ルーマニア歴史映画「シュテファン大公」

  「ユーリー・ドルゴルーキー公」「ヤロスラフ賢公」に続いて今回も東欧の作品。1974年 ルーマニア作「シュテファン大公」。今回の字幕は無く、筋はよくわからなかったのですが、シュテファンの生涯ではなく、ヴァスルイ(Vaslui)の戦い前後の一時期のみに焦点を当てた作品となってい ます。

  シュテファン(1432-1504年)は、モルダヴィア代表する由緒ある家系、ムシャト家の出で、叔父による父親のボグダン2世 (1409-51年、在 49-51年)暗殺後の7年にわたる内戦期、一時トランシルヴァニアに非難し、ヤノーニュ・フニヤディやウラド3世ドラクールの 庇護を受けるが、1457 年、ヴラド2世(ドラクール、1384-1447年、在1436-42、43-47))から軍を与えられてドルジェスティの戦い で叔父を破り、更にオー ビックの戦いでの敗北後、叔父をポーランドに追放し、ポーランドまで追撃した。最終的にポーランド王カジミシェ4世を宗主とする 講和を結び、モルダヴィア 公の地位を安泰にした。

 公は、生涯36戦のうち、34戦に勝利したとされ、当時、ポーランド、ハンガリー、オスマンという強力国家に包 囲される中、マーチャーシュ・コルヴィヌスを1467、バイアで破り、1471年、リプニックでタタールを破り、ワラキアに侵入 した。更に、1475年、 侵攻してきたメフメト2世をヴァスルイで破った。下は、侵攻中のオスマン軍。

しかし、翌年にはオスマンに破られたが、1485、1486年にもオスマンを破った。しかしポーランドがモルダヴィア人の独立を 煽動したりしたため、最終的には、1503年にバヤジット2世に年貢を支払うことを条件に支配者の地位を保持することとなった。 一方、ヴラド・テペシュ(串刺し公、1431-76、在1448、1456-62、 1476年)の娘を妻としたことから、ワラキアへの介入も行った。1504年、47年在位の後、スシャーヴァにて死去した。
 下記はメフメト2世とその臣下。ぼんぼりみたいなターバンは、単なるエキゾチズムなのか、事実なのか、興味のあるところです。

 

 下は后妃。衣装はやはりビザンツ風。

シュ テファンの装束は、ロビンフッドとか、ブレイブハートのウィリアム・ウォレスのような格好をした長髪の叔父さん。面白みも無いの で画面ショットは取る機に もなりませんでした。公の宮廷もオスマン宮廷も平凡な感じ。旧共産圏の祖国の英雄映画なので、リアリズムを追求した映像となって いて、よい歴史映画だと思 うのですが、色々東欧歴史映画を見た後では、映像的にも古く感じられ、あまり印象に残る作品とはなりませんでした。映画の出来が 決して悪いわけではなく、 台詞がわからないのが一番の原因なわけですが。。。

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