Jun/17/2018

イラン世界の生活

言葉  どんな言葉を話していたのか

貨幣  どんな貨幣をもちいていたのか

      サ サン朝時代の文学

    パ ルティア時代の文学

    サ サン朝時代の人物画

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衣服
- どんなものを着ていたの? -

詩「自分の持ち馬は印で分かる。パルティア人はティアラ(頭にの せる丈の高い装飾用の被り物)でわかる。
メディア風の服装、男も化粧
貴族は 脚までとどく長いゆるやかな外套、胴着とずぼん。透けて見え流れるような胴着 明るく多色 黄 金の刺繍
    儀式では花の冠 
女性ベールで顔を覆う

5世紀頃より、絹産業がローマの職人の為に発達した。少なくとも 王侯貴族の服装は変わった。シャープール1世の頃はまだパルティア時代 と変わらない服装だったが、シャープール2世の頃になるとベストを着るようになり、ホスロー2世の頃は 中国風の服装になっていたと思われる。(クーイカー ジャとエウロボス、サマルカンドにカラー壁画)
アルダシールの服の色。シャープール2世時代のカラー壁画


ペルシャ錦 インドの影響(古代インドP355)

============================== ササン朝時代=====================================

【中国の史書】

(1) 「周書」「北史」「魏書」(ほぼ同一内容)。基本的に は、ササン朝後期の衣服についての情報である。

 男は、髪を短く刈っていて、白皮の帽子をかぶっていた。髪が短 いというのは、中国人から見ての話である(中国人は男でも長髪だっ た)。肌着として、貫頭衣のようなものを着ていた。この肌着は襟は開いていないが(旧唐書)、下の方 は、両方に開いていた(周書)。またあわせてショール のようなもの(垂衣)をつけていて、蘇方(すおう/暗赤色)、青、白などの色を使って非常にカラフルで あり、その両側縁どりは、錦で織り込んでいた(旧唐 書)。
 女性は、より大きめの肌着を着て、大きめのショール(垂衣)をつけていた(恐らく、チャドルと同じよ うなものであったと推測される)。前髪は髻(もとど り。結わえて束ねる)にし、後ろ髪はたらしたままだった。辮髪のようにまとめていたと思われる記述(旧 唐書)もあれば、後ろは髪で被っていただけ、ととれ る記述(旧唐書)もある。後ろ髪は、金銀貨幣や、五色の珠を貫いて、これを腕(膊/ほじし)に絡めてい た。
 また、旧唐書には、裸足だったとの記載がある。

(2) 「大唐西域記」の波斯の項に身分の低い者は皮を着て、身分の高い者は錦・木綿をきる、とある。 頭髪は整え、冠は被らない、とある。

【その他】

 参考になる画像としては、サ マルカンドやペンジケントの遺跡から発掘された、7~8世紀の衣服が参考になると思われるが、ササン朝 後期の装束とは、あまり変わってはいないだろうと推 測される(ササン朝時代の 人物画を参照

 ゾロアスター教徒は、クスティーと呼ばれる腰紐を3回まわし て、前と後ろで結び目を作った。これを祈りの時にはずして、結びなおし た。また、スドラと呼ばれる純白の下着を着ていて、のどのところに小さな袋を下げていた。また一日5回 の礼拝を行っていた(ボイス145)。

 マニ教徒は白い衣服だったので、どこへいっても、直ぐに見分け がついたとのこと。

 戦士は、紫、またはワインレッド、赤などの服装、ローブなどを していた。

パルティアの貴族像

(テヘラン歴史考古学博物館)

 

食事
- どんなものを食べていたの? -
食器
ヒルカニアの葡萄 1樹で9ガロンのものも
米作はBC3より下シリア、バビロニア、バクトリア、スュスィスでも行われていた。
口臭除去のシトロンの種
酵母により醗酵したパンと肉、野菜が主食 肉はステーキ、ベーコン、鹿の肉、ヒルカニアで捕獲された獣とメソポタミアの野菜  バビロン周辺のにがよもぎ
ドライフルーツ、ナツメヤシ、ナツメヤシ酒、バビロニアのワイン(王室専用)
軽くて気孔の多いパルティアのパンはローマに輸入されパニス・アクワティクス(水気の多いパン)、パニス・パルティクス(パ ルティアのパン)で知られた。
(王の食事 - 寝台に横になり、臣下は放られるものをむさぼり食った 臣下は王の脚より高い位置にいられなかった)

