12月27日
4時頃寝て、7時20分頃起床。7時55分バス停到着。
なかなかバスが来ない。25分待って8時22分にやっと来た。9時30分空港到着。バス5元。
9時40分頃に順調にチェックイン。空港の書店でナショナルジオグラフィック購入。
今月号は、漢代の遺跡、特に墓の特集。嬉しい内容。購入。20元。
9時50分搭乗。
と、ここまでは順調だったが、この後目的地の南寧の天候が不順で、ロビーに戻って13時半まで待機することに。
待合ロビーでは、同じ方面の貴州省の貴陽、広西省の梧州行きなども離陸延期となっていた。
航空会社の方で、間食を配ってくれた。ダイエットペプシ、水、クラッカー、豆のスープ缶。まぁ一応間は持つ感じ。
結局2時20分頃離陸し、15時半に南寧着。予定より3時間半遅れ。
南寧は、雨がパラついている程度だが、視界は悪い。空港バス15元。16時20分南寧市街着。
16時半、駅前のバス停から、武鳴行きバスターミナルである吉安站行きの41番バス乗車。2元。
前回の浙江旅行の時に気づいたのだが、よく見ると、市街地図の後ろに、各バスターミナルから、どこの方面行きバスが出ているかの情報が掲載されていることに気づいた。
南寧の地図の裏にも、武鳴行きバスターミナルの情報が出ていた。16時45分頃吉安站着。
17時頃武鳴行きバス乗車。10元。17時半武鳴着。小さい町だが、地図が売っていた。2元。
今日はもうここに宿泊するしか無いので、宿を探しながら町を散歩。
2,3キロで一周できてしまう規模。散歩しながら、14年前にイギリスを旅行した時の感覚や、ブルガリア在住時の香りを思い出す。
なんか、同じ中国国内なのに、「旅行に来た」という日常から離れた新鮮な感覚。
いいね。18時20分頃、通りがかった定食屋で食事。このときのデリバリのシステムが面白かった。
数字の順番に釘が出ていて、そこにレシートを留めるようになっている。レジで注文した順番が守れる仕組み。7元。
鴨足の焼肉。コストパフォーマンス良い。嬉しい。
店を出て続いて宿を探すが、繁華街なのになかなか見つからない。
ほぼ町を半周したところにあった武鳴賓館は170元と高い。ほぼ町を一周したところで一気に沢山見つかる。
そこは最初についたバスターミナルの手前50m程のところにある200mくらいのストリート(名前を調べてくるのを忘れた)。
この短い通りに10件もの賓館があった。通りから直ぐのところにある嘉和賓館にする。60元。
リニューアルしたばかりなのか、新し目の比較的しゃれたベッドカバー。
クローゼットや、衣服をかけるハンガーが無いのが唯一の欠点。それ以外は、エアコンもついていてお湯も出る。
コストパフォーマンスはかなり良かった。
しかし、その後散歩に出たところで見た、通りの一番奥にあった「都騰賓館」のしゃれたフロントには、「こっちにすればよかったか」と思わせるものがあった。
通りの突き当たりは武鳴河にかかる橋(風雨橋)があり、屋根つき橋となっていて、屋根の縁に蛍光灯があしらってあり、一応雰囲気を出していた。
橋を渡った先は、整備中の繁華街となっていたら、うらぶれたサテンやカラオケバーがあるだけで、殆どの店舗が空家となっている、しょぼくれた通りだった。
20時5分頃宿に戻る。昨夜は寝不足だったこともあり、21時40分寝る。
12月28日
寝ているうち、寒くなる。部屋が広いということもあり、エアコンがあまり効いていない。
ベッドはダブルベッドなので、布団を二つに畳んで2重にする。結構あったまる。
6時50分出発。いつもでがけは、寝ているフロントを起こすことになるので、不機嫌だったり、半分寝ぼけた対応をされることが多いのだが、ここは違った。
フロントの人は既に起きていて、「よく眠れましたか?」と感じよく聞かれた。
ひょっとしたら、商売をはじめたばかりの経営者なのかも知れない。
武鳴は、古代駱越族の中心地だったと推測されている地域で、多くの駱越ゆかりの土地や施設がある。
武鳴東江、羅波古城、駱越王閣、元龍坡墓、両江鎮独山、趙江(駱越王江)、古南巣泉(駱越王泉)、望兵山(駱越族の望台)などが、大明山の西南部に展開しているとのこと。
これら地域のどれか1つ、2つ見てみたいと当初予定していたのだが、いづれも武鳴市街から10㎞以上の地点にあることが判明。
昨日の遅れがなければ、羅波古城、駱越王閣くらいは見ておきたいと考えていたのだが、
大した史跡でも無く、遅れれ気味であること、都安へ向かうバスのルートが、羅波の近くを通過し、両江を通過するということで、
大明山南西山麓地帯も見れるということで、今回はバスで通過し、駱越人の故郷を見ることで良しとすることにする。
7時20分武鳴発。28元(保険1件)。9時10分両江通過。10時10分馬山通過。
大明山付近の山 大明山 両江
10時50分、都安着。河池から柳州のルートは、以前通過しているので、
当初予定では武鳴から来賓か宣州に抜けたいと考えていたのだが、来賓行きは1本しかなく、時間も遅い。
宣州行きは、チケット売り場の窓口には7時45分と記載があったのに、実際にはこの便は無かった。
都安からなら宣州行きがあるかと思っていたが、無かった。しかも河池行きも無い。どういうことだろうか。
金城江という場所行きのバスは、30分に1本くらい、大量に出ている。
金城江がどこだか不明だが、方角的に東北方面に向かうバスの経由地点と記載されていることもあり、11時20分の金城江行きに乗ることにする。
金城江がどこだかわからないので、少々ドキドキする。バスの社内時計が正確な時刻を指しているのに驚く。こんなことは珍しい。金城江まで38元。
都安のバスターミナルは、市街の南の新市街地区の端にあるようで、丁度バスターミナルの落成式をやっていた。すさまじい爆竹の嵐。
式の様子① 式の様子②
中国の都市部などで爆竹が禁止されている理由がやっとわかった。
