この記事は、「わりと知られていない
女性君主の話」の姉妹編という感じでまとめてみました。 知られているかどうかの判断基準はまったくの私の独断です。また、現存作品があること、作家としての個性が作品そのものや、伝記 などを通して知られていること、が条件です。例えば、サッフォー、班昭などはよく知られているので対象外、卓 文君、謝 道韞などは、現存作品が少なすぎるため、対象外としました。「女性君主」の記事同様、新たに見つけた人を追加してゆ きだいと思います。アンナ・コムネナはメジャーだと思いますが、将来邦訳が出てほしいと宣伝するために入れました(2019年 12月日 本語訳が出版されました)。インドについ ては、情報が少ないので、現存作品のあるだけのものでも掲載しました。 1.エ ンヘドゥアンナ王女(前23世紀) 古代メソポタミアのアッカド王サルゴンの娘でシュメル都市のウル市のナナ神殿の女神官に任命された。アッカド人はシュメルとは 異民族であり、アッカドのシュメル征服後の支配の一環として派遣されたものであり、高度に政治的な配属だったと考えられる。兄弟 のリ ムシュ王の時代まで同神官にあったようである。当事は有名人だったようで、著作は複写されて、死後にも粘土板の写し が作られ、メソポタミアの各地で多くの粘土板断片が出土しており、ウル第三王朝時代の衛粘土板や、イシン・ラルサ期(前 19-20世紀)の彫像などが発見されているそうです。 シュメール語とアッカド語を解し、両方の神話が融合した作品を書いた。『イ ナンナ女神賛歌』(153行)、『In-nin sa-gur-ra』(274行が残存)、『イ ナンナとエビフ』『神 殿賛歌集』 『ナンナ賛歌』などが出土粘土板から復元された。確認されている範囲ではシュメルとアッカド双方の寺院への42の賛歌集を編集し、37の粘土板が発見され ている。賛歌は、王女の死後も神殿で歌われ続けたと考えられているそうです。『イナンナ女神賛歌』では、兄王リムシュにより、一 時的に神官職を解任されていたころのことが記載されていて、一人称で自身のことを記載している現在確認されているところでは、最 古の一人称文章とのことです。 参考文献 小林登志子著 『シュメル - 人類最古の文明』、中公新書、2005年10月(『イナンナ女神賛歌』のうちの数行の翻訳が掲載されている) 関連書籍・英語翻訳版等 ・Princess, Priestess, Poet: The Sumerian Temple Hymns of Enheduanna (Classics and the Ancient World) Paperback – May 1, 2010、Betty De Shong Meador著 ・Inanna, Queen of Heaven and Earth: Her Stories and Hymns from Sumer Paperback – August 3, 1983 by Diane Wolkstein (Author), Samuel Noah Kramer (Author) ・Inanna, Lady of Largest Heart : Poems of the Sumerian High Priestess Betty De Shong Meador著, Judy Grahn著 ・The Oracle of Enheduanna Kindle Edition Warlock Asylum等著 、2013年、 ・Humming the Blues: Inspired by Nin-me-sar-ra, Enheduanna's Song to Inanna Paperback – October 1, 2008 by Cass Dalglish ・The exaltation of Inanna, (Yale Near Eastern researches 3) Hardcover – 1968 by William W Hallo 2.