9月30日

 時間が惜しくてホテルからバスステーションまでタクシーを使ってしまう。
  最寄りの町タカブまでハマダンから直行便なし。 短距離バスのステーションは長距離バスターミナルから道を
隔てた反対側にあった。

 ミニバスを3回乗り継ぐ。 しかも途中の町でのバスの乗り換えは、 
毎回町の反対側のバスステーションに移動しなくてなならなかった。
 ステーション間は4〜5キロの距離があり、 タクシーで移動する必要がある。 
時間があれば市内バスでなんとかなったかも知れないが。
 お陰でさほど遠いいとは思えないタカブまで1日がかりとなった。

 サナンダージでビザール行に乗り換えたときは、 バスとタクシーがステーションの門のところですれ違い、
ドライバーが聞いてくれて、すぐに乗りかえることが出来た。

 ハマダン→サナンダージ  9時15分発12時着
 サナンダージ→ビザール 12時10分発13時45分着
 ビザール→タカブ        15時10分発16時45分着

  タカブのバスステーションからホテルまでは 1キロ程度あったのだが、 バス停側のサンドイッチスタンドで知り合った
英語勉強中の高校生に送ってもらったので スムーズに到達することができた。
 しかも サンドイッチを少年におごってもらっている。
 町にはホテルが1件しかないため、 料金は言いなりに高額(公式レートだと24ドルにもなる)。

 19時半頃迄休憩。 食欲はあまりなく、お菓子を売っている程度の店しか近辺になく、 お菓子とウリで夕飯をすます。
 ホテルのレストランで食べる気はしない。 21時33分寝る。 ミニバスばかりだと結構疲れる。
 

10月1日

  タクシーチャーターして42キロ離れた タクト・イ・スレイマーンへと往復する。
 片道3万、往復4万で成立する。 走り出してパスポートをホテルのフロントに預けたままだったことを思い出す。
帰りに取りに戻ることにして遺跡に向かう。 道中9台以上のバスとすれ違う、 こりゃタクシーでなくてもよかったかも。
 なだらかな丘の上に遺跡が見えてくる。 

 9時遺跡着。 都市の起源はパルティア期にさかのぼるということで、この町も円形都市
城壁と門だほぼ原形近く残っている。 全体の3分の1程は過剰修復されていたが、 修復されていない部分も原形を留めている。
遺跡自体の規模が大きいので、 過剰修復の部分を覗いてもみるべき部分が多い、 と思う。

 しかしどの部分がパルティア期だか判然としない。
場内に残る レセプションルーム、 法廷、 拝火教寺院、 アナーヒータ寺院等(表示はこまめに立っている)は大半がササン朝時代のもの、
残りはモンゴル期のものだった。 ここでは資料の類は販売されておらず、 この後ゴルガン博物館へ行ったときタクト・イ・スレイマーンの歴史学報を目にしたが
全ページペルシャ語。 とても持ち帰る気にはならなかった。 遺跡は有料。

 タクト・イ・スレイマーンの3キロほど南にゼンダネ・スレイマーンと呼ばれる 地上から300m程の噴火口山がある。
 ここでとまってもらって一気に頂上噴火口まで走り上る。
 噴火口の直径は100m程度だろうか。 硫黄の臭いがすごい。 ここからタクト・イ・スレイマーンがよく見える。
 しかしあまりに急激に走り上ったので、 タクシーに戻ってから咳がとまらない。
 車中1時間ほどずっとルゴールつけたりトローチなめたり。 
 運転手は正直な人だったので5000余分に渡す。

 ホテルへ戻ってもらって、 パスポート受けとって、 ホテルのレストランでお茶だけだしてもらって、 あとはお菓子とウリで昼飯にする。
11時30分昨日到着したバスターミナルへゆくが、 シャーヒン・ディズ行はまたもや反対側のバスターミナル、
ということでサファリ(乗合タクシー)に乗ったら、 何と2、300mのところにあった。
 タクシーは只にしてくれた。 ははは。 そのターミナル付近には食事出来る店がなかった。
 またもお菓子で昼飯。 (もうひとつのターミナルも、 時間がまだ早いらしくて、 昨日のサンドイッチ屋もまだサンドイッチはない、 とのことだった)。
 この日はウルミエまで移動。
 バスを3回乗り換え。 昨日同様乗り換え町では 町の反対側のステーションにタクシーで移動。