あんな細かくわけた爆竹をパンパンと鳴らすなど、爆竹でも何でも無い。ホンモノの爆竹を見た。という気がした。
実際の機銃掃射を見たことがあるわけではないが、おそらくこの爆竹と比べれば、豆鉄砲のようなものなのではないか。
機銃掃射など、せいぜい10秒、数十秒くらいしか続かないが、この爆竹は1分にわたり連続して爆発し続ける。
この連続爆発が、幾重も重なって続き、20分程続いた。とにかくすごい。
観客はほぼ全員ターミナルの中に避難し、硝煙に口を覆いながら見ていた。硝煙で真っ白となり、何も見えない。
終わった後はご覧のように、爆竹の赤い覆いが薔薇の絨毯のようになり、時たま地雷のように薔薇の絨毯のそこかしこで、単発に破裂していた。
終わった後もそれなりに危ない。しかし、これで昨夜武鳴の交通賓館の前の焚き火跡の正体がわかった。爆竹をした後だったのだ。
都安のバスターミナルは、下写真のような地形のところにある。
武鳴あたりから山岳地帯に入り始め、都安のあたりでは、貴州と似たようなカルスト地層で形成された山々に覆われた地帯となっている。
都安のバスターミナル バスターミナル一体はできたばかりの新市街。道路も未舗装。
都安のバスターミナル前 都安を出てしばらくしたところ
ついてみると、金城江とは河池市の中心部のことだった。
どういうことだか不明だが、市区の中心部を金城江区といい、市全体の名称が河池市ということのよう。
東京の中心部に東京区が無いのと同じ理屈かも。
金城江バスターミナル近くで食事。8元。河池14時発。柳州行き65元。
17時桂林着。この時のバスでは、なぜか前方フロントウィンドウの左右に時計があり、30秒程ずれていた。何故直さない。。。
17時柳州着。19時45分桂林着。今回はゆっくり宿を探す。20時15分宿発見。
ここはかなり当り。前回120元で、汚く蚊の多い招待所となってしまったことを考えると、今回は80元で、オープンしたばかりと思われる賓館。
表通りからはまったく目立たないところにある。ここはお奨めかも。あまりに気に入ったので写真まで撮ってしまった。
城市便捷酒店の横の路地を入る。「聨華賓館」。ニス塗りたてと思われるドアや、フローリングの床は、日本(では普通)並のクオリティ。
宿を出て食事にでたところで、ポン引きのおばさんにひっかかる。見るだけ見るだけとうるさいので、取り合えず見学してみる。
最初に行ったのは臨桂酒店の3階にある。
カラオケバー(いわゆる中国式KTV)につれてゆかれ、ホステスの女の子をお持ち帰りできるとのこと。
続いてでかけたのは、賽賀賓館の2階のマッサージの店。
部屋の中にベッドやシャワーがある。ラブホテルな感じだが、キタナイ。
女性の質も先程のKTVの店より落ちる感じ。
取り合えずKTVとマッサージという中国2大風俗施設を見学できたので、おばさんに案内料10元渡しておさらばする。
なかなか離してもらえず、いつのまにかおばさん2人に増えていたりしたが、なんとか逃げ切る。
漸く開放されたので、前回来たとき、魚料理のおいしかった店を探すが、見つからない。
どうやらつぶれた様子。残念。そこで、前回は訪問しなかった西街という飲食店街にはいったところにある火鍋の店に。
20時45分から21時50分夕飯。このとき、隣の席に、幸運酒店という日系ホテルの従業員の日本人の方に会う。
唐代城門古南門の場所を教えてもらう。夕食60元。食後の散歩がてら、古南門を見学(古南門詳細はこちら)。
榕湖という人造湖 榕湖の北側にある唐代の南門 榕湖にある水晶宮という建物
22時45分宿に戻る。エアコンがあったかい。トイレが中国式である点さえ気にならなければ、十分お奨め。
12月29日
7時10分出発。7時50分のバスで興安着。16元。
前回写真を撮り忘れた霊渠にかかる宋代の橋を撮影に行く。
前回気づかなかった、秦代の門や楼閣を復元した建築物に出くわす。
説明によると、唐代、柳宗元が興安県の県令として赴任していた時、
「全義県復北門記」全义县复北门记(全義とは、当時の興安県の名称)という碑文が、霊渠の畔にあったとのこと。原文はこちら。
左下に柳宗元ゆかりの説明版がある
宋代の橋の手前にある清代の橋は、俗称娘娘橋、正式名天后橋という1688年建造の橋。
天后娘娘が語源。宋代の橋は、接龍橋。983年建造。宋代県城の北門に正対していたらしい。
橋の横の説明版の記載によると、名称の由来は3つあるとのこと。
1.湘・漓水が巨龍のように見えることから。
2.乾隆帝が訪問した時、官員がこの地で歓迎をした。
3.端午の節句で百姓たちが接龍船を出し、龍の頭を迎えた聖地
こちらの頁に詳しい由来が記載されています(中国語)
その他の橋などについての訪問記はこちら。
宋代の橋
続いて、町の郊外の霊渠を見に行く。
既に観光用に整備された繁華街の、生活排水路のように両岸を固められた運河と異なり、
畑の中を通っていて、こちらの方が当時の姿を彷彿とさせてくれる感じがして好きである。
(訪問記はこちら)
10時15分頃、駅へ戻る途中にあった店で米蕎麦。
店を出た後に、蕎麦を食べた後のスープに、ご飯を入れると良いと、店のおばさんが進めてくれていたようだったと気づく。
結構美味かったかも。
10時50分発、12:25分全州着。
零陵か永州直行バスはなさそうで、取り合えず湖南省へ抜けたかったので、都東行きチケットを購入。
13時50分の発車まで時間があるので、取り合えず湘江を見に行く。
かなり上流で、興安から60キロ程度しか離れていないのに、既にかなりの大河となっている。
バスの時刻表を見ると、永州行きは本数が少ない。
仕方がないので、とにかく湖南に抜けたかったので、13時50分の東安行きチケットを買う。14元。
窓口のおばさんが、ベンチに座って待て、といわれたが、1時間半ほど時間があるので、
湘江と、桂林地図の裏に載っている、全州の街路図にある湘山寺という史跡に行くことにする。
