28/Aug/2014 created
02/Mar/2019 updated
インドとサーサーン朝の交流と国境


  サーサーン朝に興味を持ち始めた頃から思っていたことですが、サーサーン朝とグプタ朝、ヴァ ルダナ朝は、国境を接していたと思われる隣同士の大国である わりに、お互いに関する情報が殆どありません。仲が悪いのであれば、戦争に関する情報が残っていそうなものですし、有効関係に あったのであれば、使節の往 来に関する記録があっても良さそうです。最近は、もしかしたら、国境を接していたという認識自体が誤りなのでは?とさえ、思えて きたりしています。グプタ 朝の領域(境界)が、どのように決まっているのかを知りたいと考えていた動機の発端は、このへんに由来があったりします。この意 味では、前回のグプタ朝の 領域史料に関する記事は、今回の記事と表裏一体のものとも見ることができます。

 今回少し、最近見つけた使節のやり取りや国境に関する情報を整理してみました。




@インダス河下流の丘陵地にある長城遺跡ラニコート・フォート

 ササン朝研究者Touraj Daryaee氏は、著書『Sasanian Iran (224-651 CE): Portrait of a Late Antique Empire』のp75で、「長城は4つあった。ひとつはゴルガンのもの(ゴルガンの長 城・サッケ・イスカンダール)、もうひとつはコーカサスのもの(デルベント要塞)、3つ目は、アラブに対するもので、war ī tāzīgān と呼ばれる(ただし出典の記載は無し)」としていて、「4つある」との記載の根拠は特に無いのですが、もしかしたら、このラニ コート・フォートのことをかも知れません。

 最初の二つは遺跡が残っているものの、3つ目の"アラブへの防壁"は、実体については議論があるようです。この話の出典は、7 世紀頃の末期ササン朝の地方区画と都市の認識を反映しているといわれる『エーラーン・シャフルの諸都市』 の同カタログの25行目と52行目に登場している、"War ī tāzīgān"のことで、Warの解釈を巡って議論があるようです。上述のTouraj Daryaee氏が訳注した『『エーラーン・シャフルの諸都市』の25行目に対する註(p43)では、マルクヴァルト(1932)では、アラビア語でペル シア湾がBaḥr Fārisと呼ぶことから、WarをBaḥrと解釈し、ペルシア湾のことだと解釈している、Nyberg(1959)はwarをwall、 enclosure、fortと解釈し、その後Frye(1979)やAzarnoush(1995)は、Warは、サーサーン 朝の防衛システムの一つと いう説を提案したとのことです。『エーラーン・シャフルの諸都市』の英訳では、Touraj Daryaee氏は、25行目では、「アラブの壁を越えたところのヒーラに辺境伯任命した」と訳し、52行目では、「アルダシールは、アラブへの防壁の側 に辺境伯を任命した」 と訳しています。

 Bailey(1954)はWarを、ヴェーダ語のvalá、アヴェスター語のwar-、ホー タン語のvara-,ペルシア語(Khandaq(溝) /現代ペルシア語خندق) と解釈し、これに基づいてMorony(1982)は、"War ī tāzīgān"は、Khandaq ī Šābuhrのために建っていた、との説を出しているとのことです。


 このように、 アラブのペルシア湾以外の諸学者の解釈は、防壁や堀となっていて、いずれにしても横に長い類の防衛との解釈が多いようです。ササ ン朝末期の四大管区制から すると、インド方面も、可能性として想定できるので、何かないかと思っていましたので、ラニコート・フォートは、もしかしたらと の期待を抱かせてくれるも のではあります。とはいえ、8割方、ラニコート・フォートがササン朝に遡る、とは考えておりませんが、それでも可能性はゼロでは 無さそうです。インドの学 者はアレクサンドロスにしろ、ササン朝にしろ、外国勢が築いた城壁には興味が無いだろうし、パキスタンとイランの学者もイスラム 以前の遺構には興味が無い だろうから、今後も、古い層の調査が長城全域について広く行なわれる可能性は低そうですが、大変興味を惹かれます。


