中国華南・江南の開発状況
中国をあちこち旅行して歩き、実感としてわかったことの一つに華南・江南の開発状況の歴史があります(江南は現江蘇省南部から浙江省、江西省北部)。中国古代民族の動向
や、地理を把握することで、大分輪郭がつかめるようになってきました。ヨーロッパ程とは言えないと思いますが、それなりに多様な地域の集まりだと思えるよ
うになりました。
ところで、そうは言ってもなかなかイメージがつかなかったのが、南部開発状況です。概説書を読むと、多くの時代につい
て、「江南地方の開発が進んだ」「華南の開発が益々進んだ」などとの記載があり、これだと、2000年近く延々と開発が進んだように思えてしまいますが、
となると、はるかに北方を凌駕するものになっていなくてはならず、どうにもイメージがつかなかったのですが、最近少しイメージができるようになりました。
「周秦汉魏吴地社会发展研究(臧知非,沈华,高婷婷著・群言出版社」では(amazonなど書籍サイトではヒットせず、こちらの目録ぺージなどに載っている程度)、「呉地」と称して、江南・江東(江蘇・安徽・浙江省)地方の発展についての分析を行っていて、前漢・後漢での差について、下記のように分析しています。
1) 人口
広陵・九江・丹陽・会稽・呉・豫章・下邳・蘆江郡の人口を比較(本書では、前後漢で若干の領域変動も発生しているので、県レベルでほぼ同じ領域になるよう
に調整している。後漢の郡に合わせて、前漢の範囲外の県人口をマイナスして同じ領域の人口となるように計算している)。
九江郡で50%減、丹陽郡で50%増、蘆江郡で2/3に、呉郡で33%増、広陵郡で殆ど増減なし、とここまでは、地域の増減がほぼ均衡しているのですが、豫章(現ほぼ江西省北部に相当)は、約5倍と、前漢の35万人に対して、後漢では131万人への増加となっている。
2)教育・文化の浸透
中央官庁・地方官庁(中央派遣)の当該地域出身役人数を比較
前漢では、11名であり、最高でも郡太守であるのに対して、後漢では、56名、司隷校尉、刺史、大司農、尚書など中央官庁でのトップクラスの役人を出している。
こちらの中国人口通史の
下巻の巻末に、各時代の人口密度地図が掲載されています。それによると、江南(准河以南の安徽省・江蘇省と、浙江省の北部)の人口密度は、前後漢通じて
10名/平方キロ以上50名以下となっていますが、前漢で人口密度が一人以下だった江西省北部と湖南省東部までも、後漢では10名以上50名以下となって
いて、華南の当該地方の開発が進んだことを示しています。
つまり、後漢の時代は、江南から華南へと開発が広がり、江南社会もより成熟した時代だと言えそうです。
以下は、Wikiの中国語の秦、漢王朝の記事に掲載されている地図ですが、領域全土を塗りつぶしてある地図に対して、実際に王朝が把握し、居住していた領域を描いていて、塗りつぶし地図と比べると、実態を描いているように思えます。
これに対して六朝時代は、全体的に戸籍人口が減少している為、江南と江陵(湖北省西部・現沙市あたり)が、10名以上50名以下の人口密度を維持した程度
となっていて、人口的には発展は無かったように思えますが、別の書籍では、後漢時代に衰退した貨幣経済が、劉宋時代に復活した記載があり、六朝時代は、江
南・江陵という六朝時代の2大中心地の都市社会が発展したようです(このあたりは別途調査する予定です)。
また、後漢時代は、浙江省博物館で展示されていた楼閣を
持つような荘園を形成した大豪族は、現河南省、河北省に集中して見られた現象であり、それ以外の地方では、中小豪族形成過程だったようですが、三国呉に
なってから、江南地域にも大豪族が成立し(一部は北方からの移住豪族)、それが南朝時代の貴族に発展していったとされ、この意味で、経済・文化的に、中原
に追いついて来たのが呉・南朝時代だと言えそうです。
また人口密度では、広東西部・広西東部が、南朝時代に、5人以上10名以下/平方キロの地域が、後漢・呉時代よりも拡大したようです。
唐時代に入ると、江南地域の人口は50以上100名以下/平方キロに達し、江西北部・湖南北部は後漢代の水準に回復し、更に5人以上10名以下/平方キロ
の地域が浙江南部・福建、江西南部・湖南南部へと拡大してゆきます。先日入手してきたDVD「根在中原」の主人公、陳元光の蛮族討伐は、高宗時代の福建省
