2008年に出版された「The Sasanian Era (The Idea of Iran)」の第9章「Prices and Drachms in the Late Sasanian Period」から、後期サーサーン朝時代の物価一覧を作成してみました。サーサーン朝時代の物価については、これまで殆ど資料が無かったことから、この 論考は非常に示唆に富む内容を持っている面白い資料だと思います。シリア語史料とタルムードを除くと、この時代のテキストと考古学の同時代史料は稀少となっていて、この章で は、シリア語史料とタルムード以外の、中世パフレヴィー語資料、バクトリア文書、バー クレーのパフレヴィーアーカイブ、イスラーム資料の4つの資料を用いて当時の物価について論議しています。なお、文中灰色の文字 で書かれている箇所は、本書以外の書籍から、参考になりそうなので、私の方で取り出してきた項目と数字です。また、「税収・王の 資産」の欄は、黒字で記載していますが、こちらも、私の方で各書籍から持ってきたものです。「The Sasanian Era (The Idea of Iran)」の9章に掲載されている内容ではありませんのでご注意ください。下記冒頭部分に、単位の説明を入れておきます。☆単位について
☆ 東部イラン1ディナール=5ドラクマ (根拠は、バクトリア文書の723年、bredag(バクトリアの称号)への支払い文書)。西部イラン1ディナール1.5ドラク マ(出典Frahang ī Pahlavīg。本書の注釈に 0.5ディナール=3dāng、1ドラクマ=4dāngとあり、これに基づくと1.5になるが、本文には1ディナール11.2ドラク マとある)) 。
☆ 1stēr=4 ドラクマ 1dāng=0.5ドラクマ
内容 |
価格 |
出典 |
対象の年代 |
備考 |
中世パフレヴィー語文献資料(主に 9-10世紀に記載) |
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Asmak(半分のワイン) |
65ドラクマ |
Avroman羊皮紙 |
紀元33年 |
何の半分かは言及なし。アンフォラかもしれない。 |
奴隷 |
500ドラクマ |
法律書Mādayān ī Hazār ī dādestān(以下MHD) |
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サーサーン朝下では、宗教と政治は密接に結びついており、法律書で あるMHDの内容は宗教的な方針でもある。つまり、法律として実際に適用されたかどうかは不明とされる。 |
数名の子供の奴隷 |
200ドラクマ |
MHD |
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成長すれば元が取れる(しかし養育費もかかるのでは?) |
相続 |
男子1人30ドラクマ、女子1人15ドラクマ |
MHD |
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密通 |
1200ドラクマ(D) |
MHD |
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女性の強姦 |
監禁の罰金500D、強姦の罰金700D |
MHD |
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幼児誘拐 |
600ドラクマ |
MHD |
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xwāstag |
200ドラクマ |
MHD |
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xwāstagが何かは研究中で、なんらかの財産か、耕作地との説がある。jorab xwāstagを70エーカーの土地と 読む解釈もあるとのこと。 |
裁判費用 |
原告被告とも3.5ドラクマ |
Perikhanian 1979:192 |
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48ドラクマ以下では裁判はできない、という史料もあるらしく、法 律家の徴収が7ドラクマで、手数料は10%を超えていなかった、とする解釈もあるとのこと。 |
羊1頭 |
3stēr(12ドラクマ) |
Vendidad(V)4.2 |
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低質の耕牛 |
12stēr(48ドラクマ) |
V4.2 |
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男1人 |
125stēr(500D) |
V4.2 |
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土地 |
500D以上 |
V4.2 |
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医者 |
男の執事長に対しては12stēr、村長に対しては221stēr、区長は30stēr、šahrの長(州知事)は70stēr |
V7.41 |
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相手の階層により、治療費を変えたらしい。 |
羊肉30切れ(前部と後部位半々) |
12ドラクマ |
sēnag nasāy ud bāzā masāy(SNBM) |
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バクトリア文書では、羊肉は、15/30切れを一塊として扱ってい る。成人男子が1日に2切れ食べるとすると、一切れ0.4ドラクマとなる(本書では3/5ドラクマと記載があるが計算誤りで はないだろうか) |
