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アッバース朝と唐・宋・元・清の財政規模

 ビザンツやオスマン朝、イル汗国やファーティマ朝の財政規模について、各々比較 しても整合性の ある数字が取れ、どうしても唐とアッバース朝の財政規模を比較してみたくなり、推計してみました。あまりきれいなロジックにはな らなかったのが残念ですが、一応整合性のある数値を得ることができました。ご興味のある方 はこちらをご覧ください

これで、主要な大国の財政規模の記事が大体出揃った感じです。労働者の年収100万、食費30万と仮定して計算しています。

■ローマと漢については、こちらに記事がありま す

(1)ビザンツとオスマン朝と明について

 数字のお遊びで、オスマン朝の財政金額と明代の財政金額を日本円に換算して比較してみました。オスマン朝の換算方法は、こちらの記事にありますので、ここ では明代の換算式を書きます。

・『中国的貨幣金融体系(1600-1949)』(燕紅忠著/中国人民大学出版社/2012年) p234に明代歳入一覧表があり、その1602年は、

 米2837万石、布39.5万匹、絹14.8万匹、宝紗0.1万錠、銀458万錠

とあります。一条鞭法により布や絹、宝紗などは銀納に一括されたので、米2837万石を1石あたり1.15両(1600年頃 のデータが見つからなかったので、1652年の値で換算)で換算すると3262万両、これに458を加えた3720万両を歳 入合計額とする(布や絹は小額なのでここでは無視する)

・『明清中国の経済構造』(足立啓二/汲古書院/2012年)p161に、明末清初の農業経営のコスト細目一覧表があり、3 人の農業労働者の賃金が51両(一人当たり17両)とある。17両を100万円とすると1両約5万8824円となる。

 以上の値から、明代の1602年の歳入は、2兆1882億3529万円となります。オスマン帝国の1582/3年の歳入は 3764億8800万円です。オスマンは明の約1/6です。一方1602年頃の明の推計人口が1億5300万、16世紀のオ スマン朝が約1500万なので、人口で1/10のオスマン帝国の歳入が1/6なのだから、 オスマン朝の生産性は結構良いということになりそうです。

 しかし、これにはその先があります。明の財政は中央財政の歳入ですが、オスマン帝国は、直轄地であるアナトリアとルメリア (バルカン半島)の地方財政の一部も含んだ値だと考えられます。直轄州以外の地域は、貢納金だけが中央財政の収入とされてお り、アナトリアとルメリアは、「貢納金」相当額以上の税収であることから、非直轄州の地方財政の一部に相当する部分の税収額 を、アナトリアとルメリアについては含んでいると考えられ、その結果、アナトリアとルメリアの税収額規模が、非直轄州の税収 規模より遥かに多い額となっていると考えられます。こういうわけなので、仮にアナトリア・ルメリアと非直轄州を同じ税収範囲 で税収額を算出し、明とオスマン朝の税収範囲を同等の基準にして比較すれば、どちらも人口規模に比例した同じスケールの歳入 額となるのかも知れません。

 更に別の方向からの検討も可能です。

 明代の人口推計値は1億5300万ですが、史書に残る値は6000万人です。人口推計値は、中国史上他の時代のデータ、平 和時は最大年率2%、平均1%の増加率を想定して算出したものです。恐らく、課税逃れの為に戸籍登録をしていなかった人口が 多いものと考えられているようです。史書の数値では、明初から清初まで一貫して6000万人前後であり、これは実情と違うの ではないかと疑問を持った清朝の康熙帝が、税額を固定することで、実際の人口を把握するようになって人口増加が見られるよう になったことから、このように推定されているようです。明初から清初の間の平和時混乱時に年間人口増減率を割り当てて算出す ると、1600年頃の明の人口は1億5000万程と推計される、という話です。

 明代の人口にはこのような留意点があるのですが、実際に人口が1億5000万人であったとしても、実際に納税していたのは 史書に残る6000万人程度ですから、国家財政も、この6000万人に支えられていたわけで、このように考えると、6千万の 人口で2兆1882億の財政を捻出しているということは、仮にオスマン朝人口が4倍の6000万とすると、3765 億*4=1兆5060億円となり、明の方が徴税能力が高い、或いは、富裕だったと見なすことができます。なお、1兆5060 億円という値は、人口5000万時の古代ローマ帝国の中央税収額1兆2800億円と近い値となっています。オスマン朝の徴税 力は、古代ローマの徴税力に近い、ということなのかも知れません。

