4月27日

 3時まで飲んでいて、3時半帰宅。
風呂に入ってベッドに横になるが、眠ってしまうと起きれなくなる恐れがあるので、眠らずに休憩。
7時半に起床し、15分で旅行の準備をし、8時16分の地下鉄の乗る。
上野駅9時20分初のスカイライナーに乗り、10時18分に成田に着く。
寝不足と二日酔いで、スカイライナーに乗るまで、気力の勝負だった。
10時40分〜11時22分、空港のインターネットカフェでメールのチェック。
11:30分搭乗。
17時59分モスクワ着。

アエロフロートは、聞いていた程ひどくなかった。食事などかなり旨い方だと思う。
ただし機内雑誌には、成田に納入している機内食会社で、利用している航空会社は、他にも多数あり、アエロフロートは単なるお客だとわかる。
この事情は、モスクワからの帰国便の機内食が、モスクワの機内食会社から調達したということで、確認できた。


はじめてみるロシアの風景は、夕方近くの、傾いた太陽の光 に、町全 体がオレンジの光に包まれていた。
川と湖水と緑が多く、旧共産主義時代の味気ない団地群を予想していたのだが、サンフランシスコにでも来たような感じがしなくもない。
曇り。

乗り換えのチェックイン時に、カウンターで並んでいると、後ろにいたのはブルガリア人で、彼が電話しているのを横で聞いていたら、スタラザゴ ラまでいくこ とがわかる。
パリ行きの日本人団体客が乗り換えていた。どうも、モスクワで下車するよりも、パリへ行く日本人客の方が多そうである。
数名の日本人が、アゼルバイジャンやソフィアへ向かったようである。
チェックイン時、カウンターのおばさんが、私のパスポートを見ながら、「ラッキーデーの生まれね」というので理由を聞くと、お子さんの誕生日 と一緒なのだ そうだ。
誕生日の話題が出ると、必ず口にしている、金成日と一緒、という話題は持ち出さなかった。まぁ、私でも話の流れにあわせることもあるのだ。

チェックイン後、ゲートへ向かうドアの開け方がよくわから ない。
数人の日本人客と一緒に戸惑っているところ、そのうち空港職員のおばさんがやってきて空けてくれた。


空港内を一周。
古く狭い空港。23時45分発なので、7時間程待つことになるが、ゲートがなかなか決まらない。
20時頃やっとゲートが決まる。

モスクワシェメンチェボ空港の第2ターミナルは、8角形か6角形をしていて、中心部が、チェックインカウンター、その外側がゲートとなってい る構造であ る。

完全に一周することはできず、通路は4/5くらいのとこで 終わって いた。このため、長い待ち時間を、行ったり来たりしながらすごす。
1階はゲートと売店で、2階にいくつかレストランがあった。

夕食ということで、2階の売店に行き、サンドイッチを注文 する。
ルーブルに両替したくなかったので、ドルで支払ったが、スプライトとサンドイッチで13ドルもした。
レシートをもらわなかったので相場かどうかも不明である。
どうも気がゆるんでいて、価格を先に確認するのを忘れていた。
しかし旧共産圏の空港での価格の高さには、はじめて海外へ出たときの最初の空港である北京空港の食事を思い出した。
このサンドイッチの味は、記憶に残ってないことから、きっと不味くはなかったのだろう。
テーブルに、モスクワの地図があり、夕暮れの暗い光線の中、薄闇のつつむテーブル上の地図の上を、シェメンチェド空港を探したが、見つからな かった。


21時から22時頃までゲート前ベンチで半分うとうと。
23時25分発。
日本人女性と隣になる。その人がロンリープラネットを持っていたので借りてみてみた。
いくつかのアルメニア語とグルジア語をメモる。
本を返すとき、その人が眠っていたので、座席のポケットに入れておいたら、アルメニア空港で飛行機をおりたあと、ロンプラの回収を忘れている ことが判明。
機内にとりに戻ると、パーサーが書籍を拾い上げて開いてみたところだった。危ない危ない。どうもルーズになっている。


