初期ササン朝
(208年-293年)


サーサーンとは一体誰か?
バーバクとアルダシール1世
(在位208 -222?年:在222‐240年)

  ササン朝の名称の起源はアル・タバリーによるとバーバクの祖父のサーサーンに 因んでいるとされる。しかしこれには異伝も多く、次のものもある。サーサーンはイスタフル(ペルセポリス周辺地域)の王バーバクの娘 と結婚しアルダ シールとシャープールを生んだ。兄シャープールの死後弟のアルダシールが王位を継いだ、という伝承。また次のようなものもある。シャープールはバーバク の子であり、サーサーンの実子はアルダシールであり、シャープール とアルダシールは兄弟では無かった。アルダシールがシャープールから王位を簒奪し、後世この事実を隠すために バーバクの養子となったことにした、という説様々な説があり、意見の一致は今だ見られていない。

 サーサーンとは一体誰か?

という問題は解決困難な問題であるが、バーバクの来歴は比較的はっきりしているようなので、問題 はバーバクとアルダシールとの関係ということになり、このあたりに歴史の改竄・隠蔽工作が感じられなくもない。なお、バーバクも シャープールも 貨幣が残っている。またアルダシールも、この地方(イスフル)の支配者としての貨幣が残っている(地 方総督フラタラカの銘の残る貨幣一覧はこちら)。

 バーバクは205年或いは208年にパールス地方を統合し更には暦を定め様としたようである が、このバーバク暦というべきものは定着しはしなかった。引き続き年号のカウントには王の在位年か、紀元前312年を起年とする セレウコス暦が用いられたとのこと*1。バーバクはパルティア王ヴォロゲロスと戦い破れている。バーバク没後か生前か、とにか くバーバクの子シャープールの死によって、アルダシールがパールスの王位についたのは216年であるという説もある。王位につい た後、アルダシールは東はケルマーン、西はエリマイスまで領土を拡張した。224年、オーフルマズダカーン(ネハーヴァンドとイ スファハンの間のNihayat as Gurbadagan(現Gulpaygan)の戦いでアルタヴァーンは敗北し殺された。

 しかしアルダシールの征服事業は 各地の領主を滅ぼすものではなく、服属させることが目的だっ た。恐らくそれ以上は不可能であったと思われる。パルティアとササン朝の大きな相違点の一つとして、パルティアは封建国家、ササ ン朝は中央集権国家と特徴ずけられるが、ササン朝の登場によって突然政治社会体制が変革されたわけではなく、少なくとも初期のサ サン朝は政治体制としては パルティアからあまり離れたものではなかったと考えられる。アルダシールの国家統一にあたり、ア ディアバネやキルククの王がアルダシールの征服事業に対パルティア十字軍的な感覚で参加したともとれる記録があ り、アルダシールの統一は日本で言えば足利尊氏の室町幕府による統合に近いものがあるのではなかろうか。末期パ ルティアと大きく異なる点は、アルダシールの王権がパルティアの王よりも強力で あり、一部の地方王国については、王子を王或いは知事として、統治者として送りこみ、更に一定の期限で別の領国へ転勤させる運用 を行い得たという部分ではなかろうかと思われ る。ただし、メソポタミアには自治都市が多かったが、アルダシールはこれらの都市を破壊し、新たに都市を築き、これを中央の管 理下に置いた。こうした都市を「王の都市」と呼んだ。

  アルダシールがパールス地方の領主におさまらず、大帝国を作ろうという意図を持つに至った背 景には、アケメネス朝があったことは間違いない。アルダシールはクシャン王、シースターン、ツーラーン王を服属させ、アラビア半 島のバフレインを征服し、メルヴに自分の兄弟か子のアルダシールを王としたが、ギーラーン地方やカスピ海東は恐らくアルダシー ルの時代はまだ服属していなかった可能性がある。

 230年アルダシールはニシビスを落し、シリアを荒した。232 年ローマ皇帝アレクサンダーセヴェルスは和約の申し込みがけられたことで、2つの軍隊をアルメニアに派遣し、南から侵攻した軍は 破れたが、北から侵攻した軍はアルダシー ルを打ち破り、セヴェルスはローマに凱旋した。235年セヴェルスが暗殺されると、この機会にアルダシールは再度ローマに侵攻 し、カルラエやニシビスを奪った。中でももっとも重要なのはハトラの奪取である。この地はカラカラによって構築されたメソポタミ アのリメス(長保塁)の防衛システムを構成していた。

