11月19日(金)

既に記憶の彼方なのだが、確か夕方4時半頃初の便だったと思う。勤務先に午後まで勤務していて、1時半頃出発した記憶がある。
3時過ぎに空港についたのではないかと思う。空港でチェックインする時、鎮江に実家のある人と会った。
亜細亜大学に留学しているとのことで、既に8年程日本に在住しているとのことで、日本語は相当達者だった。
上海で、大学時代の講師と落ち合い、実家が経営する会社の問題対処のため実家にゆくとのこと。
色々話を聞いていて、退屈せずに待ち時間をすごすことができた。上海に着いたら、
夕飯を一緒することになったので、その中国の人と、芝浦工大の建築の先生だという日本の人の荷物を空港で待つことになり、
いつもなら預け荷物が無いため、一番に空港を出られるのだが、殆ど最後の方まで待つことになってしまった。

1991年に、初めの上海以来2回目となるが、当時到着した虹橋空港ではなく、新しくできた近代的な空港だった。
虹橋空港といえば、友人の上海の人であるOさんが、タラップを降りる私を待っていたのを思い出す。
飛行機に停車地点まで、入ってこれることに驚いたが、初めての海外で、北京空港ロビーに一泊し、
北京から上海の便のチケットを持たずに、予約番号のメモだけを持って乗り継ぎを行ったことは、
私にとっては相当の冒険で、緑とオレンジの夕陽に染まった空港で、Oさんを目にした時の光景は、
ひどく安心したのだろう、今でも鮮明に思い出すことができる。

新しい上海浦東国際空港は、夜に到着したこともあり、全体像はよくわからなかったが、
空港から市街へ出るリムジンバスの中から、ナトリウム灯に薄暗く照らし出される高速道路を見つつ、
「道路が整備されたな」と思う一方で、相変わらず共産圏は薄暗いなぁ、などと考えていた。

市街に入ると、メディアで目にする高層ビルが立ち並び、13年前、一部既に開発の萌芽があったため、
驚く程ではないにしても、既に先進国風高層ビルが、東京以上に林立している状況には、「変わったな」と強く思う。
途中ネオンのともった大きな招待所を目にする。高級ホテルに宿泊する程の予算はないが、西域の宿と同じような安宿はあるのだろうか、と不安にな る。
1998年の西域旅行で、一度だけ招待所に宿泊したが、基本的には外国人は宿泊できないことになっており、
そのときも、他に客がいないため、「いいよいいよ」という感じで宿泊させてもらったもの。
一緒にいる中国人に聞いてみると、今は招待所はとまれるようになっているとのこと。

この2人のホテル近く、高速道路高架下で下車。どこだか地理がまったくわからない。
取りあえずチェックインした2人の部屋まで行ってみる。30階建てくらいのホテルで、様式は古い中国式デザインのホテル。
でも価格は290元とのこと。約5000円で、今思えば高くはないものの、西域旅行で、毎日60元程度のところを泊まり歩いていた私にとっては、
日本のホテルの料金と同じくらいの価格は、高額に思えてしまい、今夜は宿泊せず、
どこかインターネットカフェででも夜明かししよう、などと考えていた。

食事は、その辺のファストフードレストラン。日本で言えば神戸らんぷ亭のようなところ。そう高くはないのだが、
中国の方が、やたら注文するので、(それでも80元くらいだったように思う)、既に午前0時近かったが、
結構な量を食べる羽目になった。芝浦工大の先生は、ベトナムでの学会かなにかに出た帰りとのこと。
本来直帰する筈が、この中国の人にどうしても相談に乗ってほしいといわれ、鎮江によることにしたとのこと。
先生曰く、「亜細亜大学の講師をしていた時のクラスの生徒だが、それほど親しいわけではない。
しかし、中国人というのは、コネクションは何でも利用しようとする。今回も、本人の話ではなく、
本人の親と弟が経営する会社の問題なのに、強くお願いされて仕方が無く来た」と、正直迷惑そうだった。
ちなみにここの食事代も、当然のように先生と私でおごることになった。というか、かけらも自分が支払うそぶりは見せなかった。なるほど。確かに、 ずうずう しい。

