2013年チェコ・ロシア・スロヴァキア・スロヴェニア製作のテレビドラマ。一
話52分全4話。全編を105分にまとめた映画版もあります。9世紀に、古代スラヴ族にキリスト教を布教したキリスト教の聖
人キリルとメトディオス兄弟の伝記作品です。モラヴィア布教1150周年記念作品として製作されたとのことです。弟のキ
リル(827-869年)は本名コンスタンティノスで、臨終直前に付けられた修道氏名がキリル、兄メ
トディオス(815-885年)は本名ミカエルで、修道士になった頃に付けられた修道身名がメトディオス。キリ
ルは、世界史的な知名度としては、現在のロシア・ブルガリア・セルビア・カザフ・モンゴルなどで使われているキリル文字の
「キリル」の語源となった人物として有名ですが、スラブ圏では、スラブ民族向けの文字を創作し、聖書のスラヴ語訳やスラヴ式
典礼を導入し、スラヴ族にキリスト教を布教した人物として重要です。日本史上で言えば、仏教を広めた聖徳太子にも相当する、
スラブ史上重要な文化人です。彼らは、当時としては外交官も兼ねたような存在であり、キエフ公国成立直前のロシアやアッバー
ス朝、中世チェコ王国成立直前のチェコ、更に東フランク王国やローマなど、当時の東ヨーロッパや東地中海世界を訪問し、幅広
く活動しており、近代の国民国家史観では見えにくい当時のキリスト教世界の世界情勢を垣間見せてくれる存在です。日本では、
9世紀のヨーロッパといえば、フランク王国中心の見方が一般的だと思われますが、9世紀は、7-8世紀の危機から立ち直った
ビザンツ帝国が、周囲に積極的な影響を与え始め、フランク王国と中東欧ヨーロッパへのキリスト教布教合戦を繰り広げた時代で
あり、キリルとメトディオスは、そうした時代の趨勢を体現した人物です。 キリルについては、没後10年後くらいに伝記が作成され、『コンスタンチィノス一代記』の邦訳があります(『コ ンスタンチィノス一代記 訳ならびに註(1)』『コ ンスタンチィノス一代記 訳ならびに註(2)』。メトディオスについては、『メ トディオス一代記』という、やはり没後10年後くらいに作成された伝記の邦訳があります。キリルについては、 1983年のブルガリア製作の映画『哲学者コンスタンティン』 というドラマ、及びドラマを編集した映 画がありますが、ブルガリア版は、一部史実に基づいているものの、史実とは言いがたい「聖人伝」の映画化のような内容と なっていて、しかもかなり前衛的な展開となっています。これと比べると、2013年の本チェコ版は、普通の歴史映画として見 れます。 本作の見所は、あまり画像史料が残っておらず、映像化されていない9世紀のフランク王国・ローマ・チェコ・ビザンツ帝国の 映像が見れる点にあるといっていいと思います。9世紀のフランク王国とローマの映像化作品としては、『女教皇ヨハンナ』(2009年)、古代チェコの映像化作品としては、 700年頃を舞台としたチェコの伝説を映像化した『異教の女王』 (2009年)という作品があり、歴史再現映像としては、本作とこれらの作品とは、共通した感じがあります。本作は、キリル とメトディオスの、史料に残っていない活躍を描くとか、個性を激しく描くとか、国際謀略サスペンスばりの智謀策謀が展開され るとか、そんなことはなく、かなり淡々と『コンスタンチィノス一代記』を映像化したような作品なので、筋の展開については、 あまり解説するところがありません。一方、当時の町や生活風景の再現映像としては興味深い映像が多く、本記事では、画面 ショットの解説を中心に記載したいと思います。なお、本作の都市の再現映像は、二次元CG(人の動きや家の煙突からたなび く煙などが埋め込んである程度)で、殆ど動きがありません。概ね画面ショットの通りの場面が数秒映る程度ですが、それでも嬉 しい映像です。 実は第一話は見ることができておりません。映画版の冒頭の8分間が第一話に相当する部分ですので、第一話についてはそれ を解説し ます。