ドゥオダ(803 年頃-843年頃) 9世紀カロリング朝時代南仏貴族の女性。南仏セプティマニア地方のセプティマニア伯ベルナルドゥス(-844年)と824年に 結婚。二男をもうける。841年に長男ウィルヘルムス(-849年)が16歳になった時(宮廷に出仕が決まった時)に長男への遺 訓書をラテン語で書きはじめ、一年後に完成した。841年はフランク王国の分裂を決定づけたフォ ントノワの戦いの年であり、深刻な国王兄弟の争いに諸貴族が巻き込まれ、政情不安にあった時期であり、ドゥオダの遺 訓書は、病弱な身に死期を悟った母親が、長男に向けて書き上げた、不安定な世を生き抜くための処世訓でした。しかしその甲斐な く、夫も長男はドゥオダの死後しばらくして西フランク王に処刑されています。 ドゥオダの遺訓書は、『母が子に与うる遺訓の書 ―ドゥオダの『手引書』』という題名で2010年に知泉書館から邦訳が出版されています。邦訳書の本文200頁程。 前半は、神や教義、君主や父親への服従が説かれ、聖書から道徳訓が多数引用され、著者本人の主体性が文面からはあまり感じられ ないのですが、神・君主・肉親というように、抽象的なものから身近なものに話を落として行く、整然とした手順で切々と言いきかせ る構成力には、著述家としての主体性が感じられます。一般的な道徳の合間にドゥオダが挟み込む処世訓は、敵対者に内容を見られた 場合、不敬罪等の謗りを受け生命さえ失いかねないようなもので、うまく文章の隙間に息子への警句を埋め込む手際は見事です。章題 も著者本人が、読者(息子)の検索の便宜を図って意図してつけたもので、明確な意図をもって全体が編集されていることがわかりま す。キリスト教道徳を鸚鵡返しになぞって引用しているだけの、主体性の感じられない著作なのかも、との先入観で読んだのですが、 まったく違いました。これは立派な文学です。 3.ロ スウィータ(935-973年以降、1002年説もあり) 現ニーダーザクセンに現存するガン ダースハイム修道院(852年建設)の修道女。多くの劇作・詩作を行い、作品はほぼ現存する。 4.アンナ・コ ムネナ(1083-1153年) ビザンツ皇帝アレクシオス一世(1057-1118年/在1071-1118年)の長女。ギリシア語で父帝の伝記『ア レクシオス伝(アレクシアッド)』を残した。『アレクシオス伝』は全15巻で英訳版は約600頁。日本語版 Wikipediaのアンナ・コムネナの項目では、アンナの夫ニ ケフォロス・ブリュエンニオス(1062-1137年)が「アレクシオス伝」を途中まで書いていたと解釈できる文章 がありますが、これには説明が必要です。確かに彼はアレクシオス妃エイレー ネー・ドゥーカイナー(1066-1137年)に依頼されて、アレクシオスの伝記に着手したのですが、彼が書いたの はアレクシオスの誕生から即位くらいの部分(1057-1081年)だけで、全15巻のうち最初の2巻(もしかしたら3巻の一部 も)に相当しています。本書のほとんどは妻のアンナ・コムネナが書いた部分なので、通常『アレクシアッド』はアンナ夫妻の共著と はされていないのです。ただし、アンナが書いた部分の史料の多くをニケフォロスが収集していた可能性はあります。アンナは 1148年に父の伝記を完成させました。 ところで、今これを書きながら知ったのですが、アンナの夫ニケフォロスは、アンナの母親のエイレーネーより年上だったのです ね。。。。 夫ニケフォロスはアンナより20歳よりも年長とは知りませんでした。『アレクシアッド』はいつかは読んでみたいのですが、邦訳が 出る可能性もありそうな有名著作なので、あと20年くらい待ってみて邦訳が出そうもなければ英語版を読もうと思います。 5.ピ ンゲンのヒルデガルト(1098-1179年) 中世ドイツの女子修道院長、ドイツ薬草学の祖、中世キリスト教楽曲の作曲者。女王・諸王妃や女領主とジャンヌ・ダルクを除け ば、 西欧中世でもっとも著名な女性なのではないかと思います。