Aインドの楽人の招聘

 ハムザ・イスファハーニー(Ḥamzah al-Iṣfahānī,961年没)の『Kitāb tārīkh sinī mulūk al-arḍ wa-al-anbiyā』に掲載されているイランの諸都市の建設者と簡単なエピソード集に掲載されています。archive.orgに当該書籍の英訳が掲載されており、pdfの15頁目に、 サーサーン朝王バフラーム・グール(在420-38年)の項目に以下の記載があります。これをロマ(ジプシー)の起源の一つと考 えられているとのことです。同様の記事はフィルダウシーにもあるようです。

  「バハラーム・グール、ヤズダギルドの息子は、多くの建築物をテュルクとルムとインドの地に建設した。バハラームは変装してイン ドに行って来た。イランに 戻った彼は、イランの人びとに日々の半分を仕事に用い、残りを飲食や娯楽などで気楽に過ごすよう命じた。彼は、飲まず、吟遊詩人 の参加しない娯楽に興じる 人々に尋ねた。その理由は、吟遊詩人を招く値段が高額となり、毎回の費用が100ディルハムとなっていることにあった。ある日バ フラームは、歓楽に参加し ていない人々を見た。彼はまた尋ねた、「余は諸君に娯楽に参加しないよう禁じたか?」 彼らは答えた、「我々は100ドラクマの も持ち合わせがありませ ん」

 バフラームはインド王に書状を送り、吟遊詩人を送ってもらえるかどうか尋ねた。インド王は12000人の吟遊詩人を送ってき た。バ フラームは彼の支配下の各地と多くの都市に吟遊詩人を送った。彼らの多数が多くの子孫を残し、少数の者がまだ残っている。彼らは zuṭ- Sinī と呼ばれている」

*zuṭ- Sinīのṭの次の一文字はオンライン上が汚れていて判別不能。他の箇所の文字化けから推測すると、zuṭīr Sinī かも知れない
*12000という数字は、タバリーのササン朝の記載や、以下Eの『将棋の解き明かしととネーウ・アルダクシールの案出』でもも よく登場する数値なので、ある種の規模の数値を表現する定型句のようです。ゾロアスター教の教義では、人類の歴史は、誕生から滅 亡までを3000年周期で1万2千年としているので、これも同根の数値かも知れません


Bペーローズがインド方面に建設した町

 上記ハムザ・イスファハーニーのpdfのp17のフィルザバードの項目に、ペーローズ王(在457-484年)がインド方面に 2つの町を建設したとの記載が出てきます。

  「ヤズダギルドの息子、ペーローズは2つの都市を建設した。ひとつはインドに、もう一つはインド地方の近くに。彼はこれらを、彼 自身の名にちなんで、 「ラーム・ペーローズ(Rām Fīruz)とロシュワン・フィーローズ(Rowshan Fīrūz或いはRowshī Fīrūz)と呼んだ。
  彼はレイ・グルガン・アゼルバイジャン地方にもそれぞれ町を建設した。彼はトランスオクシアナとイランシャフルの間に防壁を建設 した。そして彼はジャイ (Jayy)に防壁を完成させた。アードゥルマハン・イスファハーニー(Ādharmāhān-i Iṣfahānī)の息子アードゥル・シャープール( Ādhar Shāpūr)の支援を得て、彼はジャイの町の城門を閉じた。彼はH-f-n-hと名付けられた町に平和条約を与えた。彼の命令によって、イスファハーン のユダヤ人の半分の人びとが殺され、彼らの子供達は奴隷としてḤirvānのqarīya (またはJirvān(シャープール・ドュ・アクターフにより建設された)にあるSorūsh Ādharūn (同左王により建設された)にある火の寺院へと移住させられた。

 この同じqarīyaで、ペーローズは、二つのhirbadの皮を剥ぎ取り、縫い合わせて、なめし皮革産業でこれらを使わせ た」

*Jayyはイスファハーンの旧名との説もある模様
*トランスオクシアナとイランシャフルの間に防壁とは@のサッケ・イスカンダールのこと
*シャープール・ドュ・アクターフ  シャープール二世(在309-379年,通称「肩の人」)のこと
*hirbadの意味不明