第一話では、キリル誕生か ら、成長した兄弟がクリミア半島のケルソネスに赴き、1世紀のローマ教皇クレメンス一世(-101年)の遺骨を発見し、持ち帰 るところと、東フランク王国に 攻め込まれたモラヴィア公国での首都攻防戦までが描かれているようです。52分(と推測される)話を8分間にま とめてあるので、珍しい映像が多数登場しているものと推測されるのですが、残念です。 なお、以下がこの番組に登場する関係各国の領土認識。左側の囲いがフランク王国、右下の囲いがブルガリア王国、両国の間に ある中央の小さい囲いがモラヴィア公国です。ブルガリア王国は、9世紀は現在のハンガリーをも占めていたのですが、ブルガリ ア 国内で出回っている地図以外では、あまりこうした地図は出回っていないので、チェコを舞台とした本作で、このような地図を見 ることが出来て嬉しい限り。 第一話 晩年のメトディオスが早世した弟の伝記を弟子に筆記させるところから始まりま
す。以下がキリルとメトディオスが生まれたテッサロニキの町(現ギリシアのテッサロニキ)。この時代、バルカン半島
奥深くまでスラヴ族が南下してきていたことから、周辺にスラヴ人が居住していて、兄弟はスラヴ語を身につけたとされ
ています。右下がテッサロニキ市街。
コンスタンティンは都で過ごし、皇帝ミカエル三世にも拝謁し助祭になる。以下はコンスタンティノポリスの映像。聖ソフィア 教会の 右側の建物が気になる。 やがて成長したコンスタンティンはイコノクラスムス論争に参加。更にアッバース朝へ
の使節に出る。この場面は、頭にターバンを巻いたコンスタンティンを乗せた駱駝の隊商が旅をしているところしか出てこな
い。恐らくTV版にも、アッバース朝の宮廷が登場しているようなことは無いのだろうと思われるが、もしかしたら出てきた
かも知れない。残念。帰国途上、オリンポス僧院を通過したコンスタンティンは、僧院で兄と再会する。兄の名はミカエル
だったが、再会時にメトディオスと改称している。コンスタンティンは僧院に留まり、兄弟は、神学を論じったりして平和に
過ごす。下は成長したミカエル三世とその宮廷。ミカエル三世は兄弟を召し、ハザール国へ布教に出るように命ずる。兄弟は
黒海を越えて北方への旅に出るのだった。
その頃、都コンスタンティノポリスのはるか北西、現在のチェコ東部のモラヴィア地方では、成立して間もないモラヴィア公国 が強大な東フランク王国の影響から脱しようと、公と家臣たちが、ビザンツ帝国に接近、キリスト教の宣教師を招くことにした。 それを知ったフランク王国は、855年モラヴィア公国に襲来し、都Velihrad(ベ リグラッド)(大きな都、という意味)を攻め落とそうとし、壮絶な攻防戦が繰り広げられる。一方ビザンツへの宣 教師招聘の使者はコンスタ ンティノポリスに到着し、皇帝はコンスタンティンに宣教にゆくよう命じ、コンスタンティンは、スラヴ語用の文字の開発を発案 する。 第二話
モラヴィア公国の都といっても、当時は下左画像のような、木造の城郭と3階建てくらいの物見櫓が点在する、殆ど村といって いい 規模。しかし東フランク王国を退けた攻防戦は見応えがありそう。第一話を是非見たいところ。下右画像は、異教の トーテムを燃やしているところ(後述) ラ スチスラフ公(在846-870年)(下左)が貫禄があって結構かっこいい。下右は、都ヴェリグラッドの中心に ある大きめの建築物(王宮)と物見櫓。王宮の屋根は木造だが、壁は石組みであることがわかる(ただし、ヴェリグラッドの遺跡 は議論があり、まだ確定していないとのこと(後々登場するが、教会は屋根も壁も石造)。右上画像は、キリスト教を受け入れた モラヴィアで、フランク人司教の強い要請で異教のトーテムを燃やす場面。このトーテムは本記事冒頭で記載した古代チェコ映画 『異教の女王』やドイツ・ポーランド・ロシアの古代を描いた歴史映画にも登場しているので、史料に基づいたものなのかも知れ ない。