中国歴史ドラマ「楊貴妃秘史」47-49集(日本が舞台の部分)

  2010年中国で大量に宣伝していた歴史ドラマ。湖南テレビ製作。楊貴妃に興味が無いのでこ れまで見る気がしなかったのだけれど、近年の中国ドラマのことだから、ひょっとしてタラス河畔の戦いも出てくるかも知れないと思 いあらすじを調べてみたところ、博客 金烏工房さんのサイトで あらすじの紹介が紹介されているので読み始めました。最初に43-49話(最終話)のあらすじを読んだところ、楊貴妃が日本に渡 航した伝説が描かれている ことを知りました。突然興味が出てきて、43-49話だけ見てみました。鳴り物入り(だったような感じ)の割りには、安っぽい印 象の映像。少なくとも43 話以降は歴史劇ではなく、時代劇で、かなりなはっちゃけぶりでしたが、それなりに楽しめました。見た部分に関しては、演出が冗長 でしたので、半分くらいに 縮めれば、結構面白く見れるのではないかと思いました。博客 金烏工房さんのブログでも画面ショット入りで紹介されており(こちら)、あらすじ紹介文もツボに嵌っていて非常に面白く、私には金烏工房さん程 面白い内容はかけないのですが、日本が舞台の回を視聴し、時代考証以外にも面白い点が見られました。今回その点含めて日本舞台の 部分を紹介してみたいと思います。

  突っ込みどころは多いのですが、歴史劇としての一番の突っ込みどころは、奈良時代の日本人の装束が江戸時代みたいだ、という点に あると思います。しかし、 日本人が漢・唐・清代の中国装束を見分けられるかというと、恐らく普通は難しいのではないかと思います。また、ある程度は先入観 も取り入れないと、「日本 という感じがしない」ということにもなりかねません。今年放映のNHK大河ドラマ「平清盛」について、「歴史ファンタジー」と か、「史実と違う」「昔放映 した「草も燃える」の方が史実に近い映像」との感想を持っておられる方々のように、「自分の先入観に沿ってない歴史の描き方は史 実ではない」という方々も 多いものと思われます。つまり、奈良時代とはいえ、世界によく知られている江戸時代装束でないと、中国人視聴者に「日本の歴史」 という印象を視聴者に与え られない、という考え方もできます。まあ、CCTV以外のテレビ局の歴史劇や、「○○秘史」というタイトルのドラマはこんなも の、ということなのでしょう ね。

 まあ、一度死んだ楊貴妃が秘薬で蘇生してしまうドラマなのだから、なんでもアリなのだとは思いますがそもそも「秘史」なので、 まあいいんじゃないの。というわけで、日本舞台の回をご紹介したいと思います。

第四十七集

 まず、久津の地(現在の山口県長門市の、現在楊貴妃の墓のあるところ)の遠景。

 この映像はなんとなく奈良時代の国府の映像っぽい雰囲気が出ていると思います。これ多分、奈良の薬師寺じゃないかと思います。 雰囲気が出ているのも当然か。

  続いて久津に引退している元孝謙女皇の大臣渡辺誠信とその娘百合子は、江戸時代装束。渡航前の場面では「日本京都」という字幕も 登場する。遣唐使船の中の 楊貴妃も既に江戸時代町民娘風。予想通り爆笑場面。なので、楊貴妃を乗せた遣唐使船が久津に到着する直前に、渡辺誠信の元に手勢 を連れてやってきた山口県 丞大伴古麻呂とその父の装束は、割とまともな奈良時代風に見えます。

しかもこの時、渡辺誠信は、「山口県は平城京から離れているが遠くない」と、先の「日本京都」と異なり、ちゃんと「平城京」と発 言していました。しかしこ の後、渡辺百合子がやっぱり「京都」と発言しているのだった(更に奈良を中国流に「京師」と表現するパターンも出てくる)。ま あ、どうでもいいんでしょう ね。

