昼に事務所へ。 取り敢えず山口さんに挨拶。 T/C買おうとは思つたものの結局時間が無くて学校に戻る。
副校長に呼び出されたので、 申請ドキュメントの書き方を書いた紙を アントノフに渡してくれるよう頼む。
ついでに休暇の挨拶もする。 16時には学校をでる。 犯罪者撃退スプレーを探しに行ったのだが、
冷たい店員に追い払われたので 結局買わない。
17時10分頃駅に着く。 問題なくプレーベン行きに乗れる。
20時30分プレーベン着。 ホテルを探し、中心にある公園を散歩。
ライトアップされている噴水がやたらあって驚いた。 思わず何枚も写真をとってしまう。
翌朝9時17分の列車でゴルナ オリャホビツァヘ。
10時40分頃到着。
ここからタクシー。 若干距離の割りには高いと思つたがまあ、いいや。
11時20分頃到着(ローマ時代の都市遺構)。
追跡はまあこんなもんか、という程度だが、それでもまあまあであった。一応ガイドはしてくれたのだが、
ブルガリア語なのでよくわからなかった(少しは分かった)。 ノッチンガム大学とかの連中が市場の跡とかで発掘していた。
この後村迄歩くのだが、管理人が示す物理的な方向へ進んでしまい、遠回り(道なりにゆけばよかったのだ)。
12時ちょい過ぎには追跡をでたのだが、 3キロ程離れた村へは12時50分頃ついた。
13時15分頃のタルノボ行きバスがあって、 途中でゴルナ
オリャホビツァ行き10番のバスに乗り換えて駅に着く。
しかし丁度良い列車は無く、14時10分発各駅停車でルセへゆくことになり、4時間くらいかかってしまった。
この辺りから結構疲れてきていたのだった。
ルセへ着いてからは 駅際のバスターミナルで時刻表調べ、 東バスターミナルを探して歩き回り、 結局バスでないと行けないことがわかり、
(バスでも結構距離があつた)、 そこでチェルベン行きを調べると日帰りするには 6時50分のバスに乗らなくてはならないことが判明。
明日は早い。 市の中心部に行こうとするもバスが全然来ない。
諦めて歩こうとしたところ、やつと来る(というか休憩が終る)。
ルセ中心の広場に達した時はもう20時。 結構体調が悪く、 腹痛がし始めていた。
食事してすこしましになり、宿を探す。
安いと思って入った宿はシャワー、 トイレ共同。 ボロボロできたない。 私がブルガリアでとまった中では最低のホテル。
これで10ドル。 一体誰がとまるんだ。
でもまあ管理人は朝5時にちゃんと起しに来てくれたし。 無愛想ながら応対は悪くはなかった。
金を両替しに行くとき警官にパスポートチェックされたのが不愉快であつたが、
管理人のおっさんが 「こんなやつは知らない」等とは言わなかったのでまあよかった。
両替はホテルドナウでおこなう。 ここのレートは180。 今日197だったので、 だいぶ安いがしようがない。
他のチェンジはもうしまっているのだもの。 ここのね一ちゃんは割りと親切だったけど あまり役には立たなかった。
こういうパターンはブルガリアでは実に多い。 ロビーの電話ボックスにルセの市街地図がはつてあって、
それによれば、 ルセはプロブディフの様に市の中心部に機能がまとまっているのではないようで、 中心部自体が結構広く展開している様なのである。
この地図はあると便利であったが、 ホテルには置いてなかった。 部屋へ戻ってさっさとねる。
目が覚めてしばらくしてノックされる。 5時半にはホテルをでて、 ターミナル行きバス停を探しつつバスターミナルヘ向かって歩く。
1. 5キロ程あるいたところでバスが来て6時10分頃にはターミナルに着く。
50分予定通り出発。 8時20分頃到着。
バスに乗りつつ気づいた事は バルカン山脈から北側は丘陵地帯が延々と続くが、 これは実際には台地であつて標高は結構あり、
村は川が削り取った峡谷にある、 ということである。
チェルベン村もタルノボの様な蛇行する川の削り取つた断崖の麓にあつた。
遺跡はバス停から直線距離で500mくらい。 歩いて10分程の距離である筈であったがなかなか橋が見つからず、
ぐるりと反対側迄まわってしまった。 橋は渡つたが追跡のある丘へ登る道が無い。
結局道のないところを強引に登ることになった。
丘は2つに別れていて主要部分は高い方の奥の丘にあり、 手前の丘には教会の土台程度が残つているだけだった。
