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紹介
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8世紀、?
海周辺で は、詔という王の称号を持つ六つの王国に分裂していたが、738年 南
詔の皮 羅閣(ビロコ)
(在728-748年)が統一し、唐により冊封された。その後、雲南全域に勢力を広めた。玄宗時代末、唐王朝の侵攻軍を撃退して繁栄し
た。碑文は閣羅鳳(在748-779年)に建設され、王が自らの功績を記載したもの。902年、漢人に取って代わられ滅亡した。 上扉写真は、?海。大理古城北1km程のところにある、三塔寺前から、東側に向かって撮影したところ。 対岸の山の下に、わずかに湖面が見 えている。 碑文は高さ3mで、当初は5千字が記載されていたとのことだが、現在では、風化のため、776文字が読めるに過ぎない とのこと。 左写真が、碑文が収められている建築物。右写真が碑文を横から見たところ。下写真が碑文。微かに文字が判別できる。 一応博物館となっているようで入場料8元(2007年10月)。 |
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南詔滅亡後、しばらく漢人の支配が続いたが、 937年
白族(ペー族)の 段思平(在937年 -
944年)が大理国を建て、1253年、フビライに滅ぼされるまで300年余繁栄した。 こ ちらのHPに、 非常に詳しい南詔の歴史地図や城址の情報、系図などが記載されています。 |
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左写真は、崇聖寺三塔の正面入り口。もっとも高い真ん中
の塔は、千尋
塔といい、南詔10代目の王豊祐(830〜40頃)時代の建設と考えられている。西安の小雁等に似た外観は、唐代塔建設の特
徴であったと考えられる。方形 の平面をなし、16層で69.13mあるとのこと。 残りの2塔は、大理時代の建設で、双方10層で42.19m。五代時代に建設されたと考えられている。写真では、少し距離 があるのでわかりにくいが、木 造寺院を模した概観となっており、唐代の塔とは異なる、宋代の塔の特徴を備えている。 右写真は、建築中の観光客レセプションセンターの手前から撮影したところ。背後の山は4000m級の蒼山。西に蒼山、東 に?海という絶好のロケーション にある。 南詔についての詳しい情報はこ ちらのサイトにあります。 |
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旅行情報、近隣の史跡・遺跡 | 旅行記 |
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この
付近は、現在
太和村となっていて、城壁遺跡も残っているとのことで、少し探し回ってみたが、場所がわからなかった。他にも、現地で入手し
た地図によると、大理古城の 1,2キロの地点に、羊苴棟驤竡モニいう、大理時代の城壁遺跡が記載されている。 大理は、昆明から371km西にある。日本から直行便はなく、昆明で乗り換えるか、昆明からバスを利用する。高速道路が整 備されているので、昆明から 4〜5時間で着く。更に、大理は、新市街と旧市街の間が14mあり、4番の市内バスで移動する。約30分。崇聖寺は、大理古 城の北1km程の地点で、歩い ていける。大理古城は、1km四方を城壁 に囲まれた小さい町。南詔徳化碑 は大理古城と大理新市街(下関 ともいう)の中間にあり、太和村の中にある。街道沿いの西側にあり、通りに唐代宮殿を模した門があるので比較的わかりやす い。太和村バス停で下車後、 200m程北へ行く。バスの車掌に伝えておけば、正面で下ろしてくれる。 BACK |