2016年チェコ製作のテレビドラマ。チェコの国営放送のサイトでチェコ語字幕
付きで公開されています(こ
ちら)。神聖ローマ皇帝カール4世の前半生を描いたドラマです。カレル四世生誕700周年を記念して作成された
そうです。2016年には生誕700周年を記念してチェコで様々な行事が開催されたそうです(カレル4世生誕700周年で検
索すると行事の時期が多数ヒットします)。カレル四世*1は 自伝(関
連記事)の残ってい
る人で、恐らく自伝の範囲をドラマ化したのではないかと思います。ドラマでは、主に1319年から1346年のローマ王選出されるまでが描かれます。 【1】ドラマの背景と概要・タイトルの意味 歴史概説書などでは、神聖ローマ皇帝と書かれる人物の在位期間は、正式に神聖ローマ皇帝に就任していない期間も含めて記載 されることがあります。もう少し詳しい概説書でも、神聖ローマ皇帝に就任していない期間について、「ドイツ王」との表記をと ることがあります。通常「神聖ローマ帝国」と書かれる国家は、約800年以上存続していて、その間の自称・他称・通称・正式 名称は多くの変遷を遂げ、時期や呼称者によっても異なります*2。カレル四世時代ついて いえば、ドイツの領域を統治する国王の正式称号は「ローマ王」であり、神聖ローマ皇帝は、ローマ王(通称ドイツ王)、イタリ ア王、ブルグンド王、チェコ王を兼任し、「皇帝」はこれらの各国王の上位に君臨する存在であり称号でした(ただし、イタリア 王、ブルグンド王はこの頃実態がなく、実質的にローマ王によって兼任されるものとなっていて、ローマ王に含まれてい た。チェコ王だけローマ王に所属していない王だった)。 そういうわけで、本作のタイトルの「ローマ人のための王」とは、ローマ王=ドイツ王のことです。「投票」とは、1346年 にローマ王の選挙が選定侯によって行なわれ、カレルを選出してローマ王となることを意味しています。一方その時の皇帝は ヴィッテルスバハ家のルートヴィヒ4世で、彼は1347年に没するまで皇帝でした。カレルが正式に皇帝戴冠されるのは 1355年のことです。カレルが即位した翌年にルートヴィヒが没していますから、実質的に1347年からローマ王であるカレ ルが皇帝としての権力を行使しているわけですが、有名な金印勅書が出されるのが1356年なので、やはり皇帝戴冠は皇帝権力 行使に大きな要素を持っていたものと思われます。 本作は、1346年の選帝侯による投票と、投票に向かうカレル(この時30歳)の生涯の回顧を描いています。 【2】主要登場人物 同局のこ ちらにバストショット入りの主要登場人物の配役表もありますが、一応ここでも主要登場人物一覧を載せます。以下 左からチェコ王ヨハン(1296-1346/在1310-46年)、その妻でチェコ王国の最初の王朝プシェミスル家の最後の 王女エ リシュカ(1292-1330年)。その 右は幼年時代(3歳)のカレル(当時の名前はヴァーツラフ)。右端の左側がカ レル4世(1316-1378年/在1346-78年)。1346年アーヘンでのローマ王選挙の旅姿。その右側 がカレルの腹心ヴェルハーティスのブシェク(Bušek z Velhartic)。 左端はマインツ大司教ゲルラッハ(Gerlach1322
–1371)。この時24歳。その右は、トリーア大司教バ
ルドウィン(1285-1354年、トリーア大司教在1308-1354年)。彼はカレルの父ヨハンの
叔父にあたり、兄のハインリヒが皇帝に就任する選挙や、ヨハンのチェコ王就任にも貢献し、ルクセンブルク家の飛躍に
大きな影響力を持った人物です。中央の人物が皇帝ルートヴィヒ4世。その右はピエール・ロジェ(後のローマ教皇クレ
メンス6世。1291-1352、教皇在位1342-52年)。フランス宮廷で幼年時のカレルの教育係を勤めた。右
端はフランス王シャルル四世(1294-1328/在1322-28年)。
カレル(フランス語でシャルル)の”カール”は直接には彼の名前に由来する。マインツ大司教とトリーア大司教は選帝
侯のひとり。
左端は、ケルンテン公の娘でカレルの弟ヨ
ハン・ハインリヒ(チェコ語発音ヤン・ジンリッヒ/1322-1375年)の妻マ
