永昌堡

 

永昌地区にある教会

紹介

永昌地区にある文化保存指定地区にある橋

 対倭寇防衛線の為に築城された堡塁。もともと永嘉県の郊外に、対倭寇防衛目的として 1387年に築城された寧村所城があった。1550年代、倭寇侵冠が激化したときに、永興堡と同時期に民間の手で築城さ れた。扉写真の左側の城が永嘉県、右上が、寧村所城、右下が永興堡、真ん中が永昌堡という位置関係にあり、永嘉県は、現 温州市街のあたりだと思われる。寧村所城は、現温州市龍湾区の寧城街付近(永強空港北500m)、永興堡は永興街道付近 (空港南4km、永昌堡の東1km程)にある。寧村所城、永興堡とも、若干に遺構が残っているようだが、もっとも豊富な 遺構を留めているのが永昌堡である。左右写真のように、永昌堡付近は、文化保存指定地区となっていて、清代と思われる橋 がいくつも残っている。

永昌堡北側城門と水路口

左写真と同地点から撮影した 北城壁

 

 永昌堡は、周囲2568m、南北778m、東西 447mで、南北に長い長方形をしている。下中央写真の地図の右側が北となっていて、左橋の上側の水門が、左写真の水門 である。上の水門は、上河北水門、下の水門は、下河北水門と言う。城壁は高さ8m、基壇の幅は4m。1558年地元の名 士、英橋王氏の、王叔果(1516-1588)、王叔杲(1517-1600)の兄弟の出資により築かれた。

 永嘉県への倭寇侵冠は大体下記の状況となってい て、1558年はもっとも頻繁に侵冠のあった絶頂期にあたる。

1期.1369-1551 13年に一度の侵攻

2期.1552-1562 毎年侵攻

3期.1563-1632 8年に一度の侵攻

 

永昌博物館にあった地図

王氏宗祠(現永昌博物館)(1543年建設)

中でも、1556年以降頻繁に付近を倭寇が襲っ た。

 

1556年 10月数千人規模の侵攻

1557年 7人の侵攻

1558年 4月5日17隻800人、4月23日 再度侵攻

 

 このような状況にあって、当時都にいた王叔果は 急遽戻り7000両を拠出し1558年11月堡塁着工、翌10月完成した。これが永昌堡である。英橋王氏は初代王毓 (1360 -1426年)から現在まで続く名門家系で、代々の当主の絵と写真が博物館掲示されており、役人を輩出している。科挙の出身者も多く、状元1名(首席合 格)、榜眼1名(2位合格)、伝臚1名*1、進士16名、挙人30余名を出しているとのこと。 この近辺は、唐代以来、 全国でも重要な塩採掘場となっていて、「温州府志」という地方志によると、明万暦時代には2万7000石/年 の算出が あったとのこと。

左地図、北上水門を入って西側 (上)の区画。前の通りは上河水に沿った英橋街。

文化保護対象民家。貧しい街の 一部となっている

特に説明はなかったが典型的な 明清代建築様式

東昌橋(中心部と環海楼との間)

環海楼(1988-89年復元。東門に相当。 甕城となっている。上の地図では、下の中央にあたる)

環海楼南側に城壁内部に入る道路があるが、未 舗装でゴミだらけ。最近の中国を象徴する景色となっている。

 

 

 宋代に温州府に5つの塩場が作られた。東清の長 林場瑞安の双穂場、永嘉の永嘉場*2、平陽南の天富場、玉環北の天富場である。永嘉場は永場(現永強)とも呼ばれた。近 所には永興堡の遺構がある。また永昌堡の内部には、1539年建築の王徳*3の故居や、状元里6号門台と呼ばれる遺構、 11の橋などが残る*4。こちら 公式サイトに写真入り遺跡マップがある

 

*1 伝臚 科挙において、皇帝が直接行う試験を殿試というが、合格者は、3グループにわけられる。第一グループの1位、2位が状元、榜眼。第2,第3グループ の首席が伝臚。詳 しくはこちら

アクセス情報

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 浙江省温州の温州永強空港から南西へ5km地点 にあり、現地名は永昌街道(街道とあるが、地名らしい)。空港から徒歩1時間。地図に記載のある市バスは、近くの永強大 道を62路と21路が通っている。永興商場付近で下車し、西へ1km程。地図にない市バスだと、環海楼の前の通りを空港 近くまで行く市内バスが通っている。バスでは行きにくいので温州永強空港からタクシーか徒歩がお勧め。帰りは散歩がてら 歩くと良い。永昌堡の情報は、日本語サイトは少ないが、かなりの数の中国サイトがある模様。特にこの永昌中学校のサイト公式サイトと思わ れるこちらのサイトに詳しい。なお、永昌博物館の説明では、後期倭寇の主力が中国人だったとの記載はなく、 日中戦争時の抗日戦争系の博物館の展示同様外敵防衛の見地からのみの淡々とした展示となっている。こ ちらにも多少写真あり

 同様の対倭寇防衛拠点では、同じ浙江省の臨海市 にある戚継光の築いた臨海城壁がある。こちらの「上 海ウルトラマラソン」ブログの「臨海城壁」の記事に詳細な訪問情報が掲載されている。

 

*2 現永嘉県は、瓯江を挟んだ温州市街の北側に あり、永嘉塩場の場所とは関係がない。元永嘉塩場は、現永強。

*3 1558年の倭寇で4/6日の戦いで王沛( 1485 — 1558 )、23日の戦いで王德(沛の甥、1517 — 1558 )が戦死。激戦のくだりは、公式サイトの こちらに詳細がある

*4 1661年、西面全部と東面の環海楼以南は 壊され、内部に一般人が居住し商店も開設され、普通の町とされた。

 永興堡は、正式名称は、「中界山巡検可防堡」と 言い、俗称は「老城(古城の意)」、嘉靖三十七年(1558年)に建設された。当時永嘉塩場は恒常的に倭寇の攻撃にあ い、殺人や放火、財産を略奪されていた。民衆は築城を論議し、巡塩御史である凌儒が民意に従って塩場保護の為城堡を築い た。写真と詳しい説明は、こちらの永昌中学校のサイトに ある。現永興街道にある。寧 村所城の説明は同サイトのこちら。寧城ともいう。