Cバフラーム五世のインド遠征

 タバリーのバハラーム5世の章に 同王のインド遠征の記載があり、名前は登場しないものの、インド王が登場しています。バフラームがインド王を助けてインド王の敵 対者を撃退する、という話 となっていて、私はこれまで、この部分はまったくのファンタジーだと思っていたのですが、エフタルかキダーラあたりの勢力を、イ ンド王と同盟して撃退し た、という史実の反映かも知れない、と思うようになりました。※2019/Mar/02 追記 キダーラ・クシャーンに ついて」 山田 明爾 著、『印度学仏教学研究』      印度学仏教学研究 11(2), 1963-03(日本印度学仏教学会) p616によると、タキシラでササン形式の銅貨が 多数出土していて、バフラーム四世以後西パンジャブ地方がササン朝の支配下にあったとの説があるそうです。興味深い説です。 そ のうち詳細を調べようと思います※


D賢者のインドへの旅
 
3世紀のマニ教の教祖マーニー、6世紀の宰相ブルゾーエがインドへ旅しています。

 マーニーのインドへの旅は、コプト語のマニ教文献『ケファライア』に記載されています。
 こちらの英訳(恐 らく、「パルティア」や、「ペルシア」という用語の含まれる節の部分の英訳)に、インド訪問の部分が記載されています。彼が訪問 したのは、インダス川南部 或いは、グジャラート州あたりの町で、当時はクシャン朝副王西クシャトラパ領土だったと思われます。西クシャトラパ王は、クシャ ン朝がサーサーン朝に服属 することになったため、間接的にサーサーン朝の支配圏となったものと思われる地帯です。

 宰相ブルゾーエのインドへの旅は、『カリーラとディムナ』の冒頭に登場する挿話で、サーサーン朝の宰相ブルゾーエがホスロー1 世の命によりインドに赴き、書物『カリーラとディムナ』をペルシアに持ち帰るという話です。東洋文庫から邦訳が出ています。


E将棋の起源

  チェスの起源物語として有名な話です。インド王サチダルムからホスロー1世(在531-579年)に送られた道具について、宰相 ワズグルミフルがその用途 を解き明かし、インドの外交使節の要求を退ける、というもの。この話は、『将棋の解き明かしととネーウ・アルダクシールの案出』 という題名の中世パフラ ヴィー語文献の短い物語が残されていて、伊藤義教『古代ペルシア−碑文と文学』p257-261頁に全訳があります。

  これによると、インド王は、厳密には、総督(シャフリヤールŠahryār)で、サーサーン朝への宗主権と貢納を認めていて、 サーサーン朝の宮廷が、送ら れた道具の使用方法がわからなければ、サーサーン朝の方が、税と貢納をインド王に送付すべし、という話。訳者の伊藤氏は、インド 王サチダルム (Sačidarm)はデーヴァシャルム(Dēvašarm)とも読めるとしていて、Dēva(デーヴァ)はインド的な名前です が、史上の誰かは特定でき ていないようです。ホスロー一世時代のインドは、グプタ朝が崩壊し、地方領主に分裂していたため、地方王の一部がサーサーン朝の 宗主権を認めていた、とい う史実の反映かも知れません。



Fユスティニアヌス時代、ギリシ人商人が、セイロン島の王の前で、ペルシア人使節に対し、ローマとペルシアの貨幣を比較す る話の出典

  サーサーン朝の最盛期には、インドの王朝と直接領土を接していた可能性があるのにも関わらず、インドとサーサーン朝との政府使節 や商業交流についての記録 は殆ど残っていません。本件、その少ない記録の一つとして気になっていたのですが、当該箇所を読むには至れていないものの、一応 出典がわかって嬉しい。

 『エリュトラー海案内記』の49節の註8(邦訳p239)に6世紀の『コスマス年代記』だと出ています。


G南インド王プラケーシン二世への使節

 ホスロー二世(在591-628年)からの使者が南インドのチャールキア朝の王プラケーシン二世
610-42年)の宮廷に来ていた様子を描いた壁画が、インドのアジャンター石窟の第一洞窟壁画に描かれているという話がありま す。インディラ・ガンジー国 立美術センターのHPに掲載されています(こちら)。残念ながら、この画像は解像度が悪く、どこにペルシア人使節がいるのか よくわかりません。壁画のこの部分のカラーの高解像度画像は、結構探してみたのですが、ネット上には無さそうです。しかし、モノ クロで、人物の輪郭を明瞭にした画像がフリーデータベースサイトibiblio.orgに ありました(英国時代を扱ったサイトに掲載されていますこちら))。