湘江を見たあと、バイタクに乗って行ってみる。1㎞程の距離だと思うが、時間節約の為。3元。
この施設は紀元756年に湖南籍の高僧全真和尚または全真太師(高僧無量寿仏・俗姓周、别号は宗惠)により創建されたとされ、
最初の名称は、净土院と称した。境内にある妙明塔は、咸通二年(861年に創建とされる。
宋代1004年景德寺と改め、更に1101年湘山名刹と改めた。全真和尚は160歳以上まで生きたとされる。
明代万暦年間に、湘山寺のある清湘県を、全真和尚の全をとって、全州と改めたとのこと。
宋元佑七年(1093年)七層の塔となった。高さ26m。こちらに写真があるが、庇の部分は近年の再建だと思われる。
入場料10元。しかし、改修中で、あまり見るべきものは無い感じ。犬にほえられ少し危険そうだったので直ぐに引き上げる。
戻りもバイタク。3元。
途中で気づいたのだが、零陵行きはなくても、芝山行きはあるのではないかと思い、もしバスがあれば、チケットを買えてもらおう、
と思っていたところ、バスターミナルに戻ると、チケット売り場のおばさんが私に目を留めたとたん、
売り場から出てきて急げとばかりバスに案内してくれてしまったので、もうそのまま都安に行くしかなくなってしまった。
東安への道路は、途中で街道から外れ、ほとんど村道のようなところを走る。
省の境目は、例によって道は舗装されていない。
15時半、東安着。ガラんとした、営業終了時間にでもなったようなバスターミナル。
でも営業していた。窓口で聞くと、東汽車站とのこと。1路か6路かバスとのこと。6路バスで15分。東汽車站到着。
こちらもしょぼい汽車站。チケット売り場はプレハブ小屋。芝山までは15分毎の結構な本数が出ている。10元。
17時04分、石期市鎮でバス乗り換え。
18時芝山着。スゴイところだった。湘江を渡る橋は工事中で、なんと浮橋がかかっていた。浮橋というものを渡るのははじめて。少しうきうきして渡る。
渡った先にバイタクが多数たむろしていた。地図は売っておらず、仕方がないので、バイタクに、汽車站へと案内してもらう。
10元という話だったのに、実際到着してみると、8元。何か言っていたので、ひょっとしたら、バスが終わってしまっていたので、割引となったのかも知れない。
しかし河をわたったところの地区はスゴイところだった。半分廃墟という感じ。
5分程走って長途汽車站に着くが、チケット売り場は単なる窓口で、バスはビルの裏庭みたいなところに止まっているだけのしょぼいところ。
しかも、もう閉まっていた。夜行の東莞行きが路上で発車待ちしているだけ。なぜか永州行きバスも見つからない。
9km程度の距離なので、市内バスがあるものかと探したのだが、永州医院などと行き先表示があるバスを見かけたが、それが永州市街行きかどうかもよくわからない。
仕方がないので零陵に泊まることにする。
18時45分、年末年始3日間割引サービス。60元で結構いい部屋に泊まれる。
宿はよかったが、夕食を取れそうなよい店が見つからない。
洋食屋は2件ほどあったが、中華が無く屋台ばかり。
結局長途汽車站に戻りあまり入る気にもならない隣にある中華屋に入る。37元。
そもそも歩道の舗装もがたがたで、ゴミだらけ。
いくつか見たホテルも、たった4階まであがるのに、エレベータの速度が遅くて軋むは、フロントに誰もおらず、安全に疑問があるわ、なんかずさんな感じ。
12月31日
汽車站に衝陽6時50分発に乗ろうと、5時40分に起床し、6時15分頃バス停に行くが、チケット売り場はまったく開く気配が無い。
6時50分頃に漸く開く。チケットを買うと、7時50分。50元。
発車まで1時間あるので、昨夜の店で朝食に蕎麦。
発車して3分程走ったところにまともな汽車站があった。ひょっとしたら、6時50分発はこちらから出ていたのかも知れない。
10時13分、衝陽着。156㎞を2時間で到着。ほぼ高速を直線なのでかなり早く到着。
中央バスターミナルに一度寄り、河を渡った、郊外に近い酃湖バスターミナル。
郴州行きは昼時は30分に1本出ている。10時半の次は11時、その次は11時半。地図5元。
特に博物館は見つからない。街中を走っている時、「明清街」という看板を見かけたが、それも掲載されていない。
さっさと郴州に移動することにする。11時発37元。10時半に乗車して地図を見直していると、
酃县故城遗址という場所を発見する。しかも、この汽車站から数キロほど直進したところ。バスも通っている。。。。
15分程悩み、発車10分前に遺跡に行くことを決心。37元は捨てても惜しくない額。11番バスに乗る。
数キロ走ったところで、運転手に聞くと、知らないとのこと。仕方が無いので適当なところで下車。
下車したところで通行人に聞くと、だいたいの方向を教えてくれたので、その辺りに行ってみる。
地図によると、幾つかの池のそばにあるということで、地形から、遺跡のある付近に行ってみるが、碑文などがは見当たらない。
通行人に聞いても知らないとのこと。仕方が無いので、遺跡があるらしい畑の場所を撮影して戻ることにする。
(訪問記はこちら)
酃县故城遗址
81番バスで戻る。11時40分汽車站に戻る。
11時のチケットのキャンセルがきくか聞こうかと思ったが、まったくの個人的理由で乗らなかったのではどうしようも無いので、11時のチケットは捨てて新規に購入。
12時発。窓から見ると、時たま紫に見える紅色の土が見える。
13時50分、耒陽着。
高速を使わず、普通道路だけを走った為かなり時間がかかる。150㎞程度なのに、4時間。
雨が靴にしみこんで来て全身が冷えてくる。昼食を取っていなかたので余計に冷える。
16時過ぎ郴州着。ここも酷いところだった。4月に訪問した邵陽と、今回の零陵と郴州のイメージで湖南省の辺境のイメージはかなり悪くなる。
時刻表を見ると、韶関は2本だけ。13時半が最後。広東省に抜けるバスは、広州行き16時半が最後。