アルメニア空港は雨。寒い。
3時10分頃到着。
3時50分頃、ビザの取得と両替を終え、いやに近代的な免税店を抜けて到着待合室に出る。
ここも近代的できれい。
待合室は、40m*10m程の長方形のスペース。
一番奥が喫茶店で、そこから外への出口に向かって左側がゲート出口、右側に、レンタル携帯電話オフィス、両替オフィス、インフォメーションが 並んでいる。
イス・壁、柱などアルミニウム色に包まれた、清潔な待合室だった。


ビザ30ドル、モスクワ空港で100ドルのうち、10ドル をサンド イッチに使ったので、残り60ドル+100ドル、合計160ドル両替。
この便で到着した日本人は3人だけ。もう一人東洋人がいたが、中国人の技師でビジネスビザを持っているようだった。
5時半までベンチで休憩。
7時半になっても明るくならないので、インフォメーションに交通機関について聞きに行く。
8時までバスはないとのこと。
タクシー4000ドラム(13ドル)くらいとのこと。
日本人2人に話しかけ、3人でタクシーで市内に移動することにする。
この二人は、ともに神戸から伊丹空港経由で来たとのことだが、成田と違い、空港まで遠くはないので、起床時間は私と変わらないくらいだった。


4月28日

空港を出ると、いかにもうさんくさそうなタクシー運ちゃん につかま る。
振り払ってタクシーがたむろしているところに行くが、適当なタクシーが見つからない。
そのうち、1台だけになってしまった。最初に声をかけてきたうさんくさそうな連中。しかし3500ということで、乗る。
夜はまだ明けず、暗闇の中、市街へ向かう。
若干のライトアップした広告看板がある以外は、オレンジのナトリウム灯が、寂しく点在するだけの、活気のない国道を走る。
はじめてブルガリアに着いた時と、サマルカンドの町の夜を思い出す。
どっちも傾いた旧共産国だった。
ここも同じなのかと少し頭によぎる。
町に入れば少しは活気が出てくるのではないかと思ったが、中心街のオペラ座に行ってほしいとお願いして、ついたところは、確かにオペラ座だっ たが、とても 中心地とは思えない、人通りのないところ。7時というのに、田舎の公民館の前のようなわびしさである。
ソフィアだって7時になればもっと活気が出ていたのに。
もっとも、アルメニアは朝が遅いことに数日後に気がつく。
9時を過ぎないと、人が町に出てこないのである。時計が日常感覚と少しずれているのである。
これは、このあとグルジアに入って思ったのだが、グルジアはアルメニアの上にあるのに、1時間の時差があるが、その時間と感覚はほぼ一致して いる。
これはつまり、アルメニアがグルジア時間に合わせるのが嫌で、故意にずらした結果、7時というのに、日本でいえば朝5時のような状況となって しまったので ないかと、ちょっとだけ思ったりした。


タクシーに乗ってから、また軽率さを後悔。
タクシー代が、一人3500なのか、1台3000なのか確認を忘れていたのである。
降りる時、予想した通り、3人で10500を請求され、他の2人に、「合計3500」のようなことをいってタクシーに誘ってしまったこともあ り、値切りま くったが、いろいろ考えると、1人3500は相場かも知れないし、運ちゃんの言うように、ここ最近の原油高ということもあり、仕方がないか、 と10500 支払って降りる。


オペラハウスの前でおり、これからホテルを探すという2人 と別れ て、早速町の観光に出る。
まずは、市街中心部の北にある、アルメニア・ソヴェト樹立50周年記念モニュメントのある階段を見に行く。
その後中世の教会である、アトギケ・スルプ・アストヴァツァツィン教会を探す。
ちょっと見つからないと思ったら、通り沿いにはなく、団地の中庭のようなところにあった。
野犬が数匹きおり、尋常ではない吼え具合。
こりゃ襲ってくるなと思い、野犬を回避して遠回りする。
7時39分。この頃には夜は明けて、すっかり明るくなっている。
日本で言えば6時頃の感覚。


次いで、共和国広場に向かって歩くと、Adidasの看板 のある、 しゃれた店舗街に出る。
いかにもヨーロッパという感じの、旧市街の建物を改造し、近代的なショーウィンドウが入ったつくりに思わず写真を撮ってしまう。
こんな町がこれから続くのか。アルメニアいいじゃん。