 タカブ→シャーヒン・ディズ        12時半発14時半着
 シャーヒン・ディズ→メヤンダーブ   15時10分発16時10分着食事
 メヤンダーブ→ウルミエ          17時発19時25分着。

  シャーヒン・ディズでは窓口の内側に入れてもらい、お茶をごちそうになる。
 メヤンダーブでウルミエ行ターミナルへサファリが着くと、1台のバスが門から出てくるところであった。
こーゆーバスがちょうどウルミエ行だったりするんだよなぁ、と切符売り場へ行くと、 いま出てったバスがウルミエ行だという。
走って追いかける。 バスは それほどスピードを出していなかったし、 後部まで追いつけばあとは乗客がドライバーに停まる様に行ってくれたので なんとか乗り込む。

 途中砂嵐に遭遇する。 視界50m。
 やがて 夕暮れ時の中湖が右手に見え出す。
 
 すっかり日が暮れ、19時半ウルミエ着。
 タクシーで市街まで出てレザーホテルへ。
 部屋は角部屋でやたら広くダブルベッド。 シャワーはあるがトイレ共同。
 トイレは反対側の端にあり、端から端まで歩かなければならない。 でもこれで2万は上等。

 夕飯サンドイッチ食いに行ったら、 久々にぼられた。 1リットルペットボトル、 通常2800なのに5600も取られる。気分悪い。

 ホテルで残額チェック、 両替した1万リアル札121枚。 アフワズで88枚、 この日は54枚だった。残っていた。
最初の方は6日間で33枚、夜行を利用した為、一日平均5枚程度だったけどこの4日間で34枚、一日平均8枚消費している。
 

10月2日
 

  8時15分起床、 ホテルで朝食。
 セルジューク時代に溯るモスクを見に行くが、 建物が立て込んでいてよく分からなかった。
サファリ(乗合タクシー)でターミナルへ。  またしてもバスターミナルではバスを追いかける羽目に。
 門をでた所で捕まえる。

  ウルミエ湖を左手に眺めつつタブリースへ向かう。 このバスは珍しく満員ではない。
イランのバスはどういうわけかいつも殆ど満員なのである。 こんなことは珍しい。

  警官とかいう青年がわざわざ席を移動してくる。 この人は英語の単語すら知らない。 そのくせあきらめずにコミュニケーションをとろうとする。 関心するよりもあきれてきた。

 タブリーズには13時40分頃到着。 サファリに乗ったはずなのにタクシー並み料金を取られた。
この日のうちにアルデビルに着きたかったので、 あらかじめ17時のチケットを購入してから市内に向かう。
 チケット購入時、 「2時のバスじゃなく、 16時前後のバスがいいの」 ということがなかなか分かってもらえず、
こまったなーと思っていたら都合よく英語教師があらわれて通訳してくれた。 ラッキー。
 イランは英語が通じない、 中国よりちょっといいくらい、 とガイド本の記述があったが、 旅行中、 ガイドブックの付録会話帖と 
身振り手振りでは難しい会話に迫られるケースになると、 必ず英語が話せる人物がひょっこり現れた。
 殆ど毎日一人は現れるから不思議であった(中国西部では絶望的だった。西域の第1外国語とは中国語だった)。

 というわけでモンゴル時代の要塞 (周辺を遺跡公園として整備中のようで近寄れなかった) とチムール期のモスクを見学。
 バザールは金曜日である為休みだった。 ここがもっともイランでバザールらしい雰囲気が残っているところなのだそうが残念。
 

