後漢(東漢)人口
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塞 外民族の人口
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備考 |
匈奴 |
49年 南匈奴 9万人 50年 南匈奴 6万 76年 南匈奴 6~7万 83年 北匈奴 3万8千投降合計10余万 87年 北匈奴20万投降。 合計30万 89年 北匈奴20余万投降。合計5,60万。 90年 南匈奴 戸3万4千、口数 23万 7300、兵5万 170年 投降匈奴60余万、北匈奴70万人6 万戸 |
匈奴人口は、合計140万ほどだと思われる。 |
羌族 |
大きくは、西羌、東羌、蜀広漢に分かれる。 37年 20万戸、100余万の大部分羌人 77年 5万戸20万 97年 3万戸、12万前後 111-124年 第1次反乱 136-145年 第2次反乱 145年 投降9万戸3、40万 159年 第3次反乱 161年 投降10余万 168年 投降20余万 |
順帝時 150部に別れ、 西羌は89部、20万戸、80万人。 残り61部は、計算上13,7万戸、55万人と 推測される。 150部で合計135万人との推定。55万人 は、漢政府の版図外。 東羌族は5,6万戸、人口24万、37-108 年、蜀と広漢の領外に60万、148年投降20万で合計80万。総合計215万 |
氐族 |
219年 5万戸 20万余 |
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烏桓 |
前漢時代数万。 49年 10部、4万戸、20万程度の推測。 144年 70余万(大半が匈奴だと推測され、 烏桓は40万程度と推測される) 166年 匈奴、烏桓投降。20万(半分は匈奴 と推測される)。 207年 曹操に投降した20万中10万が烏桓 の可能性 220-227年に10万余騎、60万 |
10から20万程度と推測される。
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鮮卑 |
45年 6万程
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安帝期、120部 数百から1000戸を1部と するとの記載があり、すると12万戸以内で60万人前後となる。この数字は匈奴も10万程度含んでいると思われる。 |
夜郎 |
前漢時10万戸、50万人 |
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滇 |
数万人 |
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巴郡蛮・南郡蛮・ 江夏蛮など |
板楯蛮不明、江夏 蛮数万 |
江夏郡は現湖北省 東部、南郡は、湖北省西部。巴郡は四川省東部と重慶市。板楯蛮(現重慶市)不明は何度も反乱している為、少ないとは 思われない。江夏蛮は、南郡蛮が後漢代江夏郡に拡大したもの。板楯は巴蛮の俗称。 |
武陵蛮・五渓蛮・ 長砂蛮など |
武陵蛮10余万、長砂・零陵蛮数万、桂陽蛮記録なし。 |
武陵・長沙・零 陵・桂陽は郡の名前。現在の貴州東と湖南省をあわせたくらいの広さ。武陵が貴州東と湖南省と西北部。長沙は湖南省東 北部。零陵は湖南省西南部、桂陽は湖南省東南部。 五渓とは、謂雄 渓・樠渓・酉渓・沅渓・辰渓という渓谷の地名。武陵蛮が五渓に居住していたので、五渓流蛮とも称すらしい。いづれも 居住地を使った呼称であり、彼らの自称とは関係が無い。戦国時代の百濮族。 |
越(駱越、烏滸など) |
2,30万 |
合浦、郁林(以上広西省)、交趾、九真、日南在住 越人合計 |
哀牢 |
王77人、5万 1890戸、55万3711人 |
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夫余 |
魏志東夷伝 8万 戸、30万人 |
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高句麗 |
魏志東夷伝 3万 戸、15万人。 |
後漢時代の内属7 万。内外あわせると合計22万程度と推定される |
-中国人口通史(4):東漢巻-中国人口通史叢書 袁延勝 著 人民出版社 2007年4月-より引用して作成した。
唐代から元代 までの人口はこちら。明代以降の人口についてはこちら。各時代の領内各地域の人口密度地図はこちら。