と、このときは思ったのだが、実はこのような場所はここだ けだとい うことが程なく判明する。



8時頃共和国広場を抜けて、町を観光しながら、紀元前8世 紀のウラ ルトゥ王国の遺跡を目指す。
町は南北に長く、メインストリートを5キロ程南下すると、エレブニ遺跡に着く。線路の橋を通過したのが、8時22分頃、イェレバン駅を8時 35分頃通過 し、この頃には、日本での7時頃の感覚で、そろそろ通勤客向けの売店などがオープンを始めていた。
エレブニ遺跡に9時頃到着。
幸い雨は上がっていて、曇り空の下、100m程の丘を、頂上の遺跡まで上る。
急な階段に息がきれるが、頂上からは、イェレバン市街が見下ろせて、よい眺め。


遺跡自体は、なぜかあまり感動しない。
まぁ、この旅全体が、そんな感覚に包まれてはいたといえるけど。
遺跡博物館も併設されていたが、日程を急ぐこともあるし、スルー。
博物館前が、広場のように広いT字路となっていて、この一角がバス停となっているようで、多数のお客が、ばらばらと、バスを待っている。
共和国広場行きのバスを聞いてみたが、英語通じない。
3人目くらいのおじさんがやっと理解し、76番のバス(ミニバン)だと教えてくれた。
通常われわれが言うところのバスは少なく、小型のミニバンが多数走っていて、それぞれウィンドウに番号札がついている。
しかし、行き先はすべてアルメニア文字で書かれているので、一切読めない。番号だけで判断するしかない。


とりあえず、76番に乗り、共和国広場まで戻る。
料金100ドラム(30セントくらい)安い、とこのときは思ったが、今から思えば、50円くらい。
日本との物価格差を考えると、実は高いのではないかと思う。
このミニバンは、11乗りのところを16人まで詰め込んでいた。
10時頃共和国広場に戻る。


本屋をチェックし、アルメニアの歴史地図を購入 (5800AMD)。
さすが領土問題にうるさいアルメニア。
国家の状況がこんななのに、詳細で立派な歴史地図帳が作られている。
これを買うだけでも来たかいがあった。
扉にはVol1とかかれており、店の親父によれば、Vol2はまだ出ていないとのことたっだ。

バザールがあるようだったので見て歩く。
ブルガリア時代によく食べたドューネルがあったので注文(500D)すると、その人はブルガス出身のブルガリア人だった。
ブルガリアにいた時は、ブルガリア語ができる日本人がいたりすると、少なからずサービス精神がでるか、珍しげに話しかけてくるブルガリア人が 多かったが、 この人は、まったく無反応な人で、少し拍子抜けだった。
この後博物館へ。
歴史博物館と美術博物館が共存している建物で、入場料800D。


古代ウラルトゥ〜ヘレニズム時代の遺物を経て中世、近世の 遺物、民 族衣装などが展示されていた。
アニーの遺跡のパノラマ、ズワルトノツ大聖堂の復元模型が一番印象に残っている。


11時40分、歴史博物館を見た後、共和国広場の隅の売店 で休憩 (スプライト300D)。
町を見学しつつ、バスターミナルまで歩く。
途中オレンジ色のスカーフをした一団に出会う。
小学生から高校生までの学生の遠足か、デモ隊のような感じで、数百人はいたと思う。
デモ?ウクライナのオレンジ革命を連想し、なにか、海外でニュースになっているような出来事にでくわしたのかと思ってしまった。


バスターミナルは思ったより遠く、へとへとになり着く。
12時45分、エチミアジン行きの101バスに乗る。
13時半、エチミアジンに着く。
バスの中では、なれなれしいおっさんに話しかけられ、なぜかぼろぼろポルノ雑誌(完全無修正)を渡される。
なんのこっちゃ。
ポン引きかしら?と思って警戒していたが、おっちゃんは途中で下車していった。単なる親切心だったようだ。
もらった雑誌は病気でも遷ると困ると(現実そんなことはないが、やはり気持ち悪い)思い、バスの座席において出る。
バスは、旧共産時代バスで、おんぼろバス。
アルメニアは、10年前の私が滞在したときのブルガリア並みという感じ。
今のブルガリアは、改善していると予想されるので、こんなことはないとは思うが。



