘となっている。仰韶中晚期で、漢水上游二三期の屈家岭、河南龍山文化に相当する。県級保護单位。

(6)太子岗遺跡

 南陽市と鄧州市の間の穰东鎮(古涅陽城遺跡)にある河南省文物保護单位。新石器时代遺跡。穰东鎮双庙村の東南200mにあり、海抜126.8m,遺跡は地面から6米の高さがあり、東西1000m,南北500m,文化層は1~5m。

(7)陌陂遺跡

 南陽市陌陂郷の陌陂街東門外に一亀形盖の高地がある。東西約700m,南北約500m,面積約35万平方米。遺跡文化層は2mほど,揀進の遺物は石斧、石鑿等がある。またひとつの灰陶器が残っている。1975年漢墓と棱紋のある飾のある、葉紋の大きい空心レンガが発見された。ここは西周から漢代に至る遺跡である。

(8)王庄遺跡


  西周時代の遺跡。:南陽市社旗県城の李店郷李店街の西北8キロの王庄村の後ろ。東が高く西が底となっている,長さ約400m,幅約310m,面積12.4万平方米。遺跡は1985年文物普查時の発見。地面に多数の遺物が暴露していた。揀進標本には縄文鬲腿があり、红、灰陶短柄、豆残把2が残っている。

(9) 南陽の西周時代の遺跡(鄀国古城遺跡)

 鄀国古城遺跡については、ネット上では情報殆どなし。わずかにこちらのサイトに下記文章が掲載されている程度。

 西周時代、周王室はこの地に申、吕、謝、応、鄧、鄀などの多くの小国を封じたが、南陽の西周文化遺跡の発見は多くはなく、僅かに南陽十里庙、西峡的析邑故城、邪地村の鄀国古城遺跡などから西周時代の鬲、罐、豆等の陶器の残片が発見されている程度である。鄀国古城遺跡の情報が無い割りには地図だけは簡単に見つかる(こちら)。

(10)牛王遺跡

 河南省南陽市西峡県(おそらく丹水鎮趙営村)にある、という地図だけしかネット上には見つからない。どの時代の遺跡かまったく不明。

(11)楚長城遺跡(楚長城の写真は、「人文南陽」サイトのこちらにあります

  (11-1) 周家寨楚長城遺跡

   周家寨の楚の長城遺跡。南召県板山坪鎮南3千米mの華山上にあり、一道20を超える1000mの長城の石城の壁が6つの崇峻な山峰に連なり、ひとつの山中の石城をなしている。占有面積は约20平方千m、現在に至るまで基本保存は非常に良好である。前668年の創建とされ、中国全土での長城の中の最初のものと考えられている。

  周家寨の石城は外廓と、内城に別れ、俗称二道圈と言われる。これに加えて4つの城内の古い城垣がある。外廓墙は主に石城である。概ね底部の幅は3m、高さは約3.6m,外廓墙は4つの城門を持ち,其主門は北門と西門。南召から内郷馬山口に一つの古道がある。内城の石城内の主峰上に4対の城門があり,それぞれ外廓墙と通じている。そのうちの3つは比較的大きく、烽燧台となっている。周家寨外部,左に大軍門、右に大青門がある。

    南召は春秋時代の楚国の最北部にあたり、北部の秦、晋、魏、韓、斉の侵略の防衛を為した。楚国は長城を作り、修築し防衛線とした。また、南召西北の喬端鎮野牛岭に“楚界”碑がある。雲陽鎮“楚王行宫”が残っている。文献には,楚は長城の西頭、湖北の竹山県から,漢水を跨り、河南的鄧県(鄧州)に到り、内郷県を北に向かい、再び東北に向かい鲁山県、、叶 県に到り、,南向して沙河をとおり泌陽県に到っている。全長500㎞近いこの状況を見ると、楚長城は、当初は「方城」として発展したと考えられる。最初に一座の列城を作り、その後城と城の間の城壁を作り連結し、長城とした。南召の楚長城の百以上の列城の大部分の保存状況非常に良い。

   (11-2) 大関口楚長城遺跡

   方城県独樹鎮方城山西の山麓にある。大関口の西に対面して門山、旗杆山、香布袋山など、諸峰が逢い連なっており,東は擂鼓台をなし、北嶺が頭で、尖った諸峰並列に連なっている,両山は挟んで聳立っていて,隘道を形成している。故に“大関口”という。

