8月23日

 民宿の庭で朝食。この中庭には一応プールもある(といってもそんなにリッチなイメージではない。ま、泳ごうと思えば泳げそうである)。
 50でお茶。パンを譲ってもらう。 赤ん坊をあやしている母親像がよかったのでカメラを向けると、ポーズをとられてしまうのだった。

 確か9時頃の発車。 チケット売り場の前で待っているとき、売店の方の姉さんに、気に入っていた曲について質問する。もうハミングできるまでになっている。
 この店の売店の方は姉が、観光屋の方は弟がやっているのであった。 ハミングすいるとメモになにやらかいてくれる。
弟が戻ってきたらこのメモを見せてみな。 ちうので弟(アリーという)が戻ってきたのでみせてみたら、
  「わたしも愛してるよ。あなたは本当ですか?」 といわれた。
 トルコ語で‘アリー アイラブユー‘と書かれていたのだ。
 「もちろんだとも」 と答えたら、アリーに日本語で 「あなたはうそつきですね」 と言われてしまった。

 なぜ?

  私を愛していないくせに愛しているなどと言うからだ という。 カッパドキアで会った少年もそうだが、この少年も非常に頭が良い。
 

 バスには香港のライター二人組が乗っていた。 香港のガイドブックを見せてもらう。 
それは地中海沿岸国を扱っているガイドブックだった(といってもトルコ以外のどこがあったのか忘れてしまったが)。
 バスが出発して30分ほどたって、車が追いついてきた。乗り遅れた日本人女性をつれてきた。

 記録が残っていないので良く分からないのだが、 エフェソスには12時頃ついたのだと思う。
ドルムシュで遺跡のも寄りの地点まで行ってもらって そこから2キロほど歩く。
 タクシーの勧誘は無視。 街道から横道にはいるところのレストランがあまりにひなびたところだったので遺跡もあんまり期待していかなかったら、
大駐車場が見えてきて、土産物屋が乱立し、 でかい野外レストランがあり、 どっこい大層な観光地だった。

  あんまり暑いので日陰を見つけては休み休み一通りみてまわる。 
 観光客が多く、 狭いところは待たないと入れないほどである。 
このところ毎日集中的にローマ遺跡を見たせいか、それとも観光地化しすぎていて遺跡の風情が味わいがたいからか、あーそー、という感じ。 
しかし、他のローマ遺跡と比べエフェソスがそれほど抜きんでているようには思えないけど・・・
 日本人カップルもいて、遺跡観光そっちのけで痴話喧嘩をしているのが記憶に残っている。

  アルテミス神殿まで歩く。ここで道路から見えないように立ちしょんしてたら反対側からくるんだもんな。通行人が。ああはづかし。

 この後セルジューク期の要塞へ向かって 畑を突っ切る。 要塞1周してバスステーションに戻る途中にビザンツ時代の教会跡が。
ガイドブックには改修中で閉まっているとあったが、どうもやっていたみたい。しかし、要塞から見下ろして、だいたいどんなところ
かわかったので、それ以上わざわざ見にゆく気にもならず、博物館へ。

 博物館では荷物をあずけ、カメラを荷物に入れたままで見学してしまい、せっかくの 「マルクス・アウレリウス像」 が撮れない、
と思っていて一通り見終わって出てきたら、なんとカメラは自分で持って 見学していたのでした。 もう疲れが層になっている。

 この博物館では当時の宴会などの再現模型があったように思うがあんまり記憶がない。

 バスターミナルへ戻る。イズミルはもう長距離バスの範囲ではないらしい。ミニバスになってしまうらしい。
チケット買うとき、僕はイズミルへ行きたいといっているのにイスタンブールだと誤解して、荷物を置いていっていいよ、という変な親父がいた。
こいつは最初日本語でなにか話していたようだったが、全然分からなかったら、少し気を悪くしたみたい。本人関心を惹こうと日本語使ったらしいのだが、
一切理解できなかった。

 イズミルのバスステーションはごみごみしていてなにがなんだかわからない。
特にそこから町へどういくかもわからない。歩けるのかバスへ乗らなきゃならないのか、全然わからない。
 幸運なことに声をかけた人がジャーナリストで、彼が値段も「150」と念を押しておいてくれたので、(一緒の乗合タクシーに乗り、彼は途中
で下車したのだが)ぼられもせずにホテルのある地帯へたどり着くことが出来た。
 安ホテル街の入り口のところで早速じいさんにつかまる。2万。
 朝鮮戦争に従軍して、 日本の病院に入院したことがあるのだそうだ。 その時の日本の印象がとてもよかったのだそうだ。
部屋はまあまあ。食事に出て散歩する。

