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 古代ギリシア・ローマ文献に登場するインド関連の記載の雑記

 今回、プトレマイオス、ストラボンを参照したついでに、プリニウスとエリュトラー海案内記 も参照してみました。エリュトラー海案内記は十数年前に一度読んでいるのですが、当時の印象は、ペルシアやインドの情報が 思ったよりも少なく、がっかりしたものです。ところが、古代イランやインドの情報が希少だと深く実感できた今となっては、当 時はがっかりして印象の薄かった部分に、意外に重要な情報が登場していることに気づかされ、読み応えがありました。今回色々 知見得た知見をメモ代わりにずらずら並べてみました(以下more)。



1. 誤植・誤記の話

 このところ、立て続けに誤植と思われる数値を見つけました。重箱の隅をつつく話ですが、関心のある人々にとっては重要な話 の筈なので、記載します。

 1-1 プリニウス『博物誌』(邦訳1986年版第一巻p261)の第6巻68節に記載された、マガタ国の軍 隊の歩兵数『6万」の記載。英訳やラテン語原文を確認したところ、「60万」が正しい値だと判明(2012年の縮約版では修正されているかも知れませんが、未確認です)。「イ ンド人口史」の記事に、この件に関する詳細を記載しました。

 1-2 同プリニウス博物誌6-59節に、「(アレクサンドロス大王に)従った人々は、彼によって征服されたインドの地域 には、いづれも人口2000を下らない町が、5000もあり」と、古代のインド人口推計につかえそうな数値が出ています。し かし、ラテン語原文や英訳を確認したところ、5000の都市とCooを下回らない、とあり、邦訳の2000という数値は、 Cooのooを無視したもののようです。英訳では、ディオドロスやストラボンの同様の記載に基づいて、Cosと解釈し、ギリ シアのメロピス島にあるコス市と解釈しています。これに関する詳細も、「イ ンド人口史」の記事に追記しました。

 1-3 同プリニウス博物誌3-3節にある、イベリア半島の都市の数に関する記載部分。「他に従属する293の都市」という記載は、他に従属する293の国(部族 国)」と訳す方が正しいようです。これは通常イベリア半島の古代ローマ人口の推計値に大きく影響する部分であるため、「古代ローマ帝国の人口 推定の算定根拠(1) 通説の根拠とイベリア半島(スペイン+ポルトガル)の推計値の算定根拠」の記事にラテン 語原文・英訳文を比較し、詳細をまとめました。

 1-4 塩野七生著『ローマ人の物語 14 キリストの勝利』p206に、「ローマ側の死者は75人、ペルシア側は2万5千人の死者、との記載がありますが、アンミアヌス・マルケリヌスの原文 (24巻6-15)では、ペルシア側の損害は2500人、ローマ側は70人となっています。

ラテン語原文
tum ita rem prospere gesserat ut caesis Persarum plus minusve duobus milibus et quingentis, septuaginta caderent soli nostrorum.

上のGoogle翻訳による英訳
as well as having good success that he had done that had been cut down so the State would more or less two thousand five hundred of the Persians, being seventy persons might utterly destroy them the sun of our.

英訳サイトの記載
he had conducted the affair with such success that not above seventy of our men had fallen, while nearly two thousand five hundred of the Persians had been slain.

英訳書籍の記載(The Later Roman Empire: A.D. 354-378 (Penguin Classics) )

So successful had he been that the Persian lost approximately 2,500 men to our seventy.


 1-5 ピーター・ガーンジィ著『古代ギリシア・ローマの飢饉と食料供給』(白水社1998年)のp301に出てくる、 ローマに輸入された穀物総量の数値
 これは、前後の文章の数値を読めば、誤植か、著者の誤記であることがわかるので修正情報を流す意味はありませんが、一応古代都市ローマの人口 推計の記事に記載しました。


2.『エリュトラー海案内記』(村川堅太郎訳中公文庫)『プリニウス博物誌』に登場するインド王

 西方資料に登場するインドは、前5世紀のクテシアスや前4世紀のメガステネスの『インド誌』の情報が、ローマ時代に入って もストラボンやプリニウス、プトレマオイスに流用され続けていたような先入観がありましたが、ストラボンやプトレマイオスの 情報には、意外に同時代情報が含まれていることを知りました。ちょっと嬉しい。パルティア・サーサーン朝と同時代のインドの 史料については、殆ど存在してらず、微細な史料にはどのようなものがあるのか興味があるので、メモとして記載。

