潮州 開元寺・許駙馬府・潮州学宮

 

宋明城墙

紹介

開元寺


 秦前214年)の侵攻の結果南海郡に属した。前漢元鼎六年(前111年)南海郡の揭陽県に属す。東晋咸和六年(331年)、南海郡の東部が東官郡に属し、東晋義熙九年(413年))東官郡から分かれ、義安郡に属することになった。梁普通四年(523年),義安郡を東揚州とし,その後瀛洲と改めた。陳永定年間瀛洲を廃止し,義安郡を置いた。隋文帝開皇十年(590年),全国的に郡が廃止され州が設置され、循州義安県に属した。同年州に昇格し、“潮水が往復している場所"、という意味から“潮州”と命名された。 

 隋煬帝大業三年(607年)全国はまた郡に服した。よって潮州は義安郡となった。610年朝廷は虎贲郎将陳稜、朝請大夫張鎮等が義安郡から琉球(現台湾)へ渡海し、このときより台湾との往来が始まった。唐高祖武徳四年(621年)再び潮州と称するようになった。


 

開元寺

開元寺

 

 この頃の潮州の領域は非常に広く、東は泉州,北は江西、西は恵州に至っていた。唐垂拱二年(686年),潮州から泉州が分離し、漳州が設置された。このように、歴史的に同一領域として扱われてきたことから、現在潮州で使われている言葉は漳州でも通じる。唐天宝元年(742年)潮州は潮陽郡と改称され、乾元年(758年)再び潮州に戻った。元代,潮州路と称された。洪武二年(1369年)府制を開始し潮州府と称した。

 開元寺は、中国に現存する4大開元寺のひとつ。唐玄宗二十六年(738年)。開元寺は“蓮華寺”と称したが、元代“開元万寿禅寺”,明代以後“開元鎮国禅寺”と称した。唐代宮殿式四合院建築であることが特徴で、天王殿、後廊、東西廊を持つ。右写真の柵囲いは唐代のものかも知れないので一応写真をとっておいた。

 


唐代建築の威風が残る柱梁部

 

元代製造の石造の香炉(1325年)

 

 

潮州学宮

 

潮州学宮

 

 潮州学宮は海陽県学宮として利用され、大成門、大成殿などの明代建築の威風を残している。清代には儒学宮とも呼ばれた。現在は潮州市博物館が置かれ、古代から現代までの文物が展示されている(が、あまり大したものがなかったので、撮影しなかった)。

 下記は、許駙馬府。北宋皇帝英宗の娘徳安公主の駙馬である許鈺(または許珏)の府第(屋敷)。英宗の治平年間に建設された。下中央は門。右下写真は内部の館。駙馬とは漢代武帝時代から見られる役職で、「駙馬都尉」が正式名称。一般に皇室、外戚や王公子弟が担当した。以来,一般にこの官職は皇帝の女婿が担当するようになり、駙馬と略称されるようになった。清代に“額駙”(満州語)と改称された。許氏は1036年に賢良となってから官吏を輩出した(~1267年頃までと記載されていたので、元の支配とともに没落したのかも知れない)。

 

 

許駙馬府入り口

許駙馬府内陣

 

 開元寺や潮州学宮は比較的わかり易いところにあるが、許駙馬府は非常にわかりにくい。北馬路と中山路の交差点に卓府(清代同治年間、潮州の総兵である卓興の屋敷)があり、この交差点から中山路を西に50mのところにある街路を北に入って、100m程先のつきあたりを左折、その20m先に許駙馬府がある。

 左最上段の宋明時代の城壁は、韓江にかかる広済橋の手前(西側)にある。奥に写っているのが頤園。潮州最大の観光資源のひとつの浮き橋広済橋はこちら

 

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