この先生曰く、上海には、急速に高層ビルが林立しているが、コンクリートは寿命があり、80年もすれば、崩壊する、とのこと。
木造建築を見直すべきだ、というような話をしていた。霞ヶ関ビルも、既に耐用年数に近づいており、取り壊すか、改修する必要がある。
最近の東京では、バブル以来の再開発が活発化しているが、現在のコンクリートでは、7,80年もすれば崩壊する危険がある。と言っていた。

そんなような話をしながら、2時頃まで食事した後、先生はホテルに戻って寝ることにし、
私は上海の盛り場を見たかったので、中国人の人に案内してもらうことにした。というか、
私はどこかインターネットカフェでも探したかったのだが、その人の方が、どうも遊びにいきたかったようである。
上海なんて、何度も来ているんじゃないの?と思ったが、どうもそんな感じでもない。取りあえずタクシーの運転手に聞いて、
クラブに行く。なんか味も素っ気もない(毒が無い)ただのダンスホールといった方がいいところ。
1時間程いて、飽きてしまい、駅に行って朝まで過ごして、南京に移動することにする。
上海の中心部は、一晩中深夜バスが走っているようで、バス停には、夜遊びをしている若者が多数群がっていた。
コンビにに入って何かを買ったのだが、何を買ったのか覚えていない。なぜか、値段だけ覚えている。12元。バス停の時刻表によると、20分おきく らいに来 る模様。

上海駅に着いたのは4時頃だったろうか。活気があるといえるほどではないが、
終夜運行している汽車を待つ人で、それなりの人がたむろしていた。5時のチケットを買って、駅前のインターネットカフェで時間を潰すことにする。
この中国の人は、先生曰くずうずうしいとのことだが、親切でもあって、ホームを案内してくれ、汽車に乗るまで付き添ってくれた。
これには助かった。上海駅も変わっていて、13年前目にした、終戦直後の日本の駅のような、
スラムなのか駅なのかよくわからないといった、人とエネルギーに圧倒されるような光景はなくなっていて、
近代的な建物にエネルギーを吸い取られているような疲れた人々を多く目にした。

汽車は、所謂硬座。そういえば、中国の汽車に乗るのははじめてである。それほど居心地が悪いわけではないが、
通路にぎっしり人が乗り込んで、通路に荷物の箱を置いて、それを囲んですごろくのようなものをやっている。
運よく座れて、半分くらいうとうとすることができた。6時過ぎ、日が昇りだし、途中並木にさえぎられつつも、
地平線まで起伏なく展開する台地が見える。ところどころに、3,4階建ての民家が見える。共産圏的な集合住宅ばかりじゃないらしい。

11月20日(土)

9時頃南京到着。天気は上々。駅は工事中で、いきなり建築用足場で組まれたトンネルのような通路を延々と歩く羽目に。
あふれるような人にもまれつつ通路の出口に来ると、旅行会社のチラシを配っている人がいて、
私に渡そうとして、「あ、外国人か」という感じの一瞬の間。それを抜けると、駅前広場なのか道路なのかわからないほどの大通りに出る。
取りあえずその辺の外食屋で、朝飯にする。

取りあえず、旧城内の中心街を、観光しながら、南の城門である中華門まで歩くことにする。中央路、中山路と、
高層建築のラッシュが続く左右の通りを見つつ、デパートに入ってみたりしながら、夫子廟の近くで昼飯。
午後2時頃だったろうか。夫子廟では、江南貢院など一部の施設を見学したはずだが、あまり記憶に残っていない。
清代の科挙受験施設の展示があって、一つの町程の広さの試験場のミニチュアが展示さえ、また実物大の受験場が、
20部屋程、蝋人形館のような人形とともに、再現されていた記憶がある。まじめに受験している様子、
カンニングしている様子などが蝋人形で再現されていた。夫子廟の中心、秦准河に面した広場は、
河に面したレストランが並び、多くの観光客であるれ、皆が河を背景に記念写真を撮影している風向明媚な場所だった。