 アルダシールを宗教界で補佐する人物としてタンサール(またはトーサール)というヘールバドの 称号を持つ聖職者がいた。彼がタバリスターン王のグシュナスプにあてた手紙が今に伝わっている。これはすなわち、アルダシールが 武力制圧ではな く、言葉による帰順政策も推進していたことを意味している。アルダシールは寛容なパルティアと異なり、宗教上の集権化を推進し た。つまり、全土いたるところにあった火の寺院を破壊し、政府の認める火のみを正統とし、新たに火の寺院を建設した。また祭儀での聖像利用を禁止して混乱 を引き起こした。(もっともタンサールの手紙はホスロー1世時代の作との説もあるとのこと)。

 アルダシールの最後の5年間は息子のシャー プールを共同統治者とした。

*1 アルサケス朝時代には前248年を起年とする年号が使われていたとされるが、パルティアの どの社会階層・地域で利用されていたのか、ササン朝時代にはアルサケス暦はどうなってしまったのか、アルサケス朝後裔の名門諸家 では利用されていたのか、などおリをみて調べる予定ササン帝国内のキリスト教会では、4世紀から6世紀頃までセレウコス暦(前312年紀元)が利用されて いた。

*遺跡のレリーフから見るアルダシールの装束はパルティア風である。


イランと非イランの王
シャープール1世
(在位240-272年)

 
  243年、ローマ皇帝ゴルディアヌスはイランへ侵攻してきた。この時点ではシャー プールはカスピ東岸やギーラーン、ホラーサーンの征服の忙殺されていた。カルラエとニシビスは再びローマ人に奪われ、レサニア近郊で ペルシャ軍は破れた。その後若いゴルディアヌスを背後で操っていたティメシセウスが病死し、フィリップが同じ地位についた。244年 マッシーセかアンバールで戦闘があり、シャープールが勝利した。戦勝を記念してその町に新しい名前”ペーローズシャープール”(” 勝利者シャープール”)とず けた。ゴルディアヌスは殺され、フィリップが帝位についた。フィリップは50万ディ ナールの金をシャープールへ払い、ローマはアルメニアを援助しないとシャープールに誓った。アルメニア王アルサケス家のホスローは恐 らくシャープールの指 しがねにより暗殺された。252年のことと思われる。アルメニア王の息子ティリダテスはローマに逃亡した。

 シャープールの碑文(ナクシェ・ロスタム碑文) によると、

 「ローマ人は再び嘘をつきアルメニアに悪事を働いた。よって我々はローマ帝国を攻撃する」

 253年に予備的に略奪が行われ、256年本格的な侵攻が行われた。6万のローマ軍がバルバリ サスで敗れ、シリアは荒廃した。ドゥラエウロボスとアンティオキアは占領され、アンティオキア司教デメトリアヌスはフーゼスタン の ヴェーウアンティオクシャー プールへと送られた。この都市は後のグンデシャープールである。

 新帝ヴァレシアヌアスが進行してきたおり、シャープールはカルラエとエデッサを攻囲した。エ デッサ近郊の戦闘でヴァレリアヌスは捕獲され、シャープールの軍隊はシリアとカッパドキアを荒した。これは260年頃のこととさ れている。この勝利の後、シャープールは 「イランと非イランの諸王の王」を号した。シャープールはこの時の捕虜を使い、ビシャプールの町を建設し、カールーン川にダムを作り灌漑を行った(こ のダムの遺跡も残っている。俗称”カエサルダム”という。捕虜になったヴァレリアヌスが現場監督としたと史料が残っている)。

 アルメニアではアルタバズドが知事として262年まで統治していたが、262年、シャープール は息子のホルミズド-アルダシールをアルメニア王とした。別の息子シャープールはメセネ王となり、メセネ領主であった叔父のミフ ルシャーを継いだ。3番目の息子のワラフランはギーラーン王となり、4番目の息子ナルセスはサカ王となった。このようにシャー プール時代になり、各地の支配に若干の変更が発生した。例えばギーラーンやカスピ東岸のゴルガーンやホラズムはアルダシール1 世時代には服属していただけだが、シャープール1世は軍事的に征服した。もっとも、多くの地ではアルダシール時代に任命された シャープールの兄弟達がそのまま統治していた。例えばアディアバネ王アルダシールや、キルマーン王アルダシールなどである。トラ ンスコーカサスは地元の王が統治していた。この地域ではグルジアとアルメニアだけがササン王家に統治者に統治された。グルジ ア王はアマザスプといいササン王家の一族だと思われる。シャープール1世時代 宗主権を認めたが、必ずしも強力に統合されたわけではない。当時クシャン朝はタシュケントやカシュガル(又はケッシュ)、ペ シャワールを版図に納めていたので、自動的にシャープールは自らの版図をカシュガル、ペシャワールを含むものと考えた。

 パルミュラの支配者オデナトゥスはペルシャに反抗していたが、シャープールはビシャプールの建 設や宗教政策などに忙殺され、パルミュラについては軍事行動は起こさなかった。

