11月23日

 7時半過ぎに家を出てシンセン宝安空港行き市内バスに乗る。8元。
シンセン特別区外の宝安区は、主に郊外の工場の労働者として働く、各地からやってきた農民が多く住んでいる地域で、
無職者もおおく、治安が悪い地域とされていたそうだが、最近は、特別区シンセン市街の拡張に飲み込まれ、都市化が進んでいる地域は、
特別区内とあまり変わらない危険度となってきているようだ。
宝安は、これまで広州とシンセンを往復する高速道路からしか眺めたことが無かったので、市街バスで走るのは今回が初めて。
一体どんな地域なのだろうか、と興味をもって眺めながらの空港までの1時間だったが、
特にシンセンと異なった街並みがあるわけではなく、大規模なマンション地域があちこちに開発されていた。
郊外に至り、建設中のマンション群が、途絶え、突然市街区が終わりになっていた。

 宝安中心部で酷い渋滞に巻き込まれ、遅刻しないかと心配したが、1時間10分程で空港に到着した。9時10分だった。

 9時50分、予定通り離陸。窓側ではなかったので、景色は殆ど見えなかったのだが、広西壮族自治区の省都南寧まで1時間、10時着。
着陸直前に、ちらりと見た景色は、田畑と家が広がる平原の、ところどころに、カルスト質の丘が、古墳か、海を行く船団のように、広がっているというもの だった。
数は減っていてるとはいえ、桂林あたりの景色の延長線上にあるということのようだ。

 空港は、雲南省省都昆明空港と比べると、更に小さい規模。昆明空港も大きいとはいえなかったが、更に小さい感じ。
昆明空港が沖縄空港程度とすると、南寧は、八丈島空港というところだろうか。私が八丈島に行ったのは、1994年の事なので、今は空港も変わっているのか も知れないが。

 また、昆明空港のように、市街繁華街から数キロののところ、市バスでいける程近いわけではないようで、
市バスを探したが、見つからず、空港リムジンバス(15元)に乗ったところ、空港高速に乗り、15キロほど走って、南寧駅近くの終点に着いたのは、11時 45分頃のことだった。

 南寧駅前広場で市街地図を買って(4元)バスターミナルを探すが、近くに見つからない。
やっと1個見つけたが、1キロ程距離がありそうなので、市バスバスで4つほど先。北大公路客運中心。
駅前付近はまだ比較的大都市的な感じだったが、たった1キロ離れただけで、だいぶ鄙びた感じになってきている。
昼食にしようと思って近くの店を探すが、露天に毛の生えた程度の店しかなく、外食産業が発展しているようには見えない。
改革開放の投資と発展があまり及んでいるようには見えず、1980年頃の状況が、まだ殆どという感じ。
ここに住め、と言われたら、ちょっと嫌。
バイクタクシーが目に付き、車も、マイカーよりタクシーや業務用のものが目立つ。しかも旧式。

 バスターミナルの食堂にする。高い。シンセンの普通の定食屋の.1.5倍くらいの価格だ。
定食が15元以上のものばかりなので、5元のラーメンにする。ラーメンといってもいわゆる日本の支那ソバという感じのもの。
ハノイ直行バスは無いようだったので、国境の町、凴祥(ピンシャン)までのチケットを買う。本数も少なく、14時10分発で55元。
バスターミナルは、30くらいの発着場があり、小さくはなかったが、省都なのに、これだけ?という感じ。
そう思っていたら、発車後、市街中心から数キロ南の郊外に、50程の発着場を持つ、江南站という、近代的なバスターミナルに立ち寄った。
市街地図の裏に、郊外を含めた、より大きな縮尺の地図が載っているのだが、そちらの方に掲載されていた。

 ちなみに社内に、、凴祥行きバスの予定表が掲げられていた。それによると、

    凴祥 6:05、7:00  金橋站 12:00 北大客運站 14:10 江南站  13:00、15:10

となっていて、凴祥を早朝出発して、お昼に着き、金橋站か北大客運站 を出発したバスは、
1時間後に江南站を経由して凴祥に戻る、という運行となっているらしい。
南寧、古びて酷そうな街だと思っていたら、江南站の周辺あたりは、比較的新しい建築物ばかりで、少しアメリカの郊外街道沿い、というような感じ。

 頭痛が酷くなってきて、高速沿いの景色も小高い山が続くだけなので、眠りたかったが、何故か眠れない。

17時45分時頃、景色が急に険しくなってきたところで高速を下り、凴祥 到着。
恐らくは人口10万程度の信号が数個しか無い程度の町。
下車すると、国境の友誼関行きタクシーの運転手に付きまとわれるが、バスはないかと探しているうちに、18時。
国境は、18時までなので、この時点でタイムアウト。宿を探すことにする。この程度の規模の町だと、宿探しも楽だ。
バスターミナルから4,5件目の賓館にする。60元。賓館といっても、汚くない招待所程度だったが、部屋にインターネットの設備があった。