ここに宿泊するか、広州に抜けるか迷った末に、日没までには五嶺を抜け、景色が見れるだろう、と浅はかにも判断。
窓口のおばさんも4時間だと言っており、4時間なら8時半に着くということで広州行きを購入。120元。
地図には、博物館の記載は無く、史跡も「義帝陵」以外は特になさそう。寒さに耐えがたかったのだとしか言いようが無い。
16時半出発、17時、天龍バスターミナルに寄る。
18時過ぎに省境通過。その後まもなく夕暮れとなったため、五嶺の景色はほとんど見れないで終わる。
その後の社内はまったく退屈で、時折見える広州までも距離表示もなかなか見えず、ストレスがたまる。
途中に入ったサービスエリアにも、PAの地図も置いていないところは、まだまだ、という感じ。
(名前失念)サービスエリアで夕食。20元。
社内DVDも、途中までニコラス・ケイジの映画をやっていたが、サービスエリアを出た後は、もう終わってしまっていた。
車内放映は、DVDではなく、バス向けの有線放送だった。かなり苦痛な時間となる。
社内の気温は、郴州を出た当初は14度ほどだったが、段々上昇し、広州到着時は24度にもなり、かなり暑くなっていた。
車外の温度も表示されていて、広州は20度ほど。だいぶ体もほぐれ、活動的になってくる。
やはり体温や外気温は活動能力に大きく影響する模様。
22時10分広州着。5時間半かかって到着。ターミナルを出たところで、ホテルの勧誘にあう。
120元とのことなので、そこに行くことにする。
10分程歩いた、だいぶ駅から離れたところにある、場末たホテルの並ぶホテル街に案内される。
22時35分ホテル入り。掲示されていた料金は168元。ただし部屋のクオリティは120元程度。
電話で2回、部屋をノックされること1度。何度もマッサージの勧誘が来た。しかもしつこい。
「マッサージマサージ。YES NO 用不用?」としつこく何度も何度も繰り返す。
「不用」「NO」と言っているのに、「YES?要?」と返ってくる。「もういいよー」「まーだだよー」のノリ。
最後は部屋へやってきて、ドアの外から「見るだけ見るだけ」 何のために? マッサージなのになんで見るだけ。。。
「何故見るだけ?」と聞くと 「何故だってーきゃははは」 という感じ。
きっと168元のところ、120元で交渉成立してしまったので、差額を何が何でも取り戻すつもりなのかも知れない。
ひょっとしたら、さっきの勧誘少姐だったりして。それだとあまり期待できないなぁ。
10分近くの押し問答の末、どうにか撃退。他の部屋の勧誘に移ったようである。
他の部屋をノックしてるところをドアを開けて一目見てもよかったかも。と後で気づいた。
23時40分。寝る。今日は12時間もバスに乗り、770㎞も移動。あまり動かなかったが非常に疲れた。
12月31日
7時前にホテル出発。
7時8分頃駅に着くと、郴州行きは10時45分まで無いとのことだが、7時15分の韶関が丁度あるので、これにする。85元。
乗り場のところで、新聞売りのおばさんから今日の朝刊を購入。
朝食代わりに空港でお昼代わりに配られたお菓子と同じサラダチップスを買う。少し病みつきになっているかも。
片道3車線の高速は快調だ。7時45分、早くも山々が見え始める。白水豪、九龍湖という標識のあるあたり。
7時54分、机場街北分岐点あたりから山地という形容になってくる。このあたりまでは、市バスが高速を走っていた。
8時10-22分、PAで休憩。朝食代わりの肉まん1個。(またも名前失念)サービスエリア。
8時37分清遠市の湯塘出口通過。このあたりは、少し開けて平野となっていた。
8時43分、仏岡にあと5㎞の地点で最初のトンネル通過。
仏岡の町のそばを通過。険しい奇岩が見えてくる。
9時20分、大鎮(東華の北数キロ)を通過。
9時43分、広東省内の京珠高速では最長と思われる2981mの靠(ネ奇)山トンネルに入る。
その後、9時48分大宝山トンネル1585mを通過。10時25分韶関着。地図5元。
11時30分江西省の梅嶺行き34元。大余行きバスに乗車し、梅嶺鎮下車ということらしい。
一応乗車時に運転手に梅嶺に到着したら教えて欲しいとお願い。12時50分馬市通過。13時06分南雄市通過。
天気は上々。昨日の寒さはどこへやら。ひょっとしたら、五嶺の北は日本海岸側と同じで、五嶺の南は太平洋側という感じの気候なのかも。
そうなると、本当にそうなのかも、とますますもう一度五嶺の北を再度見たくなってくる。
13時20分、梅嶺鎮通過。運転手に、梅関古道と告げる。梅嶺を過ぎたところで、右手に工事中の、江西贛州から韶関へ抜ける韶贛高速道路が見えてくる。
5㎞程高速と並行して走る。運転手が、はるか先に見える山の頂上に立つ亭のような建物を指差し、あれだ、と言う。
ええっ?あの山の上?ちょっと遠いんじゃないの?
13時半、梅関古道の入り口下車。一応停留所になっているようで、*社外*で待機していた車掌さんがチケットを切りに乗り込んでくる
。バス停前の店で昼食。しいたけ肉野菜炒め18元。少し高いが他に選択肢が無い。
辛味を入れたら1元高くなった。ご飯1元で計20元。結構上手い。昼飯を食べながらコートのボタン付け。
梅関古道の入り口。左下に看板が。 左写真の真ん中山頂に上の亭がある。 古道入り口の商店街。
14時。梅関古道に向かう。
道路沿いの看板には、「600m」とあったので、バイタクは使わず。歩くことにする。
歩いていると、数台の車に抜かれる。車で上っていくところなのか?ひょっとして、あの亭のような建物まで行くのか?
と少し不安になったものの、600m以上歩いた感じはしたが、入り口に到着。
チケット売り場と見取り図のある観光地の入り口に少しほっとする。
チケット20元。結構他の観光客もいる。入り口の看板の地図には、8㎞とあった(ような気がした)。
8kmということは、往復16㎞!?1時間4キロとして、往復4時間!?