夫子廟を出て、中華門を目指す。軽装とはいえ、だんだん足が疲れてくる。一直線に南へ向かうと、
城壁が見えてくる。城壁に着いた頃には、大分足に来ていて、城壁の内側が、
公園のように、ところどころにベンチがおいてあるので、休み休み中華門を目指す。
中華門に到着したのは、既に4時を過ぎていたように思う。西安の城門を見ているので
多少予想はしていたが、幾重もの内部城壁を持つ中華門は、城門というよりも、一つの要塞である。
明代長城の西の端の関、嘉谷関のような構造をしている。入場料を払ってみるだけの規模であると言える。
疲れた足を引きずって、城壁の上まで上る。北を見ると、城壁中心部の高層ビル街が見える。
上海から奥に波状に広がっている市場経済化と投資の並が、まさに南京を直撃しているかのように、多数の高層ビルの建設が行われている。

続いて、南京市博物館を目指す。朝天宮は直ぐに見つかったが、博物館の場所がわからず、
そのへんで買い物しているおばちゃんとかに聞く。博物館内部は、南京近郊の六朝時代の遺跡の写真や、
そこで発見された遺物が展示されていた。六朝時代の城壁の写真(今思えば、これが石頭城の写真だったと思うのだが)もあり、
行ってみたいと思ったものの、場所に関する情報が一切なく、また写真からするとあまりたいした遺跡ではないように思えたので、
特に追求しなかったのだが、先日調べていたら、後漢の212年の建設という記事を発見した。事前準備が甘くて、
また、取りこぼしてしまった。しかし、山川書店から出ている、「中国の歴史散歩」にも載っていないのだから、
仕方が無いか。また、今回の旅行のテーマは、遺跡旅行ではなく、「改革開放後の上海」見学だったので、
遺跡関連の準備はしていなかったこともある。取りあえず南京虐殺記念館と、蘇州夜曲の蘇州、
最近名が知られてきた周荘を見よう、あとは上海の浦東の新興地帯を見学する、という程度だったのだ。

遺物は、当時の豪族や貴族の家を形作った陶器、六朝時代の書斎を復元した部屋、アケメネス朝のグリフォンを思わせる巨大な犬(?)の彫像などが印 象に残っ ている。

そろそろ6時近かったかと思うが、南京大虐殺殉難同胞記念館に行く。閉館時間が迫っていたので、タクシーを利用する。
タクシーの運転手さんは、若い人だったからか、親切な印象だった。閉館ぎりぎりで飛び込む。
昔、私の友人が見に行って、「あれはいくらなんでも酷い」と、残虐さを強調する展示に眉を顰めていたので、
私はどう思うのだろう、と思っていたが、実のところ、特になんとも思わなかった。入り口にあった蝋人形も、
予め聞いていたこともあるが、「なんだこの程度か」と少し旨をなでおろしてしまう。白骨の発掘現場がそのまま保存してある展示も、
過度でも過少でもない印象。そもそもどう見ても日本人ばればれの私が見ていても、特に視線も嫌がらせも感じられない。
なんだか拍子抜けだった。虐殺を強調するばかりのアジテーションに満ちていると思っていたが、
当事の新聞や書籍、戦線分析資料などが多く展示され、そこには、政治的に一方的な資料偏向があるのかも知れないが、
確かに記念館、という感じである。全体としては、広島原爆ドームと同じような印象を受けたのだった。ここに比べると、
靖国神社の展示館の方が遥かに軍国主義的な、アジテーションに満ちている印象がある。日本人として申し訳ないが、私にはそのような印象だった。

そろそろ夕暮れ。できれば明孝陵を見ておきたい、とまたタクシーに乗って、今度は南京市外の反対側、
東側へと向かう。が、明孝陵に着いたのは、6時20分頃で、タッチの差で閉館となってしまっていた。ここからよせばいいのに、
歩いて南京駅へ向かうことを考えて、歩き出してしまう。地図で見ると、5,6キロくらい、あまり距離はなかろう、と思ったのだが、
疲労が足に来ていて、かなり辛い行軍となってしまった。玄武湖を、東から北へと、湖の周路に沿って駅へ向かったのだが、
あたりに殆ど何もなく、公園と小高い丘と、高速道路よりも広い道路がえんえんと続き、休む場所が無いので余計に疲れて来る。
実はあまりに疲れたため、途中で一度バスに乗ったのだが、バスの社内が暗すぎて、
運転手にメモを見せても読めない自体となり、一つ先のバス停で下ろされてしまったのだった。