ルガレーテ(1319-1369年)。その右がヨハン・ハインリヒ。1330年ヨハン8歳、マルガレー
テ11歳の時結婚するが、夫婦生活がないことを理由に1341年に離婚(このドラマでは)。中央はカレルの最初の妻ブランシュ(1317-1348
年)。フランス・ヴァロワ家出身。その右は、教皇に就任した後のクレメンス6世。右端はケルン大司教ワルラーム(Walram of
Jülich/1304-1349)。彼も選帝侯のひとり。
下中央は選帝侯ザ クセン公ルドルフ一世(1284-1356/在1298-1356)。左はローマ王選出選挙が行なわれるアーヘ ン近郊の選帝侯たちのテント。右は、集まった選帝侯たち。左からマインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、ザクセン 公。空席はチェコ王ヨハンのもの。今回の選挙では、七人の選帝侯のうち、二人がルートヴィヒ側に立っていて、最初から欠席。 集まった五人の選帝侯たちで投票を行なうことになる。 、神聖ローマ帝国の皇帝選挙が実際にどのように行なわれていたのか興味があったのですが、史実はともかく、取り合えず、カー ル五世のドラマ(こちら)に続いて、今回も見ることが出来て嬉しい。 【あらすじ】 ルートヴィヒ4世の宮廷から開始、カレルのローマ王選出を阻止しろと家臣に命じる。場面は変わって 1346年ローマ王選 挙へ向けて旅するカレルと家臣ブシェク(下右)。二人だけで、護衛もなく、一般人に変装して徒歩で旅をしている。旅すがら、 カレルは過去の回顧を始め、ブシェクに語る。以下、1346年の場面とカレル回顧の場面が頻繁に入れ替わり、若干わずらわし い。 1319年、カレルの母親でチェコ民族王朝プシェミスル家の王女エリシュカは、チェコのために働く気のない夫ヨハンに対し て、ヨハン王を追放し、カレルを王に据えるため、RAD LOKET城にカレルを連れて逃亡し、チェコ貴族たちとクーデターを起こす(下左)。しかし、夫のヨハン王は、クーデターを察知し、RAD LOKET城は包囲され、地下の秘密通路から逃走を図るも、王に読まれていてクーデターは失敗に終わる。下左の白馬がヨハン の馬。中央左寄りの人物がヨハンとエリシュカ。エリシュカはメルニック城に幽閉されることにな る。 下左崖の上からアーヘンの町を見下ろすカレル。1346年7月11日。中央奥に
アーヘンの町が見えている(小さい町である)。選挙会場は、アーヘン郊外の、崖の下にある川岸に張られたテントで行
なわれる。テントを見下ろしつつカレルは回顧を続ける。このように、1346年の選挙の様子と、カレルの回顧が交互
に差し挟まれながら、このドラマは展開する。
場面は変わって1322年、皇帝ルートヴィヒの居城バイエルンのミュンヘン城。
ミュールドルフの戦いで皇帝は対立皇帝であるハプスブルク家のフリードリヒを破った後、戦いに協力したヨハンは、カ
レルを連れてルートヴィヒに謁見する。下右がルートヴィヒの宮廷の様子。左がルートヴィヒ、右がヨハンとヨハンの叔
父トリーア大司教バルドウィン。
再び1346年。プファルツ選帝侯とブランデンブルグ辺境伯が不参加
であるため、選挙はできないとマインツ大司教は主張するが、5名いれば選挙できると答えるバルドウィン。
カレル回想。1323年、チェコの城で子カール(7歳)が同年代の少年たちと剣の練習をしている時、父親にフラン ス行きを命じられる。下がその時のチェコの城。中央が剣で遊ぶ少年たち。 1346年:借金返せと民衆にいいよられながらケルン大司教が到着(下左)。
下右は護衛の兵士達。イタリアはもうルネサンスの頃なので、装備が近世という感じです。
フランス宮廷で後の教皇クレメンス6世(この時の名はピエール・ロジェ)に教育
されるカレルが登場し、その後、シャルル4世に、シャルル(=カール=カレル)と名付けられる(それまでのカレルの
名前はヴァーツラフ)。シャルルは(クレメンス6世だったかも)カールの名前がシャルル4世とカール大帝由来のもの
なのだとカレルに語る。その後、ヴァロワ伯ブランシュとの結婚式となる。下左の左側がヨハン、その右がシャルル4
世。写真中央と右がカレルとブランシュの教会での結婚式の様子。カレル8歳、ブランシュ7歳。