この人は著作の邦訳や伝記が日本でも結構出ているので略。そればかりか、彼女 の作曲した曲のCDもいくつか出ているのを知って驚きました(JPアマゾンで検索しても出てきます)。ヒルデガルトの伝記映画の 紹介はこ ちら。 6.マ リー・ド・フランス(11世紀後半-12世紀初) プランタジネット朝宮廷で活躍したと推測されている詩人でイソップ童話等をラテン語著作からフランス語に翻訳した。 7.ク リスティーヌ・ド・ピザン(1365年頃-1430年) ヴェネツィア出身でパリに移住し、フランス語で著作した著述家。著述業で生計を立てた最古の女性の一人と考えられている。父親 のトンマーゾ・デ・ベンヴェヌート・ダ・ピッツァーノ(1315-1320年頃)はボローニャ県のピッツァーノ村出身だと考えら れていて、ボローニャ大学で医学と占星学の学位を取得し、1342年から56年までボローニャ大学で教鞭をとった知識人だった。 1356年から1365年の間ヴェネツィアに住み、1365年クリスティーナが生まれた。トンマーゾは1365年から1368年 に再びボローニャに住み、その後フランス王シャルル五世(1338-1380年/在1364-1380年)に招かれ、父とともに パリに移住した。1380年頃15歳で国王の秘書兼公証人である貴族と結婚し、三人の子供をもうけたが、1387年に父親が死 没、1390年には夫が死去した。そこで王侯貴族達に有償で詩作や伝記などを書くようになり、次第に製本工房経営も兼ねた著述業 者と なった。初期にはバラードとロンドーなどの、当時のフランス文学における定型詩作が多かったが、次第に訓育書や女性への偏見や蔑 視に対して女性を擁護する評論が増えた。代表的な女性蔑視著作として1世紀前の作品『薔薇物語』を批判 し、同書を擁護するパリ大学の知識人と一大論争を巻き起こした。 『オテアの書簡』(女神オテアからヘクトールへの書簡)、『運命の変転の書』『三つの徳の書、あるいは女の都の宝典』『女の都』 『薔薇物語論争』『百のバラード』『クリスティーヌの夢の書』『長き研鑽の道の書』『政体の書』『平和の書』『愛神への書簡』 『二人の恋人の論争』『三つの愛の審判の書』『ポワシーの物語の書』『真の恋人たちの公爵の書』『人生からの牢獄の書』など多数 の著作を著した。殆どの著作は1399年から1418年の間に書かれ、その後1429年にジャンヌ・ダルクを称える詩集を出版し た。 参考文献 『フランス宮廷のイタリ ア女性―「文化人」クリスティーヌ・ド・ピザン』 マリア・ジュゼッピーナ・ムッツァレッリ著、知泉書簡、こ ちらのPDFの中世細密画の中央女性がピザン。 『西 洋服飾の史的事象によるジェンダー論( マリア・ジュゼッピーナ・ムッツァレッリ ; 山崎彩訳 )』 伊藤 亜紀、水野千依、新實五穂著、服飾文化共同研究最終報告 2010 (2011-03) 伝記映画:『クリス ティーヌ/クリスティーナ(Christine Cristina (2009) )』(イタリア) 8.ソ ル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルス(1651-1695年) メキシコの荘園小領主の娘。メキシコシティ近郊のサン・ミゲル・ネパントラ村出身。母親イサベル・ラミレルの父がスペインから移 住してきた。両親は正式な結婚をしておらず、父親はフアナが幼少の頃に母親と別れたようである。母親が農園を経営して一家の生活 を支えた。フアナは姉とともに地域の私塾に通い、5歳までに読み書きを覚え、祖父が所有していた書籍を読んで育った。10歳頃メ キシコシティの叔母の家に預けられ、1664年頃叔母の夫のつてでヌエバ・エスパーニャ副王の宮廷に副王妃侍女として採用され た。同年副王に就任したマンセーラ侯爵夫人の知遇を得て宮廷の寵児となった。1668年にカルメル会の聖ヨセフ修道院に入り、 1669年にサン・ヘロンモ会の修道院に入りなおした。