その後、駅の近くに2件程招待所を見つけたのだが、2件とも断られてしまった。店の人が、「日本人が」と言っていたので、
恐らく部屋はあったのだろうが、日本人だから宿泊できなかったのではないか、と今でも思っている。
抗日暴動があったのは、翌年4月のことである。南京周辺では、日本に対する反感がくすぶっているのだろうか、という先入観ができてしまったのだっ た。

さて、町の繁華街に行けば、とめてくれる宿はあるだろうとは思ったが、消耗しきってしまっていて、
もう動きたくもなかったので、駅で翌朝4時発のチケットを購入して、駅で寝ることにする。20時頃だったと思う。
切符売り場の近くには、私以外にも多数の人々が同じように夜明かししようと寝ていたのだが、
1,2時間寝そべっていたら、駅員がたたき出しに来た。切符を持っているよ、と見せると、改札内部の待合所に案内してくれた。親切じゃないの。

売店でパンなどを買って、眠りにくいベンチを3,4つ占有して、なんとか睡眠をとる。

11月21日(日)

4時半頃の汽車に乗り、7時前、無錫に着いた記憶がある。バスを探して、TVや映画のセットであるテーマパーク三国城に行くことにする。
特に三国城が見たかったわけではなく、太湖を見てみたかったからである。
三国城までは意外に距離があり(20kmくらい)、結構時間がかかる。往路、車窓から唐の宮城が見えたりする。
三国城の隣は、水滸伝のテーマパークがあるとのことなので、その隣は楊貴妃ドラマでも撮影した唐のテーマパークが並んでいるのだろう。
降りる場所を間違えて乗り過ごしてしまったりしていたので、三国城に着いたのは8時頃、確か20分程まっていたら、
開館になったのだと思う。入るといきなりロバに引かれた観覧車があり、一瞬乗りたいという思いにとらわれるが、
人数がそろわないと発車しないらしく、また価格も高そうだったので、歩くことにする。前日の疲労が残っていて、あまり歩き回りたくないのだった。

テーマパークは、広いようで狭い感じ。結構すぐみれてしまった。結構ずさんなつくりで、近くによると、
ペンキの刷毛の後が見えたり、遠めにも、プラスティックの柱に見えてしまうのだが、こういうものが、
TVや映画の映像になると、結構リアルに見えてしまうものなのだろう。駅へ戻って10時頃だったように思う。
時間に余裕があったので、駅の近くを散歩していると、駅に隣り合わせてバスステーションがある。よく考えると、
これで4回目の中国とはいえ、西域という特殊な場所以外、ちゃんと中国を一人で旅行するのははじめてなのだった。
どうやら、駅の横にはバスターミナルがある構造らしい、ということがやっとわかった次第。バスを見てみると、
西域で乗った、かなりの確率で故障する旧共産主義時代のバスではなく、近代的なバスである。高いのか、と思ったら、
汽車より若干高い程度。ということで蘇州までバスに乗ることにする。

蘇州までは1時間程で着いたと思うが、2日間あまり寝てないころから、バスの中では眠ってしまう。
蘇州に着いたのは、お昼頃だったのではないかと思う。バスターミナルで地図を買って外に出ると、
多数の人力車が客寄せをしていた。100元程度の宿に行きたいと交渉する。Okとのことなので、案内されたのは、
蘇州市街の中心から少し西よりにある、米蔵のような建物が立ち並ぶ、観光地の一角にあるホテルだった。
150元とのこと。高いと思ったものの、ゆっくり休みたかったので、ここにする。人力車の親父には、少しチップを渡した気がする。