エ チミアジ ン大聖堂は、町の中心にあった。かなり大きいので、バスを終点で下車してすぐわかる。
観光地だけあって、入り口ゲート近くの駐車場には観光バスが停車していて、ガイドを連れた観光客とおぼしき人があちこちにいる。
通常運営している教会なので見学(無料)のため、一般人も敷地内にいて、数人の高校生か中学生とおぼしき少年たちに「マネーマネー」と声をか けられたが無 視する。
今回の旅行中、乞食の人以外のたかりやに遭遇したのはここだけだった。


ローソクをささげてお祈りしてkら、リプシマ教会へ向か う。
売店でリプシマの場所を聞くと、バスでいくのがいいとのことなので、101バスに乗り、リプシマ教会前で下車。
リプシマ教会は、イェレバンとエチミアジン間の街道沿いにあり、来るときに道路沿いに見えていたので、場所はすぐわかる。


618年建設のリプシマ教会では、結婚式が行われていた。
いいタイミング。
見学してから戻る。
15時15分。バスはかなり頻繁に通り、10分に1台くらい通過している感じ。
しかしやってきたバスは満員で、扉のところのバーにしがみついて乗る。
ドアは閉まらないので、急カーブなのでは振り落とされそうである。
さすがに危なそうなので、次のバス停で降りよう、と1キロほど走ったところのバス停で停車したところ、割と多くの乗客が降りてくれたので、バ スの中の方に 入ることができた。
エチミアジンまで片道400ADM。


イェレバンに戻ったときは16時頃。
寝不足などから疲労していて、共和国広場へ向かって歩きながら、途中にあったトラベルエージェンシーに宿の手配を頼むと、1晩39ドル。
更に。
アルメニアでは、翌朝出発だと2日分の宿泊費がいる、これは国際スタンダードよ、などと馬鹿なことをいう。
トラベルエージェンシーの従業員は、旧共産主義的なおばかさんではなく、いろいろ旅行情報を調べてくれ、親切だったので、いいかげんな対応を しているとは 思えない。
ただ、ちょっと思ったのは、一部の国では、「ホテル」という単語が高級ホテルしか示さず、安宿や、ドミトリとかBBとかインとかペンションと か言わないと だめなことがあるので、ひょっとしたらそれかも知れない。
とはいえ、このあと、共和国広場前のツーリストインフォメーション(歴史博物館と本屋、ピザ屋の間を地下鉄の駅方向に歩いて50mの車道左 側、1Fにあ る)を見つけて、従業員に聞いたら、「ホテル」という言葉で、普通に宿泊施設という認識を持っていた。
このツーリストインフォメーションは、かなり普通(つまり、西欧では普通。
ここらでは特別施設という感じ)で、インターネット設備や、パンフレット、雑誌、写真集、CDなど、様々な旅行ツールが用意してあった。
4500の宿を紹介してもらう。
そこの家主が、5時に出かけたがっているので、すぐにいってくれ、とのことなので、急ぐ。
場所はオペラハウス近くで、今朝付近を歩いたので、場所はわかる。
くたくたで、タクシー乗ろうかと迷いながら、結局歩いて到着。16時半。


よくある年金生活者の老夫婦や老婦人が部屋を貸し出すとい うパター ン。
オペラハウスの近くにある家なのだから、アナーヒットさんは、本人か旦那さんが、旧ソ時代、著名人か有力者だった可能性がある。
部屋はまったく普通の部屋。つまり、普通に西欧風。
「5000でお願いしたいんだけど。なんていってた?」と言われ、まぁどっちでも大差ないので、5000でOKと伝える(ひょっとしたら朝食 込みだと 5000、込みでないと4500ということだったのかも知れない)。さっさとシャワー浴びて、旅行メモを書いたら17時。
2日連続殆ど徹夜だったので、18時頃眠りに落ちた。
初日出費は合計18370AMD。