町の中心は1キロ四方もない程度なので、夕飯の取れる店を散歩しながら探す。
幅10メートル程度の川があり、何故か堤防の縁に、200メートル程にわたって、青と赤のネオン取り付けられている。
その付近は、商業施設の建物の縁にも、同様に黄や緑のネオンがついていて、繁華街化粧といった感じなのだが、
場末たゲームセンターが並んでいるようにしか見えないのが少し寂しいが、営業努力の姿勢は買えるかも。
この町で一番目に着いたのは、路上にゴミが殆どないことと、こまめにゴミの清掃をしている清掃員に出くわしたことだった。
人の入りの良さげな店で定食(5元)を食べた後気付くと、結局1週してきてバスターミナル前の定食屋だった。
その後、ケーキ屋でデザート食べて(6.3元)から宿に戻る。

 部屋のインターネットは普通に使えたが、中国語しか入力できないので、ネットはやめて、端末のPCに格納されている映画を見る。
美少女戦士真人版、というのがあったので、もしやと思ってみてみたら、セーラームーンだった。
マンガさえ読んだことが無いのに、こんなところでセーラームーンのTV版を見ることになるとは思わなかった。
第1回目しかなかったが、どうも日本のTVをそのまま録画したもののようで、画面の隅に、朝の時報が出ている。
どうやら、7時半に始まって8時までの放映だったようだ。はっきり覚えていないのだが、
「○○の提供でお送りいたします」という番組の提供各社紹介のところの字幕は、「みんな応援している」みたいなことが書かれていた。
社名はいちいち紹介しても仕方がないので、こうなるのかも知れない。

 他にも色々開いてみた。100本以上の映画があったと思う。黒木瞳の「失楽園」もあった。
こんな映画が世の中にあったのか、と驚いたのが、大戦中の日本軍捕虜収容所を舞台にした、
「第13女子集中营」という作品。原題は「the 13th women's concentration camp」となっているので、香港映画なのではないかと思う。
「第13女子収容所」という意味なのだろう。
ポルノチックな場面もあるが、これも抗日作品の一つなのだろうか、と思って見始めたのだが、
少し違う印象を持つに至った。早送りでところどころ見ただけなので、正確でないところもあるが、こういうストーリのようである。

     日本軍の捕虜収容所に、10人程の白人女性を含めた女性捕虜が収容されている。
    彼女らは、レズの女性将校含めた日本軍人の夜のお相手をさせられ、日夜虐待されている。
    ある日、連行されてきた中国人の女性工作員が、脱走計画をもちかけ、脱走する。
    が、お約束のように発覚し、それぞれの白人捕虜達は、恨みのある日本人とそれぞれに対決し、勝利する。
    日本人なのか、日本軍で働いている中国人なのか不明だが、1人だけ、途中から白人女性を助ける側に回った男がいて、
    ラストは、この男と、白人女性の一人が丘の上で抱き合って終わる。

 なんじゃこりゃ、というような内容だが、こういう作品が作られていることをはじめて知った。
こんなエロ場面が多発する映画が中国で作られるはずはないので、恐らく香港映画なのではないかと思う。

 日本憎しの抗日ものというよりも、下品な娯楽映画の舞台に悪役として大戦時代の日本が使われただけのような気がするが、
正面切った抗日モノではなく、何気なく悪役として、日本が登場する点(しているのかも知れない、という可能性)に、
改めて、東アジアにおける日本というものがどのように認識されているのか、ということを考えさせられた。
欧米の娯楽映画に、自明のこととして、ナチスが悪役で登場することが多いのと同様、対戦中の日本もまた、
同じなのだ、という、これもまた、ナチスの状況を考えてみれば、当然のようなことに思い至った次第。

 なんてことまで考えた後に、Googleで検索したところ、殆ど情報はないものの、
中国語タイトルで検索するとヒットゼロでしたが)英語タイトルで検索すると2件だけとはヒット。
http://www.kfccinema.com/reviews/action/bamboohouseofdolls/bamboohouseofdolls.html
http://www.bigozine2.com/features04/eroticshaw.html

 これによると、単なるエロチックな娯楽作品という以上の意味は無いようですね。
こんな作品が大量に作られているのかと思いそうになりそうでしたが、深く考えすぎ。
単発もののようですね。しかし、1973年の作品なのに、2004年など、最近になってからDVDに落とされるとは、カルト的人気でもあるのでしょうか。
22時頃就寝。



11月24日

 5時半に起床。6時半にロビーに行くと、まだ外は真っ暗。ロビーのソファで寝ている従業員を起こすのも悪いので、6時45分まで待つ。
7時にバスターミナルのチケット売り場に行くと、バスで直接買えとのこと。
で、友誼関と行き先表示のあるライトバンの前でずっと待ったが、一向にドライバーが来ない。寒い。
どうも、この町は標高が高いようだ。あまりに寒いのに耐えられなくなったのと、
とうとう8時近くになってしまい、8時半のハノイ直行バスに乗っても、あまり時間が変わらなくなってきてしまったため、
ハノイ直行バスチケットを買い、ロビーでパンをかじりながら待つことに。66元。
国境を越えるというのに、意外に高くない。
距離からしても中国国内と同じ程度。因みに、凴祥 からハノイ(河内)行きは、8:30 10;30 13;30の3本。