    大関口東南両側の山坡上に别に築かれた土、石城垣など関塞施設がある。大関口東側の黄石山西麓に大路があり,高さ約10mの土崖である。崖上より尖山の脚下に直角に至っており、南北両边は别に築かれている。両道の土城垣は,高さ1.5~3mあり、断面は呈梯形をしている。険しい城垣は比較的低く,地势は平らで緩やかで城墙は比較的高い。楚長城に符合し”地形によって、危険な用途を制する要塞”と“連山が相接続している”と文献に記載されている。北边城の 垣は全て土築で、大関口より東北に延び、後石壟に至り、,北に折れて100mで東北に向い直接北嶺の頭の山腰へと刺さっている。全長810m。城垣系は山坡に沿って比較的険しい縁に沿って築かれていて、傾斜度が大きい北側の底部に乱れている石があり、上に土を積んで,土と突いて築いている。南边の土垣は大関口より東に延びて小山腰の水庫の傍に伸び,再びそこから南へ向かい東部の尖山の山腰に向かう。全長640m。土垣の北側は7つの大体距离の等しい烽火台または馬面があり,皆15m平方ある。この近くに南垣の西側に,150mの長さの土垣があり、西側の南垣は直角に相対している。大関口東を望むと,東边城垣は3道からなり,配置は厳格である。黄家陽から後ろの山向へ西北に向かい400mまっすぐのとことの門山はひとつの山嶺をなし,山嶺の北側に沿って建築があり、東側にも同じような土城垣がある。大関口からはるか遠くを望むと,城垣は一条の巨だいなおろち(蠎)が山下よりくねくねと山頂に至り、城垣の上,植物ある樹のように,密生しています。門山北坡に対して向かい,旗杆山の棱坎上に沿って行くと,均砌のある石墙基があり。旗杆山と香布袋山がつながっている丫口があります。そこに一本の長さ12mの方形の烽火台台基があります。これは西南に向かい、香布袋山に至る一本の長さ約70mの石墙基がある。香布袋山北側では二つに支脈が分かれ、そのひとつは一直線に山腰に,別の一つは香布袋の山峰の東面の小山頭に向かっています。西北より東南に向かい,北坡斜筑の土城垣と相接しています。この垣は山上より直すぐに黄家阴の南面に折れ,東側は南垣に相对し,一般に“跑馬道”と呼ばれている。両側の城垣は长方形で,全長1419米。城垣の修筑は,基本上は地形を利用し,地を調べ土があれば、土筑を築き,土がなければ砌石を使う。この選択は外側の比較的折れ曲がった坡地にあり,自然地势を利用して城垣を増築する高度で、高い城墙の防御能力を挙げることができる。東南両側の城垣は黄家阴の古道上で交わり,両山が連成一体をなし、構成は天然の屏障であり,形势は険险要,真に所謂“一夫当関,万夫莫開”である。土垣内からは銅戈が出土している、銅鏃などの遺物はその建築を春秋戦国時期としている。

    東周の時代,諸侯が争霸し,戦争が頻繁に行われ,諸侯国は相いに争い防御能力の増強に努めた。長城を修築し,最早修築した頂上は楚国を“方城”と称するまでにしてしまった。大関口の楚長城遺跡は,楚の方城の一部分であり、楚の方城は古文献に多く記載されている,《漢書,地理志》载:“葉,長城を有す,曰く方城と号す。” 乾隆年間の「裕州志·山川」伝も:“州治東北四十五里に方城山あり”。高注「秦策」も曰く:“関,楚北の方城の塞なり。”大関口楚長城遺跡,それは楚の方城保存の比較的良好な部分,古代軍事事施設の研究にとっては重要な価値がある"。

   (12).鄧窑遺跡

   鄧窑遺跡は内郷県西南部の大窑店村にあり,遺跡は高嶺の土産区にある。そこは大窑店村の中心である,北に土槽溝,南に経房店、水溝、王溝村に至る白楊がある。狭く長い段上に,窑具が堆積散在している。瓷片、残窑壁と焼土塊がある。面積は1平方キロm。遺跡は宋代には鄧州所辖となり、故に鄧窑という。鄧窑のもっとも早い焼造瓷器の年代は唐末であり,宋に隆盛し,その下限は金、元代に至っている。北宋著名瓷窑の一つである。