アラブ時代に、デフカーンの維持した食事マナー。スプーンと肉を切るときのナイフの利用、がつがつ食べない、骨をかじらな い、静かに食べる、脊髄をかじら ない、など。イスラム時代の記録では、あるデフカーンが、土の(陶製)器でなど飲めるか、銀器が無ければガラスの器で出せ、 といったエピソードを記載して いる。

中世パフラヴィー語文献『ホスローと小姓』に、当時 の富裕階級の食事の内容が記載されています。
住居
- どんなところに住んでいたの? -
家族 
5世紀頃よりストッコ、れんが、切石は少なくなる。

天祠は非常に多い、とありゾロアスター教の拝火壇のある、チャハールターグのことを示していると思われる。

仕事
- どんな仕事をしていたの? -

(1) 役人の仕事 - 1 

書記階層は、政府行政伝達官、会計官、契約書、登記、判決の記録官(dada- dibir)、史官、科学 者、詩人、占星術師に分類されている。書記階層は、文書を必要とする様々な職業の供給階層であり、政府の diwan(官庁)の役人だった。法廷の役人や、 若い書記(dibir)から、試験によって選ばれた。役人は階層に分化しており、軍隊と同様7階層に変われていて、 最初の4層が、dibirの層だった。 彼らは通訳もできなくてはならなかったから、政府には、インド人やアラブ人の書記もいた。書記は時に、王の監査役、 指揮官の相談役として軍隊に同行するこ ともあった。

 

(1) 役人の仕事 - 2 (以下はディミトル・グタス「ギリシア思想とアラビア文化」p126から引用

 

 イブン・クタイバ「書記の教育(Adab Al-kātib)によれば、サーサーン人は、次のことを知らないと、国家の書記としての資格に欠けていると言っている、として以下のものをあげていると のこと。

 

・灌漑の原理/運河へ出入りの水路を開けること/堤防の割れ目をふさぐこと

・太陽の運行/星の(地平線上の)上昇地点/月の諸相とその影響/さまざまな昼の 長さを測定すること

・計測の基準を査定すること/三角形・四角形および様々な多角形によって測量する こと

・弓形やその他の種類の石橋を作ること

・経理の詳細

・その他(バケツのはねつるべ、水路の昇水水車、職人や熟練工が使う器具の性質、

    
(2) 農民の仕事 
    
 「大唐西域記」の波斯の項には、学芸は無いが工芸に巧で、製品は周辺国に重んじられている、とある。

(3)医者

 グンデーシャープールには医者の家系があった。彼らは殆どネストリウス派キリスト教徒だった。アッバース朝時代に、 ブフティーシューウ家、マーサワイヒ 家、タイフーリー家、セラピオン家(「ギリシャ思想とアラビア文化」P137)などグンデシャープール出身であり、彼ら は、ササン朝時代に遡ると見られ る。

教育
- どこで学んでいたの? -
・貴族と上流階級の子供は5歳から7歳になると学校へいった。15歳まで一般教育と宗教教育がなされた。書くことと?を 覚え ることを。加えて中世ペルシャ文学とゾロアスター教について早い歳からまなんだ。アヴェスタとザンド、アーチェリーとポロ、 格闘技。遠くに送ることもあっ た。バーバクはアアルタバヌスルのもとに7歳でアルダシールを送っている。「カリーラとディムナ」所収のブズルグミフル自伝 では(学校に通ったかどうかは不明だが)7歳のときに親が職業を決めた、との記載がある。

・「ホスロウと小姓」と呼ばれる中世パフラヴィー語書籍には、ホスローが、小姓採用の問答が掲載されており、そこに、 学校 に相当すると思われる言葉、フラハンゲスターンが登場している。そこで、「ヤスナ」「ハードーフト」「ヤシュト」「ヴェ ンディーダード」を暗記し、「ザン ド」の講釈を受け、読み書きを教わった、とある。ボイスの意見では、フラハンゲスターンは一般教育の学校であり、祭司の 為の学校は、「ヘールバデスター ン」、書記のための学校は、「ディビーレスターン」といった(メアリー・ボイス「ゾロアスター教」講談社版p261)。

 楽器、音楽、歌。ゲーム(チェス、バックギャモン、 一般知識ワイン、花、女  獣の乗り方などを教わった。
アルダシールは7歳、バフ ラーム5世は5歳で学校へあがったとされている。  
frahangesta, lit., "place of education  体罰 長いStickで打たれた。he general term for "teacher" was hammo@zga@r, for "religious teacher" he@rbed, and for "instructor"
frahangbed
フィルダウシーでは、 王子は 騎馬、アー チェリー、狩、戦闘技 術、社会エチケット、儀礼、フェスティヴァルのしきりかた。弁舌、