宿は、日の当たらない奥まったところで、カーペットを、洗浄掃除機をかけたのだろう、湿っていた。1時間くらい休憩したあと、観光に出る。

この日の午後は、どこを観光したのか、実はあまり記憶が無い。蘇州の詳細な地図を購入したので、
結構歩き回ったのかも知れない。バスに何度か乗り、駅前に出た記憶もある。どこをどうしていたのか思い出せないが、
虎丘を見に行ったときは、既に夕方近くになっていたのではないかと思う。その後、北寺塔に 行き、
塔の上に上った時には、既に日は暮れていて、薄闇がおりてくる直前の蘇州市街を、塔の上から眺めたのだった。夜に入って、
北寺塔から宿まで歩く途中、裏通りにある招待所の前を通ったり、物乞いの人に会いながら、宿まで歩いた。
昼食も夕食も、どこで取ったのか記憶にない。8時頃には宿に戻り、直ぐに眠ったものと思う。4泊5日いて、結局宿に泊まったのは、この日だけと なった。残りはネットカフェと駅と列車の中。凄い日程となってしまった。


11月22日(月)

少し遅めまで寝ていたものと思う。午前中は、滄浪亭という五代に遡る庭園を見学し、バスターミナルへ出て、
周荘に向かった。周荘には1時間程度で着く。バスチケットには、「周荘鎮」と書いてある。鎮という行政レベルの地へ行くのははじめて。
今まで考えてみれば、幹線道路の主要地点しか移動したことが無い。午後2時頃だったと思う。バスを降りると、
あたりは田のあぜ道があるだけだが、物売りと宿の勧誘のおばちゃんたちが寄ってきて、入り口まで列をなして群れているので、
ここが観光地がとわかると同時に入り口もわかる。チケット売り場は、その辺の民家の窓。うーむ。ただの村なんだな、
などと思いながら受け取ったパンフレットには、地図が記載されていて、バスターミナルなどがある正面の門は、反対側であることがわかる。

最初のうちは、本当に普通の民家で、民家の間の通りでは住民が洗濯などをしていたが、運河に出ると、
先導が観光用の小船を操っているのに出くわし、橋の向こうには、観光客目当ても店や売店などの繁華街があった。
中ほどが競りあがっている橋の上に立って、運河を見下ろす。こりゃあいいところだ。蘇州は、水の都というイメージはなかったが、
こちらこそ、水郷都市という感じ。今回の旅行では、さしたる収穫も無いかと思っていたが、これは当たりだった。

共通チケットで12箇所程の施設が見学できるらしい。一応全部みて回ることにする。明代の富豪、張家の邸宅や、
このあたりで発掘された博物館、清代の役所などが印象に残っている。博物館では、戦国時代から現在にいたる、
このあたりで発掘されたと思しき貨幣が、連綿と展示されていた。、中国の歴代貨幣の実物をまとめてみるのは初めてであり、
写真で見ていると、あまりピンと来ないが、予想以上に多様なサイズがあるのには驚いた。

周荘は、正門を出てみて驚いたが、観光用の店が1キロにわたって立ち並ぶ大観光地だという ことがわ かった。
さて、ここで困ってしまったのだが、バスターミナルに行くと、バスがなさそうである。それ以前に所持金が少なくなってきていて、
両替できそうなところもない。折りよく、日本人の観光バスが止まっていたので、日本人の人を捕まえて、
2000円ほど両替してもらう。適当に計算したが、かなりいいレートで両替したはずである。
また、その辺の人(人力車のおばちゃん)に聞いてみたところ、上海行きバス停は、もっと先とのこと。
10元で人力車に乗るが、600m程のところに、バスターミナル(といっても泊まっていたバスは、ワンボックスワゴン)があった。
この距離で10元は高いが、まぁ案内用だと思えばいいか。最終だかその一つ前のバスに滑り込むことができた。既に4時20分頃だったと思う。

