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ローマとビザンツの初頭教育

  
かねがねローマとビザンツの初頭教育に興味がありました。封建的な国家では、地方豪族が地方行政の役人階層を担 い、地方役人階層の中から優れた者が中央政府の重臣となり、初頭教育は豪族の家庭内で行われていたというような想像がつ くのですが、これに対して、集権的な官僚国家では地方都市民や、しばし農民の出世がしばし見られ、その場合の教育がどの ようになっていたのか想像がつかなかったからです。また、多数の古代ローマ遺跡を訪問していて、トイレや体育館などの遺 跡は結構あるのに学校の遺跡にまったく遭遇しなかったことも、探求心を刺激された一因となっています。

後漢については、王充の著書『論衡』に自伝があり、地方にも寺子屋のような初頭教育機関がある様子が述べられ、郡 県の都城にも各行政区クラス都市に、役人養成を目的とした中等学校が、都には大規模な大学があることが確認できました が、ローマとビザンツ、ササン朝についてはどのような史料があるのかなかなかわからず、ずっと知りたいと思っていました (積極的に史料を探したわけではないが)。最近漸くローマ/ビザンツ/ササン朝についても史料を知ることができました。

(1)ローマの史料

ローマの初等教育についての史料はまとまったものがあるわけではなく、数少ない断片的な史料から再現されているよ うです。中等教育以降は家庭教師主体だったようですが、初頭教育学校が一応あったようで、アンリ・イレーネ・マルー『古 代教育文化史』に断片的な史料が掲載されています(p323‐330まで史料出典とともに多くの記載があり ます)。

ローマの初等教育学校について、わかりやすく再現している小説は、児童小説の『カイウスはばか だ』(都市ローマの小学生たちが主人公の冒険ミステリー)がお奨めです。建築物の一階の側廊にカーテンなど をして教室としていた(上掲『古代教育文化史』に出典記載)様子がわかりやすく描写されています。

(2)ササン朝の史料

ササン朝の初等教育の史料は、『ホ スローと小姓』です。学校について数行記載されています。

(3)ビザンツの史料

11世紀の学者プセルロスの著作に登場しているそうです。

ビザンツの教育機関に関する日本語論文は、井上浩一氏の以下のものがありました。

「十一世紀コンスタンティノープルの「法科大学」」『都市の社会史』ミネルヴァ書房(1983年)所収
「プセルロスとイタロス : 十一世紀ビザンツの精神・思想風土の変化」(PDF) の第二節「プセルロスと「哲学大学」」

今から38年前、講談社版世界の歴史シリーズ19巻鳥山成人著『ビザンツと東欧世界』で初めて知った「帝国大学」の実態 が、ようやく具体的にイメージできるようになりました(「帝国大学」については井上浩一氏『ビザンツとスラブ』にも登場 しています)。「帝国大学」というと、現代のイメージからすると、Univserity(総合大学)をイメージしてしま います。井上氏は「法科大学」「哲学大学」と記載しているので、もう少し実態に近い感じがするのですが、鳥山氏は「帝国 大学哲学部、法学部」と記載しているため、当時は総合大学のようなものをイメージしてしまったわけです。総合大学となる と、それなりの規模のキャンパスがあって(遺跡があってもよさそう)、教養学部があり、カリキュラムも整備されていて学 生数も多い。。。。。というようなイメージを描いてしまい、そんなものが中世西欧以外に本当にあったのか?と半信半疑 だったのですが、今回井上氏の論考を読み、ようやく具体的なイメージが沸くようになりました。鳥山氏が「法学部」、井上 氏が「法科大学」と記載したのものは、現代でいえば「法科大学院」「経営大学院」、或いは、単科大学のようなもので、少 人数を相手にした特定分野のみを教える高等教育学習教室、というイメージが近いのではないかと思います。「十一世紀コン スタンティノープルの「法科大学」」(p230)によると、マンガナ宮殿地区の聖ゲオルギオス聖堂付属の建物が学舎に指 定されそうです。

また、プセルロスが初等課程を学んだ近所の修道院というものについても、プセルロスは富裕者なのだろうから、特別な子弟 だけがゆく日本でいえば開成とか灘高のようなところであって、首都の富裕層に限定された特定の私立エリート教育機関に過 ぎず、帝国全土で一般的に初等教育が行われていたという証拠にはならないのではないかと思っていたのですが、井上論文を 読むと、どうもそういうわけではなさそうです。というのも、プセルロスの回想文が残っていて、先祖にはコンスルやパトリ キウスを出した名門ではあっても、既に没落していて、父は商人で、「ブルジョワ」だったけれども、特別な教育を受けるよ うな家ではなく、近所の修道院に通ったこと、5−8歳の初等教育を終えた後、父親は働くよう希望したが、母親の強い意向 で中等教育に進んだ、とあるからです。これはつまり、最低限の読み書きや算術が必要な商人は、帝国全土でありふれたであ ろう「近所の修道院」で寺子屋的な初等教育を受けることができ、しかし商人クラスでの教育は初等で十分だと思われてい た、ということのような印象を受けます。そうして、プセルロスの中等課程は、母親の家庭教師のもとで殆ど独学したもので あり、もしプセルロスがエリート養成教育機関に入学していたのであれば、中等教育も首都の養成学校が存在することを想定 しえるはずだからです。しかしプセルロスは都で中等教育機関を見つけることはできなかった、ということは、恐らく帝国全 土にある修道院で初等教育が行われ、中等教育以上は家庭教師等により行われた、ということになるのではないかと思いま す。

