南陽府衙(南阳府衙)

大門(外側から)

儀門(少し記憶が曖昧)

大堂(右は官戸礼房)


 


 南陽府衙(ふが))は、中国河南省南陽市にある、元・明・清代の知府(知事の役所)で、中国歴史上最大の府衙(役所)。最初の設置は元代1271年で、世界遺産級の史跡(と、引用元の百度百科に書いてある)。正式には南陽府署と言い、府衙または知府衙門という通称がある。清代の官庁としてほぼ完全に残っている施設とのこと。南陽市の旧城内の西南隅、民主街の西端北側にある(最下段に清代南陽城の図面があり、府署は西南隅にあることがわかる)。南陽に府署が最初に置かれたのはいつかは不明がが、秦の昭襄王が南陽郡を設置して以降、隋代以前の間だと思われる。南陽は歴代郡守の治所(郡署)だった(前漢景帝時代に太守と改称)。

  金代の正大三年(1226年)南陽に申州(刺史治)を設置し、これを州の役所とした。その後、元代の至元八年(1271年)に申州を南陽府とし府署を置いた。しかし、元代の建築状況は記録が無い為、現在の建築プランのどの部分に影響を残しているかは明らかではない。

 右写真のごとく、元・明・清代と改修・増築を重ね、規模が拡大した。下記に、現在に残る建築歴を記載する。

  

清代の南陽。

赤丸地が本南陽府署

 

書簡房かも。

大堂の中かも(知府が政務をとったところだった筈)

二堂と寅恭門の角のあたりだと思われる。

 

 

主要建築物拡大図

 

歴代郡治、太守、知府(知事)の一覧(秦代から清代までずらりと並ぶ)

 

  明代洪武三年(1370年)に同知(府佐官)程本が初めて改修。更に正統五年(1440 年),同知の汪重が大改修。当時の府署は正堂、後堂,左右に六つの房が並び、戒石亭があった(戒石亭とは当時の地方官署の大堂の前に必ずたっていた石碑。南陽府署では後に戒石坊と改称した。左写真では、大堂と儀門の間に見えている)

 この時の改修では、儀門、大門、儀門の後ろの東西に官吏の官舎が並んでいた(左写真参照の兵刑工房と吏戸礼房のあたりかも知れない)。経吏司(文書諸事を管轄)が正堂(現在の大堂)の東にあり、昭磨听が正堂の西に建設されたとあるが、経吏司は左写真には見えていない。昭磨听は兵刑工房の裏にある)。司獄司(囚人監獄の管理)が儀門の西に、架楼閣庫(文牒の収蔵管理)が正堂の後に申明、旌善の二亭が府署前の東西両側に,永平庫(府庫)が府内にあった(とあるが、左写真には司獄司と永平庫しか見えない)。

  成化年間(1465年——1478年),知府の陳鎰が大改修している。大堂(正堂)、堂の左に乗発司(現承発府・公文書受領発信所)、吏、户、礼房(大門の西南や府庫の東側(写真外)、堂の右に西公廨(官吏事務所の通称),東南隅に衙神祠、寅賓館(現大門東側)。大門前の左右に榜房,前建豫南首郡坊、大堂の後ろに寅恭門 ,思补堂(二堂),堂の左に書簡房,右に招稿房、更に二堂の後ろに三堂を作った。

 

だいたいここまでで現存主要建築は出揃い、その後、1674年と康熙二十三年(1684年)に増築。道光二十七年(1847年)改修。咸豊初に改修。その後、光緒二十三年(1897年)から1901年までかけ、歴代改修の中でももっとも大規模な改修がなされ、現在の状態に至った。

 民国2年(1913年),南陽府は廃止され、,府署は県の役所となり、(民国元年,知県署は県公署と改称、その後、更に称県政府と改称)民国21年(1932年)秋、河南省第六行政区



 

上は明代の床。

 ,督察専員公署が府署内に設置された。1965年以降は中共南陽地委第三招待所(政府の宿泊施設)とされ、その後家属院に改められた。で、最近観光地にする為改修された模様。入場料20元(2009念7月)。場所は、駅前から26番バスで4つ目くらい。丁度府衛前で停車。府衛付近は、観光資源として、再開発している模様で、付近の街並み全部を清朝時代の建屋風にしている。最終的には右写真(ピンボケしてしまってわかりずらいが)のような、テーマパークと商業施設のコンプレックスにする模様。

 

歴代の著名な知事の略歴が展示されているコーナー(吏戸礼房内)があり、地方史情報が充実していることがよくわかる。

別の区画には南陽市の簡単な紹介もあって、世界ビキニコンテストの参加者全員が訪問したことがあったり、スキー場があったりど、南陽市は観光で売っています、という宣伝パネルが多かった。確かに観光資源は多そう(ただそれにしては、いまいち観光インフラが整っていない感じである)。

 

 現南陽市街の中心部にあるので、場所はわかりやすい。南陽市の歴史関連の観光資源としては、諸葛亮を祭った武侯司や画像館がある。これらの情報はこちら

 

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