ブルガリア王国について


 

 古代末期から中世前半にかけて、 ブルガリアの存在の大きさは意外に知られていないのでは ないかと思います。
日本では一般的には中世前期にはフランク王国、後期には イングランド、 フランスがメジャーだと 言えるのではないかと 思いますが、当時の世界の国家としての重要性は西のフランク王国に匹敵し、 フランク解体後の西欧国家などを遥かに凌駕していたと さえ言えるのではないでしょうか。 ブルガリアの歴史は単に知られていなかっただけでずいぶん損をしている様に思えます。 こんなことを言い出したら ハ ンガリーだって、 セルビアだって、 ときりが無くなってしまうとも思えますが、 しかし現状は 西欧の特定地域へ偏りすぎた比重を ある程度は是正して ゆく 姿勢でゆきたいと思っています。

 まずブルガリアが勃興した時代をイメージしてみたいと思います。
 現代世界の最強国家は合衆国であることは大方の衆目の一致するところだと思いますが、当時の西ア ジアからヨーロッパにかけてのスーパーパワーはイスラム帝国でした。 唯一拮抗していたのがビザンツ帝国です。 現代世界で言えば、 イスラムはアメリ カ、 ビザンツは中国。 ブルガリアはインド、 フランクはヨーロッパがいうところでしょうか?
 ちょっとたとえが変かもしれませんが、 当時のブルガリアの存在の大きさを 私はこんな感じで位 置づけています。 「ビザンツ世界」が形成された7世紀後の ビザンツ世界史の中でビザンツとブルガリアは同じ様な時期に勃興し、 同じ時期に最盛期を迎 え、 そして後半は周辺民族の勃興の中でともに衰退し、 最後はオスマントルコに征服される、というおおむね期を一にした歴史を歩んでいます。  ブルア リアとビザンツは「ビザンツ世界」の中でもっとも中心的役割を果たした国家といえるのではないでしょうか。

 古代からオスマン末期までのブルガリアの歴史を年代記風散文調(要するに適当な文体という ことですけど)に振り返ってみたいと思います。
 
 

  (ドナウ南部への定住前の歴史)

354年 ブルガ−ル民族が歴史に記録されたもっとも古い記録(ローマ人年代記に記録され る)。
351−89年 トルコ系のブルガール族がコーカサスからアルメニアへ進入。 族長ヴンドに率いら れた一隊はアルメニアに溶け込んでしまったらしい。 完全に東洋系民族なので、イメージする場合、装束も髪型も後世のモンゴル族をイメージした方がいいか も。

5世紀 フン族とともにブルガール人の一派がヨーロッパ進入。 ヨーロッパを席巻する。 ブ ルガール人本体は南ロシアに定住。 ウクライナの部隊は突厥の支配下にはいり、別の部隊はアヴァールに従ってパンノニアへ向かう。。
6世紀 スラブ族バルカン半島へ進出。 ブルガール族、3大部族間で内訌。 ビザンツの策略らし い。 船戸与一「蝦夷地別件」みたいな世界をイメージしてしまうが。。。 パンノニアの部隊の一部は ランゴバルドに従い、 北イタリアへ。 
570年前後 ウクライナのブルガール族、ハザール等とともに 突厥治下へ。

610年 汗の息子クブラット コンスタンティノープルへ教育の為送られる。
630年代  パンノニアの部隊、一部はフランク治下のババリアへ。 
632年 クブラット帰国。 分裂していた部族を統合し、 アゾフ沿岸のファナゴリアを都として  統合ブルガール国家を形成(後世大ブルガリアと呼ばれる)。 遺跡もあり クブラットの墓があり、華麗な副葬品が出土している。
651年 クブラット死去。 ハザールの圧迫から統一解体。 クブラットの3人の息子がそれぞれ部 族を率いて分裂。 一部はヴォルガ川を北上し国家を形成。やがてイスラムに改宗し、 13世紀のモンゴル征服まで続く。 この民族は現在のロシアのチュバ シ共和国となって存続している。 別の一隊はクベルに率いられ 一度はパンノニアへ移住し、 その後マケドニアへ移動し定住。 末子のアスパルフに率いら れた一隊が ドナウ川を越えて680年 ビザンツを破り 正式に条約を結んでドナウの南に定住した。  これが現在のブルガリア国家の起源とされている。   クブラットの3人の息子には、 毛利元就の3本の矢の話とまったく同一の話が出てくる。 父の希望と異なり3人はまったく違う道を歩む結果に終わって いるが、 この話はイソップを通じてスキタイからも伝わっているし、 モンゴル帝国にも同様の話があるらしい。 北アジアの遊牧民間で共通している伝説で あったのだろう。