丘の間には今にも落ちそうな橋(ちょつとおおげさか)があり、 渡る時は本当に慎重になった。
遺跡の中心には9時10分ころ到達。 しばらく丘を見学していると反対からやってくる家族に会った。
う一ん私以外にも物好きつているもんだなあ、 などど一応挨拶くらいはしておいた。
9時40分頃迄見てその家族が登ってきた方から下りると 階段がついていてバス停迄15分くらいでついた。
途中の農家にはチェリーや もも、 瓜がなっていて取って食った。
うまかった。でもこれがこのあと発熱する原因になったのかもしれない。 可能性はある。
下車したところはバス停があるわけでは無いが、 一応村の中心なので、そこで待つことにする。
最初 「モナリザオーバードライブ」 読んでいたが眠くなり寝てしまう。
12時過ぎても来ない。 12時45分頃、 朝来たバスが再び来た。 折り返して戻つてくるのだろうが、 もし来なかったら嫌なのでそのまま乗車。
予想とおり(追跡とは)別の丘のうえ迄行って折り返した。
14時半頃ルセに戻り15時頃南バスターミナルヘ。 15時30分シリストラ行きがあったので、 それにする。
128キロを約2時間。 18時10分頃シリストラ着。
バスターミナルで聞くとコンスタンツァ行きのバスは無いとの事。
国境を越えたらオストロフという町迄行き そこからならバスがあるだろうという。
ターミナル脇のスタンドで食事している時、 そこで飲んでいた親父にコンスタンツァヘの行方を聞くと、
まずドナウを渡って列車で行くのが一番だという。 オストロフ迄歩くにしてもジプシーが多くて危ないとのと。
ちょっとこれで怯んだのも事実。 ついでにシリストラにある追跡の場所を聞く。
城の話はしらなかったのでラッキー。 12月に来たとき泊まったホテルに泊まって、夕日を見に川岸のベンチヘゆく。 日没を見て戻る。
なんだか疲れている。 体の節々が痛い。
ホテルで朝食はとったものの、 これはビタミンが足りないせいだと思い 市場でレモンとオレンジ、バナナを購入。
川岸のベンチで食べる。
でもあまりよくはならない。 遺跡にゆくことにする。
昨夜の親父が書いてくれた地図はおおむね正しくまともである。 こんなことは珍しい。
ただし城は山の上にあり、 登るのにとても疲れたし、 頂上ではつかれて寝転がりたくなってしまいしばらく寝る。
まあこの時からますます不調だなぁ、 と思う。
続いてローマ時代の墓の追跡(公開されていないか、 博物館の方へ格納されているのか)へ。
場所が分かったので満足したあと国境を探しに行く。
国境へ行く路地の手前でひさびさにがきにサッカーボールを蹴り付けられた。
ボールは瞬時のところでかばんを掠めて道路へでて行ったのだが。
国境は 「これが?」 という様な感じ、 団地の路地が突然終って国境になっている、 という状態である。
本当にこれが国境かなぁ と疑いたくもなったが 100m程向こうに ROMANIA の文字が。
まあ間違いあるまい。
そのあと国境沿いにドナウ川まで歩く。
本当にただの畑の両側に 錆びたフエンスがしてあるだけ、 シリストラ側ではフェンスぎりぎり迄たて込んでいる。
ドナウの川岸には何故がバルカンエアーの飛行機が置いてあつた。
この川岸の堤防を歩いている時も非常に体調がわるく、 必死で追跡のあるところまで歩いた。
川岸の追跡は発掘作業が行なわれていて、 近くのベンチでしばらく寝転がつて休む。
そろそろ昼飯の時間。
しっかり食事だけはしなくては。
1件おあつらえ向きのレストラン見つける。 ホテルの正面。
ついでにパフェとか頼んで。
14時頃宿に戻って寝る。 17時過ぎ起きる。
今度は夕飯を食いに行かなくては。 とはいえ夕食の時間迄はまだ間があるからまた川岸へでも行って休んで、
というつもりで宿をでたものの ふらふらする。
額に手を当ててみると異様に熱い。 ひえ一。
慌ててホテルの前で計ってみると38度4分。 ぶっとんでしまった。
即刻何か食って寝なければ。 隣のピザ屋へ行く。
選んだ席が悪く、 扇風機の風がきて非常に気になった。 薬飲んで帰って寝る。 18時頃の事である。
眸夜は汗が相当出る。 薬を飲んで、夕方18時頃から寝たのだが 何回かかけ布団とバスタオルを交換し、 乾かしながら利用した。
翌朝7時10分起床。 37度。