上海に着いたのは6時頃だったと思う。もうすっかり暗くなっていた。バスは上海駅の近くだが、
駅前まで数百m手前の中途半端な場所に停車。近くに飲食店で夕飯を食べつつ、観光ルートを検討する。
最初に、地下鉄で、外灘に出て、南京路を西に向かって、日航ホテルの先、人民公園の先まで、2kmほど歩く。
13年前の面影は、殆ど何も残っていなかった。途中頻繁にポン引きに出くわし、また、20分に一度、物乞いに出会った。
ポン引きは、女性も多く、「私女教師なの。日本語を勉強しているの」などと誘ってくるパターンが多かった。
和平飯店の前で出会った男性の客引きからは、「なぜ日本人だと見ると、そういう声をかけるんだ、
日本人はそんなやつばかりなのか?」と聞いたら、「そうだよ」と言われ、情けなくなった。遊ぶんならもう少しひっそりやれ、と思う。
日本人=即女買いだと思われるほどということは、勤務先の中国駐在の者も、ここらで遊んでいるのかも、とも推測してしまうと、ますます情けなく なった。

物乞いの方は面白かった。彼らは大体服装も言うことも同じ。蘇州の夜に出会った物乞いと同じことを言うのである。
曰く「私は安徽省から来た。今日帰るお金がない。何か食べ物をご馳走してください」というもので、身分証明書を見せてくれる。
二人連れや、親子のパターンが多い。みなジャージを着ていて、宗教団体のようにも見える。
これは、安徽省で、物乞いの仕方についてのうわさが広まっている、ということなのではないか、とも推測される。
南京路を、外灘から、人民公園の先までの間に、この種の物乞いに20分に一度は出くわした。
一人、外灘近くのマクド前あたりで出会った物乞い親子に、人民公園先の、商店街でも出会った。
向こうもこちらを覚えていたらしく、おもわずその努力には苦笑してしまい、いくばくかのお金を上げた。なかなか見上げたものだと思う。

確か地下鉄の駅があったかと思うので、それに乗り、東京タワーのような、へんてこなタワーを見に行く。
エレベータ料が180元もしたので、乗らなかったが、一応近くまで行く。ついでに、隣の、88階立てのホテルに行く。
明日朝の飛行場行きリムジンバスについてたずねるためである。
すると、コンシェルジェの青年曰く、8時が始発なので、早朝の便には間に合わない、という。タクシーを使うように言われるが、
いくらぐらい?と聞くと、200〜300とか言った気がする。いづれにしても手持ちのお金では不足しているので、
コンシェルジェに両替をお願いする。
正式なホテルの両替だと1万円単位となるのだが、とても1万円も変えたくない。なんとかならない、
と拝んだら、その辺のホテルマン2,3人からお金を集めて、1000円だったか2000円だったかを代えてくれた。
なんと親切な青年だろう。薄汚れて、高級ホテルに入るよような格好でもない、しかも宿泊客ですらない、
明らかに通りがかりの者に、ずいぶん親切にしてくれる。さすが高級ホテルは、教育が行き届いている。

明日は、地下鉄の終点まで行き、そこからバスかタクシーに乗れば、確実に足りるだろう。ということで、
資金もぎりぎりだし、明日朝早いということで、宿に泊まるのももったいないし、初日に行った、上海駅前のインターネットカフェに行くことにする。

黄浦江の地下道を南京路に戻り、よせばいいのに、上海駅まで歩くことにする。時間はあまりあるので、
歩くことにしたのだと思う。南京の夜と同様、予想以上に距離があり、ひいひい足を引きずりながら、
何度タクシーに乗ろうかと誘惑と戦いながら、午前12時頃に駅についた記憶がある。インターネットカフェでは、
抗日戦争ゲームというのをやり、映画「リディック」の前半を見た。抗日戦争ゲームは、日中戦争時代の日本軍と、
カッコいい中国人が、戦うシューティングゲーム。めがねにちょび髭、茶色い軍服と、旧式銃を携えた、ステレオタイプの日本軍。以外に面白かった。

インターネットカフェには、5時頃までいて、地下鉄が動きだしたあたりで、移動。終点駅前でタクシーを拾う。
値段の交渉をすると、35元とのこと。他の車がぜんぜん走っていないハイウェイを悠然と走り、
7時頃には空港に到着した。しかし空港では、チェックインに異常に時間がかかった。9.11の余波がまだ残っていたのだろうか。
とにかく出国に時間があかり、チェックインカウンターはあふれかえった難民のように、人々が充満していた。

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