668年 パンノニアの別部隊はラベンナへ。 北イタリアの地名や苗字に今もブルガール系の ものがあるらしい。 ひょっとして「ブルガリ」も?。。。 ブルガール族、突厥解体に乗じて独立。
 
 

(第1次ブルガリア王国)

ブルガリア人によるスラブ人支配

681年 ビザンツと条約。正式にビザンツにドナウ以南の「ビザンツ領」への定住を許され る、というか認めさせる。現ブルガリアの北半分の既にスラブ人の世界となっていた領域を支配する。 701年 アスパルフ死す。

テルベル汗(701‐18) ビザンツを助けサラセン帝国と戦う。フランクの732年ツール ポワチエに匹敵する撃退劇を行う。 この結果テルベルはカエサルの称号が許される。 8世紀中 貴族による内紛で弱体化 
カルダン汗(777−803)内紛収束。発展へ。 アヴァール滅亡時の反乱に加わったパンノニアの ブルガリア人一族のクリム汗(803−814) 時代領域発展。 太宗とよびたい。 
804年フランクのカールと結んでアヴァールを挟撃し滅ぼす。 アヴァール領がブルガリア治下にな り、フランクと直接国境を接する様になる。

オムルタグ汗(814−838) 国家の基礎が定着する時期の汗で世宗とよびたい。 
クルム時代ビザンツ軍に破壊されたプリスカを新たに再建し、実質的に首都としての形式を整えはじめ る。 更に821年頃よりプレスラフも建設開始。

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キリスト教国家へ

ボリス汗(在852−889(引退)-907没) 世祖と呼びたい。 キリスト教受け入れを めぐり国際政治の舞台へ。

 この頃中欧、東欧にかけてローマとビザンツが激しい布教競争。 ビザンツからはキリル (827-69)とメトディ(815-85)兄弟が モラヴィア、ハザールへ派遣され、モラヴィア、ブルガリアと中欧を巡りローマ教会、フランク教会と激 しい布教競争。ブルアリアでは 改宗後 異教信奉勢力を粛清。 実際には有力貴族の粛清となり王権が強化される。 ボリス汗の政策は中央集権化と国際的に 見とめられる為に仏教と律令を導入した聖徳太子の政策と共通点が多いのでは。

布教競争を参考までに見てみると、
        778年 スロベニア、クロアチア カール大帝に征服される。カトリックへ。 正 確な改宗時期はわかっていないらしいが、ダルマチアの都市を中心に
            8世紀から9世紀に改宗していったらしい。
        8世紀? チェコ改宗      −>カトリック
        865年  ブルガリア改宗   −>正教
        966年  ポーランド改宗   −>カトリック
        988年  キエフ改宗     −>正教
        1000年頃 ハンガリー改宗 −>カトリック
        9世紀セルビア人        −>正教

 とこの時期の中欧から東欧にかけての改宗は3勝4敗でカトリックの勝ち。 ブルガリアの改 宗で重要な点は、 スラブ語の典礼とスラブ語聖書を公式にビザンツに認めさせたことである。 それまでヘブライ、ラテン、ギリシャ語の聖なる3言語以外の 言語利用の意義は、ブルガリアでは 世界帝国理念のローマ-ビザンツ秩序に対する 「民族性」の発露とされている。

シメオン王(893−927) 武帝(この中国式廟号は勝手に私が呼んでるだけです。念の 為)。
 一般にブルガリアの、文化・政治・軍事上の最盛期とされる。 統治の初期はビザンツの遠交近攻外 交によって北からマジャール人、 南からビザンツ軍が進入しブルガリアは滅亡一歩手前までゆく。 僧院に引退していたボリスも復帰し結束してこの難局を退 ける。 オホリドではキリルの弟子クレメントによる司教の養成、プレスラフでは同じ弟子のナウムによるブルガリア正教普及活動が行われる。 現在のスラブ 文字はキリル文字といわれるが、 キリルの作成した文字はもっと原始的で、 直接現在のキリル文字に繋がる文字を作成したのはクレメントである。従ってキ リル発明の文字は正確にはグラゴール文字と呼ぶ。