 イラン人のホスピタリティはかなりいいみたい。 親切で人懐っこい。 外国人が珍しいのか大勢に取り囲まれて見世物になることもしばしばであった。
 タブリースでチムール朝のモスクへ行ったときのこと。 ガイドブックには入場料要。隣接の博物館で購入すべし。 と書いてあるが博物館は閉まっていた。
 ところがモスクの前に3台のバスが停車しぞくぞくと青年達がモスクに入っていく。
 そしらぬふりして私もモスクへ一緒に入っていった。 ところが上がり込んだあたりから彼らに質問攻めにあい、とうとう
 「これは大学の研修授業なんだ。 君がいると授業にならないから ちょっと外に出ていてくれないか」 と教員みたいな人に言われた。
 外に出て玄関脇に座っていると こっそり生徒がでてきて話し掛けてくるのであった。
 200人以上はいたであろう。 気分はサイコーだった。
 しかし彼らがどんな質問をしてくるのかというと、 素朴で純真なものが多いのはもちろんだが、
 「結構ふざけたものも多い」と 旅行ガイドにあったが、 まさにその通りであった。
 旅行中私は髭を結構長く伸ばしていたせいかよく タリバーンと間違われたが、 この時は
 「君は日本人か、 それともタリバーンか?」 と聞かれた。
 こう限定して聞いてくるというのは、 当然ながら 日本人であるとわかって言っているのだ。 
 イランでは日本人?と聞かれるのが4割、 タリバーン? が3割、 カザフ人? が2割。 その他(中国人か韓国人等)というのが1割であった。
 

 16時10分頃ターミナルへ戻る。 ターミナルでお茶を飲んだところ、
 「兄貴が日本で働いている」 というあんちゃんに会った。
 彼は 「てめえら」 とか 「野郎ども」 とかヘンな日本語をよく知っていて、
兵隊が店にはいってくると 兵隊がわからないのをいいことに 「てめえらなにほしい」 とか日本語を使っていた。

 17時15分タブリーズ発、 隙間風が入ってきて寒いので厳重に上着をかけたりしていたら、
風邪を引いていると思われたみたいで、 助手の人がしょっちゅうお茶や飴をくれた。 おかげで今度はトイレが心配になってしまった。 
 21時15分、アルデビル着。
 ターミナルまでは行かない、中心部で下りたい、というと中心部近くで降ろしてくれ、一緒に下りた青年が予定していたホテルまで送ってくれた。
 ホテルは1万5千、 簡易宿泊所。
 夕飯を探しにでたところ、 あんちゃんグループ一団がすれ違いざま 「おめえら」 と奇声を上げていった。
 次にすれ違った家族ずれのおっさんは流暢な日本語で、 なにか困っていないか? と尋ねられ、飯屋を案内してもらう。
 その店は2階にあり、 そうと知っていなければレストランがあるのかどうかわからない。 ラッキーだった。

 日本で3年ほど働いていたことがあるとのことで、 今はバザールで宝石店をやっているのだそう。
 おじさんの娘さんに飴をあげる。 これで井上さんにもらった飴はすべて終わってしまった。 ちょっとしたお礼など、 飴は非常に役に立った。
 

10月3日

 アルデビル

  サファビー教団の始祖サフィーと サファビー朝の始祖イスマーイールの廟へ行く。
 「悪魔の様な」 と形容される美貌を誇り、 弱冠15才でイランを統一したイスマーイール。
結構興味を持っている人物なので感激である。
 廟は幾つもの棟に別れていて、万暦帝の寄贈した中国陶器が数十点展示されていた。
 もとは数万点あったのだそう。 
 博物館で映画監督という人にあい、 黒沢について質問された。
 しかし彼は黒沢の映画はあんまり見ていなかった。
 博物館の人に、 ササン、 パルティア、 サファビー朝に関するイランで出版されている良書のリストを作ってもらう。
 翻訳機があれば、 将来取り寄せて読むことも可能だろう。

  帰るとき門番に呼び止められて30分程お茶に付き合うことになってしまった。 
 この史跡には 警備の兵隊が2人ほどいて、 彼らが監視するかの様に近くにいたのが気になった。
 確かにこの門番の話は 一部反体制的な部分のあったが・・・
 バザールの宝石店に寄ってバスターミナルに着いたらもうお昼。食堂で昼飯食って13時半のバスでサリへ。
 