が舞台となっており、この時代はじめて福建省内陸部まで社会が拡大したようです。以前、欧米の中国歴史地図で、漢代の福建省が領土外となっていることが疑
問でしたが、福建省には、東治など、ごく少数の拠点が海岸方面にあっただけで、唐代まで内陸部は殆ど手付かずだったことが実感できるようになってきています。
宋代になると、江南地域の人口密度は100名以上/平方キロとなり、全国人口も「宋史・地理史」では1110年の北宋で9347万、1162年の南宋で
5810万となっていて、南宋単独で前後漢の人口に匹敵するようになっています。この時代になって初めて、南方開発はひとつの到達点に立ったように思えま
す。
というわけで、漠然としていた南部の開発に対して概ね統一したイメージを描けるようになってきました。
実際に、上記秦の地図を見ると、長江から現在の広州に南下している居住地の連なりは、湘江からは珠江へと連なっており、一度西に大きく迂回してから広州に続いている様子がよくわかります(湘江と珠江上流は霊渠という統一秦に開削された運河により結ばれた。霊渠は現存しており、観光地となっています。以下霊渠に掲載されている湘江と珠江との接続地図))。
また、福建省は殆ど外地であり、沿岸部分だけを、海岸沿いに掌握していた状況も明確に見て取れます。以下の地図は、重慶市の三峡博物館に展示されていた、長江の分水嶺を描いた地図です。日本の高校歴史地図帳などに描かれる戦国時代の楚国の南の国境が、長江の分水嶺とほぼ等しいことがわかります。つまり、中国人は、川を遡る方法と、海岸沿いに航行する方法の2つの方法で領域を開拓していったと言えるものと思います。また、歴史地図帳の戦国楚の領域は、長江の支流の分水嶺に沿って描かれていることが推測できます。
六朝時代の中心は、江南・広陵を中心とする地域で、その他ほとんどの地域は、山越・□□蛮と称する異民族の住む蛮地。広州・交趾は、交易上に必要な地域と
して226年に併合された、「外地」であり、領土的には西域に近い場所だった。つまり、漢代から引き続き、江南・広陵以外は、「回廊」地帯と孤島のような
蛮地の中の漢人の飛び地が実質的な領土だったと言えそう。
唐代に入り、アラブ貿易で広州は大発展し、それにつれて広東・広西も人口密度
が上昇し発展したが、発展した地域は、漢代からの中心地、広東西部と広西東部の、珠江から湘江沿いを中心とする従来からの発展地域で、広東東部は福建同
様、蛮地だった。わずかに、江西省から広東に入る、街道(梅関古道)沿いの宿場町(現珠玑巷)が栄えている程度だったが、唐代中期から、珠玑巷から珠江三角州地帯へ移
住する人が増加した。この為、従来広州の西部の珠江沿いだけが開けていたが、広州の東部地域の居住が進んだ。
宋代に入り、広東東部も漸
く居住が進んだ。広東東部の開発は、福建の開発と同じ範疇で行われたとみなしてよさそう。文化層の充実が、漢人支配地拡大のバロメータとして利用できる
(前回の記事でも、後漢代江南の発展の指標のひとつとして、出身官吏数の増加が利用されている)が、宋代に入り、福建省は、安い印刷本の出版の中心のひと
つなり、進士出身者の急増地ともなった。南宋に入り、金国領からの逃亡者や元代客家の移動などで、ますます広東省東部の人口が増加した。深圳は唐代まで
は、軍事基地と塩の採掘場の役人や労働者しかおかれていなかったが、移住家族の記録や墓地遺構が増加するのは、宋代に入ってからのこととなっている。
この頃になると、漸く福建・湖南などから蛮人が駆逐され、漢人主流の社会となっていったが、貴州や雲南省は、南詔・大理など外国の支配下となり、明清代も、土司制度による間接統治となった為、結局清代の改土帰流政策になってはじめて「内地」となった。
と
いうことのようです。南部各省を旅していると、多くの町に塔があるのですが、広東東部は、唐代にさかのぼる塔は見られず、宋代以降が起源となっているとこ
ろなどにも、どの時代からその地域が発展したのかが実感できるところがあります。歴史地図帳を見ていると、秦漢代から、長江以南は、中国領土として一色に塗り
つぶされていますが、秦漢代から唐代までの実態は、かなり違った様子がだいぶ実感できるようになりました。
中国史も、そろそろ日本でも地方史の時代になってきても良いのではないかと思います。中国南部開発史を丹念に追った一般向け書籍というものも、企画されても良いのではないでしょうか。