 8時半出発。乗客は私を含めて6名だけ。バスではなく、ワゴンだった。
発展著しい中国とベトナムの間なのだから、もっと業者や物資の移動が活発かと思っていたら、そうでもないようだ。

 出来れば自力で国境を越えたかったとはいえ、直行バスでは、国境に着くと、ガイドさんがいて、通関案内をしてくれた。
全員ガイドのお姉さんに従って、書類を記載して手続きを終える。
スムーズに9時半には通関を終わってしまった。友誼関は、カルスト質の断崖がうねる山間部にあった。
国境で闇両替を持ちかけられる。1元1600ドン。断る。
中国元とベトナムドンのレートをチェックし忘れていたので、とっさにガイドブックに載っているUSDから暗算すると、1元2160くらいになるはずであ る。
レートの変動を考慮すれば、5%前後するかもしれない。ということで、ためしに2000、と言ってみたら、OKとのこと。
とりあえず100元交換する。実は、この後判明することになるのだが、中国と違って、ハノイの銀行は、日本同様、土日や休みのよう。
そこで銀行レートは分からなかったのだが、ハノイ到着後、ホテルと、旅行案内所で交換してもらったところ、どちらも1900ドン。
最終日空港の両替所で見たレートは、2145ドン。
今回私が把握した範囲内では、通常の国と違い、空港と国境が一番レートが良かった。
ハノイからベトナムに入る方は、空港で滞在費全額両替してしまってもよいかも知れない。

 それにしても、国境はのんびりしたもの。
車道は、カルスト質の断崖を抜けてトンネルとなっているが、このトンネルは通行止めとなっていて、車はそのまま通過できないように見えた。
つまり、莫大な輸出入車両が行きかっているのだろう、という私の推測はまったく外れ、手荷物で物資を持ち込む人がいる程度。
通関でもベトナムから来る人、行く人含めて2,30人がいる程度。この点は期待も予想もまったく外れてしまった。
バスも、国境を越えたところで、ベトナムのバスに乗り換え。こちらは、30人乗りくらいの新型の小型バス。

 ベトナム側に入ったところでトイレに入る。
入り口のおばさんがくれたおつりは、よく見ると、タイバーツ。タイ人に見えたのだろうか。

国境から、ハノイまで約200キロ。
ハノイ7,80キロ近郊までは、右手に(西)に、カルスト質の断崖と丘を見て、左(東)に田園を見る風景が続いた。
ところどころ現れる民家はフランス植民地時代の影響を受けているのだろうか、2,3階建てのブロック建築で、どことなく19世紀風。
ベージュやソフトな青、緑、ピンクに塗られていて、少しファンタジックな感じ。
ハノイまで50キロ程度のところまで来ると、西も東も水田が広がるようになる。
道路沿いのマイルストーンがハノイまでの距離を教えてくれる。ハノイまで20キロ地点で工事中の高速道路にぶつかる。
途上国らしい活気の良さを感じる。バスの中で、幾つかのベトナムの言葉を暗記する。

11時半頃には、既にハノイに達したのだが、一方通行と渋滞(殆どバイク)が酷く、
市内に入ってから1時間近くかかってやっとKim Lien BACH KHOA というホテルに到着。
早くも1方通行と道路の狭さに辟易。
1億人近い国の首都なのに、こんな下町の道路なの?
 後で分かったところでは、ここいらは、19世紀以前からの旧市街に辺るため、道路も狭く一方通行が多い。
ということで、バスは、観光がてら、わざわざ旧市街を通ったのかも知れない。

 さて、12時半頃にホテル到着後、近くに銀行が見当たらないため、ホテルで両替してもらい、地図を購入。
近くのバス停まで歩き、ロンビエン橋のバス乗り場へ向かう。3番の市内バス。3000ドン。
続いて、ロンビエン橋から17番に乗り換えて、1時頃乗車して、1時40分頃、コーロアで下車(5000ドン)。
このあたりの情報は、事前にこちらのサイト(「さくらの日記」)の方からお教えいただいていたので、非常にスムーズに到着。
コーロアバス停下車後、46番バスに乗り換えて2区間ほど先の終点が、コーロア村だが、1キロくらいしかないので、コーロア村まで歩く。
村に中心付近の売店で、パンを2つ買い、池のほとりでお昼にする。