  アルデビルは標高1500m程度の高原にあり、 草木もまばらな岩の大地で覆われている。
 ところがカスピ海に近づき、 高原を下り出したところで突然景色が変わった。
 一転して日本の山地のような 緑の森で覆われた険しい山脈地帯に突入したのである。
 ほんの2、3分窓から目を離していただけだと思うのだが、 気がついたら日本の田舎のような景色が展開していた。
しかもイランへ入ってから 毎日雲のほとんど無い晴天だったのに、 この時は気がつくと ガスがでてきて50m先は見えなくなっているのである。
 そこを色葉坂のよろしく曲がりくねった道を バスはひたすら下りつづける。
 ガイドブックにもあったが、 ここは本当に日本の様である。 
しかし日本に似ているのは地形だけではなかった。 
 程なくカスピ海沿岸に達し、 バスはカスピ沿いを東に走ることになるのだが、 特に日が暮れてからの、このカスピ沿いの道路沿いの雰囲気、
レストラン、 看板、 ホテル、 店のたたずまい、 ネオンやイルミネーションといった風景が 日本の海岸線に非常に似ているのである。
 しかもこれまでの道路と異なり、 日本並み、 いやそれ以上の密度でオレンジの照明が通りを照らしているのである。
(カスピ海南岸に到達した頃には日は暮れていた) 千葉の九十九里あたりの海岸線を走っているような気分になってくる。

  もともとトイレ休憩は少なかったのだが このアルデビルからのバスはなかなか3時間走ってもトイレ休憩はしない。
えらいこっちゃ。 しかたがないので検問時に トイレへゆくことにした。 
ちゃんと若い兵士の一人に断ってから 道端のやぶに入ってしてきたのに、 戻ってきたら上役のおっさんみたいな奴に責められた。
 頭に来たのでそいつが後ろを向いたときあかんべーをしてやったら、 
 別の兵士が見とがめて、 「なんなんだ、これは一体」 と舌を出すジェスチュアをしながらバスに怒鳴り込んできた。
馬鹿馬鹿しいので相手にせずにいたら、 そのうち別の兵隊が止めに来てこの話は終わりになったのだが、
これはイラン人自身が言っていたことだが、 「兵隊には馬鹿ばかり」 というのは本当のことらしい。
といってもイランで検閲の件でいやな思いをしたのはこの時だけだけど。

 海岸線に別れを告げてバスが内陸部へ大きく方向転換するジャンクション付近に 巨大な、しかもここはカリブかというばかりにモダンな流線形のホテルが建っていた。
ここはどこだ? イランのイメージがどんどん変わってゆく。

  サリに着いたのは午前1時半。 バスを下りて幸運にもすぐタクシーを拾えた。
 ホテルに行ってもらうも、 ホテルは既に閉まっていた。
安宿だから24時間オープンではないらしいのである。
タクシードライバーが一緒に扉をたたいてくれる。
 程なく奥で明かりが灯り、不機嫌そうにおっさんが出てきたが、 泊めてくれた。 
しかしすぐには眠れなかった。蚊が数匹飛び交っていたのである。3匹までは撃墜したが、最後の奴がなかなかすばやく仕留められない。
早く寝たいし、 ベッドとその周辺に虫除けまきまくって寝た。

 ところでアルデビルからのバスはマシャド行なのであった。 無理すればマシャドへ行って帰ってくることも出来よう。
しかしこの時既にゴルガンでイスカンダルの防塁と ヘカトンピュロスを探すほうが面白いと考え出し、 
一度考え出すとそのアイデアに取り憑かれてしまい、 マシャドは次回に後回し、 と次のイラン旅行の計画を練り始めるのだった。
例えば以下の様に。

 休暇9日間として、初日成田ーテヘラン入り
 2日目早朝のバスでイスファハン、午後と翌日イスファハンを観光
 4日目、シーラーズへ移動。5日目。ペルセポリス、パサルガダエ、ナクシェー イーロスタム等、ついでに出来ればフィルザバードも観光。
 6日目、ヤズドヘ移動、沈黙の塔観光。夜行バスでマシャドヘ。
 7日目マシャド観光。夜行バスでテヘラン移動。
 8日目午前、テヘラン着。午後4時のフライトで翌日12時成田着。

うん、凄くしんどいんだけど、これなら9日間で残りの部分をクリア出来る。
とかそんなことを考えてばかりいるようになってきていたのだった。

 イランでも見学に行くつもりだったが、 ガイドブックが「やめたほうがいい」と書いてあったので海水浴場には行かなかった。
 今回初めて利用したロンリープラネットでは海水浴場に関し口をきわめて否定的だった。このガイドブックは他にも正直な感想や皮肉がたくさんあり、
このカスピ海沿いのホテル紹介では、 筆者が 「旅行者料金」 ということで法外に高額な料金を請求されたそうで、「 「旅行者料金」 なんて聞いたことがない!」 とのこと。