泉州
明代来遠駅跡 |
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李贄(李卓吾)の生家 |
南薫門跡(1352年創建) |
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泉州新車站から温陵南路を南に向かい、泉州大橋の手前で西側に入り、聚宝街を探している途中で見つかった。聚宝街が川を横切っているところで、東側へ折れて青龍巷へ向かって、川の北側に10mくらいのところに左写真の石碑がある。外交使節の接待所だったとのこと。探し歩いていて偶然見つけた。別のいき方としては、泉州新車站から義全路を西に向かい、天后路を南に折れて、まずは観光地である天后宮に出て、聚宝街を南下する方法がわかりやすいかも知れない。だが、わざわざ探して行く程の場所ではないかも知れない。
一番右写真は1352(元・至正十二)年、泉州城を拡大した際に、臨 漳門と徳済門の間に建てた南薫門(水門)の跡。碑文だけで他に何も無い。 |
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南薫門は、天后宮を、中山南路を500m程北上した、提挙市舶司跡の近くにある。水門巷口というバス停のあたりを水文巷という小さな通りに向かって左折し、最初の十字路(竹街)を右折すると、10m程の商店街の右手に見るかる。提挙市舶司跡を探していて偶然見つけたものなので、これを目指して探してもなかなか見つからないかも知れないし、わざわざ見に行く程のものではないかも知れない。 李贄(李卓吾)の生家 1527年生まれの李贄はここで生まれたらしい。李贄はその後、官吏として各地に赴くが、1560年頃、父が泉州で死去しており、恐らく父はこの家に住んでいたと思われる。さらに、6 代前の祖先は、現イランのバンダル・アッバース(当時のホルムズ)との貿易に従事するイスラム教徒だったことから、代々この家のあたりを拠点にしていた一族だったのだろう(李贄もイスラム教徒)。泉州城南門である徳済門の西南部、聚宝街に入った30m程のところにある。特に看板などがあるわけではないので少しわかりにくいが、通りの商店と同じように普通に並んでいる。写真にも見えている李贄の銅像が目印といえば目印。清末に改修されているので、明代建築とは言いがたくなっている。 提挙市舶司跡 北宋1087年に泉州に市舶司がおかれた。市舶司は海外貿易担当の役人で、海外からの使節の受け入れも行っていた。明代には一度廃止されたが、1370年に復設され、1405年に附属の駅(来遠駅)が設 置されたとのこと。泉州の港湾機能低下に伴い、明1470年ごろに福州に移設された。現在市舶司跡には碑文が立っていおり(右下写真)、碑文は道教寺院の横に立っている(当時の市舶司跡道教寺院が建てられたと思われる(写真下右から2番目)。下写真の中央左写真は、その道教寺院の内部。 天后宮を、中山南路を500m程北上した、水門巷口というバス停のあたりを水文巷という小さな通りに向かって左折し、最初の(5m先)十字路(竹街)を右折し、小川を渡るまで、100mから200mくらい歩く(距離についての記憶がアイマイ)。小川をわたって、小川沿いの道を右折し、50mくらい入ったつきあたりに碑文がある。高校の教科書にも出てくる有名な場所なので、それなりにロマンを感じていたが、残っているのは碑文だけ。少しがっかり。 |
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提挙市舶司近辺の水路 |
道教寺院の内部 |
道教寺院(碑文が右下に見えている) |
提挙市舶司跡碑文 |
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泉州城南門である徳済門遺跡(宋元代) |
徳済門の創建は1352(南宋・慶元二)年 |
泉州城南門である徳済門(宋元代) |
市舶司近辺水路(奥に碑文がある) |
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天后宮(1196年創建)。ただし現存建築は清末 |
手前は徳済門、背景は天后宮 |
天后宮内部 |
竹街にある古井戸(この付近に宋代からの井戸があるとのことなので、それかもしれない) |
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天后宮内部。媽祖が祭られている。 |
文廟(文庙)(泉州府学) |
1009年創建の清浄寺(イスラム寺院) |
清浄寺。1310年改修された。 |
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1196年の創建だが、1407年大改修が行われ、1540年に正殿五間を修築し、寝殿七間、凉亭四座、両厢三十間を再建。1684年にも大改修と拡張を行う。道光年間、1990年にも大規模改修を行った。 |
唐開元年間に創建され、南宋紹興7(1137)年再建。宋太平興国年間に現地に移築された。現存建築は清代のもの以後学府として利用意された。奥の建築は大成殿。李贄や鄭成功もここで万だらしい。 |
新門街と温陵北路の交差点の西200m付近にある。大通りに面しているので直ぐわかる。 |
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朝天門(羅城北門)五代に創建 |
泉山門(子城北門) 唐末 |
文廟(文庙)紹介 |
宋代の書院分布。急速に知識化が進んだ。 |
