1月2日(木)
早朝におき、王宮の観光に。既に20人程行列ができていた。
チケットは限定とのことなので、早めに整理券をもらいにきた。学生3人組日本人観光客がいて
、安宿情報を聞いたら、「僕ら、三ッツ星ッシホ・テ・ルだも〜ん」と言われた。二の句が告げなかった。
また、バスターミナルに向かうバス停で、バックパッカーにバスターミナルの場所とバス代を聞かれる。
すると彼らはヒッチに切り替えた。そうなのか。彼らの経済観の一端を知ったように思う。思うに、個人旅行は、6つの階層があると思う。
たとえば、こんな感じ。
1.旅行代理店に手配を頼み、高級ホテルや旅行ガイドに載っている有名民宿泊まり歩き
2.三ツ星、2つ星ホテルなど、ホテル泊まり歩き。たまに宿がないとひとつ星ホテル
3.貧乏旅行 基本安宿。たまにドミトリ。どうしようもないときだけホテル
4.バックパッカー ドミトリ、安宿。野宿やヒッチはあまりしない。
5.バックパッカー 自炊用具持ち歩き、ドミトリ基本。野宿あり。ヒッチ、アルバイト基本。
6.乞食旅行
私は3に該当するが、1や2の旅行をしている人からすると、4や5との違いがあまりわからないのかも知れないが、
バックパッカーの方から見ると、私は2とあまり変わらない分類となるのだろう。
また6という旅行の存在は想像できないかも知れない。6とは、私の会社の先輩から学んだ言葉で、
彼は、1960年代に10代を過ごした、ヒッピー世代だったので、若いときスイスで2年間、本人曰く、
いかがわしい針灸をやって暮らし、その後、スイスからインドまで旅をしたのだが、途中資金がないので、
宗教施設の慈善鍋などを渡り歩いたそうだ。自らの旅行記に「こうなると、もう乞食旅行である」と記されていて、
そこから「乞食旅行」なる分野があることを知った。この定義からすると、都市を渡り歩く浮浪者の人も、ある意味、旅行者といえなくもない。
旅行していて、2や4,5の人にはたまに出会うが、自分と同じ3の人には出会ったことがない。中途半端ということなのだろうか。
グラナダ王宮では、両親姉妹の日本人家族ずれと会い、複数のガイドブックを持っていたので、
マドリッドのレストラン情報などをもらう。ヘミングウェイが贔屓していた店などがあるとのこと。
宮殿の印象は、狭い敷地に詰め込んだなぁという印象。確かに優雅で精緻な建築物だとは思ったが、
イスラム建築とうと、サマルカンドのような壮大なものをイメージしてしまっていたので、
イベリア半島末端に追い詰められた王国の、デカダンスな幽愁の美という感じ。王宮から市街へは、
王宮北側を歩いて下る。市街を散歩中に、イスラム時代のキャラバンサライにも立ち寄ってみる。
午後グラナダを出て、ムルシリへ向かう。バスを乗り換え、カタルヘナへ。5時半頃着。バス
ターミナルのそばに、
インフォメーションがあったので、観光地図をもらう。9箇所程、古代遺跡のマーキングがあったので、
順番に見て回る。工事中だったり、閉鎖されていて見れないところも多かったが、丘の上の劇場と、
劇場横の中世の教会、小さな博物館などを見ることができた。円形闘技場が残っているようで、行ってみたのだが、
どうも現在闘技場として利用されているようで、閉まっていて中を見ることはできなかった。
失業者が多いらしく、所在なさげに通りに座っている若者が多数いる。あまりわき道に入るのは避けた方がいい雰囲気。
宿泊する気にもあまりならない。バレンシアまで行きたかったが、取りあえずアリカンテまでのバスがあったので、
今日はアリカンテで宿泊することにする。カタルヘナを出発してしばらくすると、燃えるような夕焼けが見えた。
また、アリカンテへ向かう街道途中は、地中海沿岸を走っているのであるが、アメリカ西海岸か、
フロリダを思わせるような、華やかな国道だった。両側には、ネオンサインの鮮やかな中華料理屋やショップが並び、
途中通りがかった町では、白い球形の街頭が、碁盤の目のように整然と整列してい光景に出くわす。
SF映画に登場する都市のように幻想的(東京四ツ谷の迎賓館の前の街頭に雰囲気が似ている)。