 コーロア城は、中国勢力に支配される前の、ベトナム地元勢力の国、甌貉(オウラク)王国の首都。
甌貉国は、前258年、西甌(タイオウ)王国を滅ぼし、前208年に、秦から独立した、南越国に滅ぼされたとのこと。 
ベトナムで出ているSKETCH という日本人向け地元誌で紹介されているガイドに従って、最初にディン寺へ。
コーロア城跡から発見された、青銅製の遺物が展示されているが、私の興味を引いたのは、復元模型の方。
水堀と土塀で、幾重にも囲まれた、かなり原始的な集落だったようだが、規模はそこそこ大きく、一番外側の城壁は、直径1,2キロはありそうである。
城壁といっても、完全に周囲を囲んでいるものではなく、水堀と複雑に入り組んで、全体として、3重の防衛障壁を形作っている、という感じである。

 入場料は、お布施ということだが、建物に入る度に要求され、
1回2元から5元程度(5000~10000ドン)なので、決して高いわけではないのだが、奥のバオソン寺には入るのをやめてしまった。
いつの間にか、元で値段を考えるようになってしまっている自分に気付いたのもこの時。
だいたい40円から90円くらいです。円で考えると安いのですが、元で考えるようになってしまっているので、
中国より物価が安いはずのベトナムで、5元は高いなぁ、と思うようになってしまっているのだった。

 ディン寺の西100m程の地点に、アンズオン・ヴオン神社というものがあり、いくつもの高校生くらいのグループが、遊びに来ていて、結構人がいた。
この神社の左手の土手が、一番内側の城壁、ということで、登ってみる。
この神社は、近年作られた神社なので、特に目に留まるものはなかったのだが、コーロア城の平面プランの掲示板があったのが唯一の収穫。
この後、2重目の城壁と3重目の城壁を見てから、戻ることにする。14時半。
(こちら「さくらの日記」サイトに コーロア城の城壁写真及び、コーロア城訪問記がありま す。また、図面をこちらに作成してみました)

 帰りは、46番のバス。
遊びに来ていた学生グループで満員になる。17番に乗り換えるまでの2区間、車掌さんが、無料にしてくれた。
それはありがたいのだが、こういうラッキーがあったあとは、必ずよくないことが起こるので、少しおびえてしまう。
ハノイに入って、一番印象に残ったのは、殆どの女性がしているマスク。
たしかに、道路は悪く、工事中の道路も多く、道路際は、もうもうと砂塵が舞い上がっている。
バイクの数も多く、排気ガスもひどい。ハノイの露店やスーパーでも、カラフルな、様々な模様をあしらったマスクが大量に売られていた。
店先で、ブラジャーかと思って最初はどきっとするのだが、マスク。
バイクに乗っている女性はほぼ9割がたは、マスクをしているように見えた。
中国も埃は多いとは思うが、ベトナムほどではないと思う。たった数時間いただけで、靴が真っ白になってしまった。
さすがの中国でもここまではない。

 ロンビエン橋のバス停に戻り、ここから歩いてバー ディン(タンロン)遺跡を目指す。
バーディン遺跡とは、最近ではタンロン遺跡と呼ばれる、唐代安南都護府が置かれたところである。
日本史でも登場する阿倍仲麻呂が、長官として赴任し、在任した役所跡。地図によると、ロンビエン橋から1km程西となっている。
ネットで集めた情報の通り、遺跡は公開されていなかったので、周囲を一回りし、隙間から、カメラを差し込んで撮影。
官庁街なので、ところどころの門にいる警備の目を盗みながら。
こうして集めた貴重な写真も、結局最終日にカメラを紛失してしまい、おしゃかになってしまったわけですが、
目にすることの出来た範囲では、 バーディン遺跡は、日干し煉瓦で造った排水溝や建築物の土台がらしき部分が見れただけなので、
そんなにがっかりするほどのものでもないのでした。
今回一応旅行人のガイドブックを持ってきたのだが、 バーディン遺跡は載っておらず、ハノイで購入した市街地図には載っていた。
同様に、ハノイ城も、旅行人には一切記載がなく、市街地図の方で位置を確認した。
ハノイ城は、19世紀、阮朝の政府官庁で、 バーディン遺跡の東隣の区画にある。(地図はこちら)


  バーディン遺跡の西区画が、 バーディン広場及び、ホーチミン廟と、チミンさんの家。
チミンの家は、黄色に塗られた3階建てくらいの19世紀フランス植民地建築そのもの
。ここからチミン廟の前を南下して、一柱寺を見たところで、陽も落ち、本日の観光は終了。
ホーチミン廟の背後に落ちる夕陽が美しかった。
17時半頃になっていた。

