唐とアッバース朝の財政規模


 ビザンツやオスマン朝、イル汗国やファーティマ朝の財政規模について、各々比較しても整合性の ある数字が取れ、どうしても唐とアッバース朝の財政規模を比較してみたくなり、推計してみました。あまりきれいなロジックにはな らなかったのが残念ですが、一応整合性のある数値を得ることができました。


【1】唐の財政規模

(1)唐代財政収入表(最盛期8世紀半ばの天宝年間のもの)

種別-
細目-
一人あたりの納税額
貨幣換算額*1
--総収入*2
唐代貨幣換算額-

粟米
2石
750文
2500万石
93億文7500万文
調

2丈
750文(絹100文、 棉650文*3)
740万匹
7億4000万文


3両
185万屯
24億文


2丈5尺と三斤
750文(2丈5尺は690文、三斤は60文*4)
1605万端
221億4900万文
戸税



200万貫
20億文
総計



5230万
366億6400万文

*1 宮崎市定「唐代賦役制度新考」(『東洋史研究』14巻4号1956年3月)によると、租・調・徭は、徭役の日数換算するこ とができ、租=力役15日=雑徭30日=絹+棉=麻・布 と解析している。更に史料から力役一日50文と算出できるため、 15*50=750文=2石 という計算が成り立つ。

*2 総収入額は、渡辺信一郎『古代中国の国家と財政』p471にある天宝年間財政収支概要表から。その表の数値大元の引用史料は「通典」巻6。

*3 彭信威『中国貨幣史』  p207に「絹一匹200文」とあり、一匹=4丈なので、2丈は100文として換算。絹2丈100文とする と、棉三両は650文となる。棉6両が1屯なので、棉1屯は1300文となる。

*4 絹1匹(4丈)=200文=絹40尺、麻一斤絹4尺*5なので、麻1斤は20文、麻三斤は60文。すると、麻2丈5尺が 690文となり、1端は5丈(講談社学術文庫『隋唐帝国』p309)なので、1端=1380文となる。

*5 《唐代财政史稿》李锦绣著北京大学出版社95年7月第一版 によると麻一斤=絹4尺(こ ちらのサイトから引用


(2)日本円換算額

 アッバース朝の財政と比較するために、便宜的に日本円に換算します。唐代の一石は60リットルで、一人当たりの食糧として年間 9石 (540リットル)消費するとする。これは一日あたり約1.48リットルとなるのでかなり多いが、『漢書』の食貨志(岩波文庫 p130)にある、漢代の消費量と同一であると想定したもの。現時点では他に史料が見つからないので、便宜的にこれを採用する。 一人当たりの年間最低食費を日本円の30万と仮定すると、9石で1800文、1文=166.7円となる。これで盛唐366億 6400万文を換算すると、日本円にして6兆1118億8880万円となる。

ところで、力役の一日50文という値は、8335円となり、労働者の年収に換算すると、365日働いたとすると、304万円にな る。食費の10倍となり、 あまりに高すぎる。下級官吏の年俸は1万文なので、約167万円となる。そこで、力役年間200日働くものと仮定すると、166万7千円となり、下級官吏 の年俸と等しくなる。漢代と比べると、下級役人、労働者とも年収は1.5倍程度となってしまうが、唐代は、漢代と比べて生産性が 高くなり収穫が高くなったわけではなく、寧ろ 生産性は若干低下している(詳細は「古代・ 中世の農業生産性(収穫倍率)の比較」 参照)ため、労働力の評価額は高くなっていると考える方が妥当でなので、漢代と同様、一文=160円を採用することとする。

すると、食費28万8000円、下級官吏の年俸160万円、年間歳入5兆8662億円となる。



【2】アッバース朝の財政規模

 

税収*1
イラクの小麦価格*2
イラクの労働者賃金(月)*3
743-4年

1ディナールで22.7-25.96kg

750-1年

1ディナールで34.25kg

762-6年


10ディルハム(0.666ディナール)
766-7年

0.112ディナールで100kg
0.1-0.156ディナール
766-7年

0.29ディナールで100kg

768-9年

0.088ディナールで100kg

772年

0.027ディナールで100kg

788年
4億4955万ディルハム
0.51ディナールで100kg(791年)

795年
4億6717万ディルハム


800年
5億2027万ディルハム


814年
4億1700万ディルハム
0.34ディナールで100kg(815年)

