貨幣について

1.アケメネス朝の貨幣

 ダレイコス金貨とシグロイ銀貨がアケメネス朝時代にあった。ダレイコ ス金貨は 8.416グラム、シグロイ銀貨は5.61グラム。交換レートは1:20だった。当時アケメネス朝が決めた金属としての交換比率 は1:13.3だったが、 インドでは1:8であったため、金がインドからペルシャへ流入し、逆にシグロス銀貨がインドへ流入することになった。また、ギリ シャは銀山が多く銀本位制 だったため、ペルシャからのダレイコス金貨の流入はギリシャ経済に打撃を与えた。無論ペルシャは意識してこの政策をとっていた。

2.パルティア時代の貨幣

 パルティア時代になると、金の産地が支配地から離れたため、ドラクマ 銀貨が主流と なった。しかしその重量はきわめて不安定で品質は一定していなかった。種類としては、

 ・テトラドラクマ(4倍のドラクマ。サイズも大きい)
 ・ドラクマ(通常の銀貨)
 ・カルクス(Chalcon)銀貨・銅貨
 ・オボル(銅貨)

があった。オボルは出土が少ないが、これは、ドラクマとテトラドラクマ は資産とし て、死蔵された可能性が高く、通常流通していたのは、オボルであったと考えられる。ドラクマはギリシア語読み。ディ ルハムは同じ言葉のアラビア語読み。

3.ササン朝時代の貨幣

・ディナール金貨(日常的には流通しない賜与・記念貨幣
・ディルハム銀貨
・ディルハムビロン貨(銀と青銅の合金)
・カルクス銅貨(パルティア時代のものが流用された)
・オボル銅貨(パルティア時代のものが流用された。サーサーン朝時代のものは、民衆への賜与用)
サーサーン朝の銅貨の画像についてはこちらをご 参照ください

 ササン朝時代には、テトラドラクマは殆どなくなり(初期アルダシール の頃はあっ た)、基本的にドラクマとオボルになった。ササン朝時代のドラクマは、重量が3.8g前後で安定していて、末期までほぼ品質を保 ちつづけた。税金が銀納さ れていたようである。ホスロー1世以降、キリスト教徒以外の、全人民に人頭税が課されることになり、銀4枚分が年3回にわけて徴 収された。「銀4枚分」 を、銅貨で納めることも可能だったのか、必ず銀貨でなくてはならなかったのか、この点は不明である。が、銀4枚が、庶民に払えな い程高価であったとは考え にくい。

 1,2世紀のローマ帝国の銀貨であるデナリウスも、3〜4gの重量を 維持してい た。また、シリア、パレスチナあたりの、ローマとペルシャの中間地帯は、双方の通過が流通していたと考えられる。現代のような異 なった通貨間の貨幣価値を 決定するには、当時は、為替市場が無い以上、貴金属の含有量と重量で、貨幣価値が決まったはずである。こう考えると、少なくとも 1,2世紀のローマの銀貨 とササン朝銀貨は、同じ程度の価値とみなされていたと、考えて見ることもできる。パルティア通貨は品質が悪いとされているので、 逆にローマの銀貨よりも、 幾分安く見積もられたとも推測できる。

 また、ササン朝時代のイラク地域の農業生産性が、非常に良く、中国の 史書にも、人 民の富裕が記されているところを見ると、ホスロー1世以降の税金は銀貨で納税されていた可能性もある。ローマとペルシャの、金銀 間の価値が、パルティア・ ササン朝時代をはさんだ1000年近く、ほぼ1:12〜15の間で、遷移していたことも、双方の領域全体で、貨幣価値についての 共通的な認識が存在してい たことを示唆している、と考えることもできる。
 
 貨幣の流通度、浸透度はどうだったのであろうか。少なくとも税金は、人頭税以外に、農業生産物についての税金も、銀納となって いるので、最低でも、中国 の前漢と同じ程度には、社会に浸透していたと思われる。これはどういうことかというと(中国の欄でも記載しているが)、現代のよ うな貨幣経済ではなく、あ くまで税金の徴収手段としての貨幣が利用されたわけで、産業構造全体が、貨幣経済となったわけではない、という意味である。しか し、中国の貨幣経済のばあ い、後漢以降物納主流に移行し、再び本格的な貨幣経済が隋唐以降を待たなくてはならなかったのに対して、イランでは、後のイスラ ム時代に、スムーズに貨幣 経済が行われていることを考えると、ササン朝の貨幣経済化は、中国よりも進んでいた可能性もあると、考えることができる。

 ところで、ササン朝時代には、一時金貨が作られたことがある。少なくとも、ヤズダギルド1世と、ホスロー2世の通貨ががる。ポ スロー2世時代の金貨は、 ローマのアウレウス+デナリウスをあわせた、「ディナール」という名称になっている。しかし、これは記念コインのようなもので、 経済流通には関係していな かったものと思われる。

 さて、パルティア・ササン朝時代の貨幣では、何がどのくらい購入できたのであろうか。これについての情報は殆どない。「バクトリア文書の解 読」では、678年のアフガニスタンでの奴隷契約書についての記載がある。この文書では、少年奴隷を3ドラクマで売 却している。この記述からする と、1ドラクマは結構な値段だったのだろうか?(このあたりについては、「サーサーン朝時代の物価一覧」という記事にまと めましたので、ご参照ください)


4.サカ王国・クシャン朝の貨幣

 北西インドのサカ王国ではパルティア通貨に影響を受け、アセス1世の 時代から銅が 混在し、品質が一層低下した。これはアーンドラ王国の通貨の影響と受けたとされる。アーンドラ王国では鉛の貨幣などがあったよう である。

 クシャーナ朝では金貨が発生している。これはローマのアウレウス金貨の重量に近いらしく、ローマとの直接交易により、ローマ金 貨が流入したことから、本 来金貨があまりなかったこの地域で金貨が流通するようになったらしい。ローマ金貨をそのまま打ち直して作成した可能性もある。


5.貨幣の作成方法と厚さ

 アケメネス朝時代の貨幣は、金属の塊を、重さ分だけ切り出して、刻印 を押しだだけ のもの。形状はただの塊で、サイズも一定していない。
 これに対して、パルティア時代の貨幣は、ギリシャやローマの貨幣と同じ方式で作成したものと考えられる。つまり、両面につい て、おのおの別々の型を用意 し、金属の塊を、表、裏それぞれ、打刻した。つまり2回打刻作業を行った。このため、博物館などで実物をみるとわかるが、貨幣は 結構厚さがある。

 ササン朝時代になると、打刻して作成する方法は変わらないが、貨幣は 劇的に薄くな る。

因みに中国の貨幣は、表裏それぞれの鋳型を作成し、そこに溶けた銅を流 し込む、とい う鋳造法である。この点が西欧ともっとも異なっている部分と言える。

戻る