4月29日


7時起床。簡単に朝食をいただく。
他にも何人から旅行者がとまっているようだ。
皆まだ寝ていたので、静かに食べる。7時29分出発。
メトロの駅を探すが、なかなか見つからず、結局バスで駅に出る。
8時10分。駅前でガルニ行きバスを探すが、まったくわからない。というか、バスの行き先は種類が数字で表示されているが、そもそも行き先の 種類が少な い。
たったこれだけの種類しかないとは思えないが、駅前発のバスが激減しているということだろう。
結局タクシーに乗ることにする、料金7500。旧式のLada。

道中、親父と言葉が通じないのも面白くないので、歌でも歌おうと、知床旅情など歌ってしまう。
歌謡曲だとあまり通じないだろうと、民謡っぽい歌を歌う。が、親父あまり乗ってこない。あまり陽気なタイプではないようだ。
途中から沈黙。乗車後、しばらくして、ガソリンスタンドに立ち寄る。
行き先分の燃料しか補給しないのではないかと思われる。余分な燃料を入れる余裕のないほど、今の原油高が響いているということなのかも知れな い。


イェレバン東の丘をひたすら登ると、アララト山とイェレバ ン市街が 一望のもとに見下ろせる丘に出る。
最高の眺望に、停車してもらって写真を撮る。
緑あふれる、と能天気な明るい感じでまではいかないが、それなりに草原に包まれた丘陵地帯をゆく。
ここがスイスあたりだと陽気にもなろうが、すれ違う車はすべて薄汚れていてぼろぼろ、途中の道は陥没していて、泥の窪みを大きく揺れ、道を左 右上下に大き く蛇行しながら、時折対向車のすれ違いを待ちつつ走る。
羊やヤギも栄養失調のように元気がない。心なしか草原の草も、疲れているように見えてくる。
しかも車はいまにもエンストしそうなLada。ということもあっていまいち陽気なハイキング気分にならないが、とはいえそれなりに景色のよい 8時45分ガ ルニにつく。




 能天気なピクニックとはいえないものの、ガルニ神殿の力 は、つか の間、スイス・ピクニック気分になってしまった程の威力だった。
ガルニ神殿は、南向きにつきでた断崖のへりに位置しており、来たと南が90度近い断崖と なっている。
へりの先ぎりぎりのところまで行ってみると、ロシア人(だと思う)の観光客がいて、バードウォッチングをしているようだった。
私が近づいていくと、挨拶もしないで散っていってしまった。
東方面の渓谷は、標高は、おそらく200m程下、数百メートル東の川面に、登ったばかりの日光が映えてまぶしい。
転落したら一巻の終わりであるが、柵のようなものは一切ない。自己責任見て回ることになる。怖いが見て損はない景色。


ガルニの神殿自体は、写真で見たことがあるので、まったく 予想通り だったが、このロケーションは思いもよらなかった。
なぜか平地の村の広場の中心にあるものと予想していたので、少し意想外でもあったが、やはり百聞は一見に如かずだと思う。


9時10分出発。
ゲガルトも見てくか、と、ドライバーに言われたが、なぜか魅力を感じず、寧ろ先を急ぐ気持ちの方が強かった。
どんな場所にあるかがわかれば、それで結構満足してしまうところがある。
中世修道院は、これからいくらでも見れるわけだし。ということで、今回の旅行のきっかけのひとつだった、たまたま飲食店の雑誌でみかけて強く 惹かれたゲガ ルト修道院だったが、パスしてしまった。