修道院に入るための巨額の持参金は副王政庁の治安担当長官であるペドロ・ ベラスケス・デ・ラ・カデーナが出した。8歳頃には既に大学の存在を知り、同時に女性が入学できないことを理解したため、自分の 才能に肩入れしてくれる後見人を見つけ出し、生涯学問を続けるために修道院入りをしたわけである。修道院入りしてソル・フアナ・ イネス・デ・ラ・クルスという宗教名を選び、以降死没までの27年間、ほとんど修道院を出ることなく研究・著作活動をして過ごし た(故郷の母親の葬儀には出席したようである)。最初の十年間程は、依頼られた聖歌や敬弔詩を作っていたが、1680年以降世俗 著作を書き、1693年に突然断筆するまで続 いた。1680年はラグーナ侯爵が着任した年で、同世代のラ グーナ侯爵夫人マリア・ルイサの知遇を得、恋愛詩や戯曲を量産するようになった。同時期のサン・ヘロニモ修道院の面 談室は副王夫人とフアナを中心とする文芸サロンとなっていたとされる。夫人は1688年にスペイン本国に帰国し、1689年にソ ル・フアナの抒情詩を集 めた作品集を、1692年には長編詩や世俗戯曲を含む『作品集第二巻』を出版した。1693年突然断筆し、収集していた実験器具 や書物を全て売却し、苦行生活に入る。1694年、「この世でもっとも罪深い女」という告解文を書き、1695年死去。1700 年に三冊目の作品集『名声と遺作』が出版される。ソル・フアナが断筆した理由は定かではなく、さまざまに議論されている。伝記映 画では、当時の社会にあって、女性が神学を語ったり、学問をすること、男性と同じことをすることを非難され、潰されてゆく悲劇と して描かれている。最初のメキシコ人意識を持った作家としても重要とされる。 ソル・フアナの作品の邦語訳は、一部の書簡が『知への賛歌―修道女フアナ の手紙』(2007年、光文社文庫)として出版されている。US アマゾンやス ペイン・アマゾンでは、多数著作が出版されている。 伝記映画:『Yo, la peor de todas(この世でもっとも罪深い女)』(1990年) 9.唐 代四大女詩人 著述家ではなく、詩人ですが、唐代の女性詩人の詩が数は少なからず現存しているようです。『全唐詩』所収の作者2955名のう ち、女性は132名いるそうです(うち名才(56人)、無考女子29名、伎女(女道士・尼を含む)24人、女仙23名)。そのう ち、李治(-784年)、魚玄機(843/4年−868年)、薛濤(768ー831年)、劉采春(不明)の4名は唐代四大女詩人 と呼ばれているそうです。彼女たちは職業詩人ではなく、妓女や道士(道教の修道士)だったそうです。詩集は、最初の3名の詩集が 国会図書館にあります。日本語訳は、魚玄機と薛濤については『漢詩大系15 魚玄機・薛濤』(辛島驍訳注、集英社)があるそうで す。 『唐女诗人集三种』 出版社: 上海古籍出版社、1984年3月 9-1.李 治(709年頃-784年) その生涯については、『太平広記』(宋代)『唐音統籤』(明代)『全唐詩』(清代)『唐才子傳』(元代)等多くの書籍にあり、 現存するのは16首とのことです(上掲書には19句掲載されています)。また、上の「李治」のリンク先にも数首掲載されていま す)。現在確認できる限り、それまでの中国史上、詩文の類の著作物が残っている女性は、3世紀の学者の娘蔡 文姫(現存2首)や5世紀の官僚の妹鮑 令暉(現存7首)を除けば宮廷関係者だけに限られていたようなのですが、李治以降、民間での女性詩人が輩出するよう になったとのことです。民間出身女性詩人の先駆けとなった点で知られているようです。 現湖北省or浙江省に生まれたと考えられ、5,6歳の時薔薇の詩を詩作し、「時を経るも未だ架却せず、心緒乱れて縦横たり」と 詠み、父親が、「娘は将来文才を発揮するだろうが、人の行いから外れる女性となるだろう」と嘆じたそうです(この逸話は類似のも のが薛濤にもあり、定型化された内容との可能性があるとのこと)。