安南都護府・昇龍城・ハノイ城

タンロン遺跡
紹介
 バーディン遺跡(タンロン遺跡)とは、7世紀頃〜19世紀頃のハノイ の行政中心地の重層遺跡の名前。当初、 バーディン広場の辺りで出土したので、バーディン遺跡と呼ばれていたが、現在は、11世紀の名称である昇龍(タンロン)からとって、タンロン遺跡と呼ばれ ている。8 世紀頃、唐が安南都護府を置いていた頃は、羅城(ラタイン)と呼ばれていたらしい。阿倍仲麻呂が赴任していたのはこの頃のことである。860年、南詔が侵 攻し、ベトナム北部を占領した。864年、唐は討伐軍を送り、将軍高駢(カオ・ビエン)が南詔を撃退し、あたらに、都城を整備した。これを大羅城と呼ぶ 4.5キロ、6mの城壁に囲まれ、城内には、5000件の家が建っていたとのこと939年、中国から独立を勝ち取った呉権は、都をコーロア(古螺)に置いた。968年、丁部領が王位につくと、都をハノイ南方90Km(現ニンビン)の ホアルウ(華閭)に置いた。1010年、李朝の太祖李公ウン(?に草冠)が大羅城に都を戻し、昇龍を建設した。陳朝末期、胡季?(ホ・クィ・リ)が、一時 都をタインホア(清化)に移した。黎朝の太祖黎利(レ・ロイ)が1428年明からの独立を達成し、即位して都の名称を東京(トンキン)に改めた。その後 は、1831年に、都がフエ(順化)に移るまで、首都は、タンロン(トンキン)に置かれ続けたようである。

 バーディン遺跡は、2004年頃発掘され、現在整備中で非公開。官庁街でもあるため、周囲は壁で囲まれているが、隙間から遺跡を垣間見ることができる。 その隙間から数枚写真を撮ったものの、カメラを紛失してしまったので、こ ちらのサイトの遺跡写真をご参考にどうぞ。

 
 
カメラ紛失につき、写真なし。下は図の部分のGoogle Map映像。中央左の格子模様の部分がヴァーデン広場(座標 21.038204,105.838691)

旅行情報、近隣の史跡・遺跡
ハノイ城
 ロンビエン橋から、PHAN DINH PHUNG通りを西へ向かって約1km。通りの南側を見ていると、やがて、北門が見えてくる。北門を越えた最初の角を曲がって、数百m行くと、バーディン 遺跡が見えてくる。ここらは、官庁街なので、細かい路地はなく、図の区画の道しかないので、分かりやすい。バーディン遺跡は、安い有料駐車場のプレハブ屋 根のような覆いで覆われているので、遠めにもそれと分かる。たとえ行き過ぎてしまっても、ホーチミン廟のあるバーディン広場などが目印になるので、場所を 探すのは難しくない。

 後楼や、端門は、入り口が西側にあり、あまり目立たないが、路上に看板も出ている「Di Tich」は、ベトナム語で、「遺跡・史跡」を表すようで、注意していれば、この単語の入った看板が目にとまる。

 近くには、漢から南朝時代の交趾郡の郡都、龍 編城の遺跡や、前3世紀の最初の王国の都、コーロア城の史跡がある。
  19世紀ハノイ王城史跡が残る。3つの史跡が常時公開されている。
 北正門(Cua Bac)
   北門で10m程の郭城の上に、楼閣が建っている。
 後楼(Hau Lau)
   敬天殿の北側にあり、南から向かって後ろにある楼閣である為、この  ように呼ばれたとのこと。今回の訪問では閉まっていて入れなった。
 端門(Doan mon)
     宮城の南門。北門を3つ横に並べたような広さ。内側に、地面を発掘 し、古代からの路面と断層を公開している場所がある。現在の路面から 1,.5メート ルくらい下に、古代の路面があり、日干し煉瓦を組み合わせ  て、簡素なデザインを構成している。この上1m程のところに、中世の路 面がある。

 龍の家
  普段公開されていない、皇帝の居住地敬天殿の辺りの史跡で、1467年に作られた龍の欄干があることから、龍の家と呼ばれているとのこと。
 いづれも写真は、こちらの「さ くらの日記 - 旧ハノイ城散策」のある。
 BACK
旅行記
1