一月の肉代 |
24ドラクマ |
Frahang ī Ōim |
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1日に2切れづつ食べると、60切れ=24Dとなり、上記の情報と 一致する。 |
一月の肉代 |
18ドラクマ |
Rivāyat ī Ēmēd Ašavahištān |
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一月の肉代 |
16ドラクマ |
Dādestān ī dēnīg |
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執事長(dūdag-sālār)の月給相当。 |
8kabīzの小麦 |
1ドラクマ |
Dādestān ī dēnīg(DD) |
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kabīzはアラビア語のqafīz で(対 応出典はこちら)で穀物の単位。kabīz、qafīzともに具 体的な数値は不明(googleでqafīzをひくと、qafīz, a hollow measure, mostly between 4 and 60 litres [Hinz 1970: 48–50])と記載されている文書がヒットするが、その文書内にはこの文字は見られない(googleのキャッシュだけに載っているものと思われる) |
hamāgdēn儀 式代 |
ファールス地方。350-400ドラクマ。ヤスナの儀式zōhrを 除けば、120-150。 |
DD |
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ただしDDの当該部分はイスラム時代の、ゾロアスター教徒にとって 困難な時代の状況を反映していると思われる。 |
小姓の賜物 |
日当4ディナール。問答合格の一時金1 万2千ディナール。 |
「ホスローと小姓」 |
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パフレヴィー語文献。ホスローが小姓を採用する為に問答した話。日 当から計算すると月収480ドラクマ。 |
Mādayān ī Hazār ī dādestānの英訳を参照 すると、遺産相続の法令の例として、200ドラクマという数字が頻繁に登場している。上記8行目のxwāstagが200Dとあることからも、200ドラクマという数字が標準的な一般世帯の遺産額 であるのかも知れない。不動産や家畜などの動産を含むのかどうか不明だが、この場合の200Dは、現在の日本での 1000万円程度に換算すると丁度良いのではないだろうか。つまり、1月の肉代16ドラクマの12が月分(192D)に 相当し、1年分の肉代に相当することになる。肉代金=食費ではないが、1年分の生活費を遺産として残す程度が普通だっ た、という考え方もできるかも知れない。 |
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バクトリア文書(主に7世紀後半) |
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1頭の馬 |
10ディナール(50D) |
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駱駝がもっとも高い家畜だったらしい。 |
4頭建ての戦車 |
280D |
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戦車と馬具が80ドラクマ。馬1頭50ドラクマ |
婚姻上の契約違反 |
40ディナール(200D) |
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343年 |
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7つのlukhsの財産 |
8ディナール(40D) |
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528年 |
Lukhについての注釈無し。バクトリアの称号? |
罰金 |
40ディナール(200D) |
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612年 |
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ワイン |
17ディナール(85D) |
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621年 |
33年のAsmakワイン65Dとほぼ 同じ(17*5=85D) |
少年 |
3ディナール(15D) |
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679年 |
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40 Kavadドラクマ*1の借金 |
月に2ドラクマの高利子(5%)。罰金は元本の2倍の80ドラクマ |
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682年 |
契約違反をした場合、合計すると元本の4倍となる計算と本書になる が、何故4倍となるかは不明。 |
罰金 |
bredagへ100ディナール、反対党派へ500D |
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723年 |
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バークレーのパフレヴィーアーカイ ブ |
