自力村

 

紹介

 

  開平碉楼は明朝後期に起源し、20世紀初に華僑文化の発展に隆盛し、独特な華僑建築群を残した。現在1833基の建物が 残り、うち、200あまりが保存対象となっている。これら建築は、防衛の為、一部は高層楼閣となっており、正式名称は 「碉楼」。現在世界文化遺産申請中とのこと。

 自力村は、塘口鎮にあり、15座の楼閣がある。1920から30年代に建設された。自力 村の名称は、1950年代の「自力更生、奮発図強」というスローガンに因んでいるとのこと。村は1837件に設置された 安和里(俗称犁头咀(地形が起源))、1905年設置の合安里(俗称新村)、その間に形成された永安里(俗称黄泥岭)か ら成る。1949年三村合併し、自力村となった。

 開平自体の起源は、万氏にあり、万氏祖万道盛(1243-1306)にあるとのこと。 1266年に進士となり

度宗の長女と結婚。1279年楊太后の命令で万龍渓、万龍池その他と岡州平康劭(現開平市 百合葉崗)に移ってきたらしい(このあたり、ネットで検索してもヒットしないので、写し間違いかも知れない)。その後、 塘口赤水、三合などに広まっていったらしい。華僑は、19世紀末から、3つのルートで開平から広まっていったとのこと。

1.開平->台山、広海->東南アジア

2.開平->台山、赤渓->マカオ ->東南アジア

3.開平->広州->香港・マカオ ->東南アジア、北豪州、中豪州

20世紀に入ってからは、開平 ->広州・江門->香港->北米・南米・東南アジアに広まったとのこと。

 

開平市の現人口は68万、出身華 僑は75万で、全世界67カ国に住んでいるとのこと。

最上段左上は村の広場。古代ローマ のフォルムや欧州の村落を思わせる。広場に面した一部の民家が博物館として公開されていて上記情報が記載されていた。上 写真は、その民家のかまど。間取りはほぼどれも同じで、前後にかまど付の部屋があり、この前後室は2階がある。中央に2 階まで吹き抜けの大きな部屋がある。 

 

 

 

   

 2段上左写真の奥 は、耀光别墅( 1923 年)、手前は、龙胜楼(龍勝楼 1917 年)。同写真右は、球安居庐(球安居蘆 1920 年)。これら高層楼閣には今は人は住んでいない。

 自力村には全部で15の楼閣があるが、このう ち、3,4つが内部公開されている。上記3点は、台所と個人の部屋。上写真は小さい部屋。机と畳のベッドがある。右上は 大きい部屋。ベッドが立派。左下は云幻楼( 1921 年)。その奥

と下段中写真は、铭石楼( 1925 年)。下写真は铭石楼から見た村落。貯水田だと思われる。

 左写真は振安楼( 1924 年)、右は逸农楼( 1929 年)の最上段。下段右は現在も人が生活している民家。結構大きい。下段中は、村の出口付近で撮影したもの。適度に林に囲まれている。下段左は遠方から村を 撮影。村はこのような平原の中にある。

最下段左端写真は、近くの他の村。開平全体では、1833の、この手の建築物が残されており、移動していると、いたるところ で目にすることが出来る。外観だけを見るのであれば、自力村である必要は無い。最下段中の池の写真は、幹線道路から村に入る T字路近くの池と、墓地。墓地のある丘の上には、鐘楼が建っており、外敵監視塔として利用されていたとのこと。

 

 

 自力村へは、開平から馬岡行き近郊バスで25分。直行は無いので村の入り口へ向かうT字路で下車。ここから歩いて 15分。近くには赤坎、立園、馬降龍碉楼群、迎龍楼、瑞石楼、方 氏灯楼、錦江里碉楼群、風采堂、南楼記念公園など多数の華僑建築群がある。

 広州から開平まで200㎞程、深圳まで324㎞。直行便は本数は多くはないが、江門などを経由すると、広州や深圳か ら1時間に1本程度あり、交通の便は良い。

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