こんな感じで奈良時代と江戸時代装束が並存しています。左端が渡辺誠信。中二人が大伴親子。右端が渡辺百合子。

 これが渡辺家。門構えは昭和の銭湯にも見えます。屋内は、手前が土間で奥が畳敷きという。。

遣唐使の随行員の一人渡辺志雄が渡辺誠信の息子という関係で久津に亡命することを計画したことになってます。遣唐使船は久津沖で 嵐にあって難破。久津の村民が救助するのでした。

  渡辺志雄(別の場面の字幕は渡辺制雄となっている。志も制も発音はzhì)の傷を手当しながら百合子が言うには、今考謙女皇の指 示で、日本人は中国語を学 ぶことになっているとかで、「でも中国語は難しくて多くの百姓は話せません」などと言っている。中国では唐代までで百万人の中国 人が日本に移民したという 学説もあるから、日本在住の多数の中国農民が出てこないだけましかも。。。取り合えず日本人も中国語を学習しているということ で、楊貴妃一行が通訳なしで 問題なく日本人とコミュニケーションが取れることの合理化がされているのだった。

 その後、航海中にお腹が大きくなっていた謝阿蛮(玄宗 と楊貴妃に気に入られていた妓女で史料では安史の乱後、長安に戻り玄宗に再会している)に子供が誕生するが、その部屋の奥の壁に は江戸時代の浮世絵。渡辺 家の座敷の奥にもそれらしい絵が飾ってあったが、浮世絵とは断定しがたかったが、こちらのは完全に浮世絵となってます。謝阿蛮の 子はどうやらタラス河畔の 唐側の総大将高仙之との子の模様。

  47話後半は中国の話に戻り、玄宗皇帝が楊貴妃の墓を訪ねたところ、墓が空であることがわかり、どういうわけか陳玄礼将軍と側近 の高力士は日本に行ったの だ、と推測し、玄宗もどういうわけかそれを信じて息子の現皇帝粛宗に日本に船を出すように命じる。しかし粛宗を皇帝につけた貢献 で宰相となった李国輔に武 力で威嚇され断念させられる。その後玄宗が、既に皇帝ではないので、大明宮殿を追われ、皇族住居用の荒廃した興慶宮殿に行くと、 楊貴妃の日本亡命を企てた 首謀者の阿部仲麻呂と藤原清河が現れ、日本で生きていることを玄宗に告げる。現在政権を牛耳っている李国輔が失脚した後、楊貴妃 を唐に戻す、との算段を伝 える。一方玄宗の言動から楊貴妃が日本に亡命していることを嗅ぎつけた李国輔は刺客を日本に送り込む算段をする。当時日本は橘奈 良麻呂がクーデターを起こ し実権を握り、考謙女帝一派と対立していたのだった(47話冒頭で登場した大伴親子は橘派、渡辺家は考謙女帝派)。日本の政争を 巻き込んで楊貴妃一派と李 国輔一派の暗闘が始まるのだった。

 と、展開的には面白いと思うのですが、どうにも冗長なのがネックな感じ。



第四十八集

二 年後(758年頃)。玄宗が李亀年という老人(皇族?)を日本に送るが、久津の村の入り口で李国輔の送り込んだ刺客とばったり顔 を合わせ、亀年さんは同船 者が同じ村にいることを怪しみ声をかける。この日は渡辺百合子と、楊貴妃とともに亡命してきた楊国忠の息子との結婚式で、二人と もそれを祝いに来たことに なっている。その結婚式は爆竹が鳴り、赤地の提灯や布が飾られ、まったくの現在の中国風。

そこに楊貴妃の似顔絵を持った大伴親子が兵士とともに捜索に乱入してきて、都にあがり、実質的な天皇である橘奈良麻呂に面会せよ と迫るが、楊貴妃は橘奈良 麻呂を叛徒呼ばわりする。そこに李亀年が割って入り、「我々は大唐国でも高貴な身分だ。それにふさわしく扱え」と大伴親子を叱り 付け、