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8 dōlagsのšufang |
1dōlagは1ドラクマ |
文書46、97 |
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šufangには乳清、核果(石果)、ジュース、牛乳、葡萄果汁と ワインに似たもの、葡萄から作られるジュースか甘口ワインなど諸説ある。 1 dōlagの量は不明*2。 |
オイルとバター |
1dōlag 2ドラクマ |
文書97 |
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蜂蜜 |
1dōlag 3ドラクマまたは2ドラクマ |
文書97 |
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用途に応用が利くものは高い。特に砂糖の無かった社会では。3ドラ クマと2ドラクマの文書がある。ヒポクラテスによると、肉の保存の為にワイン、雪、酢、塩などを上げている。 |
山羊肉 |
4ドラクマ |
文書46、97 |
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上述のVendidadなどの12ドラクマより安いが、羊と山羊は あまり価格にあまり違いは無かったものと思われる。 |
6 dōlagsのワイン |
5ドラクマ |
文書49 |
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子供用シャツ2枚 |
18stērs(72ドラクマ) |
文書154 |
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少々高い。 |
1枚のシャツ |
30ドラクマ |
文書154 |
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300kgの薪 |
1ドラクマ |
文書46 |
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1 xarvār=300g |
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その他 |
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家父長の一日の食料と衣料費 |
3/5ドラクマ |
Philip Huyse2005:109、Gyselen 1997 |
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月収 |
4stēr = 16ドラクマ |
Philip Huyse2005:109 |
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宮廷人の給与 |
1万ドラクマ |
Kitāb al-tāj? |
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イスラーム期の史料なので、イスラーム期の物価が反映していると思 われる。つまり、相当サーサーン朝時代の物価と比べるとイフレーションを起こしている。 |
国王の賜物 |
1万ドラクマの価値のあるもの |
Kitāb al-tāj? |
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同上。 |
イスラーム時代の物価(ドラクマの 価値が大幅に下落していることの参考情報) |
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ハルン・アル・ラシード時代の歌手イブラヒム |
20万ドラクマ |
Kitāb al-tāj(ジャーヒズ著) |
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月収か年収か一時金か不明。 |
1着の衣服の正装 |
30 badraが必要。1badraは1000D以上、1万のことも。 |
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bardaが何か不明。 |
「王冠の書」 |
7万ドラクマ |
Tarīx-e Boxārā |
9世紀 |
真珠があしらってある書物?意味が不明。 |
Amulの大モスクの設計書の一部 |
8032ディナール |
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8世紀末 |
*ササン時代の換金率11.2(冒頭注釈参照)とする と、8万9958ディルハム |
Amul大モスク建造費 |
47430ディナール |
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8世紀末 |
*同上の換金率で53万1215ディルハム |
数頭の馬、コート、ベルト、兜など |
金1万ディナール |
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スハーフパッドからヒーラのアミールへの贈り物。 |
ターヒル朝時代のタバリスターンの収入(820-872年の間) |
600万3000ドラクマ |
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9世紀 |
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預言者叔父アッバースの年 金 |
24000ディルハム*3 |
「イスラムの時代」前島信 次p116) |
7世紀 |
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預言者の妻アーイシャの年 金 |