のちに出家して女道士となり、地域の文人たち(基本的に男性だ け)の文学サークルに出入りしたそうです。『太平広記』では「詩豪」と称されたと記載されているそうです。天宝時代、詩才を伝え 聞いた玄宗皇帝に宮中へ招かれ贈り物を賜ったとの伝えがあるそうです。同時代の男性詩人から女だてらにと批判されたり、男性ばか り の文学サークルで出入りする様子は浮名を流すようにもとられていたようです。末年は、783年に反乱を起こした武将朱(742-784 年)に詩を献呈したことを咎められ処刑された、という伝えも残っているそうです。 参考文献 横田むつみ『唐代女性詩人李冶論 : その人物像について』(PDF) 二松学舎大学人文論叢79巻pp152-170,2007年10月 同『唐代女流詩人李冶論 : 人物像を中心に(中国学,研究発表,第93回二松學舎大学人文学会大会講演題目・研究発表要旨)』二松学舎大学人文論叢,77,157-158 (2006-10) (PDF) 9-2.薛濤(768-831 年/770-832年) 日本語Wikipediaに概略が記載されているので概略紹介は省略します。明代の『名 媛詩歸』(350名の女性詩人の作1600種を掲載する)や『唐 詩紀事』『唐才子傳』に伝記があるそうです。『唐女诗人集三种』 に70首が掲載されています。約500首を詠み、うち現存するのは88首とのことです。 下級官僚だった父親が成都に赴任後歿し、16歳頃生活のため妓楼に入り(母親を養ったようです)、20歳頃、西川節度使として 赴任してきた韋皐(い こう、745-805年、西川節度使在任785-805年))がパトロンとなり、以後その庇護下で多数の詩作を行ったとのことで す。韋皐死後、後任節度使武元衡(758−815年、西川節度使在任807-813年)により、妓楼を辞めることを許されたが、 既に知名度・社交圏が確立していて、また発明した小型詩箋の収入で生活できたようで、成都郊外の浣花渓という場所に隠棲し、晩年 は女道士の服装をしたそうです。唐代の有名詩人元 稹(779-831年)とも交際があったそうですが、生涯独身で死去したそうです(元稹は成都に赴任してないような ので、付き合いの実態は不明です。文通恋人?でしょうか)。詩作の内容からすると、相当冷静な人だったようで、恋情に流されるタ イプではないと考えられているそうです。 参考文献 井波律子『破壊の女神』新書館、1996年 9-3.魚 玄機(843/4年-868年) 元代辛文房編集『唐 才子傳』、晚唐皇甫枚編『三水小牘』、宋孫光憲編『北夢瑣言』、『全唐詩』(清代)等に伝記があるそうです。皇甫枚(841-911 年)の伝記風物語は、『唐宋伝奇集』に収められています。伝奇というより半分小説ですが、事実である可能性が高そうです。なぜな らば、 彼女は唐の都長安で殺人を犯して処刑されたのですが、弁護する人が多かったため、長安当局は事件を公表して意見を具申したとされ る事件だからです。皇甫枚は同時代人ですから、魚玄機の自供内容も公表内容に入っていて市中に知れ渡った可能性があり、皇甫枚の 作品の内容はほぼ事実である可能性もありそうです。それによると、魚玄機は長安の民家の出で、860年頃女道士となり、詩作をも のにし、名が知れ渡り道観(道教の寺)を名士・文人が訪れるようになったそうです。ある日、召使が自分の不在中にどこかの男性と 不義を成していると思い、召使を鞭打って殺して庭に埋めてしまった。後日客が発見し、逮捕されて処刑された、とのことです。 『唐才子傳』『全唐詩』には、幼少期について別の情報があり、李 億という官僚の妾となるが、嫉妬深い正妻に追い出され、道観に入ることになった、とあるそうです(唐 代四大女诗人の記事から)。10歳にして有名詩人温 庭筠(812-?)に知られるようになり、詩のやりとりをするようになったそうです。李億に嫁いだのは15歳、17 歳にして追い出され、22歳で出家。この時幼名の幼薇を玄機と改名したそうです。