バスは、平均時速100kmで定刻どおりに走る。非常に正確なので、ラテン系っていい加減なのでは、
という先入観はあまりなくなる。このときは、運転手の真後ろ辺りに乗っていて、車座が高く、
運転席を見下ろす位置にあったので、速度メーターがよく見えたのだが、ぴったりと100kmに張り付いていた。
遅い車が前を走っていると、追い抜く時だけ、105km程に速度を上げる。几帳面といえるほどのドライバーだった。
これは乗客も同じで、ドライブインで休憩しても、ちゃんと休憩時間の終わりには戻ってくる。
このような次第なので、途中休憩所で、発車時間になっても、日本人学生2人組だけがなかなか戻ってこなかったときは、
ドライバーは若く見た目のいい青年だったが、2,3度警笛を鳴らした後、いかにもいらいらしている様子で、
日本人を迎えに出て行った。2人が戻ってきたとき、他の乗客に迷惑をかけたと謝ることもなかったため、
アリカンテに着いた後、2人に声をかけて注意したところ、まったくわるびれる様子もなかった。
礼儀正しい日本人像を貶めることはやめてほしい、と思った。こうした外国での国民像というのは、
長い時間をかけて先人が作り上げてきたもので、簡単にできるものではない。一度ついたイメージというのは、なかなか変えるのは難しいのである。
日本人に対する好印象というものは、旅行するときなど、われわれ日本人自身の身を助けることにもつながるのである。
アリカンテは、海岸沿いの街で、海辺のリゾートっぽい雰囲気が漂っていて、非常に開放的な雰囲気があった。
ガディスの旧市街が堤防に囲まれ、海を見下ろすようなロケーションであったことに比べると、
いかにも地中海という雰囲気にあふれている。ヨットが停泊している波止場近くが中心地のようである。
宿を探し、両替をしてから、食事。宿はあったかく、気温は最低でも15度くらいはあったのではないか。
窓を開けていても大丈夫な程だった。
1月3日(金)
アリカンテを早朝に出発したため、半分うとうとしていたものの、地中海に突き出た断崖の上を走ったり、
エーゲ海の島のように、白い家の中に、教会のドームがある村を通過したり、眺めのよい景色が続く。
途中50階建てと思われる程の高さに見えるビルが林立する新興都市を通過した。早朝の太陽を背後に、
朝靄に、ダムであるかのように薄っすらとビルの壁がそびえている様は、松本零士が描く未来都市のようだ。
これも、EU参加して、投資が活発化している現象の一つということなのであろうか。、
アリカンテから一気にタラゴナに行こうと思ったのに、バレンシアでバスを乗り間違えて、
サラゴサ行きに乗ってしまう。30分くらい走って気が付く。次の町で下車し、またバレンシアに戻る。
下車した町は、断崖の中腹に町がある感じのところ。これで結構な強行軍となってしまった。
タラゴナについたのはもう夕方。バスターミナルから遺跡まで、タクシー利用。フィルムを買う時
間も惜しい程、
予定が詰まってしまった。取り合えず、城砦と劇場、円形闘技場、戦車競技場跡などを見学。
7時頃のバスでバレンシアに戻る。11時頃に到着したのだったか。
バレンシアの町を宿を探して回る。やたらと人気ない通りまで煌々とナトリウム灯に照らされ、
街並みがオレンジに染まっている。若干警戒したが、失業者の多い町でもない限り、人通りのないところには、
犯罪者も集まってこないので、まぁ、大丈夫だろう、と思いつつ、町の中心部を目指して歩く。
1/4日(金)
バレンシアを少し観光。カテドラルを見て、その前のレイナ広場のオープンカフェ朝食。
レイナ広場近くの教会の裏手にあるローマ遺跡をフェンス越しに見学。サグントの遺跡を見に行
く。
バレンシアからサグントまで、市バスで30分程度。海岸沿いの平地を走る。
サグント遺跡は、平地の先に、急に丘がせりあがっているロケーションであるため、バスから見ていて
も直ぐにわかる。
バスを下りて、丘の上の要塞へ向かって歩きだすと、程なく、劇場跡の遺構が見えてくる。