12000ディルハム |
「イスラムの時代」前島信 次p116) |
7世紀 |
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その他征服による獲得財産 の支給(年金) |
・バドルの戦い(624年)以前にムスリムとなった者5000ディルハム。 ・その後にムスリムとなった者2000ディルハム ・女子の第1級が500、2級が400、幼児が100ディルハム |
「イスラムの時代」前島信 次p116) |
7世紀 |
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バグダッド建設費 |
1800万ディナール、ま たは1億ディルハムまたは400万883ディルハム |
「イスラム世界」前島信次 p212 |
8世紀後半 |
この建設費に4年間で10 万人を動員費が含まれていると思われる。 |
バルマク家のハーリドから 没収した罰金 |
300万ディルハム |
「イスラム世界」前島信次 p212 |
8世紀後半 |
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ハルーン・アル・ラシード の母ハイズラーンの年収 |
1億6000万ディルハム |
「イスラムの時代」前島信 次p189) |
9世紀初 |
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ハルーン・アル・ラシード の妻ズバイダの年金 |
10万ディナール、100 万ディルハム |
「イスラムの時代」前島信 次p202) |
9世紀初 |
*ササン時代の換金率 11.2(冒頭注釈参照)とすると、210万ディルハム |
本一冊(アリストテレス形 而上学の注釈書) |
3ディルハム |
「中央アジア歴史群像」 p43 |
10世紀末 |
イブン・シーナーが市場で 購入した書籍 |
ワジールの月収 |
1000ディナール |
ヒッティ「アラブの歴史 上」p613 |
9世紀末 |
ムウタディド時代 |
歩兵 |
960ディルハム/年 |
ヒッティ「アラブの歴史 上」p624 |
8世紀中 |
アブル・アッバース時代 |
騎兵 |
1929ディルハム/年 |
ヒッティ「アラブの歴史 上」p624 |
8世紀中 |
アブル・アッバース時代 |
歩兵 |
240ディルハム/年 |
ヒッティ「アラブの歴史 上」p624 |
9世紀初 |
マームーン時代 |
騎兵 |
480ディルハム/年 |
ヒッティ「アラブの歴史 上」p624 |
9世紀初 |
マームーン時代 |
工事の棟梁 |
1ディルハム/日 |
ヒッティ「アラブの歴史 上」p624 |
8世紀後半 |
バグダッド建設時 |
工事作業員 |
1/3ディルハム/日 |
ヒッティ「アラブの歴史 上」p624 |
8世紀後半 |
バグダッド建設時 |
シーラーフの商人の家 |
1万-3万ディルハム |
ヒッティ「アラブの歴史 上」p657 |
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建造費 |
貿易商の家の建造費 |
400万ディルハム |
ヒッティ「アラブの歴史 上」p657 |
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大貿易商人年収 |
100万ディルハム以上 |
ヒッティ「アラブの歴史 上」p657 |
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*1 Kavad ドラクマとは、カワード王の時代になって、バクトリアがエフタル支配下となった為、標準通貨エフタルのディナールになったと考えられ、サーサーン朝の通貨 は、区別する為に「Kavad」をつけて呼んだとのこと(出典「The Sasanian Era (The Idea of Iran)」の6章「Sasanians in Eastの章)。 *2 dōlagと同じかどうか、私には不明ですが、伊藤 義教著「 古 代ペルシア―碑文と文学 (1974年)」 p225に、中世ペルシア語の小編「満足という薬」に「Dārūg i hunsandīh」 の翻訳があり、薬1服1ダーング(スペル不明)=1ドラクマとの記載がある。 *3 ディルハムはサーサーン朝時代のドラクマ相当。 |
税収・王の資産
項目 |
金額 |
出典 |
時代 |
備考 |
カワード時代のサワードの税収 |
1億5000万ディルハム | マー ワルディー「統治の諸規則」 |
6世紀 |
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ホスロー時代のサワードの税収 |
2億8700万ディルハム |
同上 |
6世紀 |
サワード(下イラク)だけからの値なので、残余を併せると後のホス ロー2世時代の帝国全土の税収と概ね一致する。 |
ホスロー1世の人頭税改革 |
12,8,6,4ディルハムを資産/財産に応じて徴収 |
6世紀 |
20か25歳から55歳まで課税。4ヶ月毎年3度の分割納入。4Dの 場合、毎回4Dなのか、3度合計で4Dなのか不明。なお、玄奘の「大唐西域記」にも、税金は銀4銭との記載があり、タバリー の記録と一致する。 | |
607年の税収 |
6億ドラクマ |
607年 |
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ホスロー2世の財産(603年頃) |
約11億ドラクマ |
603年 |
重量ミスカールと銀貨ディルハム換算率7:10として計算 |
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ホスロー2世の財産(620年頃) |
約23億ドラクマ |
620年 |
同上 |
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アラブのクテシフォン征服時に見出した財産 |