これでは今日中に韶関まで戻ることは難しそうである。いや、それどころか、珠璣古巷を見学することもでくなるかも。
16時には、古道入り口まで戻らないといけないので、1時間歩いたところで引き返すことにする。
が、20分程歩いたところで、チケットの裏の地図の半分くらいのところに来てしまっていることが判明。
となると、峠の梅関の関所があるところまであと10分程度で着きそうな感じ。
余裕が出てきたので、途中でわき道にそれて、バスの中から見えた山頂の亭を目指してみることにする。
が、こちらは、ほど坂でしかない本道と異なり、急な階段が延々と続く。
途中であきらめて引き返してきたカップルがいた。相当大変そうである。
何度も「これで終わりかも」と思ってたどり着いた踊り場の先に、更に続く階段を見つけ、遂には他に誰もあがって来る様子も無いので、荷物を放り出して登る。
15分程上がって漸く山の稜線に出るが、今度は、稜線に沿って、緩やかなのぼりが更に続く
。遂にくじける。
稜線から北を見ると、江西省側に大余の町らしき町が見える。とりあえず江西側と広東側の写真を撮る。
江西省側大余市
山頂の亭まで行ってももう見える景色はあまり変わらないだろうと、引き返す。
本道近くまで戻ると、先程途中で引き返していたカップルが私を待っていたので、撮影した写真を見せてあげる。
本道に戻り、5分程登ったところで、梅関の関所に出る。
14時30分。なんと、この関所のところに、物売りのおばさんだけでなく、おばあさんがいる。
毎日ここまで上り下りしているのだろうか。
観光客には、家族に支えられたおばあさんもいたので、お年寄りも上がれないことは無いと思うが、毎日仕事で往復するのは相当大変だろうと思われる。
ここは、梅嶺 標高400m地点にあるとのこと。亭のある頂上は552m。
関所の横に北宋仁宗嘉祐八年(1063)に立てられた「梅関」と書かれた碑文がある。皆この碑文を横に記念写真を撮っていた。
鑑真和上も通ったらしい。海南島に漂着した後、揚州に戻る途中にここを通過したらしい。
(梅関古道紹介はこちら)
関所のところで皆記念撮影をしている。他の観光客は、江西省側へ降りていったが私は引き返す。
この路面では馬車は通れるのだろうか。馬でも、この石の舗装はきついのではないのだろうか。
復路は早かった。15分でチケット売り場、15時にはバス停に到着。待つこと16分、南雄行きのバスが来る。5元。
15時30分珠璣古巷下車。10分ほど歩いて、15時40分、珠璣古巷(珠玑古巷)到着。
ガイドブックの説明がいまいちわからなかったのが、いままで路上の標識に何度も目にしていた筈の「巷」が「ストリート」であることをはじめて知る。
こちらの南門楼は、清代乾隆年間の建設で、1858年太平天国軍が楼の上に物見台を置いた。
駟馬橋とは別に、双龍橋(双龙桥)と呼ばれる橋が中心部にあり、双榕橋とも呼ばれる。その名は橋の両端に大榕樹があることによる。
こちらも宋嘉定九年(1216年)の建設。全長さ18.76m、幅3.32m。古驿道(古駅道・駅通道路)は、鵞鳥の卵石と花崗岩でできていて、路面幅は4から5m。
鴨のヒラキ干しというものを目にする。エイリアンの幼虫のモデルって、実はこれだったんじゃないの?と思わせるような姿。
南門楼のきた100m程度のところに、貴妃塔がある。
これは、元代の石塔で南宋淳祐10年(1250年)頃度宗の子の胡妃を賈似道が騙して宮殿から連れ出され尼にさせられ、
1272年、臨安(杭州)の河辺にいるところを、珠玑古巷の富豪、南雄商人の黄貯万搭に救れ、珠玑巷につれて行かれて妾とさせられた。
その後、賈似道は珠玑巷に出兵し、巷民は、災禍を逃れ、珠江三角洲各地など南に逃げたが、胡妃は珠玑巷にて井戸に身を投げて死んだ。
後世の人が胡妃を偲んで井戸の上に石塔を立てた。これを貴妃塔という。
高3.36m、直径I.2m。八角形塔身, 七層。と、現地の説明図にはあった気がする。メモによると。
しかし、ネット上のデータでは、胡妃が宮殿から連れ出された事件が咸淳八年(1272年)とされ、
度宗が先帝の祭祀をして景霊宫に至った時、 雨が降ったので車で早く戻ろうとしたところ、雨がやんだあと、
大辂車で皇帝を 送ると言いましたが、皇帝の義理の兄の胡显祖が逍遥 で皇帝を送りました。
賈似道が怒って兄妹を誣告したため、皇帝は止むをえず、 胡显祖の官位を剥奪し胡貴妃を尼として宮殿を追い出した、と記載されている。
元代の姫の塔を見て、1/3周程街並みを見て、入り口近くの博物館へ。
地元の人は出入り自由なのか、観光客が珍しいのか子供が何人か寄ってくる。
何かプレゼントでもあげたいが、今回何もない。珠璣古巷(珠玑古巷)というところは、姓氏の祠が延々と続いている。
梅関古道の露店でも目にしたが、ここでも露店で、姓氏を扱った書籍が売っている。
どうやら、珠璣古巷は、唐代以降中原から珠江三角州地方にに漢民族が進出する橋頭堡だったらしい。
珠江三角州地方の氏族の源ということで、その祖となった氏族毎の祠を祭ってあるということらしい。
珠玑古巷から移住した氏族については、こちらなど、やこちらなど、あちこちに記載があります。
(珠玑古巷訪問記はこちら)。
博物館には、少しだけど、漢代の遺物も展示されていました(こちらに少し紹介)。
博物館前に、下記写真のような彫刻がありました。いかにも中国の武侠小説に登場するような、武侠集団の奥城や、
神仙境、または悪の組織の根拠地という雰囲気がよく出ているので思わず撮影。
4時20分珠玑古巷を出る。あまりこういう絵になる写真は、わざとらしいので撮らないことが多いのですが、これは思わず撮ってしまいました。
姉らしき子供が、弟か妹らしき子供に、宿題を教えているのか本を読んであげているのか、そんな風情でした。
珠玑古巷の現代の街並み
4時26分、国道に出ると、丁度バスが止まっていた。南雄まで3元。
16時40分南雄汽車站着。駅前から市街中心部に伸びる繁華街を散歩しながら、三影塔を目指す。
南雄の繁華街
17時丁度、塔到着。博物館は塔の前にあり、18時まで開いていた。まず博物館を見る。
漢代の遺物がここにも少し展示されていた。入場料5元(こちらに少し紹介)。
塔の見学もできるとのこと。2階に、「子供は入るべからず」と書いてあるドアがあり、そのホールでは、現代写真家の芸術写真が展示されていた。