10時、共和国広場に戻る。
よせばいいのに、イエレバン駅からのバス代をケチって3km程余分に走ってもらったばかりに、親父に500余分に請求され、口論になる。
そもそも往復60キロ走ってきて7500なのに、何で3キロ余分に走って500も増えるのか。
計算すると370程度だろ。小銭を全部渡して420程になるが、それでもガソリンがガソリンがといつまでもうるさいので、ついには札を投げつ けて車を後に した。
とうとう切れてしまった。大人げないとは思うが、やってしまった。
やはり、今回の旅行は、少し気が抜けていた。
最初の出発地点である駅前で降りるべきで、終点を変更するときは、その時点で金額を確認すべきだった。
とはいえ、そのときの親父が気を悪くしたかどうかはわからないが、1週間後、グルジアから夜行列車で戻ってきた朝、駅前でいきなり声をかけら れ、振り返っ てみると、親父がニコニコして握手してくる。
オレだよ、俺、ってな感じで自分の顔を指差して、「ガルニ」と言っている。
おかげで心の重荷が取れた感じで、アルメニアを後にすることができた。
とはいえ、ひょっとしたら、他にかもでも見つけて、ほくほくで上機嫌だったという可能性もあるだろうけど。



10時前に戻ってこれたので、今日は前倒しのスケジュール でいけそ うだ、と思い、途中インターネットカフェでメールをチェック(20分、400ADM)してから、中央バスターミナルに行く。
昨日エチミアジンへ行くのに使ったターミナルである。
11時頃ついたのだが、窓口は一つしかあいておらず、午前中のバスはほぼ終わっているとのこと。
アラベルディ行きは8時半だったか、10時だったか記憶が定かではないが、既に出てしまって、今日は終わり。
仕方がないので、途中のヴァナゾールまでのチケット(16時発)を購入して、共和国広場に戻る。

いい機会なので、帰国便チケット変更をしようと、2,3の旅行会社をあたってみたが、空港のアエロフロートオフィスに行ったほうがよい、との こと。
この日は日曜日なので市街のアエロフロートオフィスは休みなのでる。
バスがなかなか来ないので、タクシー使って空港へゆく。
3000ADM。相場。
空港へ行く途中、カジノが多数ある場所とアメリカ大使館を通過。

空港では、12:00-13:30まで、アエロフロートオフィスが開くのを待つ。
私のほかにも何人か窓口近くで待っているが、なかなか開かない。
結局あきらめて市街にバスで戻る。やれやれ。
それにしても、今回後悔したのは、小説かなにか、時間つぶしができるものを持ってこなかったこと。
ブルガリア時代、交通機関の接続性の悪さに、本を持ち歩くことは基本だと理解していたのに、今回忘れていた。
このあたりにも気の緩みが出ているようである。



108番のバスで空港から戻るとき、101番バスとは異な るルート を通った。
イェレバン市街南部の、地下鉄終点駅の近くを通過してから、市街中心道路を北上して、中心部のバザールに至るというルートである。
バザール前の交差点を右に曲がろうとしたので、そこで降りることにし、共和国広場まで500m程歩くが、日曜日だからか、昨日朝とは打って変 わって、通り に人があふれ、活況を呈している。空港で得るものも無く戻ってきたが、これが見れただけでも、よかったと思った。
イェレバンの、肯定的なイメージに大きく影響している。


共和国広場横のレストランでピザ。14:15-50分昼 食。
アルメニアのピザというのを試してみる。1650ADM.食後1リットルのスプライト350AMDで購入し、15:30分バスターミナル着。


バスは16時に出発。800ADM。
旧ソ時代のおんぼろバスなので、スピードが非常に遅い。
市街を抜けた丘の上に出ると、立派なスタジアムがある。


アラガツ山を左手に見つつ、えんえんと直線の続く台地を走 る。
殆ど平地近いなだらなな草原を、2310mの峠を越えて、北部のヴァナゾールに抜けるのだが、高度が上がってくると、雪解け水の湿地となり、 更に雪が残っ ていて、アラガツ山の山頂まで続いている。
アラガツ山は4090mあるはずだが、既に丘のようにしか見えない。
雪さえなければ、このまま山頂まで、直線的に走っていけそうなくらい、なだらかなのである。
そうして、こんな標高なのに、人が住んでいて、バスを降りていったりする。
電気などは通じているのだろうか?ここが西欧なら、風力自家発電とかの設備がありそうだけど、ここはそんな具合にはいくまい。




