原題は「Денят на владетелите」(1986年ブルガリア製作)、IMDbには、原音ローマ字表示で「Denyat na vladetelite」で
登録されています。意味は「支配者達の日」という意味なのですが、第一次ブルガリア王国のクルム汗(在803-814年)の即位
後の後半生を描いた作品と
して、これ以上のものは今後も出ないのでは無いか、まさに「クルム汗」という題名が相応しいように思え、勝手に邦題をつけさせて
いただきました。dvd
も、ブルガリア語のサイトで、ブルガリア通貨建てものものしか見ないので、英語版dvdは恐らく存在していないのでしょう(ブル
ガリアのサイトからは正直
怖くて買えません)。この作品は、まさに完全映画化という言葉が当てはまる(そうは行っても納得しない人もいるかも知れません
が)素晴らしい内容です。英
語版が出せないのであれば、ネット上からは絶対削除して欲しくない作品です。クルム汗も、息子のオムルタグ汗も、イメージ通りの
配役です。セットもカメラ
ワークも申し分無く、首都のプリスカの王城を同じセットで撮影した筈の「ボリス一世」(1984年)と、どうしてここまで映像が
異なるのか不思議です。監
督の方針・スキルといえばそれまでなのですが、たった2年でここまで異なる作品に仕上がるものなのだろうか、と驚きです。英語版
dvdが出れば、50$以
内であれば絶対購入します。811年のビザンツ軍によるプリスカ占領の様子と、7月26日の、皇帝ニケフォロスをし止めたヴェレ
ガヴァ峠でのビザンツ軍殲
滅戦を、ここまで描ききるとは予想以上でした。5分程度の戦闘イメージカットのつなぎ合わせで終わるかも、と予想していたら、ま
さに完全映像化と言い得る 内容に驚愕しました(下記はビザンツ皇帝ニケロフォスの頭蓋骨の酒杯で酒を飲むオムルタグ)。 本作は、クルム汗即位後の、王宮内部の人間関係や生活ぶりを描いた第一部「полетът на стрелата(飛び交う矢)」と第二部「полетът на копието(飛び交う槍)」からなっており、全140分、オムルタグ汗がビザンツからの使者を迎えて、父親であるクリム汗がビザンツ皇帝ニケフォロス を破り、皇帝の頭蓋骨を盃にした酒杯で酒を飲み、父親時代の話を回想する形式となっています。ブルガリア人にとってのクルム汗の 位置づけの大きさは、ブル ガリアの学校で90年代に利用されていた歴史地図帳掲載の、下記クルム汗時代の欧州地図が参考になるかと思います。 これは、「Атлас по история на България за 8 клас Ферма КАРТОГРАФИЯ СОФИЯ (ブルガリアの歴史アトラス。8学年(中学)用 地図帳出版社 1992年ソフィア発行)」のp13からの引用です。クルムはカール大帝と同年の814年 に亡くなっていますから、カール時代のフランク帝国とブルガリアの版図が、どのようにブルガリア人に意識されているのかがわかる 地図かと思います。よく歴 史の本で、「カール大帝がアヴァールを滅ぼした」という記述が出てきますが、ブルガリアで歴史に少し詳しい人にこんなことを言う と、アヴァールは、フラン ク帝国とブルガリアに挟撃されて滅ぼされたのだ、と訂正されます。 この時代のドナウの北のブルガリア領土に関する邦訳資料はあまりなく、ブルガリアで出版されている歴史地図と、ハンガリーで出版 されている歴史地図とは大 きく異なります(ハンガリー側は、相当詳細な(ローマ時代の各都市が掲載イされている程の)歴史地図でさえブルガリアに支配され ていた間の地図は無い)原 著が1929年に出版された、ハンガリー民族主義の強い書籍「トランシルヴァニア−その歴史と文化」 (恒文社)や、原著が1970年出版の「ルーマニア史」(恒文社)(ネット検索で一時的な蔵書検索結果以外の紹介が出ない)に若 干記載があります。それに よると、「ジャル」というトルコ起源の名称を持つ総督がおり、ジュパン、ボイエールといったブルガール系言語(トルコ系)の大貴 族を意味するスラヴ族の地 方支配者達がおり、実際の支配はマロシュ川(トランシルヴァニアの東を南北に流れる)とアラニョシュ川(トランシルヴァニアの南 を東西に流れる)の中間、 サモシュ川の左岸(トランシルヴァニアの北部を北上する)に限られ、この地域には金と塩の産地があり、古代ローマ道を使ってドナ ウに運ばれていたこと、ブ ルガール人の植民は行われず、軍隊の駐屯地も無かったこと、オムルタグ汗の時代にドニエストルとティサ川への遠征が行われ、遠征 を刻んだギシリア語碑文が 出土していること、碑文に「ドナウの彼方のブルガリア」という表現があること、9世紀にはキリスト教が広まっていたことが墓地な どの考古学史料により知ら れていること、という記載があり、若干ブルガリア支配時代の状況がうかがえます。 