驚いたことに少女のヌード写真が展示されていて、1枚は性器まではっきり映っていた。
芸術写真だといいのだろうか。
このあたりは、赤紫色の土を産する場所で、その分布図も掲示されていた。韶石山、丹霞山など観光地である山もこの赤土地帯に入っている。
17時20分。塔を見に行く(塔の説明はこちら)。
17時35分、大通りにでてバイタクを拾う。2元。40分頃汽車站着。
50分の始興行きに乗れる。18時16-47分、工事中停止区画にひっかかり少し遅くなったものの、19時5分頃始興着。
どこで降りたいのかと聞かれ、中心部、汽車站と伝えたところ、交差点で降ろされる。
月と金星がまるでトルコ国旗のよう。
近くに店もなかったので、通りがかったバイタクで汽車站に行ってもらう。2元。
裏通りにどんどん入っていったので、どこいってしまうのだろうと思っていたら、突然繁華街の中心部に出た。
町の中心部のロータリー周辺に、町一番の高級ホテル、その次のクラス、更にその次のクラス、安宿、汽車站が集まっている。
そこから東に繁華街が延びていおり、よさそうな宿を探して繁華街を歩く。が、なかなかよさげな宿が無い。
10分程歩いたところで引き返す。そろそろ手元資金が尽きてきたので途中の農業銀行のATMで預金を500元下ろす。
今回はそれほど移動していない筈なのに、意外に減りが早い感じ。
一応一番高そうな宿を見に行くが、シングル268元と高い。今日は大晦日なので、しけた宿に泊まる気分もしない。
ということで、結局最初に見に行ったこの町で2番目に高級な一泊138元の宿がもっとも良さげだったので、部屋を見て決める。
今回は値切らなかった。部屋を見てみたところ、少々古びているが広くて設備も豊富。エアコンが効いていてあったかい。
やはり宿のレベルが高いと気分的に休まる感じ。
出張を除けば、2007年正月に宿泊した北京のホテル208元の次に高い額。三ツ星ホテルに泊まるのは初めてな気がする。
飾りではなく一応正式な三ツ星の模様。それにしても、田舎の町の割りには結構高め。
やはり広東省は高いということなのだろうか。
よくよく見ると、ホテルのエレベータ横の各階案内には日本語の案内版がついていた。
「うけつけ」と受付がひらがなだったり、字と字の間隔が微妙にバランスがおかしいなど、いかにも日本語を知る中国の人が作ったような文字。
夕食を食べに出る。が、なかなか店が見つからない。洋食屋が2、3件あるばかり。
定食屋以上の中華レストランがなかなか見つからない。やっと洋食屋の入っているビルの2階に見つける。
入ってみると、客が誰もいない。思わず営業してるの?と聞いてしまうが、営業していた。
いつもどおり、メニューを見ればわかるのに、どういうわけか、英語のわかるウェイトレスを呼んで来てくれた。
とはいえ、かなりカタコト英語だったので、私のカタコト中国語と同じくらいの実用性という感じ。
最初に注文した魚料理はでかすぎるということで、沙(上が保、下が炎)(火局)雄頭 という白魚の頭のガーリック煮のようなものに変更。
かなりおいしい。コートがまた破れたので縫っていたら、従業員が集まってきて、誰に習ったのかとか聞く。今回コート縫ってばかり。
日本語の本を珍しそうにパラパラ。近くに観光地が多いし、本日宿泊するホテルに日本語案内版もあったので、
この町に日本人は結構来ているように思えるが、こういう普通の店に来る日本人は少ないんだろうね。きっと。珍しいようである。夕食35元。
昨年の年末年始は、9日間の予定で出て、6泊7日で戻ってきてしまったが、今年は、4,5日の筈だったのが、今のペースでは6泊7日になりそうな感じ。
しかし期限を決めない旅行って気が楽。飛行機で出て、バスであちこち回りながら帰る旅行って結構気楽でいいかも。
飛行機の時間を気にしなくていいので、ストレスが無いのは大きい。
21時頃宿に戻って、ソックスを洗濯。久々の手洗いで、手の皮がむけそうになる。
ブルガリア在住時代は毎日下着と衣服を洗っていたものだが、よく毎日続いたものだと思う。
エアコンが効いていて快適。やはり暖かいと活動的になるようだ。
部屋には韶関の旅行ガイドが2冊。それを読んでいるうちに年が開けた。
やっぱカウントダウンの歌謡番組を見ないことには気分が出ない。
それにしても韶関という中国の地方の広東省の、そのまたローカルな地方のガイドブックに、これだけ多くの観光地があるとは。。。。やはり中国は広い。
広東省の他の市もみなこんな感じで多くの観光地があるのだろうか?それにしてもスゴイ。
貴州省から広西、広東北部には奇岩が多いとは思っていたが、広東省のこんなところにグランドキャニオンのような場所があるとは。。。。
後で聞いたところでは、韶関は広東の中でも特に観光名所の多い地方とのことだったが、
このときはそうとは知らなかったので、広東だけでも1年は旅行してすごせるかも、とかなり舞い上がっていたのでした。
昨夜靴下を洗濯。何度も絞っているうちに、手の皮がすりむけそうになる。
7度くらい洗面所の水を入れ替え、何度も絞る。大変な作業だ。
ブルガリア滞在時は、毎日下着の選択をし、たまにズボンやシャツを洗濯していた。
当時時間があったとはいえ、毎日よくできたものだと思う。部屋があったかいと、活動的になれる。
旅行ガイドも2冊装備されていて、大変参考になる。寝るまでの間一通り熟読。
今日は充実していた。昨日は酷い一日だったが、こういういい日もあるということだ。
1月1日
6:30起床
隘子行きバスはあるのかどうか、どこかで乗り換えるのか、多少ドキドキしながら汽車站に行くと、隘子行き直行便がありアッサリ行けることが判明。13元。
7時10分出発。7時半発の直行バスに乗る。30分に1本出ている模様。13元。16:30-17:30頃が最終バスとなっている。
かなり交通の便は良い。バスはすごくいいバス。日本のバスかと見まごうものだ。
まず、窓のカーテンが清潔でよれていない。カーテンをまとめて縛るベルトもちゃんとしていて、カーテンがベルトで纏められている(下写真)。
次に、背もたれについている荷物入れのポケットもほつれていない。背もたれのカバーも汚れていない。
更に床のゴミが落ちていない。これではゴミを捨てられまい、と思っていたら、やはり捨てている客がいたが、
その後車掌がちゃんと掃き掃除をしていた。
あまりの珍しさに思わず写真を撮ってしまう。やはり観光業で儲かっているということなのかも。