 この後、旅行人の掲示板サイト(こちら)で、良宿として紹介されていた、NAM PHUONG HOTEL を目指して歩く。
段々足が疲れてくる。場所は、比較的簡単に分かったものの、この宿では、価格を巡ってちょっとトラブルになってしまった。
旅行シーズンとあってか、20ドルに値上がりしていたため、断って、同じ通りの別の店を数件見てから、再び前を通りかかると、
先ほど応対にでた店の兄ちゃんが、「2日で20ドルでOK」とかいうので宿泊したのだが、その後、明日予定している遺跡への交通手段など雑談していたら、
「明日も泊まるのか?」みたいなことを聞くので、「2日泊まる支払いをしたはずだけど」というと、「あ、そうだったね」とか言ってるので、
おかしいと思って、部屋に戻ってから、よくよくサインした領収書を見ると、日数の数字が、1だか2だかよくわからない書き方になっていた。
翌朝出かける時に、「今夜も泊まるのか?」とまたも聞くので、念のため確認すると、「1日分です」とのこと。
価格については、この数日の宿泊台帳を見せてもらい、ほぼ全員20$だったことや、翌日行ったインフォメーションセンターでの会話でも、
ここらの宿としては、ランク的に20ドル相当だったとのことなので、そこはいいのだが、
最初に1晩20ドルは予算外と断っているのにも関わらず、ディスカウントを持ちかけてきたのに、ごまかすとは。
許しがたい。

ほかにも、こちらがいこうとしているブッタップ寺まで、往復6時間かかるから、バイクタクシーを紹介する、20ドルだよ、とか。
嘘ばかり(実際は、往復2時間)。宿の設備自体は悪くはないものの、この設備で20ドルとは、中国よりも高い。
中国であれば、10ドルの宿相当。とはいえ。首都であり、かつシーズンであることを考えれば、妥当な気もしなくもない。
というわけで、翌日は20ドルの宿に宿泊したが、嘘をつくのだけは許しがたい。

 7時頃に近所の定食屋で夕飯を取り(食事10000、コーラ5000ドン)、旧市街の散歩に出る。
ホアンキエム湖の東中ほどの広場に、レ・タイン・トン(黎聖宗、在1460-97年)の15mくらいの、
マグマ太子のような銅像があり、オレンジ色にライトアップされ、その前で、若者達が集まって、ヒップホップよりも、ブレイクダンスにしか見えないダンスを 踊っていた。
レ・タイン・トンの銅像は、完全に中国天子と同じ装束。ベトナムが中国圏だったことを、改めて、強く実感した。
この後、ホアンキエム湖を一周して、1キロメートルほど続く、夜店街を見学。
コンビニ的なスーパーはあってもコンビニが無い。私がいつも旅行中愛用しているスプライト500mlも売ってなく、1.5lサイズしかなかった。
また、冷えているものがなかなか見つからなかった。なぁんて感想を持ちつつ、21時頃宿に戻る。



11月25日

本日の目標は、漢時代の郡都である、ルイロー(交趾)の遺跡、ルンケー遺跡である。

6時頃起床すると、外は既に薄明るくなっている。
中国とは1時間の時差があるので、昨日の凴祥で、7時がまだ暗かったのと比べると大違いである。
7時に宿の人を起こし、宿泊代でもめたあと、

    「見てろ、インターネットでばらしてやる。日本人客はもう来ないと思え」

と、大人げない捨て台詞を残して宿を後にし、ロンビエン橋まで歩いて、バクニン県行き203番のバスに乗る。
バクニンまで10000ドン。もともと54番のバスに乗る予定だったのだが、やってきた203番バスの行き先が「バクニン」となっていたため、乗車したの だった。
7時37分。結構満車で座れない。
1時間程たったところで、やっと空いてきたので、座ったところ、隣の高校生くらいの少年が、
どこへいくのかと聞いてくるので、「ブンタップ寺」というと、もっと前で降りなきゃだけとのこと。
で、慌てて下車すると、丁度バクニン市街の中心で、5分ほど歩いたところに、バスターミナルが。
地図の裏に、バスの全ルートと、各々のバス停が記載されているのだが、なんと、204番のバスは、ルンケー遺跡のある「ザウ寺」というバス停を通過すると ある。
なんてことだ!もっと早く気が着くべきだったが、もともと54番のバスに乗る予定で、200番あたりのルートまでチェックしていなかったのだから、これは 偶然の産物といえる。
たまたま203番に乗車し、その後204番バスのルートにたまたま目がいって、「ザウ寺」という単語を見つけたのだから、仕方がない。
こうして、再度、ロンビエンまで戻り、204番に改めて載ることにした。バクニンから引き返すとき、まだ9時だった。

10時過ぎにロンビエンに戻り、再度17番で、ロンビエン橋の南500mくらいに並行しているチュオング・ドゥオングをわたったところのバス停の行き、そ こから204番に乗り換え約50分。
12時頃に、ザウ寺バス停に到着。
場所は、ハノイから北東方向。途中まで、汽車の路線と平行して東へ走る。
その後、国道から離れて、北東に向かい、舗装されていない道路を、30分くらい走って到着。
バス通りは舗装していないのに、ルンケー村の方の街路は舗装されていた。
バス通りが舗装されていないお陰で、アメリカ西部劇に登場する、宿場町のような感覚がある。通りの両側に、宿とレストランと売店が固まっている、というあ れだ。

さて、一応観光地であるザウ寺で聞けば、場所はわかるだろう、と思ってまずザウ寺へ。
バス停は、まさにザウ寺入り口前にあり、バスを下りてそのままザウ寺に入る感じ。
事前に集めた情報では、「ザウ寺はルンケー城に南接している」とあったが、ザウ寺の北は、バス通り。
更にその北側は、民家が密集して連なっている。とても遺跡がある雰囲気ではない。