819-851年
3億9451万ディルハム
4ディナールで100kg(822年)

845-873年
3億5176万ディルハム
5ディナールで100kg(874年)
1.6-1.8ディナール(9c後半)
892-902年

2ディナールで100kg

10世紀初頭

1.367ディナールで100kg

915年
2億7500万ディルハム
9ディナールで100kg(919年)

935年

4ディナールで100kg
2ディナール(10c前半)
941年

4.4ディナールで100kg

942年

10.8ディナールで100kg

946年

1.78ディナールで5.625kg


* 1ディナール15ディルハムとして換算
*1 The Third Century Internal Crisis of the Abbasids DAVID WAINES著(PDF)p284
*2 Michele Campopianoの『State, Land Tax and Agriculture in Iraq from the Arab Conquest to the Crisis of the Abbasid Caliphate (Seventh-Tenth Centuries) 』(PDF)p49
*3 762-6年の額だけ出典は、ヒッティ「アラブの歴史 上」p624

 幾つかポイントがあるので、それを個別に見ていきます。

(1) 766年から814年までのイラクにおける物価下落

766年から、マームーンの治世開始期(814年)まで、物価が極端に下落しています。750年は、4-5ディナールで 100kg、750年には3ディナールで100kgの小麦を購入することができ、更に819年から941年の間も、概ね小麦 100kgあたり4-5ディナールで安定しています。つまり、通常の価格は100kgあたり4-5ディナールだと考えられます。 中間値を取り、平価を100kgあたり4.5ディナールとすると、小麦価格は、766年はその1/40、768年は1/51、 772年は1/166.7にまで達しています。その後、788年に1/8.8、814年には、1/13.2へと収縮し、822年 に4ディナールへと戻っています。これに対して、政府歳入額はあまり変動がありませんから、イラクの物価で政府歳入額を評価する と、この期間、歳入額が最大約167倍になっていたということになります。

 原因は、バグダード建設(762-6年)や、徴税力強化などにより、民間から国家に貨幣が吸い上げられ、貨幣が稀少化していた ことにあると考えられます。また、マフディー時代までイラクの地租は固定税(ミサーハ制度)だったので、穀物が豊作の場合は穀物 の価格は下落し、農民は納税の為低価格で穀物を売却して納税用の貨幣を入手することになり、商人は低価格で入手した穀物をイラク 外の地へ転売して儲けていました。ミサーハ制度のもとでは、このような傾向が加速していった様子が表から見て取れます。元々国家 の歳入額を安定させる目的で導入されたミサーハ制度の元では、際限無く穀物価格低下が続くようになってしまったので、マフディー 時代に見直され、ムカーサマ制度(作物生産高に応じた納税)に変更となり、次第に穀物価格は上昇し、9世紀初頭には、8世紀中頃 の値元に戻ることになりました。

(2) 労働者の賃金と小麦価格

766年の小麦価格0.112ディナール=100kgは、1.68ディルハムにあたり、1人あたりの年間食糧を300kgとする と、5.04ディルハム、これを日本円で30万円とすると、1ディルハム59523円になります。一方、この頃の非熟練労働者の 賃金は、月0.1-0.156ディナールなので、ディルハムに換算すると月1.5-2.34ディルハム、年収 18-28.08ディルハム、上で算出した日本円換算率で換算すると107万-167万円となります。 

もう一つの例を計算してみます。9世紀後半のガラス職人の月1.6-1.8ディナール=24-27ディルハム=年収 288-324ディルハムとなります。この時の小麦価格は100kgあたり5ディナール(75ディルハム)ですから、300kg で225ディルハム=30万円として換算すると、1ディルハム1333円となります。すると、ガラス職人の年収は38万から43 万円となります。食べてゆくのがやっと、という額になります。一度下がった賃金は、小麦価格の上昇ほどには上がっていない、とい うことなのかも知れません。しかし、逆に、小麦の値段が高すぎる、という可能性もあります。ガラス職人の年収の中央値をだいたい 300ディルハムとし、これを100万円とすると、1ディルハム3333円となり、小麦の値段は74万9925円となり、物価高 ということになります。