左がカレル、右がブランシュ。
1330年ケルンテン公の居城ティロル城に赴いたヨハン、カレル、ブランシュ、
ヤン。ヨハンはケルンテン公の娘マルガリータと次男ヤン・ジンリッヒの結婚を取り決める。その後ヨハン王は、戦費調
達のためチェコへ向かう。ティロル城でカレルは母エリシュカの幻影を見る(この時エリシュカは死没している)。
1346年:選帝侯たちは、今回の選挙は、ルートヴィッヒに対抗する趣旨であることを確認する。 1331年、ヨハンとカレルはイタリア遠征に向かう。パヴィアで弟ヤン・ジンリッヒと再会する。ヤン・ジンリッヒ は、サヴォーイア公と義父(ケルンテン公)とともにやってきていた。下左はパヴィア市街の様子と、パヴィアに入城す るカレル一行。下左は町を歩くブシェク。ひとっこ一人おらず、ブシェクが通りかかると戸を閉める人々。怪しい雰囲気 (パヴィア市民が必ずしもカレル支持者ではない、という演出だと思われる)。 ブシェクは傭兵を集めて廻る。傭兵たちとの会食の席でヴィスコンティ公の刺客が仕
込んだ毒が盛られる。朝食に遅れてきたカレルは毒入りワインを飲まずにすみ、一人ワインを飲んでしまった傭兵が倒れ
て毒殺がばれたと気づいた給仕たちが一斉に剣を取り出してカレルを襲撃する。給仕は全員同じ制服姿で、彼らが一斉に
切りかかる場面は、ショッカーに見えました。傭兵とカレルたちは、刺客たちを返り討ちにして虐殺。襲撃者の足を焼い
て拷問し、ヴィスコンティ公がサヴォイ家と組んでモデナを征服しようとしていた、との自白を得る。
1332年、サン・フェリーチェ城砦前の戦い。ヨハンとカレルの軍は勝利する。下二人はヨハン王の家臣。右が普段 着、左が甲冑姿。両方の写真の左の人物はベヒニェのドブシュ。右がロッテンベルク伯。下中央画像はベヒニェのドブ シュ。戦闘に向かう軍の映像はあるが戦闘場面はなし。 1332年ミュンヘン。ルートヴィヒがカレルのへぼ軍を罵っている(イタリア征服は失敗に終わった報告を使者から 受けてたところ)。 1346年:カレルとヨハンの突然の和解を信じられないルートヴィッヒ。 1333年8月フィレンツェの宿。ウィーンのドーファン(誰だか不明)のところにいく途中のカレル一行が宿泊して いる。カレルのもとにベヒニェ・ドブシュが使者としてやってくる。昼から宴会で、半裸の美女をはべらせてパーティ。 呆れた感じのドブシュ。乱痴気騒ぎのあと夜中に起きだしたカレルは女の幻想を見る。導かれて建物の中にはいってゆ く。死の床に横たわっているウィーンのドーファンを見せられる。手足がしびれている。女の幻影は、あなたも、あなた の父も気をつけることね。といって消える。母の幻視が見える。そしてもう、ウィーンのドーファンへの援軍は必要がな くなったとわかる。父の軍と合流したカレルはドーファン死去を父に伝えるが、父には夢を信じるなといわれる。そこに ウィーンのドーファンが戦没したとの伝令が来る。ヨハンはカールにミラノへいくようにいう。下左はヨハン王。典型的 な中世騎士の甲冑姿。右はカレル。チェコ軍は勝利する。 1333年フランス。騎士槍試合に参加しているヨハン。チェコ貴族の招きでチェコに入ったカレルに激怒する。下左 がトーナメントに出場する国王。この後落馬して失明するきっかけとなった。右画像は、甲冑を着た騎士を馬に乗せるた めの木造の人力エレベータ。 1346年:ヨハンはカレルの選出に反対している。 1335年プラハ。カレルはコストコから城を譲り受ける契約書を交わす。リンブルク城に王妃ブランシュがやってく る。そこにケルンテンの弟からの便りが来る(次の場面でケルンテン公が死去したため、領地の相続でもめている件の報 告だとわかる)。 カレルがミュンヘン城のルートヴィヒのもとにケルンテンの貴族に弟が追い出されたことを相談に来た。皇帝は昨日の 友は今日の敵といって去る。その後、皇帝は、カレル一人を招き、ヨハンを敵に回して皇帝とカレルとで結ぶよう命じ る。父王 ヨハンはパリでブルボン家のベアトリクスと結婚したことを指摘し、戦争になるぞ!と脅される。下右がチェコ貴族コス トコの城。左はミュンヘン城。中央テラスにカレルとルートヴィヒがいる。 またリンブルク城への入城でコストコと交渉。なんで?金は払ったのに?