 更に、Wikipediaのプラケーシン二世の項目に、洞窟壁画から起こした想像図が掲載されています。

  壁画にペルシア使節という刻文があるわけではないようなので、ペルシア使節かどかは、使節の服装を根拠としているようですが、当 時の情勢を考えるとありそ うなことです。600年代初頭、ローマでクーデターが発生し、フォカス帝(在602-610年)が即位したことにより、前帝マウ リキウス(前 582-602年)と友好関係にあったホスロー二世は、これを口実にローマとの開戦を検討していたとされており、北東部(突厥) や、東南部(インド)国境 での軍事活動は好ましくなかったと考えられます。突厥については、ホスローの前帝バハラーム六世が戦勝していましたが、北インド は、グプタ朝の崩壊以降、 地方領主が存在していなかった状況です。そこに、ハルシャ・ヴァルダナ(在606-647年)が北インドを統一したことは、サー サーン朝にとって望ましく ないことでしょう。そこで、ハルシャ帝国の背後を牽制すべく、チャールキア朝に使節を送った、という筋書きです。

 実際にプラケーシン二 世がハルシャヴァルダナと対戦したのは、玄奘がインドに到着した後の630-634年の間のことのようなので、この時既にホス ロー二世は暗殺され、サー サーン朝は突厥に攻め込まれ大混乱にあった頃で、この点は『大唐西域記』に記載があるようです。出典の箇所の確認はできていない のですが、プラケーシン二世のWikiの英語版の記事に、当該部分の文章の英訳が掲載されて います。

 なお、アル・タバリーの歴史のホスロー王の息子、シールーヤの章に、 インド王フルミーシャーからの書状が、ホスロー二世の 治世36年目(626年)にやってきた、という記載があります。フルミーシャーとはプラケーシン二世のことで、これをう けてホスロー2世が使節を送った、という可能性がありそうです。


Hインド側で、ペルシア・ササン朝は何と呼ばれていたか

  10世紀に一部のゾロアスター教徒がインドに移住した際、古代のペルシア人の発音パールスィーそのままにパールスィーと呼ばれた ことから、サーサーン朝時 代のインドでも、サーサーン朝は、パールスと呼ばれていたと推測できるのですが、史料はないものか探してみました。前回の記事で ご紹介したグプタ朝碑文集 成を全頁検索してみたところ、註釈に2箇所「persia」の語が登場しているだけでした。続いてハルシャ王と同時代の詩人の詩 文学作品『ハルシャチャリタ』の英訳全文が こちらにあるので、検索してみたところ、2,3,7章の3箇所で「persia」の語が登場していました。『ハルシャチャリタ』 のサンスクリット原文を見 付けることが出来ていないので確言は出来ませんが、サーサーン朝は、インドでは『パールス』と呼ばれていたと考えて間違い無さそ うです。
※2019/Mar/02
斉藤達也「魏晋南北朝時代の安息国と安息系仏教僧」(PDF) 国際仏教学大学院大学研究紀要/1998-03-3、p121によると、古代インド末期の文献でpārasīと されているそうです。

『倶舎論』 (世親(Vasubandhu)作、5世紀成立説が有力〉

「mohajo yath
ā pārasīkānā mātrādigamanaṃ((邪 姪の行為のうち〕痴から生じたものは例えばペルシャ人たちの母等との生交の如きである。)」

タットヴァサングラハ(Tattvasaṅgraha) (Śāntarakṣita 作、Kama-laśīla註、 8i世紀成立〉

「na hi mātṛvivāhādau doṣaḥ kaścid apīkṣyate / pārasīkādibhir dhūrtais tadācaraparaiḥ) sadā /母との結婚などにおいては、その習慣にふけっている歎鴎的なペルシャ人たち等辻常に何の過失も認めない。)」※