ビザンツ時代の小学校の描写は、映画『哲学者コンスタンティ ン』に登場しています。



生徒数は十名程度。蠟版を書材に用いています。教室の入り口から聖堂が見えていて、学校の建物は聖堂横にあることがわか ります。

その頃の西欧の修道院学校については、映画『女教皇ヨアンナ』 (2009年)に登場しています。

追記ver2

※『古代教育文化史』終章には「ビザンツの教育」という節が約3ページ記載があるが、それ以前の時代の記述と 異なり、出典が少ないのが残念。例えば425年にテオドシウスが首都に総合大学(弁論/哲学/法学等自由学芸)を設 置し、コンスタンティノス9世以前にも863年にバルダスが改革した等の情報があるが、出典や、その内容の具体的な 記載はない。井上論文では、明らかにプセルロスの頃は、この大学は運営されておらず、コンスタンティヌス9世が再設 置した、としか思えません。この本のビザンツの部分は、パレオロゴス朝時代の首都の総主教大学(総合大学っぽい)の 話が多く記載されているが、やはり出典は少ない※。

※※オストロゴルスキー『ビザンツ帝国史』p393註14に、テオドシウス二世時代に設立された大学は、 フォーカス帝時代に閉鎖され、その後ヘラクレイオス時代に新たに設置、しかし再度レオン三世時代に閉鎖され、バルダ スにより再開された、とするが、研究論文名だけが挙げられていて史料への言及はない。

―L.Brehier ,Notes sur I'historie de I'enseignement superieur a Constantinople,Byz .3(1926)73ff,4 (1927/8)13ff
ーL'enseignement classique et I'enseignement religrieux a Byzance , Revue d'historie et de philosophie religieuses 21 Byz.4(1927/8) 771ff.
―F.Dvornik, Photius et la reorganisation de I'academie patriarcale, Melanges Peeters II(1950) 108ff
―G.Buckler ,Byzantine Education , in:Baynes-Moses,Byzantium,216ff

※※※比較的詳細な記述をクセジュ文庫ベルナルド・フリューザン『ビザンツ文明』p118-122に見つけま した。ただし出典の記載はありません。以下の内容です。

―幼い子供は文法・修辞学(読み書き)を学習、大半はここで終了。中期段階に進む一部の生徒は12歳頃になるとグラ マティコス(文法学者)のもとに通い、古代の詩歌の音読と文法書を学ぶ(教養といえる段階)。古代末期まではこの段 階までは各都市にあった。その後修辞学教師のもとで作文力を学び、通常の行政官教育はここで終了。一部稀な生徒が高 等教育に進み、哲学や法学、四学科(音楽/算術/天文学/幾何学)、医学などへ進んだ。

―7,8世紀の暗黒時代は、文法と修辞学等の高等教育は宮廷界隈でのみ残り、一般での高等教育は中断した。9世紀の 「数学者」レオンは、首都で学ぶ場所を見出せず、アンドロス島まで出向いた。その後副帝バルダスが哲学教授としてレ オンを招聘、マグナウラ宮殿内に学校を作り、更に三名の教授を任命した。宮殿内学校が、継続的組織だったのか、副帝 バルダスの私的機関だったのかについては議論がある。文法、算数、天文学、幾何、文法が教えられ、修辞学はなかっ た。他に大物貴顕者界隈の若者サークルで高等教育が行われた(フォティオス等)。

―『総督の書』によると、将来書記(ノタリオス)となる者たちの学校があり、総主教座から給与を得る教師のいる学校 があり、940年頃首都の学校群は組織化され、統括官がいるなど、中等教育施設の増大が見られた。

―高等教育は、コンスタンティノス七世の設置した学校では4名の教授が哲学/修辞学/幾何学/天文学を教えた。 11-12世紀になると更に学校数は増大し広範な市民に教育が届くようになった。
最後に以下の総括がなされています。

「ビザンツの学校は、ささやかな規模のものだったと言ってよい。生徒数も少なく、文法と修辞学の習得に重きが置かれ ていた。中世のコンスタンティノープルにあって、真の意味での大学を求めるのは、時代錯誤ということになろう。帝国 大学であれ、私立大学であれ、およそ大学はなかった。しかし、その種の学校は、限定事項付きだが、存在し、機能して はいた。この学校は、各期において、国家に役人を、教会に高位聖職者を、帝国に文人と知識人を供給していた」 (p122-3)

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