 とりあえずザウ寺で聞くと、バス通りに平行して走る形で、城壁らしきもののような線が記載されている地図を紙に書いてくれる。
どうやら、西に橋らしきものがあり、そこをわたっていけ、といっているようなのだが、
それが橋なのか「メイン通り」なのかわからないので、ザウ寺で書いてもらった地図を頼りに、
バス通りのお店で聞くと、西か、東のどちらかへ行ってから、北に入る道路があるとのジェスチャ。
そこで、東に向かって100m辺りで北へと左折して、
200mばかり進んだところにある、村中の売店、更にその先のおばさん連中、
更にその先の通りがかりの少女、更にまたその先の田を耕しているおじさんに聞きつつ、
やっとそれらしき土塀と堀に到達した。

 これがルンケー城かどうか、言葉がわからないので、確認のしようもなく、もちろん確かではないのだが、
どう見ても、人工的に造成された堀と土塀は、まず遺構であることは間違いなく、
ここがルンケー城の遺構地点だということからすれば、ルンケー城の遺構である可能性は限りなく高いといえる。
推定平面図はこちら)

そういうわけで、遺跡を求めつつ、遺跡の場所に到達してからは、遺構沿いにうろうろしてから、引き返したのでした。
バス停に戻りつつ、昼飯が出来そうな店を探したのだが、飲食店が見つからず、そのうち204バスが通りかかったので、飛び乗る。
13時20分頃にルンケー村を出て、14時頃にハノイの戻る。
いい具合に、204バスが、歴史博物館前を通りがかってくれたので、歴史博物館前で下車。
ここでルンケー城の情報を集められると期待したのだが、古代を扱った1階は、残念ながら改装中。
わずかに、館内紹介冊子に、バクニン県で漢代の墓が発掘された、との写真と解説を得るに留まった。
コーロア城の平面図もあったので、とりあえず手元に情報が残ることになるが、Webにアップして、情報共有できないのが残念。

 今朝は、早朝から経ちっぱなしで、まだ昼飯も取っていないからか、大分足腰に疲労が蓄積してきている。
博物館を出たところで、シクロ(自転車の前部に椅子を取り付け、顧客を運送する人力車)に載ってしまう。
50000ドンといってきたので、30000ドンに値切ったが、3キロ近くを20分程度。高かったのか、安かったのか。
夕方、インフォメで聞いたところでは、「何分乗ったんだ?1時間か?」と言われたところを見ると、相場より高く払ってしまったのかも知れない。
「20分でそれ以上払う人も沢山いる」と言われたが。「何分乗ったんだ」と聞かれたとき、「1時間」と答えておけばよかった。
すると、「相場だよ」とか、「そりゃ得したね」と言われたかもしれない。
しかし、30000ドンとは、230円くらい。先進国からの観光客なら、普通に支払う額だろう。貧乏旅行者にとっては高額だが。

 というわけで、いつのまにかシクロに乗る、という観光も出来てしまい、15時半頃、ハノイ城到着。
ここも入り口がよくわからず、結局そのブロックをほぼ1周してしまったのだが、南門(Doan mon)、北門(Cua Bas)を見学することができ、
また非公開の龍の家も、外から概観を見ることはできたので満足。北門は入場料3000、南門は無料。
(写真入りのハノイ城訪問記は、「さ くらの日記」さんのサイトにあります。ご参考にどうぞ。付近の地図はこちら

 さて、これで、前3世紀のコーロア城、漢代のルンケー城、唐代の安南都護府跡(ヴァーデン遺跡)、近世ハノイ城、
とほぼ全時代のハノイ遺跡を、予定通り4つとも見れてしまったので、晴れ晴れとした気分で宿探しを始めたのですが、
結局カメラを紛失してしまう結果に終わるとは、予想もしていませんでしたが。。。。。



 ハノイ城から、旧市街の安宿街へ向かう途中、なんとなく美味しそうに見えたので、露天でファーを食べたのだが、これがなかなかいけた。
正直、日本のベトナムレストランでは、料理が旨いと思ったことは無かったし、特にファーは口に合わなかったのだが、
おなかがすいていたというだけではなく、このファーは美味しかった。
よく煮込まれたトマトや厚揚げ、ハンバーグなど、肉や野菜のごった煮とう感じ。
それに野菜やニンニクスープなどをお好みで加え、結構複雑な味に仕上がっている。
ファーってこういうものなのか、と知りました。

 ハノイはホントバイクの町。きっと、ベトナム全土がこうなのだろう。バイクの国だ。
信号待ちをしているバイク群を見ると、さながら、スタートを待っているマラソン選手のよう。