3億ドラクマ |
タバリーの歴史 |
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ウマイヤ朝インド遠征時の略奪品 |
1億2000万ディルハム |
「イスラム世界」前島信次p157 |
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インド遠征の軍費は6000万ディルハムとのこと |
マンスールの遺産 |
1400万ディナール、6億ディルハム |
ヒッティ「アラブの歴史上」p616(註によるとマスウーディの 233ページ) |
7世紀後半 |
*ササン時代の換金率11.2(冒頭注釈参照)とすると、7億 5680万ディルハム(ハールン時代の換算率1:22で計算すると、9億ディルハム) |
ハールーン・アル・ラシードの遺産 |
9億余のディルハム |
ヒッティ「アラブの歴史上」p616(註によると、タバリー Vol3のp764) |
8世紀初 |
『カ リフ宮廷の儀礼』Hilal al-Sabi's Rusum Dar al-Khilafa 20-30 では、在任中のラシードが家臣に自らの財産を訪ね、「873,000,000ディルハム(約9億)」との回答を受けている。 |
マームーンの遺産 |
金800万ディナール、銀1800万 |
「イスラムの時代」前島信次p205 |
9世紀中 |
*同上換金率(1:22)だと、1億9400万ディルハム |
ムクタフィーの遺産 |
1億ディナール |
ヒッティ「アラブの歴史上」p616(註によると、サアーリビ「知 識の悦び」p72 |
10世紀初 |
*943年の換算率1:13だと、13億ディルハム |
ハールーン・アル・ラシードの税収 |
3億3千891万ディルハム |
795/796年 |
ヒラール(970-1056年)バグダッドで書記職にあった。 |
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マームーン時代の税収 |
4億1千692万ディルハム |
同上 |
814/815年 |
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マー ムーン時代の地租収入 |
サ ワード(下イラク)2780万 ホ ラサーン 2800万 シ リア・パレスチナ 1472万 全 合計3億3192万ディルハム |
ヒッ ティ「アラブの歴史上」p615(註によれば、引用元はイブン・ハルドゥーンの「歴史序説」p150-51 |
9 世紀初 |
「現 金のみ」と注釈があるので、現金以外の現物納も別途あったのかも知れない。もしかしたら、現物納分を含めた数値は、上記「カ リフ宮廷の儀礼」の数値、4億1692ディルハムなのかも知れない。下の段のサワードの現物含めたすちとは1億程差があり、 本項目の3億3192に一億を加算すると4億1692ディルハムに近い値となる。 |
上 記から数年後 |
サ ワード 1億3000万(うち現金809万) ホ ラサーン 3700万 エ ジプト 3750万 シ リア・パレスチナ 1586万 全 領土合計 3億8829万ディルハム |
ヒッ ティ「アラブの歴史上」p615(註によればクダーマ「地租誌」p237-52) |
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こ の額は現金及び現物納入を含む額。地租以外を含んでいるのかどうかは不明。 |
9 世紀中頃 |
サ ワード 7831万(うち現金845万) ホ ラサーン 4484万 シ リア・パレスチナ 2985万 全 領土合計 2億9926万ディルハム |
ヒッ ティ「アラブの歴史上」p616(註によればイブン・フルダードビ) |
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こ の額は現金及び現物納入を含む額。イブン・フルダードビは、日本語では訳語が一定しておらず、イブン・フルダーズ=ビフ、イ ブン・ホルダードベーとも書く。
マー ムーン時代から9世紀中頃まで、4億1692万→3億8829万→2億9926万と、次第に低下していることがわかる。 |
ムクタディル時代の税収 |
1483 万ディナール |
915年頃 |
943年の金銀貨幣換算比1:13だと1億9279万ディルハム。 ただし両聖地、イェメン、バルカ (Barqa)、シャフラズール、サーマガーン (al-Samagan)、キルマーン、ホラーサーンを課税対象地から除外した値とのこと。 |
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王の財産額が、ホスロー2世の603年に11億、620年に23 億、マンスールが9億、ハルン・アル・ラシードが9億、ムクタフィーが13億と、だいたい近い額であることがわかります (マームーンが2億弱と少な目ですが)。ホスロー2世の620年は、エジプトや小アジア、シリア・パレスチナを征服しての数 字ですから、603年と比べて倍以上の額となっているのでしょう。603年が、サーサーン朝の通常時の財産だと考えても良さ そうです。とはいえ、エジプトもシリアもパレスチナも領土としてもっていたアッバース朝の財産がサーサーン朝と同じ程度なの は何故なのでしょうか? サーサーン朝末期の、運河破壊などのカタストロフィで古代中国のごとく人口が激減した可能性もあり そうですし、アッバース朝の方が税金が軽かったか、または、どんどん改修者が出て、税収が減る傾向にあったのかもしれませ ん。 「The Sasanian Era (The Idea of Iran)」の第9章「Prices and Drachms in the Late Sasanian Period」では、サーサーン朝の物価や収入の情報の参考情報が得られ、一歩前進ですが、サーサーン朝のGDPと人口を算定するまでには至らないところ が残念です。今後の研究に期待したいと思います。 |