〜結語〜

サーサーン朝とインドの国境や交流に関する情報は、集めてみると、意外にあることがわかりました。サーサーン朝の領域地図では、 殆どの地図がインダス川あたりをインドとの国境としているものの(Wikipediaのこちらの地図など)、中にはインド北西部を含む地図もありま す。例えばこちらのブリタニカの地図は、現インド共和国のグジャラート・ラジャスタン州を含んでいま す。こうした地図がどうしてできるのか、いままでよくわかっていなかったのですが、漸くだいたいわかったような気がしています。

@ シャープール1世(在241-272年)からヤズダギルド一世(在399-420年)あたりまでは、グジャラート州はクシャ ン朝の副王西クシャトラパ王の支配下にあった。
A 400年代初頭にチャンドラグプタ二世が西クシャトラパ王国を征服し、グジャラートとラジャスタンにも宗主権を及ぼすように なった。
B この事態を受けて、バハラーム五世が遠征し、恐らく西クシャトラパ王国へ使節を送った。もしかしたら、タバリーの史書に出て くる、バハラーム五世とインド王が連合して破った敵は、キダーラ朝ではなく、クマーラグプタ一世(在415-455年)のグプタ 朝かも知れない。
C ペーローズ時代に入り、恐らくエフタル対策としてインドに砦や町が建設される。この頃は、インダス川以東はエフタルの勢力圏 だったと思われる。
E ホスロー1世がエフタルを破り、再びインド北西部はサーサーン朝の宗主権下に入る
F 615年頃ハルシャ・ヴァルダナ北インド統一
G 626年、プラケーシン二世からホスローに二世に使節が来る。ホスローは返礼使節を出す。
H 『旧唐書』によると、ホスロー二世は西突厥に攻められ殺されたとある。統葉護可汗とホスローの死去が628年なので、この事 件 は628年の事件である可 能性が高い。この頃以前は、バハラーム六世が突厥を撃退して以降、東方領土の国境線はあまり変化が無かったかも知れない
I 突厥勢力圏となったアフガニスタン・インダス川付近を玄奘が突厥の保護下に通過する。
J プラケーシン二世、ハルシャヴァルダナ王を破る(630-4年頃)


  インド史の概説書を読むと、「インド」の地域定義は、バローチスターンを除く現パキスタンの領域全土を含んでいるので、「北イン ド統一」とは、パキスタン も含まなくてはおかしい筈です。殆ど現パキスタン領域にしか進入していない筈のアレクサンドロスや、ウマイヤ朝のムハンマド・ブ ン・カースィムの遠征は、 「インド侵入」「インド遠征」とされています。このように考えてみると、グプタ朝やハルシャ帝国は、厳密には「現インド共和国に相当する領域の北部統一」 であって、地勢 上の北インド統一とはいえないのではないか、と考えていたのですが、今回その思いを強くしました。昭和時代に歴史概説書を書いて いた学者の方にとっては、 英領インドの地図が「インド」だったので、アレクサンドロスやカースィムの遠征は、自然に「インド遠征」という認識に繋がったの だと思うのですが、パキス タンとインドが分かれている状態が前程の教科書や地図で育った世代としては、どうにも、パキスタンとインドの連続性が認識しがた いところがあったのです が、漸く解消しそうです。

 と同時に、地域的に言語的(更にはもしかしたら民族的にも)に一体だったパンジャーブ州など、パキスタンの歴 史にも興味が出てきました。古代以来、現パキスタンの領域におけるエスニシティの変遷などに興味が出てきました。古代から近代ま でを一貫して描いた『パン ジャーブの歴史』や『パキスタンの歴史』などの書籍を読んでみたいものです。邦語書籍が無さそうなのが残念です。それにしても、 パンジャーブ州の Wikipediaの記事は、英語版と日本語版では大きく印象が異なります。欧米や東アジアと比べると、インド以西の西アジアか らアフリカは、現在の国境 線と歴史的世界が一致していないことが遥かに多く、特に大きく統一された地域では、より小さな歴史的地域世界がおざなりにされる 傾向があるように思えま す。



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