ここは、現役の劇場として利用されているようで、遺跡の上にベンチが載せてあるため遺跡自体はあまり見えなくなっている
。要塞まで上る。丘は、東西に700mぐらいあり、遺跡も、ほぼ同じ大きさで、城砦が丘の上部の周囲を取り巻いている。
城壁内部には、教会跡など、いくつ物構築物の遺構が残っている。東の城壁からは、海へと続く平原が見下ろせる。遠く、地中海とバレンシアの街が見えてい
る。
お昼は、バス停前の中華屋でとる。日本人はあまり来ないようで、興味をもたれた模様。少し筆談。
午後、マドリッドへ戻る。夜到着。プエルタ・デル・ソル広場の、この前とは異なるペンジオンに泊まる。
親父一人で経営しているらしい。確か25ユーロだったと思う。グランヴィア散歩したが、なんか物騒な感じ。
突然、数人のアラブ系が、5mくらい先で、ばらばらと行く手をさえぎるように囲んできたので、
走って逃げた。後ろから笑い声がしていたようなので、からかわれただけなのかも知れない。
ほかにも、露天の多い通り(確かこれもグランヴィアのあたり)を歩いていて、遠くで急にざわめきが起こり、
そちらの方から、露天で商売していたと見られるアラブ人が一斉に走って逃げてきて、
目の前を通過していった光景にも遭遇した。グランヴィアの先のピザ屋で夕食。確かイベリアという名の、
プエルタ・デル・ソル広場に面した大きめの本屋に行った。スペイン歴史地図帳を買いに行ったのだが、
自国版のものはなく、世界史版の歴史地図帳の中に、1ページ中に8個程、
時代ごとの中世イベリア半島の勢力図があっただけ。調査が足りなかったのかも知れないし、
もう少し大きな書店もあったのかも知れないが。そのほか印象に残ったものといえは、
ローマ遺跡の大判の書籍があったくらい。あまり文系書籍が豊富とは思えなかった。
先進国とはいえ、まだ途上国の段階を抜けきっていないということなのかも知れない。
プエルタ・デル・ソル広場から、マヨール広場、カルロス広場、グランビアなどを回って宿に戻る。
1/5日(土)
7時頃に宿を出て、地下鉄で早めに空港へ向かう。7時くらいだと、まだ町は眠っている。
8時頃ようやく車や人通りが多くなる、という感じである。アルカラ広場のアルカラ門まで歩き、地下鉄に乗る。
コペンハーゲンには昼頃ついたはず。搭乗までしたものの、滑走路凍結のため離陸できなくなり、
欠航となってしまう。ホールで待たされ、明日以降の便に分散して乗ることになるとのことで、乗客全員、
スカンジナビア航空が手配してくれた市内のホテル(マリオットホテル)に行くことに。専用バスまで用意してくれた。
ホテルでは、航空会社が、更にレストランにバイキングのようなものを用意してくれた。
行列待ちとなっていたので、テイクアウトして空港の待合室で一緒になった日本人のおばあさんとOLと一緒に部屋で夕飯を食べることに。
1/6日(日)
翌朝早朝、コペンハーゲンの観光に出る。観光案内などは持っていなかったので、
ホテルで情報を仕入れたのか、昨日夕食を一緒にとったOKかおばあさんに本でも借りたのか、
一体どうしたのか記憶にないのだが、かなり効率的に見学しているところを見ると、なんらかの観光情報を入手したと思われる。
さすがに高緯度地方なので、午前9時頃は、まだ陽が登る直前という感じ。
日照時間が非常に短いと思われる。マリオットホテルが運が沿いにあったので、ホテルを出て
、人魚像の方へ向かう運河沿いと、おしゃれなビル群に、さすがは北欧、と感心。
黒いフレームにガラスのウィンドウ。未来的な美術館のような概観である。近くにいってみてみると、
図書館、と書いてある。(帰国後調べてみると、ブラックダ
イヤモンドという、有名な場所のようですね。
たまたまとは言え、見れてよかったののですが、この時は、北欧は、こんなビルばかりが立ち並ぶところなのか!と若干衝撃を受けました)。
この後、順番はよく覚えていないのだが、最初に人魚の像を見にいったのではないかと思われる。
凍結しているので、歩きやすいが、一面雪で、それなりに距離がある。