今回気づいたのだが、ターミナルを出たところで乗ってくる客が多い。
ターミナルを出てから50mもなかったりするので、何故ターミナルから乗車しないのかと思っていたら、どうやら、2,3元安くなるということのようだ。
丁度日の出となる。
8:31分、司前通過。町を通過したあたりで、客家のような建物を見る。
8:52分頃、隘子着。バスターミナルのようなものはなく、停留所の横道にバックで入り、折り返す具合になっている。
近所の店で朝飯。蕎麦。3元。町は南北の道路沿いにあり、そのまま南へ向かと200m程で、満堂客家大囲まで2.5㎞との看板。
隘子の村の繁華街を抜け、隣村との間の田畑の中
そのまま2㎞程歩くと、あと500mという看板がある。9:30分、客家大囲到着。チケット40元。
満堂客家大囲近くの川。水はきれいだが、ゴミが多い。でも付近の住民が洗濯している(下写真の左上)
満堂客家大囲の入り口に説明看板がある。
最初に、官親祖という人がこの土地にやってきて、最初の妻との間に子ができず離縁し、梅足という女性と再婚。
彼女が5人の子を産み、次男官乾栄が乾隆年間に大園を築いたとのこと。777室あるとのこと(詳細な紹介はこちら)。
11時まで見学し、11時30分バス停に戻る。
隘子中心部
隘子から韶関行きバスはなさそう。満堂家大囲観光は、始興から往復するしか無いようだ。
始興に戻ることにする。11時43分バスが来る。15分程度に1本のようで、交通は便利。
13時、始興県に戻る。13時25分のバスに乗り、14時26分韶関到着。16元。
始興から韶関へ向かうルートの北側に、韶石山と呼ばれる場所があり、そこは、昔、舜帝がこのあたりに来たときに、
岩の上で演奏をした故事がある山とのことで、下記写真のような奇岩が並んでいる(韶石山の解説はこちらにもあります)。
舜帝は、山に登り、韶楽を奏でた。そこで、これを聞い周囲の山や石が動揺し、変形して今のような奇岩になったとのこと。
韶石とは、これにちなんでつけられたとのことである(隋の開皇九年(公元589年),韶石の名から、東衡州を、韶州という名称に改めたそうである。
バスターミナルの定食屋で15元の鴨焼肉定食。15時市バス9番乗車。1元。
15時35分韶関博物館着。14時20分まで見学。10元。
韶関も抗日戦争を戦ったことを知る。地域の名士を知ることができる。
例えば、
麦鉄杖(~612年) 隋代の人。陳の将軍から隋の将軍として高句麗出征。
張九齢(678年 - 740年) 玄宗期の宰相。
余靖(1000-1064年) 24歳で進士。その後赣县尉となり34歳で秘書丞となる。43歳 新県(南昌)の知県。遼への使者を4度勤める。
範仲庵、欧陽脩、尹洙と並び、4賢と呼ばれた。1064年南寧(江寧)に埋葬。
陳璘 (1543-1607) 慶長の役で活躍。
など。
農民の収入伸び率という最近の開発度の展示もあって、それによると、下記のように収入が伸びているようである(単位/元)。
78 137
80 176
85 414
90 760
95 1400
00 2793
05 3738
07 4306
年間4306元というのは、7万円程度なので、おそらく世帯収入ではなく、一人当たり平均だと思われる。
(さすがに富裕とされる広東省では、地方とはいえ年間世帯収入が7万円ということは無いだろう。工場労働者の最低賃金でさえ、7,8000元ということを考えれば)。
博物館は16時半までとのことで、見学中に「半までですよ」と館員が注意して回っている。
客は私含めて5人程しかいなかったが。。。
16時20分博物館を出て19番バスで西河汽車站へ。
時刻表をチェックすると、どうやら広州やシンセン行きはここから出発して一度東汽車站に寄ることになっているようだ。
西河汽車站からの出発時刻は、東汽車站の出発時刻の丁度15分前となっている。
時刻をチェックした後、韶関市街の見学に出る。まずは、武江橋を渡って旧市街地へ入る。
旧市街地は武江と湞江が合流し、北江となる合流点にある。大鍳寺を目指す。
大鍳寺は、最初の創建は660年頃のことらしいが、ご覧のようにすっかり近代的な建築物となっている(寺の来歴はこちら)。
続いて市場街を見学しつつ、風采楼まで歩く。途中、新宿のような景色を見る。近代的な高層マンションに西日が映えて美しい。
このように、古びた、猥雑な下町の背後に近代的なビルが見える景色は割りと好き。
大鍳寺から風采楼の間は、雲龍亭と上後街、下後街を歩いたが、ここは、下町の繁華街という趣で、
肉屋、野菜屋、大量の薬味を売っている店など、生活感溢れる通りだった。
風采楼とは、1497年に、地元出身の北宋の役人である余靖を記念して建設されたもの。写真のように、
バス通りの上跨って立っている。
風采楼前から6番バスで東汽車站へ向かう。18時頃東汽車站着。
が、東汽車站からでている汝城行きバスは、西河汽車站の方が早いことが判明。西河汽車站近くに宿泊することにして、再度9番バスで西河汽車站に向かう。
が、バスがなかなか来ない為9番バスに乗り、西河汽車站近くで下車。汽車站へ向かって歩いて切るときに見つけた宿に入る。128元とのこと。
部屋を見せてもらうが、あまりよさげでは無いので100元に値切る。OKとのこと。
が、ここの服務員は、日本のパスポートを見たことがなかったらしく、パスポートを出しても、「身分証だせ」という。
これが身分証だというと、上司を呼びに行って漸くOK。
ここは要領を知らないのか結構時間がかかった。その後も順調ではなく、
なかなかPCへの登録ができないようで、先に部屋に行っていいよ、ということで部屋でテレビ見ながら待つこと15分。
やっとノックがあったが、まだ終わらなかった。ビザがあるというのに、渡航航空便を聞かれる。やれやれ。
宿の近くにはまったくレストランが無かった。
西河汽車站の近くにもほとんどなく、選択の余地なく客の誰もおらず、レジ係が所在無さげにぶらぶらしている店に。20時15分。
が、レジ係りだと思った彼がコックでもあった。コンピュータお宅みたいな少し小太りの眼鏡兄ちゃん。
注文すると、厨房に消え、コツコツと包丁を使う音が素人っぽい。
とはいえ料理は普通にまぁまぁ。
食事しながら持ってきた広東省と、広東省の古鎮ガイドブックを読んでいると、既に次の旅行の予定を立て始めている自分がいた。