更に異教の彫像(アフリカンアートみたいなやつ)も沼に捨てさせられる。 下右が宮廷。右側に座っているのがラスチスラフ公。照明は松明。大量のローソクが登場するコンスタンティノポリスの聖ソ フィア教会やビザンツ宮廷とは大きく違う(しかし、モラヴィアでも、教会や、到着したコンスタンティンの部屋にはローソクが 登場する)。下左隅の女性は公妃。中央の二人はフランク人の司祭。服装は整っているものの髪と髭が整っておらず、民族大移動 時代以前のゲルマン人の容貌を彷彿とさせる(というか、彼らもコンスタンティン同様1970年代米国ヒッピーに見える)。 863年、スラブ文字が完成し、(多分)スラブ語訳聖書も完成させ、遂にモラヴィア公国へ出発するコンスタンティンとメト ディウスを見送るコンスタンティノープル総主教フォ ティオス(下右)820-897年、総主教在858-867年、877-886年)。この年、フォティオスはま だ43歳の筈で、メトディオス(左画像の右側)は48歳の筈だが、とてもそうには見えない。左箸がコンスタンティン。 1970年代米国ヒッピーに見える。メトディオスの方が哲学者っぽい風貌。興味深かったのが、フォティオスの帽子(というよ り冠)。 一行は3-40名くらいの規模。数名の兵士と、コンスタンティンとメトディオスの弟子たち(クレメント、アンゲラーロ、ナ ウム、サーヴァなど)や、商人など(下右画像)。ビザンツの兵士が出てくるのはここだけ。道中咳を多発するコンスタンティ ン。下左は、途中立ち寄ったHradiště pohanů という村。ここも城郭、村の建築物は全部木造。その村の近くでは、住民が異教の儀式を行なっていた。動物の頭蓋骨や骨を森の木の枝に多数吊るし、薪を炊い て煙 を煽り、石を岩に叩き付けて祈祷する。一行は、村(左下画像)に招かれ、村人たちをキリスト教に改宗させることに成功するのだった。 ヴェリグラッドでの日常生活風景が描かれる、ろくろで陶器を作成したり、釜でパンを焼いたり、布を織ったり、パンを焼いたり。フランク人司祭による典礼式 では、一般 民衆はフランク(ラテン)式典礼を受け入れているが、ラスチスラフ公と側近は不満そう。しかしフランク人司祭達の要求はエス カレートし、遂に村の広場にある異郷のトーテムを燃やすことになる(第二話冒頭の右画像)。憮然とした表情で見守るロスチス ラフ公、当惑気味の一部の家臣、ほくそ笑むフランク人司祭。 下左画像は、モラヴィア公国の都ヴェリグラッドにようやく到着したコンスタンティン一行が公爵(中央の赤い服の人物)をは じめ、民衆たちに歓迎されているところ。右下画像は都ヴェリグラッドの中心部の様子。 これもヴェリグラッド中心部の様子。左下画像奥に石造の教会が見えている。右画像がその教会。かなり立派。これほど立派な 教会があったのであれば、遺跡も残っているだろうし、都ヴェリグラッドの位置も特定できる筈だが、未だヴェリグラッドの場所 が特定できてないようなので、この石造教会もフィクションかも知れない。 コンスタンティン一行は、聖クレメントの遺骸(の一部)を運んできていたようで、ラスチスラフ公(と民衆)に聖遺物の納め られた箱を示し、聖箱は民衆の手で教会に持ち込まれる。気に入らないフランク司祭達。その後、コンスタンティンたちは、子供 と青年たちを比較的大きな木造の建築物に集め、自ら開発したグラゴル文字を用いたスラブ語テキストを用いて教義の講義をする のだった。ラスチスラフも若者に混じって講義を受ける。下は学校の中の廊下につるされたカンテラ。当時のこの地域にこんなも のがあったのだろうか。珍しいので取り合えず画面ショット取得。 あと、当時のビザンツに蝋燭があったのは史実のようで、下左画像、コンスタンティノポリスのコンスタンティンの書斎に見え ています。しかし、右下画像では、モラヴィアの都に到着したコンスタンティンにあてがわれた部屋にも蝋燭が見えています(第 二話での画面ショットにあるように、モラヴィア王宮では松明が使われていて、一方モラヴィアの都の教会では蝋燭が利用されて いました。