アラガツ山系を越えて、北部の峡谷地帯にでると、東西を走 る国道に 出た。
右に折れて、バグダフシェンの国境方面へ向かう。19時、ヴァナゾール着。


地図もない、右も左もわからない、正教会のある公園脇で下 ろされ る。
バスターミナルも駅もないが、こういうときは大体町の中心地近くのはずである。
適当に、他の降りた客と一緒に歩き出す。
大きめの建物が見えているので、大通りを、そちらに向かって400m程歩くと、どうやら中心広場のようなところに出た。
正面の19世紀風の瀟洒な建物が市庁舎かなにかなのだろう。
広場の一角に、キリル文字で、ホテルと書いてある、10階程の19世紀風の古びた建物がある。ラッキー。
旧ソ時代の国営ホテルそのままのようなそのホテルは、もともとは、学校か官庁を改造してホテルとしたようなつくり。
1階の守衛が、エレベータに鍵を差し込んで動かすという、はじめてみるセキュリエィ方式だ。
4階に管理人のおばさんがいて、ロシア語交えの筆談で交渉。
最初は意味がよくわからなかったのだが、4000の部屋は、ベッドが2つあり、誰か他の人が来くるかも知れないシェアード部屋。
1人部屋だと8000といわれる。
4000の部屋にする。どうみても、がらがらで、ひょっとしたら泊り客は私だけ、というようなくらいだから、誰か他の宿泊客が現れても、別室 に止まるので はないかと思われる。
19:20分チェックイン。
おばさんに明日のアラベルディ行きバス出発時刻を聞いといてね、とあまりあてにしないでお願いしてから、散歩と夕食に出る。


既に薄暗くなってきているが、ここは、長野県の木曽谷のよ うなロ ケーション。
南と北に、雪をかぶった山脈が見えている、峡谷の田舎町という感じ。
車は時折通るだけで、信号もない。町は、旧ソ時代か、ロシア時代の計画的な設計のようで、碁盤の目状になっていて、市庁舎広場が、長方形の町 の下の底辺の 中心にあり、そこから、緩やかに北に向かって大通りが延び、北側の辺の中心に、駅があり、その前にタクシーが2台ほど止まっている。
駅前広場は、車もまばらで、駅も鉄骨構造体の、近代的で大きな駅だが、中はがらんどうで、1日2,3本しか一般列車は通らず、あとは貨物列車 が通過するだ けのようだ。駅に出てから、東に向かい、町の外周部を、食事ができるところを探しながら、ぐるっと半周して、市庁舎広場に戻る。
結局、2,3の食材を扱う雑貨屋があっただけで、レストランは、市庁舎近くに戻るまで見つからなかった。
市庁舎近く以外は、旧ソ時代の10階建て程の、灰色に古びた団地が、延々と碁盤の目に区切られた区画に並んでいる。
面白みも何もなし。
夕暮れ時を、市民が散歩していて、ブルガリアでよく目にした光景と同じ。
というか、ここがブルガリアだと錯覚してしまうくらい似ている。


20時10分頃、市庁舎近くに戻ると、数件のレストランが あり、ブ ルガリアでよくあった、テーブル席がいくつかあって、奥にカウンターがあるだけのスナック風のこぎれいな簡易レストランに入る。ビーフストロ ガノフとビー ルで1700。まぁまぁ。パンが大量に出てきたので、紙ナプキンに来るんで明日朝食とする。

21時ホテル戻り、旅行メモ作成。
今回の旅行についての忘れていたことやミスをいくつか書き留める。


・持ってきた旅行ガイドブック、考えてみたら1998年度 版。情報 として古すぎ。
・ウェットティッシュ忘れた
・地元のペースに合わせる、というアドバイスを思い出す。
・寒い地方では、宿にセントラルヒーティングがあるので、 洗濯して おくこと。
・宿を探すとき、十分に時間をとること

など。とはいえ、いつも旅行開始してから思い出すことが多 い。
ホテルの管理人のおばさんは、ちゃんとバスの時刻を調べて おいてく れた。明日8時半とのこと。
21時半、日が暮れる。
アルメニアの時刻体系では、夜明けが遅く、日暮れが遅い。私の生活サイクルにはあっていそうである。22時10分就寝。
今日の出費は20350ADM。

 
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