多分時計が停まつていたように思う。
朝食とってレジに行くと、 8時40分頃と分かる。
国境へ歩く。
8時50頃到着。 20分程待って9時10頃ゲートいり。
出国10分入国20分くらいかかり、 9時50分頃通過。
ルーマニアの係官からは銃や麻薬所持を聞かれ、 何しに行くんだと何人もの係官が聞いてくる。
両替してみて驚いた。 320000レイ。 紙幣が大きくとても財布に入らない。
国境の両替所はパソコンが入っていた。
国境を超えるときジプシーのばあさんからたばこを一ケース預かつた。
持ち込み制限があるのだろう。 私は荷物チェックは受けなかったように記憶している。 あけてみせたりはしたと思うが。
コンスタンツァで友人と待ち合わせなどという話で一応納得してもらった。
ばあさんによればコンスタンツァ行きバスは10時だという。 係官は12時だという。
いざ国境を越えてみると、 市街が国境ぎりぎりまで立て込んでいるシリストラ側と比べるとまったくと言つていいほどなにも無かった。
思わず「どこでもドア」を思い浮かべてしまった。
表示もなにもない。
ばあさんに言われて左林を400m程ぐるつとまわったところに対岸への渡し船の船着き場があった。
ひなびた売店があるきりである。
とても波止場と呼べるようなものでは無く、 上がむき出しの只草木が刈つてあるだけの川岸であった。
渡し船も、船のへさきに10m四方の、文字通りいかだを着けたもの。古タイヤがいかだの下につけられており、これで浮力を得て
船がそれを押して行くというもの。 いかだの部分には手すりもなく、数十人と車まで乗り込みまるで 漂流難民である。
よくわからないがばあさんは渡し船にのって行ってしまうし、 多少途方に暮れていたところ、
船着き場から国境に戻つて100m程の道路際の林に隠れてコンスタンツァの立て札がある。
しばらくまっているとオストロフ行きのバスがきた。
このバスに乗っていた子どもが コンスタンツァ行きは14時だといいにきた。
それで林で木の根にもたれていると、 あるおやじが声をかけてきた。 で運転手を探しに行った。
この結果先の子どもが来たのだと思う。
次に声をかけてきた男はブルガリア人で ルーマニア語ができた。
こいつの通訳でこのバスに乗ることになった。
このバスはマンガリアという街までゆく。 そこから電車でコンスタンツァヘ行けばいい、 ということになっていきなり14ドルとられた。
バスの領収書はその10分の1。
まあ通訳料だと思えば、 現状の体調や、 右も左もわからず他にバスもない状況ではまぁいたしかた無い。
バスは13時半にでるとのことだったが、 結局14時50分にでた。
約5時間バスの中で待たされることになり、体は休養できたものの腹がへつた。
ミネラルウォーターのペットボトルに残る水でしのいだ形。
途中道沿いにぶどうやすいかを売っている農民がいて運転手は購入していた。
ぶどうはうまかったが手がべとべとになつた。
スイカ売りの場合は乗客のように道端に男がふらりと立っていて、 運転手と何か話していたかと思うと、
やがて子どもと運転手と4人畑のかなたへ消えて5分後、 スイカを抱えて戻つてきた。
オストロフは唯の村で、 バスターミナルのある規模の街を想像していたので、 一時はオストロフ迄歩くことを考えてもいたので、 やらなくてよかった、 と思つた次第。
バスは途中幾つもの村を寄ったが、 それらの村村は私が今まで目にしたどのブルガリアの村よりも貧相に見えた。
バスも時速60km以上はでないようで、 一度丘を上がりきれず、 オーバーヒートしてとまってしまった。
乗客はやれやれ、という感じで外へでて休み、 子どもは道沿いに生えている桃かなにかを摘みに行つてしまった。
このあたりの地形はルセ、シリストラ間の丘陵地帯の続きだが、 それ以上にダイナミックで人の手の触れていないような景観だった。
村もなにもないところでいきなり井戸があり、 馬車をひく馬が水を飲んでいる風景に出会つたのには驚いた。
ここは中東か西アジアか、 というくらい。
写真をとつておきたかったが、 周りの人に気兼ねしてそれはできなかった。
また別の村では村の中心の井戸だか水飲み場だかで馬と人がいっしょに水を汲んだり飲んだりしていた。
ルーマニアは遅れているとは聞いているがまさかここまでとは...
