中世ルーマニア歴史映画「ヴラド・ツェペシュ」第二部

 前回の続き。1982年製作・ルーマニア 映画「ヴラド・ツェペシュ」第二部。

第 一部は1456-1459年の三年間、第二部は1462年、オスマン朝との合戦と、ヴラド・ツェペシュの人生のたったの4年間を 扱った作品。第二部は 1462年のオスマン朝との戦闘と、その後ハンガリーに亡命し、軟禁されるまでを扱っています。ご興味のある方は「More」を クリックしてください。

第二部 3年後1462年。

ヴラドの居城にオスマン使節がやってくる。下記がヴラドの居館。


やってきた三人の使節は三年間の貢納支払いを命じる。500人の子供を毎年イェニチェリに送ることも命じ、更にアドリアノープル まで貢納を持ってゆくことも命じる(スルタンは「パーディシャー」と呼ばれている。


「ターバンをとったらどうだ」といい、ターバンの上から頭に釘を打ち付けて使者を殺し、イスタンブールのメフメト二世のもとに送 り返す。下記がメフメト二世。


ユヌス・ベクを呼ぶ。彼は先代時代、ヴラドが人質だった頃にヴラドに会っているのだった。ユヌスは再度ワラキア総督につくように 言われる。

ユヌス・ベクの使者がワラキアに到着し、市場に出てワラキアからの商人に質問する。商人はどこだ?−お昼にいってます。−護衛も 無しで荷物を離れているのか?盗まれたらどうするのだ。−誰も盗ってきやしませんよ。

そ の後使者はターバンをとってヴラドに拝謁する。彼はアナトリアのカタヴァリノスの生まれで、もとはキリスト教徒だった、と自己紹 介する。ユヌスベイの提案 はハンガリーへのオスマン軍の通過についてはノー支援でOK、金、兵士、戦闘、どれも不要。貢納もムラトの代に決まったものなの でメフメトはこだわってい ない。メフメトはブダを攻めるつもりだ。その代わり友人にならないか?と提案する。ヴラドはNoと答える。ハンガリーにつくつも りか?−どちらにつくつも りもない。−それではブダ攻略の暁には、オスマンの海の孤島となってしまうぞ。風に吹かれる砂の海。転がり落ちる岩にあがなうよ うなもの。早晩世界は栄え ある三日月に覆われるんだぞ。とベイ。
剣が決める、というヴラド。そしてジュルジュを境界とすることで妥結するのだった。

ユヌス・ベイと会戦になる。
荒 野をゆくユヌス・ベクとヴラド軍。ユヌス・ベクから贈られてきた男か。国境地帯で、ユヌス・ベクの軍と会う。訪問者は戻る。ユヌ スは何かいうと、崖の上か ら大軍が現れる。逃げるユヌス・ベク。オスマンの城に退却するオスマン軍。しかし追ってきているヴラド軍もそのまま城に入ってき てしまう。捕虜を殺そうと するイェニチェリと、捕虜を解放して一緒に戦うヴァラキア軍。ユヌス軍は退却するのだった。


メフメトに報告がもたらされる。ワラキア勢はドナウに向かって進軍中で、住民はイスタンブールに避難してきていて、更にアジア側 に避難したがっていると。

一方ドナウに達したヴラドのもとには、ダンが山脈を越え、ブランを商人軍と通過しているとの報告が。また裏切り者が出て処罰して いるらしい(87)

メフメトの宮殿では、「10万の兵士がここに集まっている。アブダン・パシャはの元には150隻の船と6万の兵士がいる」という 報告がなされる。まるでヴラド軍が、イスタンブールを恐慌に落としいれ、オスマン朝を瓦解させているかのような、過大な演出。

  メフメトは、モルダヴィアもパシャ国(パシャリク=属州)にしてやる。と激怒して述べる。家臣は、なんでそんなに二つの小さな国 に力をかけるのです?と尋 ねる。メフメトは「トランシルヴァニアへの道だからだ。タタールにポーランドを襲撃させろ!ブダ、ベオグラッド、ウィーンを手に 入れる。そしてローマだ。 ヴァティカンを巨大なモスクにしてやる!」といきまくのだった。

ヴラドは戦いの前に教皇ピウスニ世に書簡を送付。

人質としてメフメトの宮廷にいるヴラドの弟。恐らくラドゥ美公だと思われる。後々彼は、オスマンの力を借りて、ヴラド追放後にワ ラキア公に即位することになる。

メフメトは4000の兵を与えて、ドナウを渡り、王座を奪取するがよい、とラドゥに指令する。

オスマン軍の大軍がドナウを渡河してくる。報告がヴラドにももたらされる。思うように軍隊が集まらないヴラド。
ワラキア側は放棄した村の井戸に毒をしかけておくなどゲリラ戦で時間を稼ぐ。

ドナウを上陸して進軍するオスマン軍。しかし兵士の逃亡も多く、2日間で5000以上の兵士を失ったりしている。


夜、オスマン軍の陣営を奇襲し、テントを焼くヴラド軍。そして、その陣営にしたオスマン兵士がどうなったかを、翌日そこを通過す るメフメト軍が見ることになるのだった。下記中央がメフメト2世。