 トルコ人には親切にされっぱなしでいい思い出しかなかったのに。 油断していたこともあるのだろうが、
ビールを売ってる店がなかなか見つからず、 道案内してくれた二人組にビールをたかられ、 
「教科書を買ういたいんだ。1ミリオン(7ドル相当)くれ」 と言われた。 
 ま、たまたまで、イズミルの宿のおやじとかは親切だったけど。
 しかし明らかに嘘をついて近づいてきて(片方はドイツ人で(容貌は明らかにトルコ人なので、移住したトルコ人かその子孫ということだろう)、
パスポートを無くして困っている、とか、もう片方は、今日は誕生日なのでビールおごれとか)、しまいには友達でも何でもないのに
金をくれだの ずうずうしい。 イズミルには ローマ遺跡があるはずだったけど翌日早々に退散する。
 要求金額からするとまったくたいしたことは無いが、やりかたが頭にくる。 ビールを売ってる売店を教えてくれる程度なら、
お礼はビール代くらいだ。

 波止場で日没見て宿に帰る。連中にどこにとまっているんだ、と聞かれ、もちろんうそを答えたが、
つけられたりしては困るので、 警戒しながら帰る。 途中とおりかかった店でうまそうだったので通りすぎれず生ジュースを飲む。
 
 

8月24日
 

 7時半ころ出発。なかなかターミナル行のバスが見つからない。 バス停は通勤サラリーマンであふれていて、
新聞を手にスーツといういでたちの人が多く、完全にオフィス街。旅行者の私は場違いな雰囲気である。
 欧米並のきびきびした人の流れ。大都会イズミルを実感した。
 しかもどうもイズミルではターミナル(発音はテルミナール)といわずガラッシュというらしい。
 一応市内バスのチケット買って 通り掛かりの人に尋ねまくって、 漸くガラッシュへ行くおじさんがいて、一緒についてゆく。
 この人は親切で、 たまたまサルデスを通過するバスに乗るとのことで サルデスにつくまで面倒みてくれた。 感謝。
 9時にイズミル発、 10時半サルデス着。 

 遺跡は散在していて、気力体力もと限界に来ていたので、とにかくつかれた。
 体育館跡、 ビザンツの商店街、 ジナゴーグ跡、 競技場跡、 アルテミス神殿跡等を見る。

 街道沿いに並ぶ店は、ガイドブックにあるほど 「ひなびて」 はいない。

 12時半にロカンタで昼飯、1時10分頃のバスで14時45分イズミルガラッシュに戻る。
 15時30分ペルガモン行きバス発車。 イズミルでは両替の必要があったのだが、結局時間が無くて出来なかった。
 ペルガモンには17時20分についてしまい銀行はしまっていた。
 郵便局では両替OKだったが、100ドル単位でないとつりが無いと言う。
 しかしもう100ドルも必要ない。 しかし金が無くてはどうにもならないので、郵便局よりレートのよいバスステーションで会ったタクシードライバーに両替してもらう。
ついでに泊まるところも紹介してもらう。
 バスターミナルから南、200mくらいの右手の安くて親切なホテル。清潔。お勧め。
 泊まっていった日本人観光客の書き残した日記帳があるとのことで借りていって夕飯を食べながら僕も書く。
 このあとカセットテープ買いに行って目的のテープを店員にハミングして、更に視聴してやっと見つける。
 街中の広場ぼーっと一休みしていると、バスケットボールをもった10歳くらいの少女やってきて写真をねだる。
 ついでにちょっとボール遊びに付き合ってしまった。スイカを買って戻る。
 

8月25日

 予約していたタクシードライバーは8時15分にちゃんと来た。8時半遺跡
そのまま歩いて降って、9時33分クズル・カレ、その後 円形劇場と 戦車競技場を探しつつアスクレピオンへ。
 12時10分バス停に戻ると長距離バスジャンクションまでのバスは13時とのこと。
 この数十分が明暗を分けそうだったので、 朝のタクシーのおっさんがいたので、ジャンクションまで送ってもらう。
 街からだいぶ離れた野原の街道沿いで待っている時、警官が来て、 適当なトラックにヒッチして行ってしまった。
 12時26分にチャナッカレの先まで行くバスが来たので乗せてもらう。
ラッキー。チャナッカレには16時半着くが、なかなかバスターミナルへ行かない上に、しまいには海峡横断フェリー(ダータネルス海峡横断フェリー)
にバスごと乗り込む列に並び始めたのを見て、そこで下りる。

 バスターミナルへの道を何人かの通行人に聞くが、ある人にでたらめを言われてしまい、ちょっと迷った(最初の青年が正しかった)けど、
まあなんとかミニバスの発着場所もわかり、17時半遺跡到着。

 しかし遺跡入り口から遺跡まで530歩ものアプローチがあり疲れた。 このところ疲れたという文句が多いが、いいかげん疲労が
蓄積してきていて、感受性も飽和状態で鈍ってきてしまっている様に思う。

 トロヤ遺跡は、恐らく私が目にした建築物遺跡ではもっとも古い年代の遺構がある遺跡である。確かもっとも古い壁の跡は紀元前3100年前のもの、
他にもBC2400年頃のものが結構あった様に思う。いかし話に聞いて想像していた以上に
 コンパクトな遺跡である。ま、観光しやすくていいけど。
 

 19時に見終わった時は既にバスはなく、遺跡入り口のところにある土産物屋の親父がやってきた一般車に話しをつけてくれて、載せてもらう。
 しかしその車はチャナッカレまでは行かず途中で 「ここでまっていればミニバスが来るから」 とおろされる。