中日千百年朝野之交往之友 誼

  と口走るのだった。記録上日本列島にある国が中国に使節を送ったのは1世紀のことで、国交のようなものが始まってからまだ650年くらいしか経っていない のに、千百年といってしまうところが、いかにも中国らしいところです。しかもなぜわざわざ千年ではなく千百年なのだろうか(※追 記:中国語の千百年は、数千年、或いは非常に長い年月の意味))。あと 中日の中は、まあ中華の略かも知れないし、中国という言葉も古代から存在したから、これでもいいのかもしれませんが、とは いえ、中華や中国という言 葉は、清朝以前では、原理的には他の国と対等に用いることはできない言葉の筈(その後調べて、清代以前でも対等に用いている事例を見つけましたので、この 点はそれほど問題ないかも知れません。しかし、この番組ではこれまで「大唐」といい続けていて突然 「中」の字が出るのがなんと も唐突感があります)。

 更に楊貴妃が、お世話になった渡辺誠信に「我々の大唐と日本は天の御加護があり、決して盗人は許されるべきではない」と、橘 一派を盗人呼ばわり。渡辺 誠信の「我日本帝国再不能容忍这幇宵小」という台詞まで登場。「日本帝国」の部分は念のため聞き直してみましたが、字幕の誤りで はなく、「日本帝国」と口 走っていました。うーむ。天皇だから帝国でもいいのかも知れないけど。まあちょっとこのあたりの台詞は露骨に政治っぽくってわざ とらしさ満々。このあたり は、たまたま製作中に日本で民主党が政権を取り、更に、民主党の防衛政策が親中派と親米派で対立したことを、橘奈良麻呂派と考謙 女帝派の対立として表現し たように思えます。楊貴妃が日本に亡命する、という構想は当初からあったのかも知れませんが、この回の日中関係うんたらの台詞は 現実の政治情勢を入れてみ たのでしょうね。当てこすりや風刺というレベルではさらさらなく、製作陣が思いつきで加えた台詞のように思えますけど。

 こちらは山口県 国府城。城壁に囲まれているのがそもそもこの時代の日本の国府と違うと思うのですが。奥に看板があり、ひょっとしたら中国の地名 が書かれているのかも、と 拡大してみたのですが、画質が悪く確認できませんでした(この後橘打倒に兵士の訓練をする渡辺志雄達が登場するのですが、その時 の映像は、渡辺家の周囲は 下記国府と同じような城壁に囲まれていました。47話では久津村は簡素な木柵と櫓で囲まれているだけの筈だったのです が。。。)。

  この城の中庭に捕らえられている楊貴妃一行が宴席の歓待を大伴県知事から受けるのですが、その時大伴古麻呂が言うには、橘奈良麻 呂様は楊貴妃を妃に迎える という計画。箔をつけるというわけですね。でも楊貴妃って皇族でも何でも無いんですけど。。。しかしこうして厳重に国府に軟禁さ れているので、刺客も手が 出せず、楊貴妃救助を騙って渡辺志雄に近づき、ともに国府城に討ち入るのだった。が。予想していた大伴古麻呂が橘奈良麻呂の近衛 軍(京師羽林兵士)を率い て渡辺軍を包囲し、形成逆転。しかしここでまた渡辺父が復位に成功した孝謙天皇の命で軍を率いて駆けつけ、大伴軍を打ち破り大伴 古麻呂を逮捕するのだっ た。それにしても演じているのは中国人とはいえ”日本人”がワイアーアクションする場面が出てくるとは思わなかった(このドラマ を見た時点では田中麗奈さ んが「幻遊伝」なる台湾映画に出ていたとは知らなかった。ワイアーアクションしてるらしい)。しかも、中国人が演じているのに、 なぜか日本人役の人たちが 日本人に見えてしまうのが不思議。と思っていたら、渡辺志雄は小山田将という日本人が演じていた。小山田将さん、ワイアーアク ションしたんですねえ。

