梅関古道

 

 

 

 

 

   梅関古道は、秦漢の時代に開通したと され、古代、中原と岭南の五 条本の交通要道のひとつだった。唐の開元四年(716年)、当時の南北経済文化交流の需要を満たす為、張九齢が新道を作 る計画を申請した。前後二年をかけて、開通した。距離30里におよび、道の両側には松梅が植えられた。現在に残る古道は 8㎞程、広東省から江西省へ跨って残っている。梅関古道入り口は、梅岭鎮から数キロ北にあり、古道入り口に左上写真のよ うな商店街があり、上中写真の左端に古道入り口の看板がある。この商店街はバスの停留所でもある。古道は上中写真の背景 の山を越えて江西へ抜けるルートとなっており、古道近くの山頂には、右上写真の亭が建っている。左写真が古道入り口。 20元。入り口に右写真の古道地図があり、峠までの2km程のルートが記載されている。

 

 

  最上段右写真の亭の近くから撮影した、 広東省方面(左)と、江西省方面(右)の写真。右写真には、大余市が見えている。下3写真は古道の様子。左下は、両側に 梅林がある古道。下写真は清代の橋。右下写真は宋代1063年に南安知軍蔡挺により建てられた関所。梅関と名づけられ た。この時代は広州からの塩が江西贛州に運ばれ、関税収入増大したとのこと。前214年,趙佗が秦軍を率いて梅岭から粤 (現広東)に侵攻、岭口に横浦関を設置した。関の北側に“南粤雄関”と書かれ、南側に

“岭南第一関”と書かれている(下右写真の赤い文字部 分)。下右写真は広東側から見た関。

 

 

 左上写真は江西方面から見た梅関。上中写真は、梅関 から、江西方面へ下る古道。右上写真や、左写真では、石で舗装されている様子がよくわかるが、かなり凹凸があり、馬車が 走るのは難しそうな路面具合。右写真は、状元樹という、状元(科挙をトップ合格した人の称号を状元という)を記念した長 寿樹とのこと。

 

 武帝時代、南越平定の為に派遣された楼船将軍楊杨仆が、楼船を率いてこの古道を を越えて大庾岭を南下した可能性がある。因みに五嶺とは、大庾嶺・騎田嶺・萌渚嶺・都龐嶺・越城嶺のこと。

 

 鑑真和上も通ったらしい。海南島に漂着した後、揚州に戻る途中にここ を通過したらしい。

 明正統十一年(1446),南雄知府鄭述征は民工を集め、鹅卵石や花崗片石を用いて岭道路面の九十余里を舗装した。道の傍 らに松、梅を植えた。明正德年間、広東の布政使吴廷举も、積極的に松を増やしたとされる。

 右は広東側の風景。

越人の梅絹が、梅关古道を最初に開いた人という話もあるらしい。その後、前 213年,秦が五岭を越える山道をひき、三つの関を建設,即ち横浦関、陽山関、湟鶏谷関である。その後、南北を通る三つ の道を開き、横浦関を就梅岭の頂上に開き、梅関は秦時代横浦関とも称された。

横浦関は頂上にあったが、その後壊された。

   

 広東省広州から高速バスで2時間で韶関につく。韶関 からバスで1時間半。南雄の街から30分程の梅岭鎮から数キロ北に位置している。

 近くには、宋代街並みの風情の残る珠玑古巷、宋代古塔の残る南雄などがある。西京古道というところも残っていて(西京とは、 後漢、隋唐代の長安の呼称)、韓愈が2度赴任時に通過した道とのこと。

 南雄の語源は、関に記載の文字、=南粤雄 関 が語源。

 

 梅 関古道(中国語)の紹介はこちら。

 湟 溪关(中国語)の紹介はこちら

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