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右写真のように、宋代には書院が急速に各地に作られた。同時に地方の学府も多数建設された。著名なものに、晋江県学、安溪文庙(安溪県学)、永春文庙(永春県学)、惠安文庙(惠安県学)、南安文庙(南安県学)、北宋建学などがある。晋江県学は南宋·紹興(1131—1162年)年間に建学された。北宋代には、徳化県学が創始され、1572年北西部に移築された。今は遺跡が残るとのこと。 |
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泉州城門紹介 |
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唐代、最初に武荣州が作られ、州治は現在の南安市の豊州鎮にあった。豊州は内地にあり、交通不便で狭かった為、経済発展には不利で、唐代久視元年(700年)と景云二年(711年),州治が移り、それが今の泉州城区となる。唐より清まで,5座の城垣があった。故城、子城(唐代)、衙城、羅城(宋代)、新羅城である。盛唐时,泉州城(通常“故城”と言われる)は4つの城門を有し、それぞれ東門、西門、南門、東南門があった。唐末、“開閩三王”のうちの王潮、王审知が泉州を打倒し、防衛を強化し、子城と呼ばれる小城を作った。門は4問あり、東は行春門、西は肃清門、南は崇陽門、北は泉山門と言った。 南唐保大年間に至り、清源軍節度使は7門を作った。西門(義成門)、南門(鎮南門)、北門(朝天門)、南門(通淮門)、西南に2門(通津門と新門)。 元朝至正12年,泉州路達鲁花赤(元朝の地方官)玉立が城を拡張し、新羅城といい7門あった。通津門は水門巷に移し 、南門は天后路に移し、それを德済門と呼んだ。元朝以前は涂門街以南は沼沢地で、色目人(西洋人)、外族人が居住していた。当時彼らは城内に住むことは禁じられていた。しかし元朝は城の拡張時彼らを城内に入れた。明代になって7門と取り除き、小東門と言われる門を追加した。 1352年創建の德済門は泉州を出る要道で、泉州天后宫を出て德済門外の聚宝街、万寿路、富美碼頭(碼頭は波止場の意味)は泉州の宋元時代の貨物の集散地だった。清代道光年間の「晋江県志」によると、泉州城墙は唐代に建設され、南宋紹定三年(1230年),郡守游九が泉州翼城を建設し、西南の臨漳門から浯浦沿江まで石城とした。明、清代,城屡は修復されたが、近代になって德済門は壊された。德済門は2001年以降に遺跡公園として整備され、泉山門は2003年に唐五代の方式に則り楼閣が再建された。 朝天門は西湖公園の手前、天后宮から泉州繁華街のひとつである北街中山路を北上し、突き当たりにある。泉山門は朝天門の南1㎞程の、中山公園の北側にある。朝天門、泉山門、德済門は、中山路沿いに、同一の軸上にあることがわかる。なお、臨漳門も、再建され遺構が残っているらしい。 |
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唐子城の城門遺構(肃清門(子城西門) |
開元寺近所の西街。古風を留めている。 |
開元寺境内図左と右下が塔 |
865年創建の東塔(仁寿塔)。当初は木、宋代に煉瓦塔となった。 |
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泉山門を200m南下すると、西街路があり、これを西に曲がる。500mくらいいくと、この遺構があり、そこから右写真の開元寺が見える |
開元寺は668年の創建。当初は蓮華寺と言ったが、738年に開元寺に改められた。南北630m東西500m。2009年夏当時、20元。 |
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800年樹 |
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916年創建の西塔(鎮国塔)。当初は木、宋代に煉瓦塔となった。 |
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境内には1200年を超える樹があるとされる。写真の樹は800年樹。年号のプレートがそれぞれの樹についている。300-500年のものが多い。これらは100年ごとにプレートを付け替えているのだろうか? |
開元寺内には泉州湾古船陳列館があり、宋代の発掘船が展示されている。 右石塔は、1604年はマグニチュード8、震度10、1607年、1609年はマグニチュード6級の地震でも崩壊しなかったとのこと。 |
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泉州福建省海外交通史博物館 |
博物館裏にあったムスリムの墓 |
宋元代の泉州。青はイスラム寺院 |
博物館内のイスラム展示コーナー |
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海のシルクロードの展示や、併設の泉州伊斯蘭文化陳列館(9-11、15-17時)にはムスリムの墓碑と墓石が展示されている。ムスリム展示コーナーは、デザインが秀逸(右端写真はその入り口)。入り口部分にイブン・バトゥータの像がある。 東湖公園の東側、東湖街沿いの南側にある。 |
唐代の泉州には、742年に 23806人、758年に33800人、820年には35571人、宋代になると1103-1106年間に20万1406人、1241-52年間には25万5758人が居住していたようである。 |
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近隣の史跡 |
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