 そこは長距離バスはとおらない裏街道。 しかし実際ミニバスは10分に1台くらいやてきはした。
ところが やってきたミニバスはみな超満員でとまってくれない。
 1時間歩いてやっとチャナッカレの市バス終点のバス停に着く。
 チャナッカレに着いたのは20時45分、そのまま21時のアンカラ行きに飛び乗る。
 ブルサのバスターミナルで夕飯をとろうと考えたのだが、バスは来るとき通過したブルサの巨大バスターミナルへは行かずに、
なんとブルサの町中のバスステーションに直行してしまった。しかも工事で渋滞していて、ブルサのバスステーションに着いたのは午前1時半。
 急いで乗合バスを捕まえてターミナルへ。こんな時間に乗合バスが走ってんだからいかにトルコのバスがすごいかよくわかると思う。
 とにかくバスは夜中でもビュンビュン走っている。まるで血液の様に昼夜を問わずバスはトルコ中を循環している。
 騎馬民族の血だろうか。しかもビュンビュン飛ばす。距離と時間から計算して平均100キロ以上出ていることも多く、まら100キロで
運行しているのに更に追い抜きをかけるのである。

2時に着いて、とにかくチケット押さえてから夕食だ、と考えチケット売り場へ行く。
 「どこへ?」と尋ねられる。
 「イスタンブール」  やっとそう言うことができた。 実はこの数日間、何度こう言いたかったことか。
旅行中たいていの都市からイスタンブール行きのバスが出ていた。 その度に我慢した。 それだけ疲れていた。
もうすぐだ。いずれ言える、と。 やっと念願のイスタンブールと言えたのはいいとしても、夕飯を食いながらほーっと余韻に浸っている暇はなかった。
 チケット売り場へゆくと、「いますぐでるところだ、さあ、いそげ」。 ちょっとまってと トイレに行くのがやっと。
 バスは直ちにイスタンブールに向けて発車した。
 

8月26日
 

 6時15分イスタンブール着。 ちょうど日の出。 地下鉄で市街へ。 
 ビザンツ時代の地下貯水場ビン・ビル・ディレク(イェレバン・サライと異なり、無料で、
しかも水が張っていないのでプール内を自由にあるけた。でも工事中だったので、そのうちイェレバン・サライみたいに観光地となってしまうのだろう)とトプカプ宮殿を見る。
 とにかくハーレムと映画「トプカピ」で出てきた剣を目指す。 膨大な陶器のコレクションは殆ど走り抜けるかんじ。

 10時45分まで観光。 トプカプを出たところで、どこかであったような声。ペルゲであったやたら日本語のうまいトルコ人ガイドで、
ツアー客も一緒だった。すれ違い様 
 ツアー客 「どこかであいましたよねぇ」
 私     「ええペルゲで」

 トプカプ宮殿であった地球の歩き方を持っていた青年に空港へのルートを聞く。 それにしたがって最寄りの駅まで地下鉄で行って、そこからタクシーで空港へ。

  12時10分チェックイン。 高額の昼飯とビール。 空港は高い。やっぱり。 約50ドル分のこっていたリラの所持金は殆どふっとんでしまった。この旅行では
2日分の費用に相当する。

 ゲート待合所で眠ってしまい、日本人の子どもに起こされた。 

  窓からドナウ河口が見えた。 
 機内では日本在住19年のトルコ人親子に色々話しを聞いた。
 子どもはまるっきり日本人だった。 本人も 「違いは豚肉食べれないだけ」 とのこと。
 結局、トルコには16泊17日間いたのに、イスタンブールの滞在時間は14時間程度だった。7月にイスタンブールだけでも観光に来ていてよかった、と思ったのでした。

 毎日平均10時間近く長距離バスに乗って移動していたので、あっという間に日本についたような感覚。飛んでる時間は全然長く感じなかった。
 ともあれ、2年9ヶ月ぶりの日本である。
 

最後に。
 トルコにはポップスが確立していてかなり西洋風。長距離バスでもがんがん流れていた。
お陰で一曲気に入ってしまい、カセット店で購入する為にハミングする羽目に陥った。
MTVで結婚式ものがあったがあの曲も面白かった。
 また旅行中、何でもブルガリアと比較してしまう癖がついてしまっている事に気づいた。
ヴァンで会った林さんに話したら、かれもパキスタンが尺度になってしまったのだそうだ。
 トルコのバスはブルガリアのバスと走っている時の音が違う。ブルガリアのバスは、ぶうう、ぶー、がたがた、という感じだが、
トルコのバスはゴォォォォ、グォォォォという音なのだった。 
しかも平均速度は時速80キロとして日程計算できる。イランは60キロ。中国西域では40キロで計算するとちょうどよいのではないか。

 滞在中の費用  16泊17日間 700ドル(うちタクシー8度使用計102ドル程度)。
  (700ドル中実質利用額550ドル程度。44ドルは小包郵送料、50ドルは最後に空港でパァーと使った)

 交通機関を利用した回数は正味16日間で78回。 移動距離約6338KM。