(3)日本円への換算

3−1) 上記(2)の最初の事例の割合を用いた場合の推計

 最低食料費30万 円で、年収107-167万円のモデルです。これは、唐王朝と比較するにあたり、算出した労働者の年収162万円、非熟練労働者 の年収81万円に近い値となっている為です。従って、物価下落時の日本円換算額は、3万や10万という低い値を採用せず、唐王朝 と同様、生活最低食費は30万円を用いて計算することにします。仮に、労働者の賃金が300万円とかで、食糧が30万円という数 字が出たとしたら、 大豊作による価格低下として食糧価格を10万円と評価し、労働者の賃金を100万円とするなどを検討することになりますが、そうは ならなかったので、食糧価格30万を唐王朝と同様採用します。

 マームーン時代815年 小麦価格100kg0.34ディナール=5.1ディルハムなので、年間必要最低食糧300kgは、 15.3ディルハムとなり、これを30万とすると1ディルハム19867円となり、歳入額4億1700万ディルハムは、8兆 2729万円となる。

3−2)上記(2)の後者(物価高)の事例の割合を用いた場合の推計

 マームーン時代819年 小麦価格100kg4ディナール=60ディルハムなので、年間必要最低食糧300kgとすると、 180ディルハムですが、この値はインフレだと考えられるので、これを75万円とすると、1ディルハム=4166円となります。すると歳入額3億9451 万ディルハムは1兆 6436億円となります。

(5)数値の評価

上記(4)の815年の値約8兆円であれば、唐王朝の約3兆の2.7倍となり、819年の約1兆6436億円であれば、唐王朝の 半分になります。 以前の記事(@A)の結果からすると、オスマンとサファ ヴィー朝合わせて5000億円、マムルーク朝とイル汗国合わせて7000億円くらいの換算なので、9世紀後半以降のイラクの塩 化・戦乱による土 地の荒廃と貿易ルートの変更による税収低下や、大航海時代になり貿易ルートが変わり、貿易収入が激減したことを考えると、アッバース朝の→1兆6436 億円→マムルーク朝と イ ル汗国7,000億→オスマン朝+サファヴィー朝5000億円という流れは妥当そうです。また、人口2500万程度で1兆6436億円とす れば、唐王朝人口5300万で5兆と比較した場合でもある程度は妥当な値となります。

 一方の815年の8兆円という額はどうでしょうか。これは、イラクにおける定額納税制度(ミサーハ制度)の影響が残っている時 期の、イラクの物価による評価額なので、エジプトやシリア、イランなど、他の地域での物価と賃金で計算した場合、評価額はだいぶ 減少するのではないかと思われます。そこで、イラクとその他の地域を分けて算出してみます。

ヒッ ティ著「アラブの歴史(上)」(講談社学術文庫)p615(註によれば史料出典はクダーマ『地租誌』p237-52)に、 「サワード(イラク) 1億3000万(うち現金809万)、ホ ラサーン 3700万、エ ジプト 3750万、シ リア・パレスチナ 1586万、全領土合計 3億8829万ディルハム」とあるとのことで、年号は不明ながら、この総額が819年の税額とほぼ等しいの で、これを用いてみます。イラクについては1ディルハム19867円で、他の地域については1ディルハム4166円で計算し ます。すると、1億3000万*19867=2兆5827億円、3億8829万-1億3000万=2億5829万*4166 円=1兆0760億となり、総額3兆6587億円となります。8兆よりは、現実的な値になりました。エジプトは1562億、 シリア・パレスチナは661億円。


 イラクが極度にデフレにあった772年は、814年の1/10の物価ですから、イラクの税収評価額は更に膨張し、25兆く らいになりそうですが、これはバグダッド建設直後の極端な時期の値なので、代表値にはできないと思います。


(6) 結論

  極 度なデフレとなっているにも関わらず歳入総額が一定しているため、計算が厄介になってしまいましたが、総じて、アッバース朝 最盛期の歳入の日本円換算額は、1兆6436億円から3兆2284億円とみておくことにします。唐王朝の5兆8662億とい う 値と比べても、一応ありえそうな範囲の値ではあります。


(7)付録
 
 唐後期の財政規模も簡単に計算してみました。両税法施行後の収入が現金税収3000万貫(300億文)、地租600万石(60 億文)の計360億文となり、またこの頃は1石の価格は=1000文なので、年間の食費9000文を30万とすると、1文 33.3円となり、1兆2000億円となります。盛唐時代と比べ約1/5になっていますが、王朝が把握している人口も、1692 万と、盛唐時5291万の約1/3となっているので、ある程度の整合性は取れているようです。


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