しかしその後も李億とつきあいは続き、くだんの 召使と不義を犯したのは李億とされ、魚玄機24歳の時のこととされているそうです。彼女の逮捕後、弁護に奔走したのは温庭筠との こと。 井波律子『破壊の女神』には、出典は記載されていないのですが(『唐才子傳かも知れません)、更に詳細な記載があります。幼い 頃に妓楼経営者の養女となり、両親も、養女の才能が金になると考え家庭教師をつけて教育した。ある日、道観に遊びにいったとこ ろ、科挙に合格した人が、合格記念に、壁に氏名を記載しているのを見て、女性がゆえに科挙を受けられない身を嘆き、合格した男性 陣を羨む詩を残したとのことです(この詩は現存していて、『破壊の女神』に掲載されています)。その後李億の妾となるも、李億に 新しい愛人ができて追い出され、道観に入ったとのこと。その後、殺人事件が起こるのですが、井波氏によれば、不在中侍女が不義を 働いたのは魚玄機の恋人だとなっていて、強烈な嫉妬から事件に至ったのだ、とされています。 『唐女詩人集三種』には48首が収められていて、冷静な薛濤とは対照的に、非常に情熱的なスタイルとのことです。 参考文献 井波律子『破壊の女神』新書館、1996年 唐宋伝奇集(下)岩波文庫、1988年 9-4.劉 采春(不明) 薛濤の15歳ほど年下という伝えもあるそうです。現江蘇省准安or現浙江省紹興出身で、参軍戯と呼ばれる唐代の演劇(道化芝 居)の芸人だったそうで、120首を詠み、現存しているのは6首とのこと。参軍戯とは、玄宗皇帝の開元年間に、この劇を演じるの がうまい李仙鶴という人が、玄宗から韻州同正参軍に任じられたことから、「参軍戯」と呼ばれるようになったとのことです。参軍戯 を演じるのは男性なので、女性である劉采春は当時としては例外的な存在だったようです。彼女は、参軍戯に歌唱を導入したとされて いるそうです。夫や娘、夫の兄弟も含めた一家全体で劇団を経営していたようで、この点では芸能を職業とした女性と見ることができ そうです。この芸人一家は、江浙一帯で名声を博していて、浙東観察使だった詩人元稹(在任822頃-829年)の賞賛を得たとの こ と(唐 代四大女诗人の記事から)。 10.李 清照(1084-1153年) 中国史上の女性詩人の中では最高の詩人だと評されることもあるそうです。高級官僚の父親李 格非(-1106年、『洛陽名園記』の著者)の娘として現済南で生まれ、少女の頃から詞(ツー)の名手とされた。 1101年18歳の時、太学の学生で後の宰相趙 挺之(1040年−1107年/宰相在任1102-1107年))の三男趙 明誠(1081-1129年)と結婚、2年後夫は仕官したが1107年、父の失脚・死没により夫は服喪の名目で現山 東省青州に隠棲、夫婦共通の趣味である書籍収集・校勘してすごす。1127年に金王朝が侵攻し北宋の滅亡により江寧に移住。 1129年に夫が南宋政府に招聘されるが病没。約2万巻の書籍と2000冊の拓本を抱えて避難中、1131年紹興で盗賊に合い、 殆どの蔵書を損失した。1134年か5年頃、夫の残した膨大な金石文を編集した『金石録』を編集し、自伝的文章「金石集後序」を 記載した。もっとも有名な詞は『声 声慢』で、晩年の作品とのことです。 自伝が残っているところに興味を惹かれます。現存する中国史上最初の女性の自伝かも知れません。いつか読んでみたいと思いま す。 日本語書籍 日本語訳 『漱玉詞―新訳 (1958年) 』 花崎采琰 訳、新樹社 『李清照詞選訳』2008年、 内田紀久子訳, 宋英監修、 ふたば工房 紹介書籍 『魅惑の詞人 李清照』 、2001年、原田憲雄著、 朋友書店 『李清照 その人と文学 (中国古典入門叢書) 』、徐培均著、日中出版、1997年 11.段 氏点(Đoàn Thị Điểm(ドアン・ティ・ディエム)/1705年−1748年) ベトナムの後期黎朝(1532年-1789年)時代の女性文人。貴族の家庭に育ち、儒学を 学んだ。1742年都御史グエン・キエウ(Nguyễn Kiều/阮翹/1694―1771)と結婚した。