 その後、夜店街の入り口にある巨大な卸売市場を見学し、旧市街のホテル街に到達したものの、
どこのホテルの高そうで、結局観光案内所で紹介してもらうことに。
そこで知ったことには、今は、ハイシーズンで、オーストラリアやニュージーランドから大量に観光客が押しかけるシーズンとのこと。
ハノイを拠点に連泊するので、早めに宿を予約しないと、なかなか取れないとのこと。
中国元も両替してくれ(昼間のホテルと同じ1元1900ドン)、結局20ドルの宿にすることに。
というか、20ドル以下の宿は探す気もないようだった。
6ドル程度の安宿は、「自分で探せ」。
「どっかカフェとかクラブとか、夜明かしできるとこない?」と聞くと、「路上で寝ろ」
と冷たい(実際は、お互い笑いながら会話してます。険悪なのではありません。念の為)。
とはいえ、20ドルの宿も、なかなか見つからないようで、あちこち電話して探してくれた。
見つかった宿から、そこの従業員がバイクで迎えに来てくれ、25年ぶりくらいで、ノーヘルでバイクの尻にまたがって乗ったよ。
その従業員が言うには、「最後の部屋だよ。いまの時期は宿は直ぐ満室になちゃうからね。運がよかったよ」とのこと。
行ってみると、食堂横に増設した、窓の無い部屋なのだった。とはいえ、朝食付きだったので、実質18ドル程度。
ま、いいか。犬料理とヘビ料理のいい店があるんだが、郊外なので、バイタクで送るよ、とかサービスの押し売りはあったにしても、
これくらいのオファーは、ビジネスとして、そのくらいのビジネスマインドがないと、ちょっとこっちも困ってしまうので、まぁ、良宿といっていいかな。


 19時頃夕飯に出る。昨日見つけた、レストランに行こうと思っていたのに、またも露店にしてしまう。
人が沢山入っている露店って、きっと美味しいのだろうし、また、食べているものが見えるので、どうしても食べたくなってしまう、ということでもあります。
というわけで、肉焼そば。20000+コーラ5000。
続いて、宿で教えてもらった、ハノイで一番大きな本屋向かう。
この間に、カメラを紛失。

スラれたか、落としたか。
途中でジュースを買うときに鞄のチャックを開けているので、この時チャックを閉め忘れた(様な気もする)のかもしれない。
想像をたくましくすると、今朝罵倒した宿の従業員が、報復を考え、ハノイの観光案内所に、
私を指名手配。私が観光案内所に現れたところで、連絡がいって、尾行され、スラれた。
なぁんて可能性は、さすがにないか。
でも、現役の社会主義国。なにがあるかわからない。
とはいえ、ベトナムって社会主義国?って感じ。
社会主義というと、旧ソ連と東欧諸国、現北朝鮮や、文革期までの中国のイメージがあるのだけど、
今のベトナムを社会主義といい、これで社会保障がちゃんと受けられるなら、社会主義国でいいじゃないの。


ハノイでもっとも大きいのか、あるいは、この旧市街近所で一番大きいだけなのか、そこはわかりませんが、とりあえずここらでもっとも大きい本屋へ。
どのくらい大きいかと言うと、駅前商店街の本屋2、3件分程度。銀座4丁目の福家書店と同じくらい。
神田の東京堂書店の1階分くらい。
ベトナム歴史地図を探したけど見つからず。
店員に聞いてみれば、学校教材などを含めて紹介してくれたかもしれませんが、カメラをなくしたショックもあったのか、なんだか聞くのも面倒になってしま う。
というわけで、20時20分頃には宿に戻る。
従業員に、どのくらいベトナム語知ってると聞かれる。今回1日半で、以下の単語を覚えたことが判明。

「カーム・オン・ニュ(ありがとう)」
「シン・チャオ(こんにちは)」
「コン(いりません)」
「バオ・ニェン(いくら?)」
「オードゥ・ニャーベーシン(トイレどこ?)」



11月26日

5時半頃から、食堂に明かりがつき、会話が。うるさかったが、こちらも起きることにする。
6時45分から7時まで朝食。結構みな起き出して来ていて、朝食を取っている。
全員白人。東洋人の客は私だけのようで、白人の客から、従業員と間違えられた。

7時20分出発。歩いて文廟へ。
8時10分文廟着。早朝で、観光客も少なく、すがすがしい気分。
19世紀後半から20世紀前半のハノイの市街地図が10ほど展示されていた。
特に1873年の地図は詳細。 これによると、ハノイ城とそれに同等のサイズの旧市街があり、その周りは、全部農村。。。。
こういうものを見ると、漢の長安や後漢洛陽なんかも宮殿の周りにちょっと市街があって、あとは農村という感じで、クテシフォンもこんな感じだったのかも、 と思ってしまう。
(江戸時代の江戸もこんなものだったのかも知れない)