とカレルが問うと、コストコ曰く、状況が変わったのだ。契約によれば14日前にコストコの手に城は戻ったのだ、と主
張する。奥さんのブランシェもプラハを追い出されて怒り、カレルを置いてブルノに去るのだった。
1346年:教皇クレメンス6世とローマのクリア(民会?)は、皇帝ルートヴィヒは、教皇とクリアの同意なしで皇 帝を名乗っている、皇帝としては残るがローマ王ではなくなる。と宣言し、新しいローマ王にカレルを選出する。 1341年トリーア城。ケルンテンのマルガリータとヤン・ジンリッヒとその家臣4人がいる。皇帝からの使者がき て、「マルガリータはまだ処女のままである、という不満を皇帝に陳情した。この場でマルガリータと性交渉を結ばなけ れば、離婚と見なす」と皇帝の手紙を見せて宣告する。マルガリータが服を脱ぎ始めるが、ヤンは逃亡する(この時ヤン 14歳、マルガリータ18歳)。高笑いするマルガリータ。 で、戦争になるのだった。この場面は戦闘シーンはあるが、沼地での兵士たちのちょっとした戦いだけ。大規模な戦闘 場面はなし。国王の目が霞む。敗戦。ヨハンは皇帝に面会する。一方チェコのブルノではカレルの奥さんが、皇帝の申し 出を受ければよかったのに、とカレルにいう。 ミルテンベルクでカレルとヨハン王は落ち合う。ヨハンは、チェコ貴族がカレルを正統な王に選んだことに激怒する。 カレルは、ヨハンが恥知らずな皇帝との契約を交わしたからだ!と返す。土地なしの王座など無意味だ、とカレルは主張 する。ヨハンは、契約はロバの皮の上に書いたのだから、変更は可能だと主張。対して、カレルは、これまで皇帝のやり くちは我々を敵対させ仲違いさせるものだった。今度は彼をローマ王の座からおろしてしまいましょう!と提案する。ヨ ハンは、誰が変わりになるのだと問い、カレルは、私が!と答えるのだった。二人は握手する。 1342年アヴィニョン。登場するのは生垣みたいなものだけ。カレル、教皇就任が決まった大司教ピエール・ロジェ (クレメンス6世(在位:1342-52年))に会いに行く。ピエールは、古き秩序の世界は終わった、安心して会議 で座っていればいい時代は終わった、とカレルに告げる。 1346年バイエルン。ヨハンはルートイヴィヒに会う。選挙のテントを軍隊で包囲してしまおう、と提案する皇帝に 対し、ヨハン王は、教皇はボランタリーな選出を望んでいると答える(下左画像の中央がヨハン、その右が皇帝。中央画 像が皇帝、下右がヨハン。重量級オヤジ二人が揃い踏み。画面が暑苦しい。 ここで漸く、カレルの回顧と、1346年の会場の場面が一致する。 選挙会場では、5人の選帝侯たちが各々理由を述べてカレル選出に賛成する。最初にヨハンが賛成し、次いでザクセン 公は、ルートヴィッヒの息子がブランデンブルク辺境伯でザクセンと敵対していることを理由に賛成、バルドウィンはも ともとカレル選出の仕掛け人だったので勿論賛成、三名が賛成したのを見て、若干様子見の気配のあった若いマインツ大 司教も賛成。ケルン大司教のみ最後に黙ったまましぶしぶ賛成。こうしてカレルのローマ王選出が決定する。 崖の上から選挙の様子を見ていたカレルは、古いしきたりによるとローマ王は一度辞退してから二度目に王冠を受ける そうだ。とブシェクに告げるのだった(下左が選挙会議中の選帝侯たち。下右は、アヴィニョンを訪ねたカレル(左)と 大叔父のトリーア大司教バルドウィン(右))。 1346年8月26日、フランスのクレシー。戦闘直前、カレルは父に、あなた無
しでは、ゲルラッハとワルフラムは決して手をあげなかっただろう、と感謝する。そして、「皇帝自身が我々を助けてく
れた。約束を破ってばかりで誰からも信頼を失っていたから」と述べる。ヨハンは、カレルに、この戦闘では後方にいる
よ
うに告げて出撃する。クレシーの戦いの後、ヨハンは落馬したとテロップが出る(これが致命傷となって死亡した。ここ
でも戦闘場面はなし)。