仏典注釈書や詩を著 し、紅霞と号した。ケ 陳琨(Đặng Trần Côn/ダン・チャン・コン/1710-1745年)が漢詩で作成した中編詩『征 婦吟曲(Chinh phụ ngâm khúc)』 をチュノムに翻訳した。他に 「步步蟾」 伝奇新 譜」「続伝奇」「碧溝奇遇」「横山僊局」「義丈屈描」などの作品がある。胡 春香( Hồ Xuân Hương/1772-1822年)や青 関縣夫人(Bà Huyện Thanh Quan/1805-1848 年)、湯 月英(Sương Nguyệt Anh/1864-1921年)に次ぐベトナム史上有名な女性であるとされる。(この人については、日本語文献では『ベ トナムの詩と歴史』(川本邦衛/1967年/文芸春秋社)くらいしか情報がなさそうです。作品の現存部分の詳細 も不明です)。 12.中近世のインドの詩人 どちらも朗誦詩人で、著述家とは違います。両者は宗教の吟遊詩人に近く、どちらかといえば歌手に近い存在です。もしかしたら 読み 書きもできなかった可能性があります。それ以前に、殆ど伝説的人物であって、この程度の存在であれば、西洋や中国史上では多数見出すことができそうです。 この意味で著述家とは明らかに違うし、この記事の趣旨とも少し外れるのですが、一応調べたことではあるし備忘録をかねて記載 しました。 12-1)ラー ル・デッド(1320-1392年) カシミール地方のシュリーナガル(スリナガル)東南郊外のパーンドレータンでパンディット(サンスクリット知識人)の家庭に生まれた。詩の 内容から、家庭で教育を受けたものと考えられるとのこと。12歳で結婚したが24歳でサニヤサ(求 道者)になるために家を出てシヴァ派の導師に師事した。「ヴァーク」と呼ば れるカシミール語の神秘詩の開始者となった。ヴァークは現代まで継承されている。彼女の詩は、シヴァ派の宗教的な内容を謡っ たものである。口承で後世に伝えられた。 詩は『ラッラーヴァークヤーニー』(パブリックドメイ ンはこちら)等の題名で英訳等がされている。 12-2)ミー ラー・バーイー(1498-1546年) ミーラーに関する同時代記録はなく、伝承に基き後世に記載された資料により伝記が再構成されている。それによると、ミー ラーはラジャスターン地方のラージプート族のなかの小王国の王家に生まれ、1516年にメーワール王国のボージラージ王 子と政略結婚した。王子は1518年に負傷し21年に死去した。その後ほどなく父も義父もムガル朝のバーブルとの戦闘で死没 した。伝承では新王ヴィクラマ・シンに何度も暗殺されそうになったしているが、聖人伝では新王の送った毒蛇はクリシュナの化 身であるとされたり、河に飛び込み自殺するよう告げられて身投げしたところ、水に浮いて助かった、という話になったりしてい て、更にミーラーが家を出る前に死没しているラビダスがミー ラーの師とされていたり、ミーラーの死後の話(音楽家タンセンがアクバ ルとともにミーラーを訪問し真珠の首飾りを与えた話。タンセンがアクバルの宮廷に伺候したのはミーラーの死後)があるなど、 創作と考えられるものも多いとのこと。17世紀に記録された伝記では、幼年時代や結婚、嫁ぎ先で迫害されたことなどは記載さ れていないとのこと。伝承では巡礼の旅に出て、愛の賛歌を歌いながら旅し、最後の年にはグジャラート地方のヒンドゥー教七大 聖地のひとつでクリシュナが 治めたとされるド ワールカーや、クリシュナ生誕の地とされる現ウッタル・プラデーシュ州のヴ リンダーヴァンでクリシュナの化身と合一した、とされる。 現在では数千の詩(グジャラーティー語)がミーラーに帰せられているが、早期に記録されたのは2つに過ぎず、残りは18世紀初頭になってから文字化されたもので、もっと も分量のある詩集は19世紀のものであるため、ミーラーその人の作品であるかどうかは確実ではないとされる。