ササン時代 女性 学校にいった。少なくとも一般宗教教 育は.少数だった けど。 メインは家内スキルを家で学んだ。一部の女性は 市民法に精通していた。 
狩猟は健康、視力、聴力、老化、戦闘の修練

Dibirのための学校があり、dibiristanと 呼ばれた。

 「大唐西域記」の波斯の項に、「人々の性格は粗暴で礼儀が無い」と記載されている。

書物
- 書物をめぐるあれこれ -
  
(1)文字

 パフラヴィー文字 22のアラム文字を14の記号に縮訳しており、異音を同じ記号で表記することになった。アラム文 字でぺる しゃ語を記載していたが、やがてアラム文字を漢字のように利用し、ペルシャ語で訓読するようになった。

(2)書物

 公用文書には羊皮紙が使われた。樺皮は東トルキスタンから輸入されていた。 木簡は知られていない。

ナルセスのパイクリ碑文後、パルティア語碑文は見られなくなる。これは帝国の公用語として中世ペルシャ語を唯一の公用 語としたこ とだと推測される。

行政語と民衆語、商業語、記述言語と会話言語はばらばらで、変遷が激しかった。
アケメネス朝では、当初は、書き言葉はアラム語が標準となった。行政語、商業上の契約書・管理記録などはアラム語で記載 された。しかし、日常生活はイラン 人であれば、当然ペルシャ語、その他各民族がそれぞれの言語を用いて会話していた。
パルティア時代には、アラム語に加えてギリシャ語も、書き言葉として普及した。しかしクシャン朝では、書き言葉として、 カニシュカ王の初年に、ギリシャ文 字を利用したバクトリア語を利用するように勅令が出るなど、変化が開始されている。
ササン朝時代にようやく、書き言葉としてペルシャ語が普及した。

このように日常生活の言葉が書記用の言語として用いられなかったこと、標準的な書記用言語が長期間定着を見なかったこ とが、文学 を生まなかった素地となったといえる。

ササン朝時代、ペルシャ語を国民に強制した結果、パルティア語の語彙がペルシャ語に取り入られることになってしまっ た。これはア ラビア語が普及したイスラム期に、アラビア語がペルシャ語の語彙を取り入れてしまったことと同じ減少だといえる。

絹で手紙を書いていた可能性がある。

羊皮のマニ教書籍(4世紀~6世紀)が現存しているらしい。また、マニ教典籍にも、マニは画集を用いて布教をしたとの 記載があ り、書籍の存在を示唆している。これが事実とすれば、ササン朝時代に書籍が存在したことになる。余談だが、4世紀の作と されるインドの戯曲、土の小車に も、「読みかけで開かれた書籍」という文言が登場している。綴じ込みの書籍を示唆する記載である。こ ちらのサイト には当時にササン朝文書に関する若干の情報を得ることができる。文書を封印していた封泥にの 遺物に ついての研究状況の解説がある。

