珠玑古巷

 

 南門楼

紹介

 

宋代の面影の残る街並みが保存されている珠玑古巷。敬宗巷が元の名とされる が、唐代は最盛期で、巷の歴史はより古い。前323年の越国滅亡時、「越人が江南海上に散居した」との記載があり、この あたり越人が広まった可能性がある。更に前223年に秦が楚国を滅ぼした時に、越人が移住してきた可能性がある。その後 大庾岭南麓、現梅岭(梅嶺)を抜けて来ると、最初の居住地が、珠玑古巷のあたりにあたった。その後災害や戦乱を避けて中 原の人々が移住し、落ち着く場所となった。珠玑古巷の最盛期は唐宋時代とのこと。唐代、敬宗巷と呼ばれたが、その語源 は、唐代敬宗の宝歴年間の825年、孝義門の住民張昌が、7世にわたって同居したことから、朝廷がこれを孝義として表彰 し、珠玑绦環を賜った。これに因んで敬宗をはばかり、珠玑巷と呼ばれるようになった。

貴妃塔

 

貴妃塔

 街路(巷)は、南は驷马橋(駟馬橋)に始まり、北は鳳凰橋の間の、1.5㎞ にわたる梅関古道上の商業地帯だったとのこと。古楼、古塔、古橋、古祠、古榕、古建筑史跡が残る。南端の驷马橋(駟馬 橋)は、またの名を沙水橋と言い、南門楼の南100m地点にあり、明代の《南雄府志》の記載によると、宋代嘉定九年 (1216年)に最初に建設され、その後改修を重ね、1992年に再建されたもの。長さ13.8m、幅5.4m。791 年の歴史があるとされる。4匹の馬が平行して渡れる広さを持ち、轡を並べた4匹の馬が引く馬車を見て、人々は、駟馬橋と 呼ぶようになったとのこと。

 橋 の説明はこちらにもあります(中国語)

 駟馬橋とは別に、双龍橋(双龙桥)と呼ばれる橋が中心部にあり、双榕橋とも 呼ばれる。その名は橋の両端に大榕樹があることによる。こちらも宋嘉定九年(1216年)の建設。全長さ18.76m、 幅3.32m。古驿道(古駅道・駅通道路)は、鵞鳥の卵石と花崗岩でできていて、路面幅は4から5m。 

古驿道(古駅道・駅通道路

 

双龍橋

 

 南門楼は、清代乾隆年間の建設で、1858年太平天国軍が楼の上に物見台を 置いた。

 

 貴妃塔という、元代の石塔がある。南宋淳祐10年(1250年)頃度宗の子 の胡妃を賈似道が騙して宮殿から連れ出され尼にさせられ、1272年、臨安(杭州)の河辺にいるところを、珠玑古巷の富 豪、南雄商人の黄貯万搭に救われ、珠玑巷につれて行かれて妾とさせられた。その後、賈似道は珠玑巷に出兵し、巷民は、災 禍を逃れ、珠江三角洲各地など南に逃げたが、胡妃は珠玑巷にて井戸に身を投げて死んだ。

 

 

 珠璣古巷は、唐代以降中原から珠江三角州地方にに漢民族が進出する橋頭堡 だったらしい。珠江三角州地方の氏族の源ということで(現在29の市区に153姓が居住)、その祖となった氏族毎の祠を 祭ってあるということらしい。珠玑古巷から移住した氏族については、こちらなど、あちこちに記載があります。こうした多 くの姓の発祥地ということから、姓氏の故郷という意味合いであろうか、南雄姓氏節というお祝い期間があるとのこと。

後世の人が胡妃を偲んで井戸の上に石塔を立てた。これを貴妃塔という。高 3.36m、直径I.2m。八角形塔身, 七層。(と、現地の説明図にはあった気がする)。しかし、ネット上のデータでは、胡妃が宮殿から連れ出された事件が咸淳八年(1272年)とされ、度宗が 先帝の祭祀をして景霊宫に至った時、 雨が降ったので車で早く戻ろうとしたところ、雨がやんだあと、大辂車で皇帝を 送ると言いましたが、皇帝の義理の兄の胡显祖が逍遥 で皇帝を送りました。 賈似道が怒って兄妹を誣告したため、皇帝は止むをえず、 胡显祖の官位を剥奪し胡貴妃を尼として宮殿を追い出した、と記載されている。 

 広東省広州から高速バスで2時間で韶関につく。韶関からバスで1時間半。南雄の街から30分程の梅岭鎮から数キロ北に位置 している。

 

珠璣古巷は入場料20元。

 

近隣の史跡としては、梅関古道南雄の宋代の塔客家の囲屋などがある。

 

そ の他解説①(中国語)

その他解説②(中 国語)

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