「ユーヌス・ベイとその配下の兵士はここで1年、串刺しのままさらされていたそうです」とメフメトに部下が告げる。

メフメトの耳には、「ユーヌス・ベイ、ヴラドを覚えているか?私の父の代の人質だったのだよ」とメフメトが述べたことに対して、 ユーヌスが「私は彼とともにいたんですよ、陛下」と答えた言葉が耳に蘇るのだった。

メフメトは、その場に祈祷用の絨毯を持ってこさせて、馬を下り、全軍串刺し刑に処された兵士に祈るのだった。

そしてゆっくりと列をなして、軍楽も停止し、静かに串刺しの間を通過してゆくオスマン軍。遺体はすでに白骨化している。

  一方、ヴラドの陣営の作戦会議では、ヴラドが明晩の奇襲を提案していた。彼によると、オスマン軍はドナウ河畔に陣し、その先頭を トルゴヴィシュテの方向に 向けている。消耗して空腹な今がたたくチャンスだ、と。一撃で粉砕できる。そこでまず、輜重隊を襲うヴラド軍。この時、負傷した トルコ兵に変装し、ヴラド はじめヴラドの兵士が輜重隊の負傷者としてトルコ陣営に紛れ込むことに成功するのだった。

塹壕と堤を作るオスマン兵士。

オスマンの計画では、3軍に分けて翌夜明けDurakan ベイを右側に、アリー・ベイに20000の兵を率いさせて中央に配置 し、タルゴヴィシュテに進軍することになっていた。

メフメトの本営。

夜、ヴラドは寝ている男を刺殺してメフメトの本営に火をつけたが、それはメフメトではなかった。しかし「不信人者がトルコ人の服 を着てスルタンを殺した!」との流言が陣営を飛びまくる。その混乱に乗じてワラキア軍が襲撃するのだった。

翌朝、襲撃から引き上げてきたヴラドは、メフメトをこの手で殺した!と宣言する。トルコ人の変装に、家臣一同大笑い。

トルコの衣装をはぎとると、その下からブラドの軍装がでてきた。そして皆、ヴラドを囲んで3重4重の輪を作って踊りだすのだっ た。

それを見ていつになく笑顔のヴラド。


敗 戦の陣営を見て回るメフメト。私の隊の半数が殺され、半数がドナウに逃げ込み、多くが傷つきました、兵士は飢えて渇いている。タ ルゴヴィュテまで3時間で す。と告げる家臣。しかしメフメトは遺体を埋めてやれ、イスタンブールに引き上げるぞ、というのだった。ヴラドの弟のラドゥが、 ブライラを襲撃する案を提 案。メフメトはやってみろ、という。

ヴラドの陣営にメフメトは生きてます、との伝令が。一人草むらに腰を下ろすヴラド。家臣が、メフメトの三軍団は壊滅した。われわ れは不可能な戦闘を勝った。

今度は、ブライラを襲撃し、女子供を打ち首の姿勢をとらせて、ヴラドは公を退き、弟のラドゥを公につけるように、とオスマンの司 令官が述べる。

ヴラドは降参しよう、と述べる。「私は山脈の向こう側へ逃げる」「ラドゥをタルゴヴィシュテに連れて行け」


ブ ラショフ商人のもとに、ウラドから、以前の特権を下に戻すので、今後の支援とハンガリー王への仲介を頼む、との手紙が来る。商人 達は、ヴラドの封蝋とサイ ンを偽造し、スルタンへの手紙を偽造する。 こんなことはいつものことだよ。という商人のひとり。いわく、偉大なる王中の王へ、 帝国とスルタンへの罪をお 許しください。トランシルヴァニアをあなたのもとに返します。ハンガリーを臣従させようと思えば、可能でしょう。

プロの罪人に封蝋とサインを偽造させる。粘土を使って封蝋をコピーするところ。

取得した鋳型に溶かした蝋を入れているところ。

罪人が、これは特別な仕事だ、負債をチャラにしてくれ、というが、結局刺殺されてしまう。

ヴラドは、峠で最後までついてきた小数の家臣に告げる。
シュテファンに私の今後の計画を知らせよ。彼はSuceavaにいるのかな?

手紙を読むマーチャーシュ・コルヴィン。ここでは、ヴラドの使者から手紙が渡され、ヴラドの計画はクレイジーだとされるが、ヴラ ドを英雄として迎えることが提案される。

華やかな入場式。しかし中庭で彼の部下が殺され、ヴラドは逮捕されて終わる。


最後にテロップが出て、12年後シュテファン公支援のもとに解放され、ワラキア公に復位したが、その二ヵ月後殺されたと表示され る。

〜終わり〜

 ところで、ヴラド時代のワラキア時代(1462年)を背景とした、騎士と恋人の女性と、オスマン勢力や現地貴族をめぐる、「Sageata capitanului Ion (1973年)」 という冒険映画でも、終わり近くで数分間だけ、ヴラドが登場する。このヴラドは、現在に残る肖像のイメージに近い。本作「ヴラ ド・ツェペシュ」でも彼を採 用すればよかったものを、と思ったのですが、数分間の登場場面では、演技らしい演技も無く、ヴラドに似ているとはいえ、主役を張 れる程の演技力が無かった のかも知れません。
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