Book Painter(nibegan-nigar)という言葉あり。


写本業は、アベスタとマニ教関連の書記層

旅行
- 役人と商人以外の人が旅行できたのか? -
地図
名前
- 
古代イラン(ササン朝)の一般のひとびとは、どのような名 前だったのか?
女王の名 スィリケ、アールヤザデ・アウトマ、アザテ(ボイス139)
祭り
-  -
7/7、12/1.1/20日(周書)
ノールーズ、ミフラガーン(Mihragan) ノールーズには、王に10Mディルハムのプレゼント、ミフラガーンでは、 100Mディルハムのプレゼント をお願いする。
結婚と葬式
- 冠婚葬祭 -
フウェードゥーダ婚(近親婚)
臣下(貴族、祭司)は風葬のあと、岩窟に入れる(納骨塔)。 ササン時代、中央アジアでは、骨は小箱(オスアリ)に入れた。 庶民は地下に埋めた。ヤズダギルド1世はキ リスト教徒には、土葬を許した。(ボイス)祭司は結婚しているのが普通(ボイス44)
フラワシ祭儀 死者の霊を弔う。死者の彫像を作った。等身大~小さなものまで様様で、その前で礼拝した。犬を尊重する習慣が あった(ボイス)
チンワト橋
娯楽
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ポロ(当時はチャウガーンと言った。 チャトラング(将棋)とネーウ・アルダクシール(スゴロク)がホスロー1世時代に 登場した。将棋はインドからもたらされ、スゴロクはホスローの宰相ブズルグミフルが考案したとされている(「シャーナー メ」)。
交通
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シャーラー(クティシフォンとパールス地方を結ぶハイウェイ ポル・バンド(ダムの橋)の建設 。ササン朝時代の橋の遺跡は幾つか残っているようである。写真を見ている限りでは、ローマの橋にも相当する規模である。戦争 で捕虜となったローマの技術者 から伝えられた技術かもしれないし、あるいはローマ人捕虜自身の作品かもしれないが。
イランに戦車はなかった。
治安
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音楽
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都市と農村
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 初期ササン朝では都市建設がさかんに行われた。シャープールもアルダシールも都市をいくつも建設しており、ローマ人捕 虜を移住させ たりしている。あまり知られていないことだが、重要なことはフーゼスタン地方(特にカールーン、カルヘ、デズ川の水の利用が 開始された)やディヤーラ川そ の他の地域での農耕地の巨大な拡大である。農耕地は以前の時代に比べササン朝時代に飛躍的に増加した。ササン人の政府が灌漑 システムを維持し、拡大に多大 な努力をしたことが考古学的にも明かとなっている。農業の拡大は都市の拡大に比べてより印象的である。農業の増大はゾロアス ター教としても歓迎していてサ サン朝の王は人口増加の基礎を置いた。人口増加を具体的に知ることは出来ないが、考古学的には人口増加を指摘することが出来 る。新しく建設された都市は農 業の中心地となった。、この都市のパターンはイスラム時代に引き継がれた。

セレウコスーパルティア時代以降、ティグリス川左岸が発展した。ディヤラ河の運河がひかれ、町村が発達し、反面両河の中州は さびれていった。(ADAM)

 イラン高原では事情は異なり、最初に都市が造営され、カナートが掘削され、その結果農村が周辺に出来た。

アルダシールの都市建設は、軍事都市であったと推測される。

またイランでは農民叛乱が殆ど起きていないことも特徴の一つ。

王の名をとった荘園が発達した。例えば フリヤバタカン、ミスラダータカン、アルハバヌカンなど(ボイス129)

平面プランがわからない都市がおおい。スーサやクテシフォン、セレウキアやヘカトンピュロスなど、遺構はあるが、平面 プランはみたこと がない。
また、総督など、官僚はどこで勤務したのか。内城をもつ構造だったのか、それとも郊外に館を構える領主だったのか。 シューシュについてはシタデル(内城) があったようにも(タバリーの記述から)推測できるが。

農村の政治的代表者は6世紀以降は、デフガーン。ワインを製造していた。

遊牧民

子供の世界

社会の中の女性
離婚は難しくなかった 高位の夫人は裁判を起こした
一夫多妻 ,.一妻多夫婚もあった。

男と食事をせず、話も出来ない。

男と女

知識人の世界
 知識人は、貴族と、書記階級と村長階級が中心だったようである。サーサーン朝の時代は、階級が非常に明確だが、説は 色々ある。
1.Skand-gumanig-wazarでは、戦士・祭祀・農民・工人となっている。
2.デーンカルトだと、戦士・祭祀・書記・工人 となっている。
3.シャープール1世時代のヘールバッドであるタンサールが、タバリスターンの王に出したとされる「タンサールの手紙」で は、「僧侶・軍事・書記・工人」 となっている。 

 この書記階層は、政府行政伝達官、会計官、契約書、登記、判決の記録官、史官、科学者、 詩人、占星術師に分類されて いる。書記階層は、文書を必要とする様々な職業の供給階層であり、政府のdivan(官庁)の役人だった。知識人階層 は、貴族、祭祀及び、書記階層と、 (後期には)村長階層(デフカーン)が担っていたといえる。また、ササン朝時代の国家書記の要件として、灌漑、運河の管 理、天体、幾何などが必要だった (イブンクタイバ、「ギリシャ思想とアラビア文化」P126より)。