893年 旧宗教勢力の影響から脱する為にプリスカからプレスラフへ遷都(事情は平城京から 平安京への遷都と似たようなものかも)

ぺータル(927−969) シメオンの絶えざる軍事活動による消耗、 聖職者達の汚職、土 地所有などで国家解体にむかう。 東方アナトリアで栄えていてビザンツを東方領を脅かしていたマニ教の流れを汲むパウロ派の一派 ボゴミール派が バルカ ン半島に入り、 マケドニア中心に多いに栄え、ブルガリア国家社会を大きく揺るがす。
970年 ビザンツ軍とキエフ軍の連合軍に首都陥落。 ブルガリア国家は一時滅亡の淵にたたされ る。

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運命の1014年




 ブルガリアにとって不幸だったのは、同時期に同じようにビザンツ帝国も国力充実に向かって いたことである。
ニケフォロスの遠征などでブルガリアはついに一度滅亡するが、セルディカ知事ニコラと 3人の息子 が西部で立ちあがり、 ブルガリアを復興し ビザンツに対し 「ブルガリアはまだまだ」 という姿勢を見せる。 3人の息子の一人 悲劇の王サムイルがブ ルガリアの単独支配者となった977年とほぼ同時期、 ブルガリアにとっての悪魔ヴァシレイオス2世が976年親政を開始。 宿命のライバルの30年間に 渡る闘争となる。 実際はミスターシービーとシンボリルドルフという感じと同様ヴァシレイオスの方はライバルとは思っていなかったかもしれないが。

 オホリドを中心としてサムイルは国家を立てなおし 一時破竹の勢いでビザンツ軍を撃退し  東方領土を取り戻し、バルカン半島南端まで攻め入る。 ヴァシイレイオスとサムイルの抗争は歴史上でももっと有名になっていいほど面白い材料だと思う。  そうしてストルミッツァ要塞を巡る運命の 1014年の会戦を迎えるのだった。
 
 

(第2次ブルガリア王国)

3兄弟

  クマン系ブルガリア貴族 ペタル、アッセン、カロヤンの3兄弟により、 ブルガリアはビ ザンツ支配を脱し タルノボを首都として独立し、逆にビザンツに攻め入るまでになる。 
 この辺り、頼朝、行範(だったけ。間違ってたらすみません)、義経 3兄弟の話みたいで面白い。   しかも源3兄弟と異なり3人とも英傑で 次々に王位を継いだ3人とも暗殺されてしまうという悲劇ぶりは  源3兄弟を上回るドラマ性があるのではない でしょうか。 勿論悪役平家と院はビザンツ帝国と十字軍というわけで役者は十二分に揃ってる。
 

共産主義史観でさえ悪く言えなかったイヴァン=アセン2世の時代

 このイヴァン-アセン2世(在位1218-41)も面白いと思うんですが。  陰謀にあっ て親父と叔父全員を殺され トルコ系クマン人の世界に亡命し、盗賊まがいのことをやって頭目みたいになって、その勢力を率いてブルガリアに戻り王座を回復 するなんて、 とこう書いてくると良くある英雄漂流譚に過ぎない気もしてくるけど。

 平家物語みたいなのはストーリだけじゃなく、この第2王国の時代の遺跡をみてもらえばわか ると思うのですが、山城の時代です。 よくタルノボは日本で言えば京都みたいといわれてるけど、 私は鎌倉に近いと思っています。 封建制で 各地方領主は天然の要害にかまえた山城にいて。 実際タルノボを歩くと坂が多く、 地形からしても京都よりはむしろ鎌倉に近いと思います。
 