    遺跡で発見された窑具は二つの種類があり、一つは焼制窑具で、器托、墊餅などがある。別のひとつは窑具を造形するもので、蹲獅範、搶球俑範と抱物俑範等がある。散存している瓷片の主要なものは青釉、白釉の二つの種類。他に黒釉と褐釉もある。絵花装飾もある。青釉瓷器類は汝窑瓷系に似ている。器形は碗、盘、盆、缸、盏、碟、枕、器盖、器座などがある。紋飾の大部分は凸起的な陽紋で,2種類に分類できる。一 つは花弁,もうひとつは水生動植物。花弁を題材としたものには纏枝花弁,多くは六朵菊花や牡丹組のものである。大小花朵相間の排列は,大きな花朵は盛開し,花蕊は突然露し,花弁は別れる。小さな花朵は半開で,其間 花は藤で缠繞を連接し,組成は優美な二方連続図案を成す。枝を折った花弁の多くは大花葉の牡丹を主題とし,花边はたくましさを際立たせ、人にふくよかな感じを与える。枝の花卉に交際して、ボタンの花の枝が交差するので、装飾は碗が底の心をぐるぐる巻く上にある。団の菊の紋様は、菊の花弁を主として構成した団の菊で、装飾は碗の壁あるいは碗の底の中心の上にある。青磁の碗は2種類模様を刻み、碗内の多くの花は、内側に水の波紋を描いていて、その上であるいは1匹の泳いでいる魚が水面に浮かぶび、又は1匹のホラガイが水底で沈むので、荷葉はまっすぐにそびえて、水草は翻り、図案は均整が良くて、形態は生き生きと本物そっくりです。この他遺跡内では他にも陶硯が出土し、瓷羊、瓷狗などの玩具も出土している。

 

 なお、漢代含め、南陽市の遺跡の情報は、こちらのサイト(図吧の南陽市景点ページ)に一覧がある。このページの情報の大半は、ここから取得した。

南陽漢画像石館

 南陽は漢画館で有名なので、期待していたのだが、まったく期待はずれ。重慶の三峡博物館などでは画像石を撮影したりしていたが、ここでは撮影したのはお義理の一枚きり。まあ、画像石にも色々な種類があり、大量にあることはわかった。しかし、もう少しレリーフっぽいものは無いのだろうか。細長く黒い影がゆらゆらしているだけでは、はっきりいって見ているだけでは何がなんだかわからない。ましてや写真にとってしまうと意味不明な画像にしかなりそうもない。というわけで、印象を受けた写真を数枚掲載することにしたが、1枚の除いて漢画石ではない。

 まず左写真。係員さえおらず、売店も30分以上人がいないような寂れた感じの館なのに、手前は政府庁舎にいくかのような、緊急時の滑走路のような大通り。

 ほとんど車は通っておらず、とおりの真ん中を歩いても問題なし。奥にあるのが画像石館。多少見るべきものがあったのは、画像石ではなく、右写真の、漢代墓の分布図と、漢代墓の模型。3種類の模型が展示されてあり、左下と左中央のものは同じもの。いずれも墓の構造がわかりやすく、これは非常に良い展示だった。ただし、ここで発見された画像石がどれかは不明だったが。

  武侯祠は、南陽駅とその斜め前のバスターミナルから南に3㎞程。車站南路という大通りを一直線に下って、2.5㎞程先の大通りとの十字路を右折し、臥龍路に入て500m程の地点にある。駅前から歩いて意生けないこともない。ここは、公園としてはまあまあ整備されているので観光に訪れるのは良いかも知れないが、入場料は60元と高い(2009年7月)。市の博物館が無いのでここの敷地内の東漢博物館の情報は、「南陽には漢代の遺跡が沢山ある」という事実を知るには役には立ったが、蝋人形と写真だけの全体的にくたびれた展示。私がいたときは、近所の子供としか思えない子供が、つまらなそうにぐるっと一周した程度だった。

  しかもこの武侯祠は、諸葛孔明とは何の関係も無い。諸葛は、湖北省襄陽県の隆中におり、そこが南山の南、漢水の北だったことから通称南陽とも呼ばれていたので、唐代になって地名が同じだというだけの理由で南陽に武侯祠を建設したらしい。とはいえ、清代の建築も残っているようなので、公園と清代建築を見に行くには、よい場所かもしれない。諸葛孔明ゆかりの地だと思って行くと大間違いとなるので、この点は再度強調しておく(蜀前期、関羽が荊州を抑えていた頃ひょっとしたら南陽も蜀の支配下にあったかも知れない(襄陽な南陽と荊州の中間にある)が、基本的に襄陽は魏の領土だったので、孔明が南陽を訪れた、ということはありそうも無い話である。

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