仏山市に漢墓発見。よし。いかねば。
夕食19元。朝食用にちょっとかわった形のバナナを購入。
1月2日
久々に目覚ましかけ忘れ。7時28分起床。
7時40分の汝城行きには間に合いそうにない。7時50分頃に西河汽車站着。8時40分発汝城行き。45元。134㎞。
8時40分に西河汽車站を出て、東汽車站へ。東汽車站を9時に発車。
梅嶺から江西に抜ける道は、比較的走りやすく、峻険な嶺を越える風もなかったので、
湖南省の方もこんな感じで抜けれるのであれば、3時間くらいで郴州へつけるかも、と少し期待していた。
しかし、それはまったく裏切られた。
湖南省に入った直後、突然舗装が終る。それどころか、崖側に盛り土も無く、車道が突然崖となっている。
雨の場合通行できるのだろうか。しかも、省境を越えた後、峻険となった。造成中の道には、日本の建設機械も入っていた(松島興業、伊藤建設、小松、など)。
山の斜面が無残に切り裂かれ、茶色い傷がえんえんと遥か彼方の峠に見えていた。
ひょっとしてあそこまで上がるのだろうか?しかも道は、右へ左へと多く数キロも折り返して峠の肩の部分まで上がって、向こう側へと消えている。
こりゃ時間がかかると観念。しかし、これはこれで面白いものが見れた。が、崖側に盛り土など一切開く、少し怖かった。
10時22分 省境通過。11時40分大坪墟(大坪鎮)通過。12時20分頃汝城着。
郴州行きは、12時半のチケット(39元)だったので、昼飯の時間はなさそう。直ぐにバスに乗って待つ。
が、発車したのは13時20分。地図で見ると、高速道路が延びていると思ったが、よくよく見ると、建設中となっている。
西北方向に斜めに向かうのではなく、真西に向かって、宣陽から真北を目指すルート。相変わらず道は田舎道。
一箇所など、バスから客をおろして、車体を軽くして、200m程走ったてまた乗せる、という区間があった。
それにしても予想外にかかった。汝城と郴州間は156kmほどなので、あわよくば3時間くらいで着くかと思っていたが、
時速30kmペースでのろのろと田舎の鎮を順番に通過。揺れも酷い。今日は横に座った人がよく吐く。3人目だ。
あわよくば本日中に深圳に戻るか、駄目でも広州へ戻るバスに乗れないものかと考えていたがまったく駄目だった。
当初は、12時頃に郴州に到着し、13時半の広州行きに乗れないかかと思っていたが、そんな見通しはまったくのナンセンスだということがわかった。
結局5時間近くかかり、18時丁度に郴州の天河汽車駅に着結く。
湖南省は、汽車站のトイレ使用量1元とられることに気づく。広東では汽車站のトイレは殆ど無料だという印象がある。
湖南は徴収するだけではなく、高い。この辺にも内陸が貧乏なのだと知ることができる。
駅前で宿の客引きに新疆人に間違えられる。髭がそうみえたのだそうだ。その宿を見に行く。
宿は夫婦が経営している商店の2階と3階部分だった。
窓は隙間が空いていた。また階段の窓は、半分窓が無かった。
3階は、2部屋に分かれていたが、ベニアで囲っただけで、敷居は2m程の高さまでしかなく、天井との間、40cmくらいは隙間となっていた。
つまり、殆ど野外にいるのとあまり変わらない。
私の部屋は、ベッドが2つ、ソファが1つあり、ソファの上にも布団が一つ載っていた。ソファにも泊めるということなのだろうか。
女将が、他のベッドの布団も使ってよい、とのこと。ならばOKか。30元。
食事に出るが、周囲には安食堂しかなく、レストランと言えるような店はまったく無い感じ。
仕方が無いので、食堂で食べたくなりそうなメニューのありそうな店を探す。
夕食鴨のビール煮を食べる。しかし本当に鴨だろうか?鶏鳥の味がしたが。。。41元。
21時頃戻る。部屋の照明のスイッチは、階段を上がったところにあり、電気を消すために、一度敷居のドアを開けて出なくてはならない。
面倒なので、電気を消してから、スウェットに着替え、布団に戻もぐってテレビを見る。22時には寝る。
1月3日
6時45分に宿を出る。6時55分に32番バスに乗り、7時20分頃義帝陵へ。
繁華街の真ん中にある。まだ早朝なので開いていない。窓口に開館時間もかかれていないので、
隣のマンションの階段に登って陵を撮影。写真真ん中部分にみえている白いものが墓碑の模様。
その背後の盛り上がりが陵墓。
8時頃バスターミナル到着。チケット購入後、朝飯。蕎麦。4元。団子2個1元を購入。新聞3種類購入。
新聞はよく見たら、最新のものではなく、12月26日の新聞だと判明。そうか、古いものも売れるまで置いておくんだ、ということを知る。
バスの時刻表には目的地までの距離も記載されている。
郴州 - 長沙 336㎞、広州 471㎞ 9:00、 15:00、 16:30の3本で120元。 深圳行きは170元で9時10分。615㎞。
最初に広州行きを購入したが、深圳行きがあることに気づき、キャンセル料24元を払ってチケット変更。
広東の北部は、下記のように、石灰岩質の地質となっていて、侵食でできた山々が続いている。
郴州で購入した湖南省の遊覧地図をバスの中で見てみる。すると、湖南に炎帝陵がある。舜皇岩という地名もある。
また、長沙には蔡倫ゆかりの地がある。蔡倫墓は確か漢中にあった筈で、著名人ゆかりの地が結構あちこちにある印象がある。
張騫墓も漢中にあったり。湖南に杜甫墓を2箇所も発見。両江という地名も湖南省の地図に発見。
今回の旅行だけでも両江は4箇所発見した。
1.武鳴近所。2.始安県近く。3.韶関市東北部。4.湖南省
長安や洛陽という地名も、重慶市や広東、広西などにもあったような記憶があり、恐らく移住民が、
もとの居住地の地名をつけたものを思われる。
12時洋石並(字が間違っているかも)トンネル(2120m)通過
12時5分。事故に出くわす。まさに1,2分前に起こったばかりらしく、こめかみから血を滴らせた父親と思しき
男性が、ドアから這い出してきたところを通過した。後部座席の家族を思われる人は大丈夫なのか。。。
少し我々のバスが通過するのが早かったら、巻き込まれているところだった。
12時17分韶関通過
13時15-30分 休憩
7泊8日 南寧~武鳴~桂林~全州~霊陵~衝州~郴州~広州~韶関~梅嶺~南雄~始興~韶関~汝城~郴州~深圳
3345km、航空券620元、有料施設訪問回数6箇所、交通機関利用回数39回