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三国時代 




 専制支配の敵である共産主義もけなせない、 当時の敵でさえ賞賛する、 国民上もしたもみ な幸せという輝かしい時代は アセンの死後急速に終わります。
1241年モンゴルが進入し、ブルガリアの国王も一時はキプチャック系のタタール人に王位を禅譲さ せられたりして 13世紀後半はキプチャック汗国にコントロールされた時代といえます。 この辺の事情はアナトリアのルム-セルジューク朝と同様。 しか し14世紀に入り有能なトドル・スヴェトスラフ(在位1300-21)はキプチャック汗国のくびきから脱し、その後封建的分裂にありながらも幾分安定を取 り戻し、バルカン半島はビザンツ、ブルガリア、セルビアの3国を中心とした安定と対立の時代を一時過ごしますが、14世紀末 ハンガリーとオスマン勢力、 サヴォーイアにまで介入され、 最終的に一気にオスマン朝に押し流されてしまいました。

 イヴァン=アレクサンダー(在位1330-1371)時代は、 ペロポネソス半島のミスト ラル中心にパラエオロゴス朝が 輝かしい文化時代を迎えた様に、ブルガリアもこの時代「ブルガリアン・ルネッサンス」と呼べる様な文化上特筆すべき興隆が 起こった時代でした。東欧世界 「輝ける14世紀」 の一角を占めていたと言えるのではないでしょうか。 首都タルノボは従来コンスタンチノープルの通称  ツァーリ・グラッド(皇帝の都)と呼ばれる様になりました。
 

 

 トルコの進撃
  
 イヴァン=アレクサンダー治世の末期、オスマン軍がバルカン南部を占領し、 1369年アドリア ノープルを占領、 1380年までに西部ブルガリアはオスマンの手に落ちた。イヴァン シシュマン(1371-1395)、 ビディン君候国(1356− 1396)のイヴァン=アレクサンダーの息子スラツィミルやドブルジャ君候国などの抵抗も空しく、1389年コソボでセルビア・ボスニア軍が敗れ、 1393年タルノボ陥落、1395年ワラキア軍が敗北し、シシュマンはニコポリスの攻防中に戦死。 
 次いで1396年ブルガリア北部、ドナウ川沿いのニコポリスの戦いでハンガリー・ビディン軍が敗 北し、ブルガリア国家は全て征服された。
 その後1444年にヴァルナが再び戦場になりましたが、これはハンガリーのヤノシュ=フニヤディ (フニヤディという名前の奇術師がいましたが、かれはハンガリー系か。どーでもいいけど)とオスマンとの抗争で、ブルガリアは勝手に戦場にされただけ。   ハンガリーとオスマンの抗争は、キリスト教世界の防衛戦争という語り口で扱われることが多いが、 マジャール人がパンノニアに定着した 頃からの歴史を 振り返ってみると、ハンガリーは常にバルカン半島に野心を抱いていた様に思えます。 オスマンがやってこなくても、いつかは地域大国ハンガリーに蹂躙され た可能性が高いように思えます。
 
 

(オスマン時代)

 オスマン時代、15世紀には130万人いたとされる人口は集団移住(1688−89年、 1829-30年が大規模)や、 圧制による虐殺、イェニチェリ等への少年少女の挑発、ムスリムへの改宗で100年後には26万人に減少したとの統計もあ るらしい。  総称して 「ハイドゥック」と呼ばれるロビンフッドの様な森の集団があちこちでゲリラ的抵抗を行い、民族性の維持に貢献した。 1408、 1598、1686、1688、1689年に、西欧-オスマン間の戦争とリンクして蜂起した。
 17世紀には経済的社会的発展経路に乗り、ムスリム人社会を圧倒するに至った。 皮工業中心に工 業化が進み、オスマンの国際貿易を担うブルガリア商人も 多数現れはじめ、ブルジョワジーを形成しはじめ、彼らが19世紀の独立運動の母体となってゆくの だった。

  1830年 ギリシャ独立
  1830年 セルビア独立(自治公国。1878完全独立)
  1870年代 ヴァージル‐レフスキーらによる革命運動 (レフスキーは日本で言えば坂本竜馬 に相当する英雄 73年処刑された)
  1875年 詩人フリスト‐ボーテフらの蜂起失敗 (レフスキーが竜馬ならボーテフは高杉晋作 というところですか)
  1878年 ブルガリア独立(自治公国 1908年完全独立)
  1912年 アルバニア独立
  第1次世界大戦に3国同盟側で参戦。 第2次世界大戦にも3国軍事同盟側でいづれもドイツと同 盟。
 
 

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