2009/Aug/31 created
後漢時代の映画「張衡」

 後漢時代のドラマというと、光武帝を扱ったテレビドラマ「光武大帝」か、 後漢末期を扱った三国志ものばかり。後漢最盛期の安定した社会を見たいと思っていました。「張衡(1983年)」という映画があ ることは、学生の頃に見に 行った中国映画祭のパンフレットで目にし(そのとき見たのは「曹操と華佗」。大して面白くもなかった)、20年以上ずっと見たい と思っていた作品です。字 幕が無く、映像を追っただけですが、漸く見ることができました。

 張衡(78-139年)は、 後漢の科学者・文学者。南陽(河南省)の人。字は平子。詩賦にすぐれ、長安を描いた「西京賦」、洛陽を描いた「東京賦」(合わせ て「両京賦」という)を書 いた。渾天儀(天球儀)、地動儀(地震感知機)を作った人(日本版Wikiに記事がほとんどないので、追記しておきました)。
 
 こちらのページ(中国語)に、映画の筋の紹介があります。一応下記に訳出してみました(一部映像から判断して補足しましたが、 この解説だけではどうにも筋の展開が附合しない箇所があります。。。)

【あらすじ】

  後漢時代の天文学者で文学者の張衡(字は平子)は、地動儀製作する為、首都に役人として招聘されたのを断り、未婚の妻蘭竹と別 れ、親友の崔瑗とともに京都 洛陽に師を求めて友のところを訪れることにした。途中地震で崩壊した情景を見て、災害後、幸いにして生き残った老百姓が城門の外 で災害を消す為の祭をして いるところに出くわした。祭台の上を見ると、方士が神を弄び、鬼を作り、彼らは挖出预先前もって埋めていた石牛を取り出し,その 中から"図讖"を取り出 し、更に一人の"妖人"を切ろうとした。張衡はそれを見て青ざめた。それの"妖人"とは、彼が訪ねようとしていた有能な工匠、車 羽だった。車羽はつながれ ていた鎖を解き放ち、祭台の上に上って彼を石牛とともに埋めさせようとした方士につかみ掛り、彼と兵士を殺そうとして包囲を突破 し逃走した。

  張衡と崔瑗は洛陽城に到着し、崔瑗が餅を購入したとき、城門外の祭台の下にあった"図讖"も一緒に焼こうとしてしまい、役人に捕 らえられそうになった。丁 度そこに太史令が通りがかった。太史令桓震は、張衡が師事したく老師だった。彼は熱心な科学者だった。桓震は彼らを助け、彼らを 家に招いて天文暦算を伝授 した。張衡は一方で太学府で書を写し、一方で地動儀を製作した。地動儀の模型が完成したが、それは騎督尉・曹譜の恐れを引き起こ した。彼は地動儀を"妖 器"とし、焼却するように命じたが、これが、「両京賦」の作者で著名な張衡が製作したものだと知り、賞賛した。彼は張衡を家に招 き、宴会や女色を使って張 衡をもてなした。曹譜は、"図讖"を作り変えようとしていたのだ。桓震は"図讖"を上奏することを絶対に行わなかったので罷免さ れ雁門に流刑となった。蘭 竹は自殺させられていた。車羽は採石場で苦役をさせられていた。差し入れをする張衡。しかし彼が次に来たときには、車羽は採掘場 で死亡していた。(が、実 際は、採掘場の死体は、名前の刻まれた墓碑が死体についていただけで、車羽だとはわからないようにして、逃亡してたということら しい)

  数年後皇帝は改元し、大赦した。桓震は復職し張衡と協力して地動儀を製作した。地震があった時、曹譜は太后に協力して皇太子を廃 そうとし、高山の方士に石 牛を埋めさせた。これら一切は、山中で山賊となっていた車羽の知るところとなり、車羽と張衡は連携し、曹譜の陰謀を彼に教え、曹 譜の陰謀を公に暴く準備を したが、相手は情報を得て、先制してきた。張衡を太史令として招聘し、桓震に死を賜り、桓震は自殺した。張衡は遂にわかった、自 分の失言の為に人を告発す ることになってしまったことに。張衡は太史令の職を辞し、気落ちしてしばらく旅に出、地震で壊滅した城市に通りがかったりした。 その災害を目にし、彼は地 動儀製作のことが心の中にずっと心残りであった。その後京師に戻り太史令となり、洛陽に戻った。地動儀の鍵となる問題が解決した 夜、車羽が捕まった。崔瑗 が名乗り出て、張衡に代わって獄に下った。地動儀は地震の確実な振動を伝えた。張衡は《駁図讖疏》を上奏した。幼い順帝は論駁さ れ、曹譜は車羽を腰斬の刑 に処した。張衡は職を辞し、京師を離れる前、彼の前に災害にあった多くの人々が彼を見送りにき来たのだった。

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