本作については、いつものだらだらあらすじではなく(筋はほぼ歴史に忠実だから)、画面ショットを中心解説したいと思います(以 下、「More」をクリックしてください)。 最初の2枚の画像はクルム汗。イメージ通りな配役(まあ、私にとってだけど)。本作では「ユビキ・クルム」または「ユビキ」と呼 ばれていました。ユビキは юбики又は юубики、或いはювики юувикиだと思うのですが、ネット上のブルガリア辞書はおろか、ブルガリアで購入してきた500ページあるブルガリア国語辞典にも掲載がありませんで したので、スペルが違っているのかも知れません*1。オムルタグ汗が、「我々のタングラ*2の一人であるユビキ・クルム」という ような内容の言葉を口にし ていたので、ひょっとしたら「陛下」みたいな尊称なのかも知れません。 *1 古代ブルガル語で、キリスト教改宗前のブルガリア君主の称号 は、カナス・ユビキ(大汗)といい、ボリス以降ベリキ・クニャージ(大王)となったとのこと。カナスはギリシア語でΚΑΝΑΣ、 キリル文字でКНЗЗЪと いい、語源はカーン(汗)。ユビギはギリシア語でΑΡΧΟΗ ΥΒΗΓΗと表現されている史料があり、ギリシア語のアルコン(執政官)とのこと。カナス・ユビキは、ギリシア語でΚΑΝΑΣΥΒΗΓΥ、キリル文字で канасубигиと書いたとのこと(出典)。正しいかどうかは不明だが、Кан сюбигиと、カナスの「ス」をユビギの前につける書き方もネット上に見られる。 *2 キリスト教改宗前の、トルコ系モンゴル系民族が中央アジア・北アジアで信仰していたテングリ崇拝に含まれる神の一つ。他の 改宗前のブルガリア歴史映画にも登場する) これは今も遺跡の残るプリスカ王城の内城城壁(遺 跡訪問記と遺跡写真はこちら)。 その内城内の宮殿。バルコニーの部分は木造です。人気がありませんが、これは、ビザンツ軍占領により皆殺しにされたから。これ らの石造建築の建設場面がありましたので、クルムの時代に石造建築が作られたのかも知れません。 プリスカに入場するビザンツ軍。内城の建築物の様子も概ねわかります。 内城の一部は、このように朱塗りになっていました。これも珍しい復元映像。 皇帝および幹部達。黒人が混ざっているのが目を引きます。 プリスカ占領で一番印象に残っている場面。実はこの場面では泣きました。幼子達が全員中庭に集められ、以下のような、棘のついた 柱に踏み潰されて虐殺され る場面が出てきます。それを止めようと、キリスト教の十字架を持ち、キリスト教の黒装束を着た母親たちが走り出してくる場面で す。これを書いている今でさ え、涙が出てきてしまいました。 この時代、ブルガリアではキリスト教徒は認められておらず(敵国ビザンツの懐柔政策に乗ったと思われた)、農民漁民など一般人な らともかく、王宮で暮らす 人々のキリスト教信仰は罰せられた筈(第一部にキリスト教徒弾圧場面が出てくる)で、そういう背景があるにも関わらず、子供たち を救おうと必死な母親たち の姿に泣けました。 下記は、母親達の先頭に立ち、皇帝に駆け寄る王太子オムルタグの妃。 皇帝と話すことさえかなわず、周囲の兵士に取り押さえられ強姦されそうになるのを、下半半身不随で動けないオムルタグの愛人が、 犯される直前に窓から矢を 射かけ、王妃の命を奪い、直後に愛人もまたビザンツ兵に打たれて死ぬ場面もじんときました。筋を書き出すとだらだら続いてしまう ので省きたいのですが、愛 人と正妻の間だから、色々あったわけですわ。それでも正妻とその息子は半身不随の愛人の面倒を見てきた経緯でのこの最期。泣かず にはいられません。こうい う映画を子供の頃から見せられていれば、中国の抗日映画と同じでギリシア嫌いになってしまうのも無理からぬことですね。。。(ブ ルガリア、ギリシア、トル コはお互いに仲が悪い。更にブルガリアはセルビアとも中が良くない。つまり、周辺の大国とは全部中が悪い)。 続いて、王城の中庭に、兵士たちに盾でお立ち台を作らせ、その上で演説するニケフォロス皇帝。