  ところで、明の2兆1882億円は、前漢末の中央財政額2兆5600億円と近く、どちらも政府把握人口が6000万人で すから、漢と明では、国家の徴税構造・人口などがあまり変わっていない、中国史は、ずっと静態的に同質的な国家体制が続いた ことのひとつの証拠ともなりそうです。その反対に、漢代に比べて明末の方が商業が発展していたことは間違いないので、明朝の 国家構造が旧態的なために、新興の商業の徴税機能が追いついていなかった、とも考えられます。

 このように、数字をあれこれ比較して考えてみると、いろいろと面白い側面が見えてきて楽しめます。


 話をオスマン朝に戻しますと、オスマン朝は面積が広いので、オスマン朝と比較するなら、ムガル帝国や明という先入観があっ たのですが、人口規模からすれば、同時代の日本と比較すると、案外数字が近くなるかも知れません。

 しかしなんというか、適当に資料から数字をもって来て少し計算しただけでも、それなりの値となるということは、それ程実情 から遠い値では無い、ということなのかも知れません。


(2)ビザンツと同時代の北宋について

簡単に計算してみました。財政収入が1614億文、1石(66リットル)=1500文、一人年間9石消費するとして 13500文を30万円すると、一文22.22円となり、円換算額で3兆5866億円となります。

■マムルーク朝、イル汗国、サファヴィー朝についてはこ ちらに記事があります

(3)マムルーク朝・イル汗国と同時代の元について

簡単に計算してみました。財政収入額6053億文、一石(94リットル)=5000文、一人年間5石消費するとして 25000文を30万円とすると、1文12円となり、2兆4212億円となります。だいたい漢王朝と同じくらいです。元の人 口はだいたい6000万人で、漢王朝と同じくらいなので、財政規模が同じになるのは、ありそうな話ですが、元朝の場合、歳入 のうち5378億文(88.8%)が商税である点に大きな特徴がります。漢朝の場合は、163億銭のうち商税は38億銭で、 23.3%ですから、税体系に大きな違いがあるのにも関わらず、だいたい同じ総歳入額になる点には興味深いものがあります。

(4)清と英国
 アヘン戦争時の英国と清ではどうなのか、これも簡単に計算してみました。



1842年頃の歳入3714万両。この前後の年の米価は一石2.26両。更にこの年の銀一両は1572文なので、2.26 両=3553文。年間食料5石として、17765文=30万円とすると、1文=16.9円。賃金の面からみると、乾隆年間の 日当140-200文。年間労働日数300日とすると6万文。これを100万とすると、1文16.67円でほぼ同一となる。 3714万両は、9866億9095万円となる。

 地租と人頭税は、盛世滋生人丁として2462万人に固定している(残りは商税)ので、歴代王朝と比べても、財政規模はだい たいあっていることになります。清朝は小さい政府だったといえそうです。

英国

 1841年頃の年収はどのくらいになるのかも調べて見ました。1841年の英国の歳入は5300万ポンドで、うち3200 万ポンドが借入金、その多くは国債です。これは、どのくらいの財政規模なのでしょうか。
 Henry Phelps Brown, Sheila V. Hopkinsの1981年の著書『A Perspective of Wages and Prices 』のp2にある13世紀から20世紀の英国賃金物価グラフ、及びp12にあるそのデータ表によると1841年頃の一日の労働者の賃金は32ペンスとなって います(Googlebooksでp13の物価表を見ることができます)。

 年間300日働くとして40ポンドになり、100万円を40ポンドとすると、1ポンド2.5万円です。すると、5300万 ポンドは、1兆3250億円となり、清朝財政を上回ります。英国の純歳入は2100万ポンドで、約5250億円となり、清朝 の約半分です。純収入だけでは到底財政的には及ばないところだったといえそうです。借入金含めると清朝の歳入を上回るわけで すから、民間や外国の経済力を吸収する国債という技術は、非常に重大であったといえそうです。当時の英国が清朝に戦争をしか けたのは無謀ではなかったといえそうです。

 なお、この頃の英国の人口は2700万人程度で、清朝の納税者人数の2462万人を上回っていますが、近い数字です。対す る中国の人口はこの頃4億1000万人。清朝の商税割合は約20%ですから、地租と人頭税2462万人分で、当時の英国に対 抗するのは財政的に無理があったといえそうです。

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