当時の中欧やフランク王国における蝋燭の普及度はどの程度だったのでしょうか。そのうち調べてみたいと思いま す)。 864年8月、東フランク王国とモラヴィア公国国境の城 デヴィン(devin)を巡って、戦争が勃発した。下左が、投石器を携え進軍してくるフランク王国軍。戦闘の場 面は無かったが、モラヴィア軍は敗戦したようで、国王ルートヴィッヒ2世(当時60歳くらいだった筈だが、本作では30代に 見える)の前に引っ立てられて、跪かされ、ルートヴィッヒの手に額をつけて降参させられるラスチスラフ。ルートヴィッヒの青 地に金糸の刺繍のあるマントが素敵。 この結果、モラヴィア公国では、再度フランク人司祭達が幅を利かすようになるの
だった。
第三話
865年。コンスタンティン一行はスラブ語訳福音書を民衆に示したり、川で洗礼を授けるなどヴェリグラッドで布教活動を続 けていた。866年になると、フランク人司祭は、レーゲンスブルク(現ミュンヘン北部約70km)にある大司教座におもむ き、コンスタンティン一行の布教活動を報告する。下左がレーゲンスブルグの再現映像。この部分の内容はわからなかったのです が、恐らくスラブ語福音書やスラブ式典礼を用いて布教活動をしている実体をローマ教会に報告したものと思われます。結果コン スタンティン一行は、ヴェネティアとローマに赴いて、ヴェネティアの僧侶やローマ教皇の前で弁明を行なうよう仕向けられ、 翌867年コンスタンティン一行はモラヴィアを去ってヴェネツィアに赴くことになるのだった。道中Blatnohradjな どの村などでもスラヴ語を用いて布教活動を続けつつ、一行は867年にヴェネティアに達した(ヴェネティア市街の再現映像は なくて残念。町がもやに包まれて運河に浮かぶゴンドラだけが見えている映像のみでてきた)。右下はヴェネティアでの宗教会 議。中央がコンスタンティン。スラブ語での布教について弁明する。弁明は受け入れられる。 続いてローマに赴く(868年)。下左がローマ俯瞰画像。右端が教皇ハドリアヌス二世(在867-872年)。この時コン スタンティン一行は、聖クレメントの遺骸を携えていた。下中央画像は、ヴァティカンの中庭で聖クレメントの遺骸の入った柩を 教皇に差し出す場面。遺骸は聖クレメントのバシリカに納められた。 ヴァティカンでの弁明。左がコンスタンティン、右側中央玉座の人物がローマ教
皇。ほとんどコンスタンティノープルの宮廷のセットと同じ(同じセットを使いまわしていると思われる)。三言語主義
(ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語の三言語のみがキリスト教の正式言語であるという見解)に対して、スラブ語布教
の弁明をするコンスタンティン。演説中に吐血したりして、かなり健康状態が悪化している。ローマでも弁明は受け入れ
られる。その結果、コンスタンティンの弟子たちは、司祭に叙されることになるのだった。
869年2月14日、元々病弱だったコンスタンティンは、そのままローマで歿した。兄メトディオスに看取られた。『コンス タンティノス一代記』では、臨終の床で、自分自身にキリルの名をつけたとされているが、このドラマではその場面は無かった (聞き取れなかった可能性もあります)。遺骸は聖クレメント教会に埋葬された。 そのころ、モラヴィアでは、かねてよりビザンツ寄りのラスチスラフの政策に反感を持っていた甥のニトラ(現ス ロヴァキアのニトラ)公ス ヴャトプルクは、レーゲンスブルクのフランク人司祭と共謀し、ラスチスラフは、冬場、狩りに出た折に襲撃され、 公位をスヴャトプルクに奪われ、レーゲンスブルクのルートヴィヒ二世の元に連行されてしまう。左がニトラの城塞、中央がレー ゲンスブルクの宮廷。右側に座しているのがルートヴィヒ2世、中央に立っているのが連行されてきたラスチスラフ公。右画像は ルートヴィヒ2世。ラスチスラフは、焼き鏝で両目を潰され、幽閉される。 第四話 870年、メトディオスは、2人の司祭とともに再度モラヴィアへの宣教に向かう