実際にこういう内容が史書に書か れているのかどうかはともかく、こういう細かいところにも芸の多い作品でした。 これは、軍服を脱いだOFFの時のビザンツ高官。5世紀頃のローマ帝国末期の装束とあまり変わらない感じ。 高官たちの軍装の一例。これもローマ帝国時代とあまり変わらない感じ。 驚いたのが、この皇帝の移動用六頭立ての牛車。梯子を使って乗り降りし、浴槽までついている巨大で豪華なもの。ビザンツ皇帝な らば、こういうものもあったのかも知れません(ちなみに皇帝は、「ツァーリ」はなく、「ツェーザル」と発音されていました)。 811年7月26日に決戦が行われるのですが、その前夜のそれぞれの陣営の様子も描かれています。ビザンツ高官達は、「明日は7 月26日、祝日だ」(祝日 になるだろう、ではなく、現在形だったので、何かの祝日のようでしたが、面倒なので聞きなおしませんでした)、と話しており、同 じ頃、クルムは、一人、火 を炊いてタングラに祈り、「全ては明日の準備(にかかっている)」といい、儀式の後、燃え尽きた灰の上に作戦図を書いて打ち合わ せしていました。その作戦 とは、アヴァール騎兵を加えた(ちゃんとアヴァールに援軍を要請する場面も出てくる。台詞だけだけど)騎兵が下写真の右戦場でビ ザンツ騎兵と戦い、歩兵は 左煙の出ている箇所の谷あいの隘路に、木槌と土で防塁を作って道を塞ぎ、ビザンツ歩兵を包囲するというもの。下写真右に、山の上 から戦場を見渡すクルムの 後頭部が見えています。真ん中のテントがビザンツ皇帝の陣営。 山の上から戦況を見つめるクルムと護衛兵。 谷の隘路でビザンツ歩兵を討つ弓兵部隊。 その後ビザンツ歩兵が防塁を越えてきて乱戦に。 これも驚いたのですが、「ビザンツの火」のような火炎放射器が登場していました。それもブルガリア側の兵器として。これで谷を 塞ぐ防塁ごとビザンツ歩兵を焼き払った煙が、上の戦場全体写真の左上の噴煙です。 テントに攻め込まれた皇帝が死を覚悟して、マントで顔を隠す場面。次のショットでマント毎斬首されていました。こういう仕草一 つも、史書にあるのかどうかはともかく、芸が細かいと思わせられます。 戦勝に勝利した後、多くの高位の家臣を失い、その遺体を荼毘に付す場面。ここも良かった。多くの映画では、戦争場面が終わると、 そのまま映画も終わってし まうことが多いのですが、本作は、7月26日の会戦以後も、10分程、冗長とならない程度にその後が扱われているのも、非常に良 くできた構成に思えます。 下記は、峠の会戦後、海岸の都市(恐らくメッセンブリア(遺跡はこちら)か、ソゾポール)を攻めている時。どういう経緯かはわからなかった のですが、恐らく話し合いということで、武装解除して城壁に向かうクルムと側近たちが海辺に映っています。 そして城壁に近づいた彼らに射かけ、クルム以外の高官が死んでしまうという、どこまでも汚いビザンツ人。。。。。(クルムも負傷 していて、たとえ矢傷が致 命傷とはならなくても、毒矢だったんじゃないかなぁ。。と思ってしまうのでした。何故ならクルムは翌年死亡してしまうから)。 戦争の場 面の説明が先になってしまいましたが、第一部での日々の様子、例えば、ナイフとフォークが無く、そのまま短剣で刺して肉を食べる 様子や、宮殿内で斧で喧嘩 を始めた臣下をクルムが裁く様子(片方は首に矢を串刺しにする刑)や、猪狩りの様子、国王だけ湯船があるとか、王子(オムルタ グ)の妻子がピクニックに行 く場面とか、槍投げの練習、子供のおもちゃなど、王城に暮らす人々の生活が多く描かれ、戦争の後半とうまくバランスが取れていた 感じです。クルムの権力の 安泰なわけではなく、クーデターが起こり、(これも色々あって)幽閉されていたオムルタグが脱出して父の救援に来るなど、様々な 事件が丹念に描かれていま した。 なお、冒頭でお伝えしましたように、本作は、ビザンツ使節を迎え、王城の中庭でチェスをしながら、オムルタグが使節に回想を語 る、という体裁で、冒頭に使節が内城に入場する場面から始まり、ラスト、使節が出て行く場面で終わるのですが、この使節もどうや らただの使節ではなく、ど うやらどこかで裏切った、元はブルガリア人のようなのでした。ブルガリア語は殆どわからないのでこのあたりの経緯はわからなかっ たので、是非せめて英語版 ば出て欲しいものです。ブルガリア人だけ(とはいえスラブ語圏の人は、半分くらいはそのまま見て理解できる筈だけど)にしておく のはもったいない、完成度 の高い歴史映画だと思います。 |