@アーンドラ王
 『エリュトラー海案内記録』に登場する「老サラガノス(52節p134)」、「サンダネース(同左)」は、邦訳の注釈によ ると、アーンドラ国第16代のAriṣṭa Catakarṇi(アリスタカルナ・シャータカルニ王(在44-69年))、第20代Sundra Ḉatakarṇi(スンダラ・シャータカルニ王(80年)と比定されています(邦訳p254:54節の註5)。『プリニウス博物誌』第六巻67節(邦訳 1986年版第一巻p261)に以下の記載があります。

 「アンダラエ族、これはさらに強い種族で、非常に多くの村々と、城壁と塔で固められた30の町々を持っている。それらは国 王に10万人の歩兵、二千人の騎兵、1000のゾウを供給している」

Aマガタ国
 『プリニウス博物誌』同67節「全インドの国民を凌ぐ勢力と名誉を持っているのはプラシイ族で、これは非常に大きく裕福な パリポトラ市(パータリプトラ)をもっている。そのためその民族そのものに、また実際ガンジス河からこちらの全域にパリポト リという名を与えるものがあるくらいだ。彼らの王は常備の60万の歩兵、三万の騎兵、九千のゾウを維持し養っている。このこ とから彼の富の巨大さが推測されよう」

 パータリプトラの座標はプトレマイオス7巻1-73に143°27°として登場しています。

 ストラボンとプリニウスのマガタ国の記載はメガステネスの記載の流用のようですが、アーンドラ国とカリンガ国が、独立した 別の国とされ、更にプリニウスには多数の少数民族の王が、アーンドラ国やカリンガ国と同等程度の兵力(歩兵5万、騎兵 4000の騎兵、4000のゾウ)を有している、とされているところが、同時代情報的な印象を受けます。

Bカリンガ国
  『プリニウス博物誌』同65節「その河畔(ガンジス河)にいる最後の民族はガンガリド・カリンガ族であり彼らの王の住む 市はペルタリスと呼ばれているという。この王国は六万人の歩兵、一千人の騎兵、700のゾウがいて、常に積極的行動を起こし うるように装備されている」

 カリンガのことかどうかわかりませんが、プトレマイオスの7巻1-93に、カッリガ(Calliga)という地名が登場し ています。

C西サトラップ王(西クシャトラパ王)
  『エリュトラー海案内記41節p127にマンバノス王が登場しています。MambarosはNambanosの誤りで、 Nahapa-na(ナハパーナ王・スキタイ・サカ系のクシャンの副王46年統治)に比定されているとのこと。

Dチェーラ朝
 『エリトゥラー海案内記』54節p135の「ケーロボトゥラスの王国」が比定されていて、邦訳注釈によれば、ケーロボトゥ ラスはケーララプトラ(ケーララの子)の意味で、王の称号を著し、プリニウス6-104に登場するカエポトラス王が、その王 の一人であったとされている。

Eパーンディヤ朝
 『エリトゥラー海案内記』54節p136/58節p139/59節p139にパンディオーンとして登場しています。プトレ マイオス、7-1-89には、パンディオーン王の都としてモドゥラ(マドゥライ/125°,16°20)の記載があり、 7-1-11にも、パンディオンの国のアルガルゥ湾(『エリュトラー海』にはアルガルー(59節p139)やコマレイ((コモリン岬)という名称が登場し ています。プリニウス6-26-105(1986年版1巻p269)には、「ペカレと呼ばれるネアキュンディ種族に属する もっと役に立つ港がある。これはパンディオン王が支配したところだが、彼の首府はモドゥラという、港から遠く離れた内陸の町 である」との記載があります。

 プリニウスに、歩兵5万、騎兵4千、象400頭を有す、とあるModresiを支配する王は、Modresiがマドラスの 音に通じるため、当時マドラス付近を支配していたパーンティヤ朝の王だと考えられているようです(これに対して、インダス川 流域にある歩兵15万を有するとされる(プリニウス6-76)女王国がパーンディヤ朝だとする説もあるとのこと)。

 インドに関する諸情報は、明らかにストラボンよりも、プリニウスやエリトゥラー海案内記の方が情報が新しく、プリニウスと エリュトラーの記載は比較的対応していることがよくわかりました。