この寒さの中、散歩にしても少し遠いような気がするが、観光しながら歩く。
人魚の像に着いた時は、地平線低く陽が上がっていたと思う。やわらかい光線の中、周囲に人気なかったためか、
「世界三大がっかり」というほどがっかりはしなかった。興味深かったのは、その海の色である。
青ではなく、黒い。底が果てしなく、不気味ですらある。運が沿いの観光地であるニューハウンを通りかかったが、
この時点では、観光地なのだろうとは思ったが、このような場所があちこちにあるのだろう、と思い込んでいた。
この後、人魚の像のある城砦を通って北側の駅に出て、駅前のスーパーで水を購入。
この後も、順番はよく覚えていないのだが、アメリエンボー宮殿を通過。
この広場となっている十字路のそれぞれのコーナーにある4つの建物の一角がマルグレーテ女王の宮殿だそうだが、
国王の住まいである建物が、このように市役所か何かのように、普通に通りに面しているところが、
市民に近い王室という印象を与える一つの要素となっているのだろうと思う。
この後、衛兵交替式を見に、クリスチャンボー宮殿にも出かけたのだが、衛兵交替を見ることができたのかどうか、
あまり記憶にない。ラウンドタワーに登り、市内を見渡す。この辺りは、歩行者天国の繁華街なので、
繁華街を散歩しつつ、本屋めぐりをして、歴史地図帳を購入。4時頃には日没してしまうので、日没前にはホテルに戻ったものと思う。
1/7日(月)
もう一度、おばあさんとOLをつれて、市内観光に出た気がする。人魚像を見て、
どっかでコーヒー飲んで戻ってきたのはこの日だったかどうか、、記憶が定かではないが、
日程的にこの日の午前中しか考えられないので、恐らくこの時なのだろう。
ホテルに戻ると、チケットが配られたので、同じ便で行く4人で乗り合わせて空港に行く。
ドライバーのおっさんが、デンマークとスウェーデンでドライバーライセンスの違いについてなにか話をしていたようだが、よく覚えていない。
確かスウェーデンには、橋でつながっているので、簡単にいけるのだが、タクシーライセンスの互換性があるとかないとか、そんな話だったと思う。
私に配られたのは、フランクフルト経由成田行き。
スカンジナビア航空と、タイ航空、ANA、ルフトハンザがSTARアライアンスという共同運航の提携をしているので、
これらの会社間の便の変更となるのだろう。
空港でチェックインする時に、明日の便を回されていた20代のOLさんが、これ以上仕事は休めないからと、
「だいたい行けばなんとかなるものなのよ」とかいって空港まで来て、
スカンジナビア航空のカウンターで交渉したら、チケットが取れてしまった。
「ホラ、だいたいどっかから出てくるのなのよ」と言っていたが、そのパワーには少し驚いた。
予定通りチェックインできたのだが、再度滑走路凍結のため、2時間ほど出発が遅れたため、
フランクフルトに着いた時には、既に成田行きはでてしまっていた。おかげで、もうあと2,3日は延びる可能性を考え、
トリアのローマ遺跡を見学に行こうかと真剣に考える。
「まず本屋で地図を購入し、3,4時間で行って、戻って」などと計算を始める一方、日本のほかの空港や、
ソウル経由などないか、可能な限り確認してもらったところ、ソウル行きの便があるとのこと。
カウンターの人が、中央座席だと、4列なので横になって寝れるよ、と言われ中央座席にしたら、
もう一人乗客がいて、結局2席しか使えなかったので、寝づらかった。ソウル行きの便は、かなりガラガラだった。
ヨーロッパに来る観光客は、まだ少ないということなのだろうか。
1月8日(火)
ソウルには、1月8日のお昼頃到着した。ここで5時間待ちとなり、
ソウル市内観光に出れる時間はあったものの、もう疲れていたので、空港ロビーで過ごす。
勤め先に電話する為に若干ウォンに両替した。ソウル空港も、9年前に来た金浦国際空港ではなく、新しくできた、モダンな仁川国際空港となっていた。
5時頃のANAの便で、成田に8時頃着。自宅に戻ったのは、11時頃だったと思う。