韶関
大鍳禅寺(大鉴禅寺) |
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大善寺塔 |
大鉴禅寺はもとの名を大梵寺といい、,唐顕慶末年(660年)より前に建設された。禅宗六祖慧 能大師が湖北の黄梅東山で法を得た後,曹溪宝林寺(現曲江県南華禅寺)に至り、大梵寺で経典を教え説法を行った。《六祖 壜経》によると、大師(慧能)は宝杯(南華寺)に至り,韶州刺史(名は韦璩)と官僚と宝林山に入り、大梵寺で壜説法を 行ったとされる。弟子の法海が書を編纂し、それが《南宗顿教最 上乘摩诃般若波罗密经六祖慧能大师於韶州施法坛经》(敦煌版本)、すなわち《六祖壜経》と言われている、中国禅宗の経典 とのこと(宝林寺は慧能が南宗禅を確立したところ。このことにちなんで宋代に南宗禅寺と改称)。 唐万歳通天元年(696年),武側天は、特別に慧能に水晶鉢盂や磨纳袈裟などを賜り,武則天と中宗は慧能を召して入京さ せた。六祖入寂後,彼を記念して唐中宗は大鉴禅師の諡号を送り,大梵寺を大鉴寺となした。尚書であった王維と、刺史の柳宗元 はそれぞれ文章を撰じ、《六祖慧能禅师》と《曹溪第六祖赐大鉴禅师》を編んだとのこと。 |
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宋代,大梵寺は崇宁寺、天宁寺と改名さ れ、紹興三年(1131年),徽宗は香火を奉り,報恩光孝寺と改名、更に紹定(1228)年間,大鉴禅寺は府治南兴贤 坊”現興隆街)へ移され、明洪武年間(1368年)提点刑獄鄭林が修理し,嘉靖十八年(1530年)再建、清康熙十二年 (1674年),知府馬元がまたも改修している。その後も1940年1992年と数度にわたり改修され、古拙の趣は無 し。左上が通りに面したところ。右上が大雄宝殿。 (大鉴禅寺の説明はこ ちらのサイトから引用) |
左写真は、風采楼。明代弘治十 年(公元1497年)に韶州知府銭镛が韶関縁の北宋の名臣余靖を記念して建設したもの。「風采」の名称は、宋襄が余 靖の詩句である、「必有謀猷俾帝右,更加風采動朝端」 から取ったもので、宋襄は「風采」が余靖の学識と品格を象徴して いるとしている。“風采楼”の文字(左写真中央)は、明代書法家陳白沙が茅笔字で書いた珍しいものとのこと。風采楼と北京天安门、故宫は 同時代の風格を持つ建築物とのことである(説 明はこちらのサイトから引用)。 |
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韶関ゆかりの歴史上の著名人 候 安都(519-563),字は成帰。曲江の人。陳霸先に従い侯景之乱を平定し、南徐州刺史となり陳朝建設に貢献 した。 麦鉄杖(~612 年) 隋代の人。陳の将軍から隋の将軍として高句麗出征。 張 九齢(678年 - 740年) 玄宗期の宰相。 余靖(1000-1064 年) 24歳で進士。その後赣县尉となり34歳で秘書丞となる。43歳 新県(南昌)の知県。遼への使者を4度勤める。 範仲庵、欧陽脩、尹洙と並び、4賢と呼ばれた。1064年南寧(江寧)に埋葬。 陳 璘 (1543-1607) 慶長の役で活躍。 |
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左写真は韶石山。 始興から韶関へ向か うルートの北側に、韶石山と呼ばれる場所があり、そこは、昔、舜帝がこのあたりに来たときに、岩の上で演奏をした故事が ある山とのことで、奇岩が並んでいる(韶 石山の解説はこちらにもあります)。舜帝は、山に登り、百越族の巫歌である韶楽を奏でた。そこで、これを聞 い苗族が武器を置き、周囲の山や石が動揺し、変形して今のような奇岩になったとのこと。韶石とは、これにちなんでつけら れたとのことである。他に湖南の韶山が舜が演奏したところとされている。この韶石という場所が、韶関の語源。韶楽につい ては、BC517年、孔子が斉にて韶楽を聞いたという話が残っているそうである。 |
韶関博物館はこちら。韶関市には、珠玑古巷という、唐宋代に繁栄した宿場町ゆかりの地区や、唐代に開鑿 された、江西省から広東省へ抜ける梅関古道という古道、清代の 客家の園屋、満堂客家、南雄の三影塔などがある。南雄には南城門が残る。趙侘城(東昌河 南鎮)、秦関(秦代の関所跡)(仁化県北方の城口鎮)も残っているらしい。韶石山には古代の街道である、韶 石栈道というものもあるとのこと。 |
清代には、韶関に太平西、太平北、太平東という3つの税関があり、関税収入で栄えたとのこと。 道光年間韶関 に、13の関の関税のうち、13分の1以上の関税が、韶関の太平関から得られた。 韶関は、広東省広州から高速バスで北に向かい、2時間で韶関につく(約200㎞)。
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