ミュンヘンでは、選挙結果をきいた皇帝が、皇帝の冠を見詰めている場面がうつる(下左)。この冠は、オットー一世 以来の王冠で、現在もウィーンの王宮博物館に展示されている。 1355年フィレンツェ:カレル一行は一般人姿でフードを被り宿に宿泊している。 宿屋の親父は、新しいローマ王は、山々に平和をもたらし、ルクセンブルク家は彼らの国に多くの町と城を建設と大学を建設し たと、賞賛する。カレルはその宿を買いたいと主人に申し出る、以前ここで夢を見た、その記憶に教会を建設したい、と。宿を後 にしたカレルのもとに護衛の騎士たちがやってくる。彼は誰だ?と問う宿屋の主人に、ブシェクは、「彼はチェコとローマの王カ レル。我々はローマに赴く途中なのだ。皇帝として戴冠されるために」と告げる。カレルは乗馬する前にフードを脱ぎ捨てるの だった(上右画像)。(カレルかっこいいー!!!) 〜Knoc〜 選挙で選帝侯が挙手する場面と、ラストは盛り上がりました。セリフは殆どないんですが、バルドウィンとケルン大司教は苦味ば しった渋い存在感がありました。以前、ドイツ製作の教育ドキュメンタリー番組『カール四世と黒死病』でのカレルは、カリスマ性のない風采の上 がらない配役でしたが、今回もそんな感じです。今回のドラマもカリスマを感じたのはバルドウィンとエリシュカくらいでした が・・・・ しかし、今回のドラマでバルドウィンが相当重要な人物だったことがわかりました。この人についてそのうち詳しく 調べてみたいと思います。ただし、イタリア遠征(1330-1333年)のとき、カレルは14-17歳で、少年時の冒険とい う感じがあるので、ここは少年役に演じさせた方がよかったのではないかと思いました。 【4】その他 今回ドラマがあることを知り、カールで検索してみたところ、筑波学院大学の小松進氏が、カール四世自伝の続きを進めているこ とを知りました。この連載は、翻訳と注解だけではなく、当時の政治情勢の説明や図版などがあり、今回のドラマの視聴にも役立 ちました。 筑 波学院大学紀要 第9集 2014年 神聖ローマ皇帝カール 4 世の自叙伝 : 翻訳と註解(3)(自伝第3章) 筑 波学院大学紀要 第10集 2015年 神聖ローマ皇帝カール 4 世の自叙伝 : 翻訳と註解(4)(自伝第4章) 筑 波学院大学紀要 第11集 2016年 神聖ローマ皇帝カール 4 世の自叙伝 : 翻訳と註解(5)(自伝第5,6章) チェコ王ヨハンの時代については、薩摩秀登著『王権と貴族-中世 チェコにみる中欧の国家』も役立ちます。 【5】脚注 *1 この記事では、通常カール四世、あるいはカレル1世と表記されるものを、カレル四世と表記しています。カールはドイツ語でカレルはチェコ語、カール四世は カール大帝を一世と見なして以降の中世ローマ帝国の皇帝の継承番号で、カール四世は四番目のカールを名乗る皇帝という意味で す。一方チェコ王としてのカレ ルは一世なので、通常カール四世/カレル一世と書き分けるのですが、この記事では個人的に、カレル四世と表記します。この理 由は、カール大帝の継承者(四 世)であり、かつチェコ人の側からの見方(カレル)の双方を成り立たせるためです。あくまで個人的にですが、カール四世と書 いてしまうと、神聖ローマ皇帝としてのカールという意味合いとなってしまい、同時にチェコ王でもあるカレルのアイデンティ ティが表現できない、逆にカレル一世と書いてしまうと、チェコ王としてのカレルという意味になってしまい、同時に神聖ローマ 皇帝でもあるカールのアイデンティティを表現できないためです。神聖ローマ皇帝兼チェコ王であるカール/カレルの多重性を表 現するために、カレル四世という表記を用いています(チェコでは一般的に”カレル四世”と呼んでいるそうです。 *2 神聖ローマ帝国や皇帝の称号、自称・他称の問題や変遷については、以下の書籍が詳細に扱っていて有用です。三佐川氏の二冊は、同一論文だったものを分割し て出版したものです。 ハインツ・トーマ ス『中世の「ドイツ」―カール大帝からルターまで』創文社、2005年 三佐川亮宏『ドイ ツ史の始まり―中世ローマ帝国とドイツ人のエトノス生成』創文社、2013年 三佐川亮宏『ド イツ―その起源と前史』創文社、2016年 IMDb の映画紹介はこちら 関連記事:チェ コ王カレル四世自伝(神聖ローマ皇帝カール四世) |