ミーラーの 作品とされるもののうち、数百についてのみ、学者によりミーラー作が確実視されているとのこと。詩の多く は、現在一般にバジャン(イ ンドにおける神々への賛美歌)として知られている。 ミーラーの詩において、クリシュナは修道者で愛しい人であり、ミーラーは自身をヨーガ行者と位置づけ、クリシュナと至 福の結婚に至ると考えている。 美莉亜訳『ミ ラバイ訳詩集 ―クリシュナ讃美歌集』 (星雲社/2005年) インド映画『ミー ラー』(1979年) 13.グルバダ ン・ベーグム(1523–1603年) ムガル帝国皇帝フマーユーン(在1526-1556年)の異母妹(末娘)。甥のアクバル帝の依頼を受けて、 『フマーユーン・ナーマ』を書いた。17歳でチャガタイ汗国の武将キジル・カワージャ・ハーンに嫁ぎ、1557年までカーブルで 過ごした。1557年にアクバルの招きでアーグラに移った。『フマーユーン・ナーマ』は、グルバダンの記憶によるフマーユーンの 年代記で、当時の学識者が用いた過剰な修辞のない簡素なペルシア語で書かれた。形式は父親の回想録『バーブル・ナーマ』を参考に していると思われる。写本はほとんど作成されなかったと考えられ、現存部分も最終章含む一部が失われている。同時代のムガル朝の 著述家にはほとんど言及されておらず、歴史家にとってもムガル朝の後宮の資料ぐらいの重要性しかもたれ無かった。グルバダンはペ ルシア語とトルコ語を流暢に話し、詩作をしたが、二つの19世紀最後の皇帝バハードゥル・シャー二世や18世紀の詩人ミー ル・タキー・ミールが引用した二つの韻文と1つのカスィーダ(頌詩)以外は現存していない。『フマーユーン・ナーマ』の英 訳はこちら。 14.ガンガー・デー ヴィ(Ganga Devi) ヴィジャナナガル王国サンガマ朝第二代ブッ カ一世(1356-77年)の息子クマーラ・カ ンパナの妃。夫の第二王子の、イスラム教国であるマドゥライ国遠征を詩的年代記で記載した作品『英雄カンパ・ラーヤ の行状伝(マ ドゥラ・ヴィジャヤム(マドゥライの征服物語)』(Veerakamparaya Charitram/Virakamparaya Carieの題名でも知られる)』を書いた。9章からなる。最初の方でヴィジャヤナガル王国の歴史や現国王、夫である王子の少年 期について語られ、中盤でカンチープラムの征服、最終章でマドゥライの征服が語られる。 □関連文献 『カルナータカ宮廷文学の歴史』太田信宏、2006年(PDF) 15.ホ ンナンマ(Sanchiya Honmamma)(1700年前後) 1680年頃の誕生と推測されている。マイソール王国の女官。カンナダ語で ”Hadibadeya Dharma(ハディパデャ・ダルマ”(Duties of a Devoted Wife/貞女のつとめ)を詩文で書いた。全9章、479の詩が残されている。インドで は男子の誕生を女子よりも価値のあるものとした宗教社会的伝統の中にあり、女性を産むことは損失ではない、と述べた。サンスク リット古典である『マヌの法典』『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』などを引用している。寛容な観点で女性の結婚について記述し ている。女性の悲しみや失望についても語り、女性の扱い方に関して、男性にも進言している。抒情詩の才があり、人間的感情に満ち ている。夫を待つ情勢の肖像を非常に詩的に描いている。 『Rani Honamma』(1960年)という歴史映画作品があるが、14世紀のハルジー朝のスルタン、ア ラーウッディーン・ハルジーの妻or愛人?のラーニ・ホナンマを扱った作品の模様。 16.シュリンガーランマ カンナダ語で『パドミニーの結婚(Padmini Kalyana)』を著す(1685年頃)。南インドのティルパティ寺院に祀られたヴェンカテーシュヴァラ神とその配偶神パドミニーとの結婚を描く。 □関連文献 『カルナータカ宮廷文学の歴史』太田信宏、2006年(PDF) |