3.アラビア海方面のペルシア関連情報

 インドの情報が地名学的・言語学的に正しいものが多いとなると、『エリュトラー海案内記』やプリニウス『博物誌』に記載さ れた、アラビアやインド国境方面のペルシア人の活動に関する情報も確度が高まるといえそうです。

 @アラビア半島東南岸側のペルシア勢力圏に関する記載
 『エリュトラー海案内記』33節(p122)にゼーノビオス島の記載があり、訳者村川堅太郎氏はオマーン南岸のクリアムリア諸島に比定している。『案内記』では、この諸島より先はペルシア に属する、と記載しています。『案内記』ではその先に続けて、セラピス島に言及しており、現マシーラ島に比定されています。記載では、幅200スタディオン(約 36km)、長さ600スタディオン(約108km)、沖合い120スタディオン(約22km)としており、現マシーラ島の 沖合19km、長さ95km、幅約13kmに概ね一致する値となっています。その次にはホルムズ海峡の幅を600スタディオ ン(108km)とする記述があり、現在の最狭部の距離33kmと、少し実測値とは離れていますが、ムサンダム半島の沿った 南北の対岸までの距離ならば約90kmと、近い値となります。

 Aペルシア湾沿岸に関する記載
 『エリュトラー海案内記』36節p123に、ペルシス湾内の商業地(湾の最奥にあるアポログーとオㇺマナ)と、これら商業 地とインドの間で行われる貿易と「縫い合わせた小舟」(ダウ船)の記載があります。当時ティグリス・ユーフラテス河河口付近 にあったと考えられいるカラクス王国に関する記載は無く、わずかに「パシヌー・カラックス」とい名前が、アポロゲーのある場 所の地名として登場しています。このカラックス王国に関しては、『案内記』の記載不足を補うかのように、プリニウス『博物 誌』6巻124-147節に、現在の書籍で一頁程度ではあるものの、若干詳しい記載があります。

 Bイエメンのハドラマウト地方

 『エリュトラー海案内記』27節p117にハドラマウトのあたりからのペルシス地方(及びオㇺマナ、インドスキュティアー (インド西部のサカ族のこと))との貿易に関する記載があります。ハドラマウト地方の沿岸には、Google Mapでみても、名前の載っていない、直径2kmに満たない2つの無人島(ひとつはトゥルーㇽラス島、もう片方は島名言及なし。村川註では現Halany 島とGibus島)が出てきますが、先のマシーラ島、クリアムリア諸島含め、アラビア半島東南岸のバブ・エル・マンデブ海峡 からオマーンの東端の間には、Google Mapで詳細に見ても、これしか島は無いので、『案内記』の記載の詳細さと正確さには驚かされます。

 Cパルティアーの町ミンナガル

  38節p125と41節p127に登場。ナガラはサンスクリット語の都城/町の意味。両者は別の町で、前者は「パルティ アーの主都ミンナガル」とあり、後者は「この地方の首都ミンナガラ」とされ、区別されています。後者のミンナガラは、『パ ルティアの駅程』18節に、「スキタイのサカ族のSacastana(サカスターナ)がある。 Paraetacenaも、サカ族の町で63schoeni。 そこにはBarda市と、Min市」のように言及されています。


 Dローマの軍隊がイエメン方面に駐留していたという話の根拠

 この件ずっと記憶にあったものの、いつどんな形で自分の記憶にinputされたのか、ずっと気になっていたのですが、今回 再読して『案内記』31節p120にその記載を見つけました。場所は、近年ソマリア海賊の件で知名度があがったソコトラ島 (『案内記』では、ディオスクーリデース島)に、「今ではこの島は王により賃貸せられ、かつ警備されている」という記載で、 註によれば、ロストフツェフなどの学者はローマ軍の駐屯と解釈している一方で否定的な学者もおり、村川氏もこれだけでは確言 できない、としていました。


 GWに古代ローマの人口推計の調査をして以降、ローマ人口推計にプトレマイオス『地理学』が役立てられないか、という話題 からプトレマイオス>ストラボン>プリニウスと移り、更に、ギリシア・ローマ文献におけるインドの情報の話と展開してきたと ころ、折りよくインド側からアレクサンドロスの遠征を描いた古い映画を見つけましたので、次回は久しぶりに歴史映画紹介をし たいと思います。

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