ビシャプールで死去したとされる。

 
ホルミズド・アルダシール
(在位272-273年)
 ホルミズド・アルダシールに関する歴史は、アル・タバリーの史書に若干言及されているくらいしかな い。それはソグディアナと戦闘を行ったということである。

ワラフラン(バフラーム)1世
(在位273-276年)

 バフラーム1世はホルミズドの子ではなく兄弟でギーラーン王だった。このことはシャープール1世の碑 文から知れることなのだが、この碑文では、バフラームの名が火によって顕彰されていなかった。これはホルミズドやナルセスとは異なっ ている点である。これはバフラームの母が地位の低い王妃だったか正妃ではなく妾であったことを示唆していると思われる。サカ王国王で あるナルセスはバフラーム1世の子のバフラーム2世の王位継承には異を唱え、彼の父を非難した。王位継承については当時全ての王子の 同意が必要なわけではなかった。ナルセスは彼が兄弟であるバフラーム1世の後を継ぐものであると考えていた。しかし彼が叛乱を起こ したのかどうかについては不明である。バフラーム1世が後継者を2世と指名したとき、ナルセスは気持よいはずはなかったが、時の来る のを待った。 
 バフラーム1世の時代、ローマ皇帝アウレリアヌスがパルミラを征服し東方を制圧した。

 また、彼の時代 宗教界ではカルティール(キルデール)が国家教会の基礎を着々と固め、勢力を 築いていた。彼はマニの捕縛と処刑に関与したことは間違いない。

 
バフラーム2世
(在位276-293年)
 バフラーム1世、2世の時代はカルティールが宗教界を絶大な権力のもと支配した。彼はバフラーム2世 の背後で実権を握った。彼はバフラーム2世の王位継承にも関与したとされ、この点反ナルセスとして行動したことになる。ナルセスは 父シャープール1世同様宗教には寛容で、少数派の宗教へも自由な政策で望んだ。これに対し、バフラーム2世は保守的なゾロアスター教 聖職者の意思に同調していた。 
 カルティールはバルファーム1世からオフルマズドのモーバドという称号を受けた。彼は若い時はヘール バドであったとされ、これは東方の起源のヘールバドに対して西方のモーバドが優位に立ったことを意味する。更に彼はバフラーム2世に  「バフラームの魂を救うカルティール」「全帝国のモーバドであり判事」の称号も得た。
 
 283年ローマ皇帝カルスが侵攻してきた。ローマ人はクテシフォンを占領し、同年12月皇帝が死去し なければ、より広範囲に征服を進めていたかも知れない。平和が望まれ、ローマ人はメソポタミアを属州とした。これはシャープール1 世が征服した領域だった。バフラームがこのような条件を受け入れた背景には、(恐らくは)ホラサーン王ホルズミドの叛乱があった。彼 はバフラーム2世の兄であり、サカとクシャン人とギーラーンの人々を率いていた。彼はクシャン大王と称した。バフラームは叛乱を鎮圧 し、彼の子であるバフラームをサカの王に封じた。これらの事実はナクシェ・ロスタムとビシャプールの碑文に記載されている。

 288年 ディオクレチアヌスはアルメニア王としてローマに逃亡中のアルサケス家のティリダテ スを就けた(実際はアルメニアの一部の地域。残りの地域はササン朝支配下にあった)。恐らくササン朝の統制が弱まってきた為だと 思われる。当時アルメニア王はバフラームによって任命されたナルセスだった。
 

バフラーム3世
(在位293年)
  バフラーム2世死後、貴族ヴァフナムはバフラーム3世のためにディアデマ(王冠の一種)を持ってゆ き、サカ王であるバフラーム3世のための王座を準備しつつあった。何人かの貴族は殺され、他の者は彼に反対した。 多くの貴族がバフ ラーム3世を追 放する陰謀に加わり、ナルセスの即位を支援した。彼はアルメニアから来てティリダテスと和を結び、アスーリスタン(バビロニア)の 境界まで来るように彼の支援者達に相談された。そこはパイクリ(クテシフォン北150km) のあたりだった。貴族達の行列隊が彼 と同盟を結びにやってきた。モーバッドのカルティールも来ていた。ヴァフナムとバフラーム3世の運命は知られていないが、彼らは 歴史上からは消え去った。バフラーム3世の統治は数ヶ月間だけだった。彼は叔父ナルセスに廃された。
   参考
   ‐Cambridge History of Iran Vol3(1) Iran under the sasaniansの章
   ‐「ペルシャ帝国」 講談社 足利惇氏
   -「ゾロアスター教」 メアリー・ボイス

2013/Mar/24 Updated 誤字・脱字の修正

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