文廟の建築物自体は、沖縄の首里城みたいな印象。

1246年以降の科挙(ベトナム国内実施のもの。中国の科挙に参加したわけではない)の全合格者氏名が記載されていた。


文廟を出て、7番のバス停まで1キロ程歩いて乗車。8時40分。5000ドン。
9時半に空港到着。ここで、噂に聞いていた中国南方航空の酷さを思い知ることに。
行きの深圳-南寧間も南方航空だったのだが、特に問題もなかったので、
「噂ほどでもないじゃない」などと思っていたのだが、ハノイ-広州の帰国便は、
なんと、たった8人の乗客全員が、誰一人リコンファームしなかったために、便自体がキャンセルになってしまうという憂き目に。

 リコンファームって、満席になりやすい便が、オーバーブッキングした時の為と、
空港に遅刻した場合の座席の確保だと思っていたのですが、便自体の存否にも関わっていたんですねぇ。

 しかも、便がキャンセルとなったのに、カウンターに告知もせず、そもそも南方航空の社員はオフィスにこもっていた為、
最初は罪もない、隣のカウンターのベトナム航空のお姉さんが気の毒に、つるし上げにあっていた。
やっと連絡がついて出てきた南方航空社員は、5時間も後の、共同運航のベトナム航空便に変更せよとのこと。 
皆で弁済とお昼代を請求したら、「リコンファームもしなかった奴らに、変更便を変えてやるだけありがたいと思え」という態度。
というか、「俺に言われても困るよ」という感じの南方航空社員。まぁ、乗客がたった8名では、
リコンファームしたところで、収支が立たないため、キャンセルになっても仕方が無いとは思います。
これからは、危なそうなルートの便に乗るときは、必ずリコンファームするようにしよう。やれやれ。

お陰で、私には珍しく、余裕で空港に着いたというのに、12時が17時の便になったために、
8時間近く空港で過ごす羽目に。また、35000ドンで、夕方まで過ごさなくてはならないことに。
5000ドンのパン、10000ドンのジュースと15000ドンのソーセージパンと、安めのものもあったので、なんとかなった。
また今回、「物語ヴェトナムの歴史」を持ってきていてよかった。
この本、いい本だと思うのだが、なかなか読み進めめられなかったので、今回お陰で2/3程のところまで、読むことができた。

17時05分発のヴェトナム航空。海の上を飛ぶのかと思っていたら、
ハノイから真東に向かうと、陸地伝いに広州まで飛べることに気がつく。
19時半広州着。
19時50分のリムジンバス、シンセン直行88元に丁度よく乗れる。
このバスは、私が中国でいままで乗ったもっとも高級なバス。
フットバーだけではなく、レッグレストがついて、座席もゆったり。ビジネスクラスという感じ。
ちょっと言いすぎか。こんなに素敵なバスなのに、洗車が甘く、水垢が窓に残っている。。。。
中国人、せっかくいいバスなんだから、大事に乗ってよ。こんなんじゃ直ぐだめになっちゃうよ。

 渋滞にぶつかることもなく、快適に走り、30分で広州中心へ、更に1時間でシンセンに到達したのだけど、シンセンに入ってから、
福田まで30分かかり、結局22時00分福田着。
その後、市バスを3台乗り継いで、23時40分頃、自宅に到着。
運行表には、21時30まで、と記載されているバスが、ばんばん走っている。
お陰でルートの少ない深夜バスや、タクリーを利用しないで済んだが、今もって、シンセンのバスシステムはよくわからない。

 今回、最初の宿の交渉ミス、カメラ紛失、南方航空リコンファームと、
予想できないことがあったとはいえ、ミスも多かったといえる。若いうちは、若気の至り、年を取れば慣れすぎて油断と、
10年前から何も進歩していないように思える。

 ところで、北部ベトナムは、昔から行きたかった地方。
この地方は、古代中華世界の、「地の果て」というイメージがある。
丁度、ブルガリアあたりが、地中海世界の、ひとつの地の果てであるように、
古代地中海世界の黒海沿岸が、古代中華世界のベトナム(交趾)あたりに相当する、というイメージ。
これに対して、朝鮮半島から日本、樺太に至る地域は、地中海世界にとっての、ブリテン島から、スカンジナビア半島に相当するイメージがある。

  土塀と堀しか確認できなかったとはいえ、交趾(漢代郡都)の地に立てたことで、
春のアルメニア・グルジア旅行の時以上に、古代世界の旅も、終わりに近づいて来たのか、という感慨が、少しだけあります。

 旅行中の記憶といえば、バイクの騒音と砂埃、どこまでも続くありふれた水田と水路、小汚いアジアの街並みだったわけですが、
なぜか心に残るのは、南海世界を旅したというイメージ。
中華中原地方の人々にとって、印度や南海(東南アジア)の産物と、
何人もの旅行者や商人を介して届けられた、遠い大秦(ローマ)のかすかな記憶と出会うことができた地の果てを旅したというイメージなのでした。
今回のような、夢を旅した旅行というのは、いつのこと以来なのか、思い出せない感じがする南海旅行となりました。

最後に、今回の旅行では、事前の情報収集に、こちらのサイト「さくらの日記」の管理人に大変お世話になりまし た.。

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