が、道中フランク人に捕らえられ、レーゲンスブルクに連行され牢獄に幽閉される。同じ頃、ラスチスラフ公を追放して
モラヴィア公となった筈のスヴァトスラフもレーゲンスブルクで鎖に繋がれて幽閉されていた(ドラマでは登場しなかっ
たが、スヴァトポルクは、モラヴィア公位簒奪後、東フランク王国に捕縛され、東フランク王国の辺境伯 WilliamとEngilschalkがモラヴィア公を統治することに
なり、スヴァトポルクは死亡したとモラヴィア人に考えられていたため、モラヴィア公の一族であるスラヴォミール(Slavomir)がモ
ラヴィア人を率いて叛乱を起こした(871年))。スラヴォミールに率いられた叛乱を鎮圧するため、フランク王国
は、スヴャトプルクを釈放し、公は蛮人の軍隊とともに、スラヴォミール一派の立てこもる要塞へ進軍する。交渉のた
め、フランク人代表(多分上述のWilliamとEngischalkのどちらかかもしれない。いづれにしてもこの
2人はこの叛乱中に死亡する)とスヴャトプルクが要塞に入ると、スヴャトプルクはスラヴォミールの前でフランク人代
表を刺殺、叛乱軍に寝返る。
873年、教皇ハドリアヌス2世が仲裁に入り、モラヴィア公国はスヴャトプルクの元に安堵され、メトディオスも釈 放され、モラヴィアの都ヴェリグラッドにやってくる。すっかり聖人装束となっている。 874年、表面的にはキリスト教に改宗したモラヴィア人だが、異教的習
俗は強く残っていた。特にスヴァトポルクの王宮では乱痴気騒ぎが日夜続いていて、メトディオスは強い懸念を
抱いていた。そのスヴァトポルクは、四方に軍隊を派遣し、公国の領域を急速に拡大させていった(この部分は
地図で進攻路が示されただけで、戦闘場面は無し)。
879年、メトディオスは、ローマにおいて教皇ヨハネス8世(在872-882年)より大司教に任じら れ、スラブ語の福音書や典礼も同時に確認された。モラヴィアに戻ったメトディオスは、弟コンスタンティンの 伝記を口述し、弟子たちに筆記させる。 885年、メトディオス死去。左画像は、晩年のメトディオス。中央画像は教皇ヨハネス8世、右画像は、教 皇ステファノス6世(在885-91年)。フランク人司祭たちは、新教皇に対して、スラブ人司教をモラヴィ アから追放し、スラヴ語典礼書などを全て処分する手紙を書かせることに成功する。このスヴァトプルクへの手 紙で「王」という称号が利用されており、これ以降モラヴィアの呼称は、王国となる。 追い立てられるコンスタンティンとメトディオスの弟子たち。半裸にされ雪の上を追い立てられる様は、第二 次大戦中のユダヤ人収容所を彷彿とさせるものがあった。 スラブ典礼派の司祭を追放した後、スラヴ語で書かれた聖書・祈
祷書・福音書などの文書は全て広場で燃やされる。こうして、コンスタンティンのメトディオスによ
る、モラヴィア(現チェコ)における不況活動は、無に帰したのだった。
〜Knoec〜 余禄:ビザンツでは、カリフのことをアメルムネス(Ameroumnes)と呼んだとのこと(コンスタンティノス一代記 (1)p13)。これは、アラビア語でのカリフの正式名称の一つである「アミール・ムウミニーン(信徒たちの代表)」のことだと思われます。「旧 唐書」198巻列伝148でも、イスラーム帝国の永徽年(651年)の記述に、「姓は大食氏、名は豃密莫末膩(または啖密莫末膩)」 とあり、中古音発音では「damXmit makmatnrijH/ダンミトゥ・マクマトゥニル」(現代北京音dànmì mòmònì)となるので、アミール・ムウミニーンを示しているものと思われます。当時は、カリフという名称よりも、アミー ル・ムウミニーンという称号の方が一般的だったのかも知れません。 IMDbの映画紹介はこ ちら |