肇慶市街の明清代の史跡
閲江楼 |
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文昌閣 |
扉と下写真は、明代万暦10年(1582年)建設の崇禧塔。 高さ57.5米,平面八角形,外観九層、内側は17層。塔の左に王公生祠、右に仙花寺がある。 左は、閲江楼。漢代は鵠奔亭といい、南宋隆興年間(1163—1164年)、唐代高僧石 頭和尚陳希遷の石頭庵を記念する為に改建し、宣德六年(1431年)拡張し、崧台書院と言った。崇禎十四年(1641 年)再度改建した。 1階は漢代などの遺物。2階は、共産党北伐関連の展示。 右は文昌閣。肇慶市内に、文昌閣と呼ばれる場所は多数ある模様で、右写真の塔に関する情 報調査中。 |
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下は北宋崇甯元年(1102年)に建設された学校(?)跡。展示物は、肇慶の博物館展示物に掲載。北宋崇寧初の建設で 1369年再建。大成殿の屋根は明代建築とのこと。
右端の両譙楼は、清代の県令の役所だったようで、マテオリッチが肇慶に3年 間(1583年9/10-89年8/15)滞在した。そのマテオリッチの人生の絵巻や、裁判(王泮の石投げ事件裁判)の 蝋人形などがあり、 マテオリッチゆかりの展示館という風情。ここは、肇慶府衛の所在地で、肇慶府の政治上の中心だった とのこと。現市政府大院は両江総督府跡地に1996年再建された。
宋重和元年(1118年),府衛前の筑高台建楼で、名を御書楼といい、明天 順六年(1462年)、郡守黄瑜が再建。両谯楼と改称した。明末(1646年),複明運動中の桂王朱由榔がここに滞在 し、永明宫と改めた。 |
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大成殿内部構造 |
大成殿庇(明代 建築)の部分 |
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唐代の禅宗の6代目の祖師僧慧能(638年(貞観12年)- 713年(先天2年))は梅を好んだ。端州城西崗に滞在時、时,丘の上に梅を植え、錫の杖で井戸を掘った。その井戸が右写真の井戸。現在梅庵的山門前にあ り、"六祖井”又は“六祖甘泉”と呼ばれ、深さ888cmとのこと。宋の至道二年(公元996年)、智遠の和尚が、慧能を記 念して、ここに庵を建設した。井の傍らに碑がある。また井戸の傍らから通りまでの間に一列の梅の樹が植えられている。梅庵内 には二殿が現存し、石柱、梁架、斗拱均は宋代建筑の風格を残しているとさえれる。岭南地方の特色を備えている。大雄宝殿内に は释迦牟尼、薬師和阿弥陀の三仏像があり、後方の六祖殿内には慧能の金身坐像がある。庵内の右側には、小さい梅園があり、十 株の梅の樹があり、十月にも白梅 の花を見ることが出来る。 |
井戸を覗く少女 |
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主体建築は、山門、大雄宝殿、六祖殿があり、天井の前後に廊下がある構造をしており、附属建築として、庵の前に平台、六祖
井、両側に縁堂、荃香室、常光亭、六云亭、碑廊と梅園などがある。左写真は、六祖殿の庇と天井部分。下段左写真。下段中と右
が大雄宝殿。山門、大雄宝殿、六祖殿が現存。
慧能一代記を扱った蝋人形館が山門左の施設にあり、彼の人生についての勉強になる。それによると、父親は失脚した役 人で、620年、中央から広東に流れてきたとのこと。慧能の幼年時代に死去(641年)し、賢母に育てられたということ のよう。24歳で寺に入り、金剛経を良くする門人と出会う。713年韶州を去り、新州(新興)へ戻った。
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禅宗初代達磨から慧能までと慧能以降禅宗系 譜はこちらにあり、日本の臨済宗祖栄西、曹洞宗祖道元なども載っています。
左写真は、梅庵内の千年菩提樹。原名畢波羅樹と いい、覚知の意味とのこと。原産地はインドで、仏教とともに中国に入ってきたとされる。明嘉靖年间(1522-1566 年)は梅庵は夏公祠と改称され、仏像は全部庵の後ろの露天に置かれた。.明万暦元年(1573年)以後、7回の改修と拡 張がなされ、仏像は2回金の塗装がされ、1995年、梅庵は全面修理され、拡張された。
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上は披 云楼。北宋政和三年(1113年)に最初に立てられ、楼高三層、当時は望台として建造された。現在の楼閣は 1989年の再建のもの。楼高19.3米,その外形は、仿江西の騰王閣、 湖北の黄鶴楼など宋の建築と設計様式となっている。内部構造は、広西の真武閣の構造様式。 |
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