 とはいえ、玄奘三蔵の「大唐西域記」の波斯国の記述に、「学芸は無い」とはっきり書かれてしまっていた。玄奘が旅をし たのは、末期とはいえ、 アラブによる征服前のことである。ところで、ホスロー1世は学芸を保護したことで有名である。ギリシャから亡命した哲学 者を招いたり、インドから書籍を翻 訳させたりしている。にも関わらず、このように記載されてしまっているのは、結局知識とはゼンドとアヴェスターという宗 教関係の知識にとどまっていた、ま たは、一部の階層だけの独占物だった、と いえなくも無い。年代記などは、民間で書かれることはなく、政府の書記が、日常業務を記録したものを、1ヶ月単位に編纂 し、年代記にまとめていたが、読む のは王など、一部の限られたメンバーだけだったようである。デフカーン層は、後期に社会階層として、発展したが、新に知 識人階層として発展したのは、 9~10世紀となるようである。ところで、「ギリシャ思想とアラビア思想‐初期アッバース朝の翻訳運動」という書籍によ ると、古代イランの知識についての 伝統的な考え方と は、以下のものだとのことである。

 もともと世の中の全 ての知識はゾロア スター教から流れ出していて、それ はアケメネス朝の時代、アケメネス朝に集約されていた。ところが、アレクサンドロスの征服により、英知が、さながら バベルの塔のように崩壊し、全世界に流 れ出してしまった。だから、再び世の中の書籍を集めて、ゼンドとアヴェスターに集約しなくてはならない。ホスロー1 世の文化事業は、このような理論的背景 から行われた。

ということになるらしい。

(1)セ レウコス紀年(前312年起年)

シリア周辺及び、ネストリウス派キリスト教会で利用されていた。西暦500年は812年として現役でエデッサでは利用されて いた。中央アジアのネストリウス派では14世紀頃まで利用された模様。 マケドニア暦を引き継ぎ9月1日を正月とした(9月1日正朔はビザンティン暦に引き継がれた)。

(2)アルサケス暦

アルサケス朝時代には 前248年を起年とする年号が 使われていた(スーサ出土碑文などに記載されている)。
6月が年初。パルティア時代に、ゾロアスター生誕が前569年に置かれた(出典メアリー・ボイス『ゾロアスター教2500 年』)

(3)ペルシア暦

■古ペルシア暦(Old Persian)
 アケメネス朝で利用された暦。太陰太陽暦。秋分正月だが、年々ずれていった。月名が不明な箇所も多い。

     古ペルシア暦        バビロニア暦
第一月 アドゥカナイシャ     ニーサヌ
第二月 スーラワーハラ     アッヤール
第三月 サーイグラチ      シーマヌ
第四月 ガルマパダ       ドゥウーズ
第五月               アーブ
第六月               ウルール
第七月 バーガヤーディシュ  タシェリートゥ              
第八月               アラフサムナ
第九月 アーシヤーディヤ    キスリーム
第十月 アナーマカ        テベートゥ
第十一月 ワルカザナ月    シャバー トゥ            
第十二月 ウィヤクナ      アッダール
(出典)佐藤進『ダ レイオス1世のビストゥン碑文(試訳)立正 大学人文科学研究所年報 (32), p16-29, 1994
ワルカザナ月はp25に登場している。

■ヤング・アヴェスター暦(young Persian)
 サーサーン朝で用いられた。 1年365日。春分正月。アケメネス朝のエジプト征服により、エジプトの太陽暦の影響を 受けたとのこと。

第一月 ファルヴァルディーン
第二月 オルディーベヘシュト
第三月 ホルダード
第四月 ティール
第五月 モルダード         
第六月 シャフリーヴァル           
第七月 メフル          
第八月 アーバーン         
第九月 アーザル
第十月 デイ
第十一月 バフマン                      
第十二月 エスファンド
(出典 『イランを知るための65章』明石書店、2004年)p330-331
これらの月名は現在のイラン暦と同じ。

バーバクは205年或いは208年にパールス地方を統合し更には暦を定め様としたようであるが、このバーバク暦というべきも のは定着しはしなかった。引き 続き年号のカウントには王の在位年か、紀元前312年を起年とするセレウコス暦が用いられたとのこと。アルダシールとペーローズの時代暦改革があった。イ スラーム征服後、中世イラン地域では、632年を起点とするヤズドギルド紀年が使われた。

タバリーの歴史のシールーヤの章では、以下の月名が登 場している。

アダーの月(2月)
アードゥハルの月(アーザル月のことか?)


(4)サーサーン朝領域内で用いられていたその他の暦

アゼス紀元(5年)、カニシカ紀元(144年?)、シャカ紀元78年、バクトリア紀元(233年、クシャノ=ササン紀元)