 さて、一件落着かと思いきや、渡辺(子)軍に参加していた刺客が楊貴妃に襲いかかり、楊貴妃をかばった李亀年老人が刺殺され る。刺客も渡辺(子)に殺されるところでこの回終了。


第四十九集

平城宮で考謙女皇に面会した楊貴妃。女皇に大唐への帰国を訴える。涙を流して了承する天皇。

この時の女皇の装束は髪型は江戸時代だったものの、衣服と宮殿はあまり違和感はありませんでした。当時は中国風だった筈ですし。 とはいえ、地域も時代も不明な衣装であることには変わりませんが。

  阿蛮が遣唐使船でまずは、政情を探りに唐に戻ることに決まり、阿蛮が宮殿に入る時、宮殿入り口の上に「平城宮」の文字が。どうや らこのドラマでは、平城京 は京都/京師と呼ばれ、平城とは宮殿単体の事を示しているのかも。宮殿は結構奥行きがあり、退位後の玄宗の住まいより立派な感 じ。で、その考謙女皇様。麻 生祐未さんとのこと。

  762年。玄宗の側近陳玄礼と高力士が李輔国によって流刑にされ、興慶宮の使用人も追い出される。玄宗は楊貴妃の彫像だけは守ろ うとしているうちに常軌を 逸した言動となり、命は助けられ放置される。その三ヵ月後、日本から遣唐使が到着。使者は渡辺制雄と謝阿蛮。阿蛮は特使として玄 宗への面会を望むが、病弱 な粛宗と太子は早々に宮廷から引き上げてしまう。下記左がその宮廷。たぶん日本の平城宮と同じセットなのだろう。多少豪華に見え るが規模は同じくらいか も。

上 右は荒れ果てた興慶宮。CGだと思うが、よくできていた。一瞬しか映らなかったのが残念。阿蛮と渡辺は興慶宮に向かう途中集団に 襲われて拉致されるが、そ れは李輔国の目を欺くための太子の仕組んだものだった。阿蛮は無事興慶宮の玄宗のもとに届けられる。そこで再会したのは仙人のよ うなよれよれの風貌となり 盲目となっていた玄宗だった。玄宗は阿蛮は認識するが、楊貴妃が日本で存命していることは認識できず、思い出の楊貴妃の姿を追い 続けているのだった。

  この後はナレーションが続く。762年玄宗は78歳で死去し、その13日後、粛宗が死去。太子が代宗として即位し、李輔国を誅 殺。阿蛮は玄宗が大事にして いた楊貴妃の彫像を日本に持ち帰り、その像は山口県の海岸に今も立っている。楊貴妃は日本に留まり、いつ死去したのは詳らかでは ないが、時代が下る程楊家 のその後はわからなくなっていった。貴妃死後、阿蛮は子供をつれて高仙之の故郷に移り住んだ。そして最後に荒れ果てた大明宮の CG映像が映り、907年唐 朝滅亡して終わった。と語られて終わり(この映像は、CCTV製作の、唐代長安の宮殿大明宮を扱った「大明宮」に登場していた映 像のように見えます。流用 かも)。

うーん。つきぬけぶりは良かったのですが、橘奈良麻呂と考謙天皇との政争にもっと楊貴妃一行が巻き込まれていって、平城宮での政 争が描かれてもよかったかも。ラストは海岸に立っている楊貴妃像とかを写してもよかったかも。山口県への中国人観光客が増えたか も知れない。

 ところで、最後にエンドクレジットを見たら、日本人は六人も出演していました。

 これを見ると、中国人としか思えなかった渡辺誠信、大伴古麻呂、佐伯全成は日本人、日本人かも、と思っていた渡辺百合子は日本 人、そして日本人かも、と思っていた阿部仲麻呂と藤原清河は中国人が演じていたんですねえ。。。

Wikiの番組紹介はこちら
中近世中国歴史映画一覧表はこちら

BACK