しかし道路の舗装状況は非常によかったように思えた。 ブルガリアをほうふつさせるでこばこ道が無かつたわけではないが、 ほぼきれいに修復されていた。
17時半過ぎにマンガリアにはいつた。
もう丘陵地帯はおわり、 平坦な地帯になっている。
街はのびのびとして広かつた。 駅の印象は、 ブルガリアとあまり変わりがない、 切符売り場のおばさんも無愛想だった。
しかも750の運賃に1000レイだしたらお釣りをくれなかった。 けち。
トイレに行きたかったが、行こうと思って場所を聞いたら電車が来た。 18時頃だったと思う。
車窓から景色を眺めつつ19時にコンスタンツァに着いた。 体温37.4度。 電車が街へ入って行く時の印象は、
ブルガリアとあまり変わりがない、案外高い建物はないな、 などと建物の階数を数えたりしていた。
しかし線路沿いに続くジプシーのバラックはブルガリアのものよりも粗末に見えた。
バラックの前で豚を一頭丸焼きにしていたのを覚えている。
駅では出発表示の電光掲示板にまず驚いた。次にトイレ等案内がわかりやすく、好感がもてた。
お腹がすいていたので、 取りあえずパンを買う。
固いブルガリアのパンと異なり 安いパンでも柔らかく食べやすかった。
どっちがガイドブックにある、 旧市街なのかわからぬが、 まあ適当にあるいて見れば、海岸なのだからなんとかなる、 と考え歩き出した。
結構歩くことになった。
早足であるけば15分くらいかも知れないが、 30分くらい歩いたような気がする。
今日は高くても、 いいホテルに泊まるつもりだったので、 予定している宿があっさり見つかつたものの、 それはパスして高級ホテルについた。
ここは英語がフロントで通じたので楽だった。
しかしまだ金の単位になれていなかったので、One hundred thirty といわれて最初は130ドルか、とおもい、まあ仕方が無い、勉強料だ、などと考えていた。
食事にでたときは薄暗くなってきていた(実際は13万レイ。約30ドルだった)。
そのレストランは多分高級レストランなのだろうが、 雰囲気もよく、 なにを食ったのかよく覚えていないが、 結構うまかつたとおもう。
そのあとビーチヘ。
もう完全に暗くなっており、 ビーチヘおりるまえに変な連中にからまれた。
ビーチではビャガーデンのような店がたくさんでており、 海水浴場特有の共通した雰囲気があった。
引き返して連中にあうといやだったこともあり、 そのまま海岸沿いにしばらく歩いて、 オウィディウスの像の前にでた。
宿に帰つてオリンピックの放送を見ると、ちようど古賀が決勝で敗北した場面を放映していた。
判定が下ったときの彼の呆然とした表情が今も鮮明に残つている。
この夜もよく汗がでた。 二つあるベッド両方を使用した。 冷蔵庫もあり、 ミネラルウォーターを利用した。
7時40分頃起床。朝食付だった。これにはたすかった。
14時45分のヤッシー行きに乗る予定であったので、 午前中は割とゆつくり観光した。
まず、ジュースかって薬のんで、 入場料はらってビーチに行って(昼間は入場料がいるらしい)、
堤防の先まで行って戻って(トップレスはおばさん一人しかみなかった、 まあ朝だったせいもあるだろうけど)ジエノバの灯台をみにいつて、
ギリシャの住居跡を見て、 港湾ステーションヘいつて(入り口がわからず、結局入らなかった)、 モザイク博物館を見学。
モザイクは予想以上に保存状態がよかった。
英語のガイドもあってらっき―。 次の考古学博物館もなかなかであった(博物館の内容については別途)。
このあとモスクの塔に上ったがこれは期待外れ。
1時間前には駅についていたかったので、 13時ころには駅へ向かいだしたと思う。
途中にあつたレストランで食事。 このポークカツはうまかった。
切符は一等。 体調は悪くはなかったが、大事をとって。
途中の景色はというと、とにかく平たんな土地が続いていた。
地平線ははるか先の道路沿いに延々と植えられている並木に遮られるまで、繊軽をひいているかのようにきれいに見渡せた。
マンガリアから?(駅名記憶なし)まで乗務員に座席を追い出されて立つことになった。
暗くなってから30分くらい理由は分からないが停車したせいもあって、 ヤッシー到着は午後10時05分頃。
宿にはいったあと、 レストランを探しにでたが、 もう23時では店じまい。
この日は夕食抜き。 部屋のテレビは唯の箱だったが、 冷蔵庫があり、 部屋は広くて結構高級な感じ(外観はぼろかったけど)。
13階へも行ってみたが、 展望バーはなかった。
この夜も若干汗がでる。